2013年6月9日(日) 「わたしの前に来させよ」 マタイ19:13-15 竹口牧師
本日取り上げます内容は、すでに18:1-4の所で見ました事と一部重なる部分があります。と言いますのは、どちらも子どもが出てくるからであります。
話しの進み方は、18章では、弟子たちがイエス様に質問したために、イエス様はそれに答えようと、近くにいた子どもを呼び寄せられ、弟子たちの質問に答えられたという場面でしたし、今回の19章は、親が子供を連れてきた。それも、手を置いて祈って頂くためにという目的のためでした。
つまり、どちらも子どもが登場し、どちらも弟子たちがイエス様に教えていただく話であります。しかし、今回の19章の場合、18章の出来事があっての事ですから、少々弟子たちにとっては、学習能力が劣っていると言えましょうか。否、一度教えられたくらいでは身に着かないものだ、という事を考えさせらる出来事でもあります。
弟子が訓練を受けるとは、そういうものだと弟子たちに対して、寛容な思いで読まなければなりませんし、また、私たち自身も同じように、何度も同じ教えをいただいて、だんだんに、身について行くものだと、改めて教えられます。
さて、話しとしましては、19章のはじめの方にありましたように、イエス様は、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。地名で言いますと、ペレヤ地方に行かれたという事でありました。そして、そこにもパリサイ人がいまして、離婚についての問いを仕掛けたのでありました。
離婚と言いますと、その前に結婚がなければなりませんので、結婚、離婚と話しがあり、そして今度は神の祝福の実である子どもについて取り上げてマタイは書いているのであります。次の16節以下には青年の話しが出ておりますので、話しの流れとしては、うまくつながっているように思います。勿論、話題はそれぞれ別でありますけれども。
さて、では早速、今日の所に入る事に致します。 登場人物としては、子どもと子どもを連れてきた親とイエス様と、その弟子たちと言う非常に限られた人たちであります。それも、子どもを連れてきた親の発した言葉は書いてありません。
親が、イエス様とは、どういうお方なのか、どの程度知っていたのか全く分かりません。病気を治したり、湖の上を歩かれたり、男だけで、4000人、5000人の人を養われたり、などなど、奇跡的な事を数多くなさったお方である、そういう認識でやって来たのかどうか分かりません。 あるいはあの方に是非、祈ってもらいたい。そして祝福をしていただきたい、そういう思いだったのかどうか。どうもよくわかりません。どんな思いでやって来たのか分かりませんが、子どもの幸せを願う思いは、何となく伝わってくるように思います。
「手を置いて祈って頂くために」とありますので、子どもの祝福を求めてやってきた事だけは確かであります。これは、親としては、当然な行為であります。
子どもは、放っておいても育つ。子どもは自由に育てるのが一番良い。そういう放任主義の家庭は、今どきないとは思いますが、やはり、子どもの健やかな成長を願って、イエス様の元に連れて来る親の姿勢は、大変正しいと言えます。
勿論それは、日本の年中行事の中の一環として、行なわれている事を真似て、子どもたちが神社に行かないように、キリスト教でも何とかしなければ、というのとは違っております。他の教会でやっている事が全てそうだとは言いませんが、単に対抗意識での事であってはならないでしょう。子どもの霊肉共に成長を願うのは、親として当然であります。
また、教会も神様が与えて下さった救われるべき魂として、また神様から委ねられている者として、真剣に祈って行かなければならない事であります。子どもの霊的教育は、教会学校に委ねている。あるいは任せている。あるいは、大人の礼拝にも出ているから大丈夫、ではなく、一人一人の子どもの救いを願って祈って行かなければならない、そのように教えられます。
今で言いますと、親が子どもを教会に連れて来る。それも、年に数回というのではなく、主のもとに毎週集う事は、とても大切なことです。
勿論、この13節に登場する親が、私どもが毎週、教会学校を行なっているような事を想像して読むことは無理であります。教会学校の働きが始まったのは、ずっとずっと後の時代の事ですから。ですから、今回の話しは、そういうことは全く考えないで読んで行かなければなりません。
つまりは、イエス様が来られたので、イエス様に祈って頂くチャンスは今だと思って、連れて来たのかもしれません。
ところがどうでしょうか。 「弟子たちは彼らを叱った」とあるのであります。 誰を叱ったのか。なぜ叱ったのか。 これは、よくよく考えてみなければなりません。
14節を見ますと、 「子どもたちを許してやりなさい」とありますので、子どもたちがうるさかったのか。 子どもたちを連れてきた親を意識して言ったのか分かりません。
実は、今回、ペレヤ地方に行かれましたが、イエス様はその後、どんどんエルサレムへと近づいて行かれるのです。それは即ち、十字架が近くなって行くことをあらわします。イエス様としては、死がだんだんに近づいて来る。そういう緊張状態に入られている時期でありました。ですから、ある人は、「弟子たちは、彼らを叱った」というのは、弟子たちの言った言葉が厳しく聞こえるとしたら、それは愛情のせいである、 そのように言います。
なぜなら、「彼らはただ、イエスを守りたいと願っていた。彼らはイエスがどんなに疲れておられたかを知っていたし、また、イエスが人を癒すたびにイエスから力が出て行くのを見ていた」からであると言います。
つまり、イエス様のことを考えての弟子たちの配慮であった、そうある人は考えます。 イエスの「顔には、苦悩が深く刻まれていた。このイエスを煩わしてはならない、こんな時には子どもは邪魔だと弟子たちは考えていた。
この弟子たちを、乱暴で無慈悲だと非難してはならない。 彼らはただ、誰でもがするように、イエスに懇願する母親からイエスを守らなければならないと考えていたのである」そのように言うのであります。これは、先ほども言いましたように、イエス様への弟子たちの配慮が十分に伺えます。
ところで、私達は新会堂を建てようと考え、進めておりますが、礼拝堂をどのように考え、造って行くかは、大きな問題です。ある先生は、今回の記事と並行して書かれていますルカの福音書18:15-17の所には、「人々が幼子たちを、みもとに連れてきた。」とありますので、その「幼子」とは、赤ん坊を指し、赤ん坊も親は連れてきたと解釈され、そしてそれはまた、礼拝論へと進まれ、昔の礼拝は、それこそ、乳飲み子から大人までみんな一緒に礼拝していた。
だから、子供室のようなところを設けてそこに閉じ込めることは、キリストの憤りの的である、そのように言われます。
確かに、昔の礼拝状況は、乳飲み子からお年寄りまで、みんな一緒に礼拝をお献げしていた事でしょう。それが、普通であり、またそれでしか礼拝は出来なかった。そのように私は思います。 しかし、だから今日、ベビールームのようなものを作ってそこに閉じ込めるのは正しくない。イエスの憤りの的であるというのは、果たしてそうであろうかと思うのです。
きょうの聖書箇所が果たして、弟子たちが礼拝をお献げしていた、そこへ、「イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。」のでしょうか。私は、そうは思わないのです。
仮に、どこかの家の中に、イエス様や弟子たちがいたとして、また更には、もう一歩譲って、仮に礼拝中であったとして、そこに子どもを連れてきたとしても、それと、別室でガラス窓越しに説教を聞く事が、礼拝から幼子を、乳飲み子を締め出したとは思えないのです。大切なのは、お互いが配慮し合いながら、共に主を崇め、礼拝する事だと私は考えるからです。
ある先生が、皮肉をこめて言われておりました。 その教会は、子ども連れの親は、説教になると他の部屋に移動する事が決まりのようでありまして、説教の時間になると、何か解放されたようなそぶりで出て行く。もうこれで少しの間、自由になれる、そんな思いが読み取れる、とであります。
どの教会でも、スペースさえあれば、子供室を設けるか設けないか、議論の一つになるでしょう。設けないとするなら、乳飲み子を抱えている親は、周りに配慮すべきでしょうし、一方、周りの人は、忍耐と寛容が必要となってくるでしょう。
また、別室を設けた場合で大切なのは、たとい一枚の仕切りがあったとしても、子供室にいても、みんなと一緒に神様に礼拝をお献げしているのだ、その思いは、親は持ち続けなければならないと言えましょう。礼拝の中の説教の時間が親同士が会話を楽しむ時間でもなければ、こどもを遊ばせる時間でもないことは、肝に銘じていなければならないでしょう。
そうでなかったら、幼子は親のその礼拝の姿勢を見て、悪い見本となるのであります。 私は、子供室は設けるべきだと思っておりますし、例え子供室であっても、できるだけそこで礼拝に努めるべきだと考えます。
ところで、話しは横道にそれましたけれども、14節のイエス様のお言葉をもう一度読んでみましょう。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」と言われました。
ここで、気をつけていただきたいのは、「天の御国はこのような者たちの国なのです。」という点です。「このような者たち」とは、勿論、イエス様のもとに親たちが連れてきた者たちの事です。
そしてこれは、何を指しているかと言いますと、全ての子どもの救いを約束されている訳ではないという事です。「子どもには罪がないから」、という言い方を一般にはされますが、これは、聖書が言う所の正しい意味を現わしてはいません。
が、そのように考えられがちです。 あるいはまた「子どもは、なんでも信じるから」と言われます。 これは、大きい者に対する信頼、依存があるからですが、そういう子どもならではの事が決して子どもの救いに直結して、子供なら誰でも神の国に入れると言われている訳ではありません。
イエス様が言われてるように「このような者たち」であって、この者ではありません。 こどものように素直に神の言葉を聞いて受け入れる者が、神の国に入れるという意味であり、18章のはじめの所で取り上げました通りであります。
私たち大人が、子どもを見ながらまだ救われるのには早いとか、うるさいと邪魔者扱いするとするなら、それは間違いであり、神様は、幼子にも目を留めておられることは、知っておくべき事実でありましょう。
創世記1:28にありますように神様は、「生めよ。増えよ。地を満たせ。」と言って人間を祝福されました。従って、神様は、ご自分の造られた男と女を通して、その祝福の実として子どもを与えられ、更には、その子どもたちを、親が神様のもとに連れて行く事を求めておられるのです。
子ども達は、他者に依存して生きていく以外生きる術を知りません。御国の民もまた同じ様に、神様に依存して生きていく以外、生きる術を知らない者たちなのです。 そうではないでしょうか。
私達信仰者は、神様のお言葉によって立つ事が出来ているのです。 それはまた、子どもでも同じでしょう。 親を通して与えられる神の御言葉によって救いへと導かれ、神様が一人ひとりに救いの御手を述べて下さるのであります。それ故に、イエス様のもとに連れてこようとする親を、そして連れられて来る子どもたちが近づく事を留めてはならないのです。邪魔をしてはならないのです。
親は、子どもが神を信じ、神によって救われ、神の栄光を現わすように、責任を持って育てるべきなのです。教会もまた、子ども本来の持っているものから教えられ、謙遜や従順や信頼などなどを教えられ、それとともに、責任を持って子どもたちを教えていきたいものです。
15節を見ますと「そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。」とありますように、イエス様は、手を子どもたちの上に置き、祝福をされ、「そこを去って行かれた」のでありました。
最初の方でも申し上げましたが、イエス様は、この後20:17節を見ていただきますと、「さて、イエスはエルサレムに上ろうとして・・」というように、エルサレムへと一歩、一歩、近づいて行かれるのであります。
イエス様の周りには、いろいろな人がいました。 それは、パリサイ人や律法学者、あるいはサドカイ人と言った人たちから病人とか、取税人とか、更には今回のように親が連れて来たのですが、子ども達もいました。
イエス様は、子どもたちを、例えで使われたり、実際に子どもを前に立たせて弟子を教えられたリしました。私達の教会には、沢山の子どもたちが与えられています。 その子どもたちから多くの事を教えられると共に、神様から頂いた御言葉をしっかりと伝えていく責任がある事を、この機会にもう一度確認しようではありませんか。
救いは主のものです。 それ故に、子どもたちが救われるよう、主の招きに対して、連れて行き、祈りまた育てていきたいものです。
2013年6月16日(日) 「損得勘定」 マタイ19:16-22 竹口牧師
今朝、取り上げます聖書個所の記事は、マタイだけでなく、マルコもルカも書いております。しかし初めの方で、マルコ、ルカが書いているようには、マタイは書いておりません。私は、マルコ、ルカの書き方の方が、話しがよりスムーズであり、繋がりやすいように思うのであります。
それを具体的に言いますと、マルコ、ルカは、こう言って話しを進めているからであります。たとえば、マルコですが、10章17,18節で「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」とです。
ところが、マタイは、こう書いております。 「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。 『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』 イエスは彼に言われた。 『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。・・・』というように、です。
つまり、マタイは、明らかにマルコ、ルカが書いています、「尊い先生」とか「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか」というのを省いている訳です。そのために、話しが「良いこと」からいきなり、「良い方」に代わっていますので、話しが飛躍している、 そのように私には思えるのであります。しかし、マタイがあえてそうしたという事は、何らかの意図があってそうしたのだろうと思われます。
では、どういう意図があったのかという事になります。 たとえば、これから話しが進んでいく中でわかるのですが、大切なのは、物、物質ではなく、あるいはまた地位とか名誉とか、そう言ったものではなく、「良い方」「尊い方」である。そのことを読者に最初から示唆しておこう、そういう事を意図したのかなと私は想像するのです。
もう一つ付け加えておきますと、ルカによりますと、やってきたのは「ある役人」だとしています。しかし、マタイは「青年」としています。30節で、そして22節で「この青年は」としております。そこで、ある先生はこう言われます。
「この熱心な求道者は、20,22節によれば、『青年』ですが、ルカによれば『役人』(18:18)、恐らくは町の教会役員だったと言われています。日本のような異教国の教会では、人材不足から、青年でも重要ポストを占めることも珍しくありませんが、国民みんなが教会員であるユダヤの社会で、青年のうちから役員になるのは、余程の人望があった証拠でしょう。
その上、彼は『沢山の資産を持っていた』と22節に記されています。」とであります。 この今の説明でお分かりのように、イエス様のもとにやってきた人は、単に若い青年がやってきた訳ではなく、資産もあれば、人望もあれば、社会的な地位もあった、そういう人であったという事であります。イエス様のもとにやってくる人というのは、 病人とか、反対者とか、あるいは自分の家族の為にやってきた、そういう場合が多く記されているように思いますが、中には、ニコデモのようにユダヤ人の指導者もやってきておりました。
つまり、イエス様に求めるものは、人それぞれでしたが、今回の場合、「永遠のいのち」を求めてきたのでした。どのようにしたら、その「永遠のいのち」が得られるのか、 イエス様に尋ねたのでありました。
私が若かった頃は、永遠のいのちとは、どんなものか、考えてみたこともありませんでした。ですから、欲しいと願ったこともありません。しかし、よくよく考えて見ますと、人の命は、明日あるかどうかも分からないというのが現実なのです。ですからなんとなく、若いと関係ないように思いがちですが、
そうではない。 まして年齢を重ねればなおのこと永遠のいのちの大切さが分かってくるというものです。ということは、今回登場します青年は、非常に大切なものを早くから求めていたという事になりますね。
彼は言いました。 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」とです。そこで、イエス様は言われました。「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」とであります。
そこで当然ながら、その戒めとは何かと彼は聞く事になります。 そこで、イエス様は言われました。 「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とでありました。
これを読んで、ちょっと皆さんは、自分自身、 この教えはどうだろうかと一つ、一つ考えてみていただきたいのです。 まず、殺してはならないとありますが、人を殺してはいないでしょうか。 Tヨハネ3:15節には、こうあるのであります。 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、 永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と。 みなさん、大丈夫でしょうか。
では、姦淫についてはどうでしょうか。 イエス様は、こう言われました。 「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、 すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とです。これもまた、大変厳しいですね。
このようにして、盗み、偽証、父母を敬う、隣人を愛するという風に一つ、ひとつチェックして行ったなら、どうでしょうか。どれも完璧に守っているとはいえないように、私自身は思えるのです。
青年が言った20節のように言う事が出来るのでしょうか。 「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」とであります。これは、相当な自信家でありますね。そして、このような自信家は、何もこの青年に限らないのです。
パリサイ人や律法学者たちはみんな、そう思っていたのです。 確かに、この青年は、自他共に認めるまじめな青年、あるいは、会堂においては役員、 あるいは他の本によりますと議員とさえ言われていますが、そのように地位もあり、そして財産もあるひとでした。その彼が、言ったのです。
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」とであります。イエス様は、これに対して一言も反論されませんでした。 それは、確かめるすべを持っておられなかったからでしょうか。 決してそうではありません。
それは、ヨハネの福音書1章に出て来るナタナエルとイエス様との会話からでもお分かりでしょう。ピリポがナタナエルを見つけてこういました。
「『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。 ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』 ナタナエルは彼に言った。 『ナザレから何の良いものが出るだろう。』 ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。』 ナタナエルはイエスに言った。 『どうして私をご存じなのですか。』 イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』 ナタナエルは答えた。『先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』 イエスは答えて言われた。 『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』 と、このようなお方なのです。
イエス様は、なんでもお見通しなのです。御存じなのです。 しかし、その事をあえて、今回の青年には、言われなかったのです。 つまり、イエス様は、自分で自分を義とすると言いましょうか。何も間違った事はしていない、罪を犯してはいないと思っている人に、 「そんな事はないでしょう?」とあえていう事をされなかったのです。
だがしかしです。 本当に、彼の言っている事が正しいかどうか、必ずや明らかにされる時が来るのです。 この事を、私たちは、決して忘れてはならないと言えましょう。 全てを見ておられる方が、何も言われないから大丈夫ではないのです。 何も言われないことの方がむしろ怖いのです。
もっとも、今回の場合、イエス様は、決定的な事を言って彼の弱い点を突かれるのであります。それは、イエス様が最初は、十戒の10の部分の後半部分、つまり、人に対する戒めについて言われましたが、前の方の一番目の戒めから4番目の戒めまではあえて言われませんでした。
もしかしたら、神に対してどう考えているか、 それを、自らの口で告白させようとされたのかもしれません。
では律法の前半部分は、何でしょうか。 まあ、そう言いましても、はっきり5対5に分かれるわけではありませんが・・・・。 即ち、前の部分とは、十戒の第一戒から第四戒までです。 そこには、こうあるのであります。
一番目は、あなたには、私のほかに他の神々があってはならない。 二番目は、あなたは、自分の為に偶像を造ってはならない。 三番目は、あなたはあなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない そして第四番目、安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ なのです。
勿論、青年は、第1戒から第4戒までも守っていると思っていたでしょう。 だから、20節のような事が言えたのです。 では、本当にそうだろうかとイエス様は、一つの提案をされるのです。 21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」とであります。
これは、非常に強烈な言葉であります。 そうではないでしょうか。
私は、この言葉で真剣に悩みました。 お分かりのように、持ち物全部を売り払って、貧しい人に与えたなら、今度は自分が困るからです。しかし、悩んだのはどうも、私だけではなかった様です。 ある本を読んでおりましたら、こんな体験談を書いておられました。
「私も若い頃は、ここの中心点が分からずに悩みました。 先輩たちにも、しつこく質問して困らせたものです。 米国人の宣教師に質問すると大体、『この人の場合は特別で、彼の財産が彼と神との間に立ちふさがって邪魔をしていたから、イエスは憐れんで、その邪魔をしている物を 売れとお命じになったのです』という答えが返ってきました。
へそ曲がりの私は、『じゃあ、財産が神様とのつながりを妨害しなければ、持っていて良いのですか』とか、『全部売って裸になったりしたら、その日から人様の世話になって、人に負担をかけるだけではありませんか』とか、『神の前に必要最低限の財産、売らなくても許される限界は、どこで決まるのですか』という質問を、立て続けにしたものです。今でもどこかの青年会では、繰り返されているのかもしれません」とです。
そして、先輩達の中には、本当に持ち物を売り払った人もおられたのを知っています、とありました。 詳細は省きますけれども、それを書いている先生は、「その先輩の勇気と正直さには敬意を払いました。ただ、そのことと、ここで言われた主の意図は何かということは、 また別の話しです」と締めくくられておりました。
私達は、初めてここを読む時、22節の青年の気持、行動、何となくわかるような気がして、それでは一体、私達はどうしたら良いのか、という事になってしまうのです。
イエス様は、人の心を見抜くお方であります。 また、私たちが気付かなかった事を気付かせて下さるお方です。 大切なのは、それに対して、どう反応し、どう応答するかにかかっていると言えましょう。青年はイエス様のお言葉にどのような行動を取ったでしょうか。
22節「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」とであります。つまり、イエス様のお言葉に彼は従う事が出来なかったのです。
なぜでしょうか。 それは言うまでもなく、今の生活を愛し、捨てる事が出来なかったからであります。 自分の生活を守りたい、変えたくない。しかし、イエス様は、180度、違った歩みを求められる。そして、イエス様のみに信頼して歩むかどうか、それが問われているからです。
先ほど私は、十戒の第一戒から第四戒までを申し上げました。 あなたには、私のほかに他の神々があってはならないとか、あなたは、自分の為に偶像を造ってはならないという風に、です。
神様は、何も異教の神々を信じてはいけないとだけ言われている訳ではありません。 神よりも財産を、地位を、名誉を、称賛を得る事を第一とするなら、それは、立派な偶像なので、それをイエス様は指摘されたのです。だから、十戒の第一から四戒までを取り上げた訳です。
従って、このイエス様の21節のお言葉は、例えキリスト信仰者になっても投げかけ続けられるお言葉である、そのように私達は意識しなければなりません。
なぜなら、その究極の質問は、この世を取るか、神を取るかにかかっているからです。 この世はいつも、私達を誘い、問いかけます。 「信仰だけで生きられるの?」とであります。
それに対してはっきりと、私達は答えられるでしょうか。 「はい。生きられます」とです。 それならば、それは本当の信仰から出ているのでしょうか。 この朝今一度、自分の信仰について考えてみようではありませんか。 そして、ほんとに主こそが、私の人生の全てである。 だから、主イエスなしの人生はありえない。 必要な時には、全てをなげうってでもささげられる、 それほど尊いもの、永遠のいのちを主は私に下さった、 だから、今日の私があるとそう告白できる者でありたいものです。
聖書は、人は行ないによって救われるのではないと言います。 救いは、恵みにより信仰によって与えられたものだとも言います。 その救いに与った私たちが、律法に縛られるのではなく、信仰によって今は自由に歩む者とされている。その事を感謝し、御名を褒め称えようではありませんか。
イエス様の下さった永遠のいのちは、この世の考えで、損得勘定で秤にかけられるものでは決してないのですから。
2013年6月23日(日) 「神に不可能は無し」 マタイ19:23-26 竹口牧師
今日の話しは、先回の話しの続きでありますので、それを手短にお話しし、その後、人生における3つの注意点を申し上げる事に致します。
先回は、16節から始まりまして、一人の青年が登場しました。 その青年は、イエス様にお会いし、こう言いました。 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と。そこでイエス様は、「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 とこう言われました。
青年はそれに対して、「どの戒めですか」と聞きましたので、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。
すると、何とその青年は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と言いました。なかなか、普通でしたら、そこまで言いきれないと思うのですが、その青年は、言いきったのでありました。
そこでイエス様は、一つの提案をされました。 それは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」とでありました。
では、それを聞いた青年はどうしたかと言いますと、22節にある通りでありました。 「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」とであります。
彼は、この世で一番大切なもの、これ以上のものはないというものを求めた。それも、イエス様に直接尋ね求めたのでありますから、とても素晴らしい青年でありました。しかし、結果は、悲しみながら去って行く、という事になったわけでありました。まことに残念な結果となりました。
ところで、私達はこの話しを読んで、特にイエス様の言われた21節のお言葉によって、「それは、無理ない。そんなこと出来っこない。」と、そう言って、そこで終わってはならない大切な事を含んでいる、そのことを覚えたいのであります。
青年は、「永遠のいのち」という最も良いものがある事に気づいていました。 これは、実に幸いな事であります。 律法をいくら守っても、守っても満足しない。心が満たされなかった。心に平安がなかった。ですから彼は、永遠の命を求めるに至ったのだろうと思うのです。しかし、それを得るに至らなかった。それは、実に残念なことでありました。
これはまた、教会に救いを求めて来られながら、教会から去って行かれるその人たちと同じように残念なことでなりません。私どもの教会に一年間に新しい方が何人くらいお出でになるでしょうか。以前でしたら60〜70人は十分に来られていましたが、しかし現在では十数名であります。
しかもその中で、何人の方が真剣に救いを求められ、何人の方が、その救いに与っておられるでしょうか。まさに聖書にこういうみ言葉がある通りであります。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイ7:13)とであります。
良いものがあるに違いないと示され、教会に来られる。しかし、続かないのです。 広い門、滅びの門、この世へと再び流れて行かれるのであります。 大変、残念なことです。
私は、そういう方々を目にしながら、また、聖書を通して大切なものを知ろうと求めておられながら、更にもう一歩踏み込めない心の壁の厚さというものを感じない訳にはいきません。それが何だろうかと考える時に、私には、3つの事が思い浮かぶのであります。それを順に見て行きたいのであります。
まずその一つは、イエス様を救い主と信じる事によって、今の自分、今までの自分が変わる、変えられることの恐れです。一方では、今の自分ではいけない。自分が変わりたいと願いつつ、でも、やっぱり今までの自分を変えたくない、そういう自分もいる。この二つが、心の中で戦うのです。
友達、会社の同僚、家族、親戚などなどが、もし、自分が変わったなら、どう言うだろうか。どうなるだろうか、それが心配になってくるのであります。今までのままでいたい。とはいえ、今の殻をも打ち破りたい。そのジレンマであります。まさに、二兎を追う者一兎をも得ず、であります。
結局の所、今の不完全燃焼している自分を変えるどころか、悩む事によって更に今の状態が悪くなることはあっても、決してよくはならないのであります。
では、正しいものに目を向けたのでありますから、思い切って、現状の殻を打ち破ればいいのではないかと思うのですが、それが出来ない。そこで二つの間でいわば負のループに陥るのです。これは決して、あなたの人生にとってプラスになる事はありません。はっきりと、決断が必要なのです。それも、早ければ早いほど時間の浪費が避けられます。
第二番目に、決断を鈍らせる原因に挙げられますのは、先の先を心配し過ぎるという事が挙げられるでしょう。 例えば、金持ちの青年のように、です。「持ち物を売り払って貧しい人達にあたえたなら、自分はどうなるのか」という心配であります。でも、イエス様はおっしゃるのです。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。 けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイ6:26)と、であります。
勿論、ここで誤解してほしくないのは、空の鳥は何もしていないのではないという事です。鳥が木に止まっていて、口をあけていたら、虫が入って来て、それで充分に毎日が満たされて行くということではないのです。鳥は鳥なりに、餌をもとめて空を飛ぶ訳です。地面を歩きながら、餌を拾う訳です。生き物は全て、生きて行くために、そのように働くのです。そのようにして神様は、生き物全ての必要を満たして下さるのです。ですから、楽をして生きようと考えるなら、それこそ大きな間違いであります。
キリスト教を信じれば、働かなくても食べていける、そういうことではないのは、私が言うまでもありません。また、そのような事を求めておられるとも思いませんが、確認しておくことは必要ですので、申し上げる訳です。大切なのは、信じた後がどうなるか、それを心配しないことです。それは、神様が心配してくださることです。
神の子となる特権を、あなたに与えてくださるお方は、神の子とした後、放っておかれるはずがないからです。イエス様に従ったパウロという人はこう言いました。「神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々の為には、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ8:28)とであります。
全ての事が決して無駄にならず、益となって行く。 何という素晴らしいことでしょうか。 イエス様の12弟子のひとりでありましたペテロもこう書きました。 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方の事を心配して下さるからです」と。(Tペテロ5:7)
人は、忙しいと「後にしてくれる?」と言います。ところが、神様はどんなに忙しくても、一人一人の必要に耳を傾けてくださるお方なのです。だから、ペテロは言ったのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」とです。どれだけ、心強いことでしょうか。
さて第三番目に、決断を鈍らせる原因として挙げられますのは、何が本当に大切なのか、いざ決断となると迷うという事が挙げられます。それは、価値判断の基準が動く事によると思われます。聖書はこう言っています。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。 人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」(マタイ13:44−48)とであります。
もし、本当に価値あるものと認めたなら、このように人は行動するものです。 つまり、良いものの基準をどこに置くか。この世に置いたなら、この世の基準で、天の御国の事を判断する事になります。
一方、聖書を基準に置いて、天の御国の事を判断するなら、当然ながら、天の御国の素晴らしい結果が出るのであります。これは言うまでもない事です。つまり基準をどこに置くかを迷うことによって、結果もそのようになるのです。基準をこの世に置きながら、天の御国の事を考えるなら、永遠にその結論は出ません。基準そのものが違うからです。
青年は、永遠の命という天に属するものを求めながら、この世のものを捨て切れなかったのです。だから、去って行かざるを得ませんでした。先週の時に「損得勘定」という題でお話ししましたが、いわば永遠のいのちという天に属するものを求めながら、この世の物とを秤にかけ、彼は永遠のいのちを取る方が損であると決断したのでした。そこでイエス様は言われました。
23節、24節「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのは難しいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」とであります。
特に、24節は、面白い言い方ですね。 「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 大体、らくだが針の穴を通る事が出来るのか、初めて聖書を読む方は、不思議に思われます。しかしこれは、らくだとは、ユダヤ人にとってよく知られた最も大きな動物を指しますし、穴は想像しうる最も小さい穴を指し、それを通ろうとするさまをイエス様は言われたのだ。
つまり、イエス様は難しさを誇張されたのだという事です。他にも解釈がありますが、今回は、一つだけにしておきましょう。もっとも大きい動物が最も小さい穴を果たして通る事が出来るのかという事になりますが、針の穴で私が思い出しますのは、その昔、田舎の家の縁側で祖母が縫物をしていて、そのそばに私が座っていますと、決まったように祖母がよく私に糸通しを頼んだものでした。
私には、簡単な事なのですが、歳を重ねた祖母には、なかなか難しい作業の一つであったわけであります。祖母は、老眼鏡をかけ、針を持ち腕を遠くに伸ばして、反対側の手では、糸の先をなめて、糸の先を細くし、そうして何度も何度も糸通しを試みる姿を今でも思い出します。
当時の私にとっては、簡単な事でありましたが、老眼の祖母には、大変であった訳でありました。そんなことを思い出しながら、24節を読みますと、イエス様は、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と、そう言われたのでありますから、私も最初はびっくりであり、またこれを聞いてイエス様の弟子たちもびっくりでありました。「こりゃ大変だ」という訳でありました。
25節「弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。 「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」とでした。 弟子たちが驚いたのは、ラクダの話しなのか、金持ちの話しなのか、それとも、どちらも、なのか考えさせられます。
まあ、話しの流れから、どちらも関係しているでしょう。 というのは、今回取り上げませんでしたが、次の27節でペテロがこう言っているからです。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従って参りました。私たちは何がいただけるでしょうか。」とであります。つまり、弟子たちの中には、そういう者がいたという事です。
ところで、屁理屈を言う訳ではありませんが、「金持ちが天の御国に入るのは難しい」とイエス様は言われます。では、小金持ちは、どうなのかという事になります。考えて見ますと、私が初めて聖書を読んだ時、いいえ、何回も読んでいるうちに、イエス様の21節の言葉は、大変心に引っかかったのでした。
今から考えて見ますと、その当時決して大金持ちではありませんでしたし、今も、決してそうではありません。ですから、問題になっているのは、そういうことではない、その事に気づかされるのであります。
つまり、何を一番大切にしているのかという事でしょう。 お金持ちであろうが、小金持ちであろうが、聖書の中には、神様に献げ物をするのに、 こんな話もあるくらいです。(マルコ12:41-44)
イエス様が献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」とであります。
つまり、これは、信仰の問題である事がよくわかります。 あなたは、何に頼っていますか。 お金ですか。人ですか。物ですか。それとも神様ですか、という事です。 私は、最初の方で信仰に入る為に決断を鈍らせる3つの理由をあげました。
まずその一つは、イエス様を救い主と信じる事によって、今の自分、今までの自分が変わる、変えられることの恐れでした。周りの人の事が気になるという事でした。 第二番目に、先の先を心配し過ぎるという事でした。 食べていけるのだろうかという心配でありました。 第三番目、何が本当に大切なのか、いざ決断となると迷うという事 でした。
これらの心配は、考えれば考えるほど複雑になり、結局の所、信じる信仰へとは進むことはできません。なぜなら、すべて主権は自分にあるからです。レプタ銅貨を二つ投げ入れた貧しいやもめの話しもしました。「この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」とイエス様は言われました。
普通でしたら、大丈夫なの?と言いたくなります。 しかし、イエス様は、きょうの最後のところで、こう言われたのです。 26節 イエスは彼らをじっと見て言われた。 「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」とであります。
私達は、このイエス様のお言葉に行きつくまで、いろいろと、ああだこうだと考えをめぐらします。しかし、結局の所、同じ所をぐるぐる回っているだけなのです。神様の御前に、自分のすべてを明らかにし、すべてをあなたにお任せ致しますという所に行き着くまでその悩みは続くのです。
「神様にはどんなことでも出来ます」というイエス様のお言葉を信じて、委ねた時に、あなたの人生は、新しい一歩の始まりとなるのです。 どんなことでも出来ると言われる神様に、あなたの人生の全てをお任せになりませんか。そして全ての問題の解決は、神様がして下さる。だから安心して委ねる信仰へと入って頂きたいのです。
2013年6月30日(日) 「見返りを求めず」 マタイ19:27-30 竹口牧師
先回は、伝道礼拝という事もありまして、少しその事を意識しながら話しを進めてまいりましたが、話しは続いておりますので、同じように前の事を振り返りながら、進めて行く事に致します。
イエス様のところに一人の青年がやって来まして、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしょうか。」という質問をしました。青年ですから、若い。それに、他の福音書から見ますと、その青年は、地位も名誉もあった事が分かりました。しかしながら、その青年は、悲しみながらイエス様のもとを去って行きました。
それは、イエス様の21節の言葉を聞いたからでした。 「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と、そう言われたものですから、その青年は、悲しんで去って行ったと22節にはありました。
イエス様は、この事を通して、「金持ちが天の御国に入るのは難しい事です」と言われて、その難しさを言われました。が、ここで私達が気をつけなければなりませんのは、イエス様は、「金持ちが天の御国に入るのは難しい事です」と言われましたが、全く入れないとは言われていないことです。
もっとも、私は金持ちではありませんけれども。 それとともに、もう一つ、希望がありますのは、弟子たちが、「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」と言った時、イエス様が「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます。」と言われた事でした。それ故に、まだ救われていない人にとって希望があるのです。だから、青年のように、去っていく必要は少しもなかったのです。もともと、救いは、自分の力で勝ち取るものではありません。 神様が与えて下さるものなのです。天の御国に入れて下さるというお約束も神様が下さいます。それなのに、私達は、自分たちで何か出来るかのように考え、あれをしたり、これをしたり、ああでもない、こうでもないと思いわずらい、神様を見上げていない事があるものであります。
その結果、ああ、もう駄目だという結論を、早急に出してしまうのです。 あるいは、時には疑いを持ちつつ、信仰生活を送っている人も中にはおられるのではないかと思うのです。本当に私は救われているのだろうか、とです。これは、大変不幸な生き方、間違った生き方であります。
先ほども言いましたように、イエス様は、「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」と言われ、入れないとは言われていないのです。確かに、その難しさは、並ではありません。
「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」といわれるほどの難しさだからです。で、毎回のように申し上げるのですが、私には、財産と言われるほどのものは、全くと言っていいほどありませんが、ですから、振り込め詐欺か、オレオレ詐欺か、お母さん助けて詐欺か分かりませんけれども、500万円用意してとか、1千万円用意してとか言われましても、そのようなお金は、逆立ちしても出て来ない、用意できないのであります。
ところで、私たちが、イエス様のお言葉から何を学ぶべきでしょうか。 それは、一つには、富に依存してはいけないという事です。また依存していないか、という事です。お金があれば、将来が安心だと、それに頼る事。たとい、それが、大金でなくても、であります。それが危険なのです。
頼るべきは、あるいは信頼すべきは、神にであって、お金に、であってはならないのです。お金に信頼するのであれば、それこそ神様の言われる偶像であります。
ところで、では、弟子たちはどうしたでしょうか。 それが、本日の最初の聖書箇所に書いてあるのであります。 27節でペテロはこう言いました。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、 あなたに従ってまいりました。」とであります。つまり、ペテロは何もかも捨てて従ったのでした。
実は、マタイもそうでありました。 マタイは9:9で、自分の献身がどう言うものであったかを、こう書いています。 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」というふうに、であります。つまりマタイもイエス様に声をかけられ、そのまま付き従ったのでした。
恐らく、12弟子の殆どは、全てを捨てて従った事でしょう。 生活の全てを、イエスに委ねて、着き従ったのでした(4:20-22)。
ところで、ペテロは27節の中で、前の方では、自分の素晴らしさを語っています。そして、終わりの所で、こんなことを言っております。「私たちは何がいただけるでしょうか。」とであります。いわば、報いを聞いているのです。これは、誰でもが聞きたい質問でありますが、しかし、それはまた、実にこの世的であり、非常に打算的な考えである事は言わざるを得ません。
ところがどうでしょうか。 イエス様は、決してペテロの言葉を一蹴することなく、まじめにお答えになっているのであります。ペテロの言葉を馬鹿になさることもなく。不思議ですね。
イエス様が「自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた時、ペテロは、こう言いました「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエス様は振り向いて、 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」そう言って厳しく戒められたのでした。(マタイ16:21-23)あるいはまた、弟子たちが、「天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」と聞いた時も、その質問が適切ではない事をイエス様は言われたのでした。
しかし、今回のペテロの言葉に対しては、決して怒る事をなさらず、むしろ好意的にすら思える、そんな答え方をイエス様はなさるのであります。
28節「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」とであります。
これは、イエス様が十字架にかかって、死んで、葬られ、三日目に甦えり、天に帰られた後、更に「世が改まって」とありますので、この世が終わって、新しい世界が実現する時の事でしょう。
ペテロは、第2の手紙の3:13で、「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」と書いておりますが、後に来る世界の事であり、その時がきますと、使徒たちは、イエス様とともに「イスラエルの十二の部族」を裁くことになる、あるいは、支配する事になると言われます。
イエス様の言われた事は、それだけではありませんでした。 きょうの所の29節にありますように、「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と言われるのです。
イエス様に従うと、捨てた物のいく倍もの報いを受け取る事になる、そう言われるのです。まだ今の段階でのペテロは、相変わらずの、彼らしさの質問ですが、それに対するイエス様の意外性のあるお答え、皆さんは、どのように感じられるでしょうか。
私達は、裸でこの世に生まれてきました。 そしてまた、裸でこの世を去ることになります。 しかし、それでも、生きている間は、この世のものにしがみつき、イエス様の言われるお言葉に、あるいは招きの言葉に、たじろぎます。
しかし、本当に心からイエス様に信頼し、歩む者は、この世の物に決して執着しないで、主が喜んで下さる事をひたすら追い求め、従うものです。それがまた、主が下さる祝福の秘訣でもあるのです。
イエス様がマタイ13:12で言われた言葉が思い起こされます。 「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」ということばです。
私達は、与えられている物を失わないようにしようとするあまり、結果的には、失っている事に気づかされます。弟子たちは、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」と言いました。本当に彼らはそうしたのでした。
私達は、イエス様に従うために、何を捨てたのでしょうか。 考えさせられます。 私達は今、お金では買えないもの、一生働いても得ることのできないもの、それを、イエス様の十字架によっていただいている事を、今一度確認し、感謝する必要があるのではないでしょうか。
永遠のいのちは、この世のどこに売っていたのでしょうか。 生まれながらに持っている罪を、誰か買ってくれたのでしょうか。 父なる神様からの愛、平安、喜び、どなたを通していただいたでしょうか。 また今もいただき続けているのでしょうか。 この世にあって、救い主の犠牲によって、私たちキリスト者は、素晴らしいものをいただいています。
やはり、もっともっと神様に感謝する必要があると教えられます。それとともに、もう一度ペテロの言葉「私達は何かいただけるのでしょうか」という言葉から、報いを受ける心構えについて考えておきたいのです。それはイエス様が30節で、こう言われているからです。「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になる事が多いのです。」とです。これは、次の章、12章16節でも言われている言葉ですが、順番があと先になるといわれていることです。即ち、一般的な価値観が逆転する事をイエス様が言われるのです。
それは、13節から15節で、親は、子どもたちがイエス様によって祈って頂くために連れてきましたが、それを弟子たちは、叱りました。いわば、こどもを邪魔者扱いにしました。あるいはまた、16節から22節で、金持ちが永遠の命を手にする事が出来なかったのでした。更には、23節から26節において、「金持ちが天の御国に入るのは難しい」と言われたものです。
ユダヤ人にしてみますと、神から祝福を受けたので金持ちになったのであるから、その金持ちが、天の御国に入れないのはおかしい。というように、一見すると信仰的のように考えますが、そうではないようにイエス様は言われています。
一方、ペテロは27節でこう言いました。 もう一度読みますが、「ご覧下さい。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従って まいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」と。
ペテロは、自分たちは、何もかも捨てて従ったので、当然ながら、その報いは与えられると、いわば高慢になっていたのではないかと思われます。ですから、それに対して、弟子たちの犠牲に特別な何かを貰えるようには思わないように。もし、高慢になったり、油断したりするなら、意外な時に後れを取るよと、イエス様は警告を与えられた、そのように言う事が出来るでしょう。
弟子たちは確かに全てを捨てて、イエス様に従いました。 しかし、そのことによって、その報いを求めるということは、それではまるで、報いを得るために全てを捨てたことになりませんでしょうか。それは、イエス様の意図されていることではありません。
パウロが、イエス様の言われた言葉として言っているのですが、「受けるより、与える方が幸いである」(使徒20:35)とは、まさに、与え尽くされたイエス様の生涯を思えば、やはり、自分たちが何かをしたので、その報いを受けるのは当然という風になると、それは、正しくないでありましょう。
そういう意味で、弟子たちの心が私達にはわかるのですが、そうではいけないことを教えられるのです。私たちもまた、報いを求めない働きを主にあってしたい。 ましてや、受けるのは当然のごとく求める事はしないように。 それこそ、マタイ10:8にありましたように、 「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」 とのイエス様のお言葉のごとく生きたいものです。
主が素晴らしい祝福を用意して下さっている事は確かですから、そのお約束だけで十分ではないでしょうか。高慢になったり、油断したりするなら、天の御国では、あとの者になると言えるでしょう。
私達は、何かをしたから、どんなことをしたからというのではなく、主のお言葉を心から主を信じ、また、心からそのお言葉にお従いし、神様が下さる祝福を感謝して受け取る人生でありたいものです。それこそが豊かな、満たされた人生だといえましょう。
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