2013年7月14日(日) 「神の下さる報酬」 マタイ20:1-16 竹口牧師
毎月第4週の伝道礼拝以外では、私はマタイの福音書を少しずつ読み進んでいるのですが、きょうから20章に入る事になります。先回見ましたマタイ19章の最後の所には、こうありました。
「ただ、先の者が後になり、後の者が先になることが多いのです。」とでありました。そして、きょうの最後の聖書個所20章16節で言われています事は、同じような言い方なのですが、後先が逆になっていまして、「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」という風に、言い換えられています。
いずれにしましても、19章で言われている事ときょう見る所は、後先が逆転するようなことがおきることをイエス様は言われ、そのために注意が必要であるという事を、きょうの所でも、たとえ話で話されているのであります。ですから話しには継続性がありますから、繰り返しになりますが、まず、前の章を少し振り返っておきたいと思うのであります。
一人の青年がイエス様のもとにやってきまして、「永遠のいのちを得るためにはどんな良い事をしたらよいのでしょうか」という質問をしました。するとイエス様は、「もし、完全になりたいなら・・あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。・・・ そのうえで、わたしについてきなさい」と言われました。すると、その青年は金持でありましたので去って行った。そういう事が書いてありました。
その後でペテロが「私達は何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私達は何かいただけるのでしょうか」と言いました。
それに対して、イエス様は、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹・・、などなど捨てた者には、そのいく倍もを受け、また、永遠の命を受け継ぎます」とこう言われました。そしてそのあとで、「先の者が後になり、後の者が先になることが多いのです。」と言われたのでありました。
イエス様の弟子たちは、非常に早い時期にイエス様に目を留められ弟子とされました。 いわば、キリストの教会と、その交わりの中に入る特権を彼らは先に頂きました。
しかし、時がたつにつれて多くの人たちがその交わりに加わるようになりました。 そういうなかで、最初から交わりの中に入れられた者と、後から加えられた者との違い、そこには、特別な名誉とか地位とか、そういうものはないわけであります。 先に交わりに入ろうとも、また後から入ろうとも、そういう事には一切関係なく、神様の、御前には等しく大切なものであるという事です。 ですから、信仰経験が長い、短いとか、そういうことで、長ければ何か優れているかのように考えたり、感じたりすることは正しくないという事でありました。いわばこれは、弟子たちに対する警告でもあったでしょう。そして、きょうのところでも、そういう警告が、弟子たちに与えられているという事が出来ましょう。
従って1節において、「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」と言って、天の御国とはこういうものだと弟子たちにイエス様は教えられたのでありました。
ブドウ収穫に関わる例えであります。ブドウ園の収穫には、多くの人手が必要であり、また、収穫の時期も大変重要な事でありまして、農園の主人は、人手を求めて市場に出掛けるのであります。一般的に、労働時間は、朝6時から夕方の6時まででありまして、賃金は、一日一デナリでありました。ですから、きょうの2節の所で、「彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。」とあります。
この時、農園主は、出来るだけ多くの人を雇うのであります。 一番最初は、恐らく6時頃であったでしょう。 その後、9時にも出かけて行き、そして雇い、12時に出て行きそして雇い、3時頃にも出かけて行き、雇いました。一見しますと、雇った理由というものが、収穫の時期を遅らせないために、一気に仕事を終わらせたいという、そういう理由からではないことが次のような言葉から分かります。
3節で「何もしないでいた」とか、 4節「ブドウ園に行きなさい。相当なものをあげるから」とか 6節「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」とか 7節「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」とです。
何か、仕事にあぶれている人を救っているようにさえ感じますが、このたとえに対して疑問を投げかけるとするなら、皆さん色々、そういう疑問をお持ちでありましょう。
なぜ、この農園主は、一度に労務者を雇わなかったのかとか、 それぞれの時間に雇われた人の資質が違っていたのかとか、 5時に雇われた人などは、雇われるのを待っていたことが分かりますが、 よくも、そこまで粘り強く待っていたものだ。それほど、お金に困っていたのだろうか。 あるいは、きょうはもう雇ってもらえないと諦めて帰った者はいなかったのだろうか、 というように、まあ、考えればいろんな疑問がわくものです。 しかし、イエス様のたとえは、そういう疑問に関しては一切に語らずに、話しは進むのであります。
少し、横道にそれるかもしれませんが、私がまだ若かった頃、それも神学生時代のことですが、夏休みにアルバイトをしました。そのアルバイトは、遊歩道の草取り掃除をするというものでした。夏の炎天下の中でする仕事は大変きついものがありました。
でも、その働きをしたことで、私は一つの大切な事を学びました。 それは、午前10時と午後3時に、缶ジュースが配られ、15-30分くらいだったでしょうか。休憩があった事でした。
なぜ、あの時間帯に、あのような休憩があるのか。働いてみてよくわかりました。 つまり、あれは、働く人にとって、非常にその後の仕事能率に大きく関係してくるという事です。あの休憩は、仕事の一部と言っても良い事を実感したのでした。
あの休憩がある事によって、身体が昼まで持つという事です。 あるいは午後の休憩で、5時まで持つという訳でありました。
あの体験をするまでは、外で働いている人が、なぜ、のんびりと仕事中に休んでいるのか分か分かりませんでした。でも、その後は、自分の体験から、彼らにとって必要な時だなと感じながら、通り過ぎるようになりました。
あの、アルバイトをしていた時は、雇ってくれたその雇い主は、銭湯を経営している人でしたので、無料でひと風呂浴びて気持ち良く仕事を終えたものでした。とは言いましても、中に高校生が一人いましたが、一日で止めてしまうという、そういうきついものでした。
ところで、聖書の話しに戻しますと、ブドウの収穫の時期については、どれほど大切なものかは私にはわかりませんが、6節にありますように5時に雇われた人と、1,2節にありますように、朝早く6時頃雇われた人との疲れ具合、これには、本当に歴然とした差があるのであります。
現在のパートタイムでしたら1時間当たりいくらで、何時間働いたか。 昼食時間は、きっちりと1時間引かれ、純粋な労働時間だけが支払われます。 勿論、先ほど私の体験を話しましたが、あの休憩は、引かれることなく勤務時間に入っていたのですが、そのような感覚で、このたとえを見て行きますなら、やはり、不思議な感覚に陥るのであります。
8節で、ブドウ園主は、監督にこう言っています。 『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そして9節、「 そこで、5時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。」
後から来て、たったの1時間で1デナリもらったということは、当然ながら、朝早くに雇われた者は、もっと多く貰えるだろうと考えるのは、まあ、普通でありましょう。 ところが違うどころか、みんな同じであったので、文句を言う者もでて来た訳です。
その人たちは言いました。 12節『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』と。
ところが、主人はこう言いました。 13節『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。』とです。つまり、主人は、何の不正も行なってはいないことに早く雇われた者は、気付かなければなりませんでした。
もう一つは、労賃は、一対一の契約であり、他の人と比べるのは意味がなかったという事であります。それも、主人の考える通りであり、雇われる人は、それに不服があれば、やめればよかった訳です。主人は14節でなおも話しを続けます。
「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」とです。神様の下さる報酬というものは、そういうものであります。自分と隣人とを比較して、うんぬん言うべきものではなく、感謝して受け取る、頂く。これに尽きると言えましょう。それが、天の御国の法則であります。
考えて見ますと、弟子たちは、本当に初期にイエス様につながる者となりました。 そして、恵みをこれまで受けて来ていました。 一方、きょうの話しから後の話しになりますが、イエス様が十字架に架けられた時の事へと話しは少し飛びますが、イエス様の両側にはりつけになった強盗の内の一人は、殆ど死ぬ前に悔い改め、救いの恵みに与るのであります。
これは、非常にまれな例でありましょうが、決してない訳ではありません。 この地上で受けためぐみは、みんなそれぞれ違うのであります。 しかし、天国への凱旋の恵みは、みな同じなのでありました。
強盗の一人は、何歳だったか分かりませんが、元気な盛りであったのか、それともそれを過ぎたあたりであったのか全く分かりませんが、死を目前にしていたのでした。 何一つ良い事らしきことも、していなかったかもしれません。
強盗の一人は言いました。 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 するとイエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。
これは、大変な驚きであるという事が出来ましょう 人生のほとんどを、もしかしたら嫌われ者で過ごしたかもしれない彼の人生、それでも、神様が目を留めて下さったので、彼は、永遠の命を頂いて、この世を去りました。何という幸いでしょうか。
イエス様は、例えで15節にこう言われています。 『自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』とであります。
考えて見ますと、イエス様を知らされ、救いの恵みを頂いた私達は、いろんな状況の中で、その恵みに与ったことが分かります。ある者は母親の胎内にいる時から御言葉を聞いて育った兄姉たちで、信仰に入られた方もおられますし、あるいはまた、社会で働いている中で、救われた方もおられますし、仕事をリタイヤしてから、信仰が与られた方もおられますし、病気の中で、苦しみの中で救いを求めて救われ、そうして、天に凱旋された方もおられます。その人、その人、みんな違って、実に多彩なのであります。
この地上においては、そのように違いがあります。 しかし、天の御国に入れていただけるのは、「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」それはみんな、神様が定められるのであります。 ですから、先に救われたからうんぬんするのは、決して正しいことではない事を、 この朝、心に留めたいのであります。 この地上の事を天の御国に持ち込む事は止めなければなりません。
そしてもう一つは、この地上を支配しておれられるお方は、勿論、天の御国をも支配しておられるという事です。そういう意味で、15節の言葉は、非常に重みのある言葉であります。『自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」 というお言葉であります。
自分たちは、これだけ主の為に捨てたのだから、当然受けるべき報酬があるに違いないという考えは、この世の考えをそのまま使った考えであります。たくさん働いたので、たくさん報酬を受け取るべきだというこの世の法則、それは、神の法則に反するということを覚えたいものです。
わたしたちは、いつ救われたか、神様の御用の為にどれだけの事をしたか。そういう功績に目を向けるなら、弟子たちと同じような過ちを犯しますし、イエス様から注意を受けるでしょう。
本来なら徹頭徹尾、神の法則に従うべきであります。 一切は、神様からの恵みによって成り立っている。 だから、天の御国に入れていただいたなら、それは、最高の恵みを頂いた事であり、 その事に感謝すべきであります。「あとの者が先になり、先の者があとになるものです」とは、そうなるというものであります。
ですからイエス様のお言葉は、確かに当たっているのであります。 それだけに、自分を他人と比べて一喜一憂しないようにしたいものです。 私たちの目指す所は、天の御国です。主は、それを約束して下さっていますから、それを信じて、期待しようではありませんか。
この世で人の目には不平等に見えても、天の御国では全く新しい目が与えられる事を感謝し、天で受ける神様の恵みを待ち望みたいものです。
2013年7月21日(日) 「死の先にあるもの」 マタイ20:17-19 竹口牧師
この朝見ます聖書箇所の内容は、もうすでに2回語られていまして、今回で三度目になります。
1回目は、16章21節であり、こうありました。 「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とでありました。
これは、イエス様が弟子たちに、ご自分の事を、「人々は、人の子を誰だと言っていますか」という質問をされ、その後で、それでは「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と弟子たちに尋ねられた流れの中で、御自分が、今後辿るべき道を話され時の事でありました。
この時は、ペテロがイエス様のお言葉を否定したものですから大変厳しくペテロを叱られた事が出ておりました。
そして2回目は、マタイ17:22-23でありまして、こう書いてありました。 「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」とありました。
1回目は、ペテロが叱られ、 2回目は、弟子たちは非常に悲しんだことがでておりました。 そして今回の3回目は、1回目、2回目とは状況が大きく異なっております。
それは、きょうの聖書箇所17節にありますように 「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが」とあり、 もうイスラエルの地の廻るべきところは廻られ、今や一直線にエルサレムへと 突き進もうとされている時だからであります。
つまり、寄り道なし、後戻りなし、ひたすらエルサレムへの道を進まれる。 そういう死への道であったからであります。そういう状況の中でのイエス様のお言葉であり、それは即ち預言であり、宣言でありました。
ですから、イエス様のこの宣言が、どれほど大きく、大変なものであったか、私は、想像しがたいものを感ずるのであります。私自身の死の事を重ね合わせて見るからであります。
ところで、死そのものは、イエス様の贖いの死というお働きと、私の死との間には全く違いがある事は言うまでもありません。私の死は、一人の罪人の死であり、イエス様の死は、多くの人を救う死であるからです。ですから、死の意味を今、ここで言おうとしているのではありませんで、死に向かう向かい方の違いをまず取り上げたいのです。
死に対する向き合い方が全く違う。その事を、イエス様の死の話しをする前に、まず話しておきたいのでありますが、それは、今回の話しで私が思いますのは、神様は私達人間に二つの良いものを与えて下さっているという点であります。 この場合、例外は考えないことにしますが。
つまり自殺とか、事故死とか、そういった事は考えないでおきます。 まずその良い点の一つは、人はいつ死ぬか知らされていないという点であります。 もし、分かっているなら、あるいは知らされているのなら、人はそんなにのんきにはしておれないと思うのです。
あれをしておかなければ、これをしておかなければとついつい考えてしまうのではないかと思います。しかし、誰にも知らされていない故に、明日があると、いつも思い、計画を立てています。それに対して、聖書はいつも警告を与えているのであります。
ある金持ちの畑が豊作であったという例えで、金持ちは、倉を取り壊しもっと大きいのを建て、それに財産をしまっておいて、安心して過ごそうとの考えに対してイエス様は、『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、一体誰のものになるのか。』 (ルカ12:20)と、イエス様は例えで言われました。
あるいは、ヤコブが手紙に書いておりますが、4:14で、 「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とそう言われる私達です。
それなのに、私達は、明日に対して恐れをもちません。死はもっと遠くにあるように思えるからです。ですから、これが本当に良い事なのかさえ、考えさせられる部分もないわけではありません。
もう一つ、神様が私達に与えて下さった良いと点と思われますのは、忘れるという事であります。 良い事でも悪い事でも、いくつかは覚えているかもしれませんが、殆どの事は忘れてしまいます。
もし、日記とか写真とかを見るならば、思いだすかもしれませんが、そうでなければ、みんな忘れていくのであります。特に歳を重ねますと、新しい事はなかなか頭に残りません。これもまた、良い事だと私は思うのです。しかし、自分に都合のよい事ばかり覚えているというのは、本当の事を言いますと偏りがあり、良いとは言い難いものです。
ところで、話しをイエス様へと移しますが、イエス様は、約30歳頃、公の生涯に入られたと言われています。それから3年半の公の生涯に入られました。そして、そのイエス様に与えられた使命は、お生まれになった時から決まっておりました。イエス様も、御存じでありました。しかも、その時がいよいよ来ようとしていた。イエス様は、それをはっきりと意識され、これまでに、2回の告白があった訳でありました。
そして第三回目、今回の言葉を述べられた訳であります。 18節「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」とであります。そしてそれは、後戻りのきかない道でありました。なぜなら、父なる神様の用意された飲むべき杯がエルサレムに用意されていたからです。
もう一度、出直して来ようかとか、 少し、このあたりで時を過ごそうなどという事は、この時のイエス様には、あり得ませんでした。
私たち人間は、自分の死の時を知りません。 しかし、イエス様は、エルサレムに上り、それは即ち、死が待っていたのであります。 エルサレムに近づけば近づくほど、死が迫ってくるのであります。 これは、相当の気迫がないと進めないのではないかと思うのです。
ですから、マルコは(10:32)、この時の雰囲気をこう書いております 「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」とあるのです。
これを読みますと、イエス様の並々ならぬ思いが背後から伝わってくるのではないでしょうか。あるいはまたルカ(18:31)は、こう書いております。
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」と。
ここにもまた、イエス様の思いがひしひしと伝わってくるのであります。 イエス様は、やがてこれから起る事に対してまっすぐ目を向けておられました。 誰でも嫌な事、辛い事は避けたいものです。特に死となれば、誰でもが後ずさりしたくなるのが本音でしょう。
しかし、イエス様はこの時、目的を明確にされました。 弟子たちは、イエス様の語られた事を、どれだけ理解していたか分かりません。 けれどもイエス様の魂の苦悩を一つ一つの動作の中に感じとっていたでありましょう。 今やイエス様は、避けられない最後の段階に向かって、決定的な一歩を踏み出されたのでありました。それは、もう一度言いますが、後戻りのきかない道の一歩であり、進めば進むほど近づく一歩であります。
次に第2番目、きょうの所で覚えたいのは、イエス様のこれからの死への道は、 すべてが分かっていた道であったという事であります。 それは、次の言葉より十分に分かります。 「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。」とであります。
これほど、明白に分かっていて、なお前進しなければならない、この苦しみを、どのように捉えたらよいのか、と思います。最初私は、神様は私達に、二つの良い点を与えられたと言いました。
いつ死ぬか知らされていない事、そしてまた、もう一つは、忘れる事でありました。 しかし、イエス様の道は、生まれた時から、決まっていました。 それは、人々の罪の為に死ぬことでありました。イエス様は、その事を明確にされ、 三度目には、より一層、その時が近づいたことを悟られ、前進されたのでありました。
精神的に追い詰められて、自殺の道を選ぶしかなかったとか、旧日本軍の、神風特攻隊のように、片道燃料を積んで、日本の為に死んでくれというのではなく、あるいは、洗脳されて自爆するのでもなく、イエス様は、全ての人の罪を背負うためにこの世に来られ、まさに、それを実行に移す為に、前進をされたのでした。また、それを明らかにされたのでした。
死を目指しての道でありました。 この道は、人が行なうあらゆる行為の死とは意味が違っていました。 キリストの肩にかかっているものは、私達の全ての罪であった。 それだけに、イエス様のきょうの告白は、非常に重みのある告白であり、宣言でありました。
と同時に、祭司長や律法学者たちに引き渡される。 更には、彼らは、イエス様を死刑に定める。 そこまで、分かっていたのであります。
いいえ、それだけではありません。 死刑の確定の結果、あざけり、鞭打ち、十字架につけるために異邦人に引き渡すとさえ言われているのであります。イエス様は、ユダヤ人でありました。ユダヤ人の死刑の方法は、石を投げて殺す事が決まっていました。
でも、ユダヤ人は、その方法を取りませんでした。 その当時、ローマが支配していたので、ローマの法に則って死刑が行われた、そのように言われています。死刑の権限は、ユダヤ人にはなく、ローマにあったと言われます。
しかし、使徒の働き7章を見ますと、ステパノはユダヤ人によって、町の外に追い出され、石によって処刑されています。そのように出来た筈のイエス様を、自分たちの手を汚すまいとローマの手にかけさせた。
そのようなはかりごとさえ、イエス様はすでに、この時点で、知っておられたのでありました。裁判を受けられる事、死刑に定められること、異邦人に引き渡される事。 そして、十字架にかけられるという事。その十字架の刑がいかに屈辱的であり、また、苦しみのひどいものであるか、多くの人は知っていましたし、イエス様もごぞんじでした。
私達には、殺され方まで、自分の先の事が読めるでありましょうか。 もし読めるとしたなら、一日一日が、それこそ、楽しみの日々ではなく、苦しみの日々でありましょう。日を追うごとに、その苦しみは、大きくなっていくものであります。
私達には、老衰であろうが、病死であろうが、あるいは、突然の事故死であろうが、死の日を知らされていないからこそ、平安でいられるのであります。 そうではないでしょうか。
もう一つ、この朝、イエス様の道を申し上げなければなりません。 それは、言うまでもなく、イエス様の勝利の道で、19節の最後にこうあります。 「・・・人の子は三日目に甦ります。」
イエス様は、ご自分の死の使命を知っておられましたが、その死で終わるものではなく、死に打ち勝つ勝利、即ち、甦りの力を知っておられた。このことを、忘れてはなりません。
確かにイエス様のエルサレムへの道は厳しい道でした。 一つは、確実に死を迎えるという道でした。 二つ目は、苦しみを受けるという道でした。 それは、だんだんに階段を上って行く悲劇の道であった、 そういってもいいでしょう。
魂と肉体の苦痛、仲間に見捨てられる苦痛、強制的に受けさせられる不正の裁判の苦悩、異邦人に馬鹿にされ、侮辱、恥辱、計画的な無礼の数々、ローマの手によって鞭打たれ、これ以上はない十字架の苦しみ、激痛の果ての死、それらを通らなければならない。しかし、それだけでは決して終わることが無いのがイエス様の最後であり、また新たなる始まりでもありました。
イエス様の死は決して最後ではありませんでした。 苦悩、苦しみの先にあったのは神の子としての栄光が輝き、十字架のかなたに栄冠が待ちかまえているというものでした。
確かに悪に敗れた。 そのように、この世の人には見えるかもしれない。 しかし、敗北のかなたに勝利が約束され、 死のかなたに生命が待っていると宣言されるのであります。
生きていて、更にはこれから苦痛を味わう事を知っておられながら、 それでもなお、勝利を確信して歩まれるイエス様を、この時点で、私たちはどうイエス様を見ればよいのでしょうか。
私たちは、幸か不幸か、いつ死ぬか知らされていません。 言うまでもなく、死ぬまでに多くのドラマがあるでしょう。 しかし、イエス様の確信ある言葉の様に、死の先には、「三日目によみがえります。」という確信があるなら、私たちは未来に何という幸いな期待を持てるでしょうか。
皆さんも、私も確実に死に向かって進んでいます。 しかし、その先にあるものは、甦りの約束です。 イエス・キリストは、死の先にあるものをしっかりと見据え、エルサレムへと進もうとされています。
私たちもまた、この地上の生活の先にあるものに目を留め、恐れることなく期待して歩もうではありませんか。キリストは私たちの受けるべき審きを身代わりとして すでに受けて下さっていて、死の先にあるものは、甦りという素晴らしいお約束を頂いているのですから。
|