2013年8月11日(日) 「イエスのごとく歩む」 マタイ20:20-28 竹口牧師
イエス様の弟子12人の中の二人にヤコブとヨハネがいますが、その二人の者の母親がイエス様のもとに来て願った。それも、ひれ伏して、お願いがありますと言った。その所からきょうの話しは始まります。
因みに、その母親のことは、ゼベダイの子たちの母とでています。 ゼベダイとは「主の賜物」という意味のへブル語から来ているそうです。使徒ヤコブとヨハネの父であり(マコ1:19)、妻の名はサロメでしょう(マタ27:56,マコ15:40)。カペナウム付近で漁師として働いていましたが、息子たちはイエス様の招きに従ったのでした。
マルコ1:20から「雇い人たち」がいたことから見て、かなり裕福な漁師であったと思われます。実際、二人の息子が家業を離れることができたことや、サロメがイエスと同行し十字架刑まで目撃できたことの背後に、ゼベダイの経済力があったのかもしれない、そのようにも、聖書辞典にはありました。
ゼベダイ自身がイエスに従ったとは言われていませんが、家族がそうすることを妨げなかったといえましょう。そんな夫をもつ母親が、イエス様の所に願いに出たのでした。
今までに、いろいろな人がイエス様にお願いしてきましたが、たとえば、悪霊につかれた娘をもつ母親が、癒しを求めましたし(15:22)、ペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになって下さい」と言いました(14:28)。またある時は、百人隊長がイエス様の元に来て、しもべの中風を癒して頂くために、ただお言葉をくださいと願い出ました(8:5)。みんな、それぞれがその度にイエス様は叶えてくださいました。
ところで、今回の話しは、19章に登場しました一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、どんなよいことをしたらよいでしょうか。」という話から始まりまして、それに対してイエス様は、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われて青年は悲しんで去って行ったという所からずっと続いています。
あの話の後、ペテロは、こう言いました。 「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」と。
ペテロとしては、漁師を止め、家族を捨て、イエス様に従っている事に、少し自信めいたものがあったのでしょう。しかし、そんなペテロを始め弟子たちに対してイエス様はこう言われました。19:30「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」とでありました。
そして、この事に関連してイエス様はまた、ぶどう園で働く労務者を雇う例を話されました。それは、朝早くから働いた者、12時頃から働いた者、3時頃から働いた者、一日の終わりの1時間前から働いた者、それぞれに1デナリの賃金が等しく支払われたことに対して、朝早くから働いた者は文句を言ったという例えでした。
そして、これの締めの言葉が、20:16にありまして「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」と言われたのでした。私達は、この話しを続けて読みながら、人に対しておごることの危険を教えられたものでした。
イエス様に従っているから、こんなに神様の為に労しているから、というおごり、高ぶりは、神の民として相応しくないという、教えでありました。そして、更に話しは続きまして、イエス様がエルサレムに上って、「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」という、これから起ころうとする厳しい現実をイエス様は話されました。
このような言葉は、これで三度目(16:21、17:22)なのですが、弟子たちは、これを聞いて、二度目の時などは、「彼らは非常に悲しんだ」とありまして、弟子たちの気持ちが書かれていました。そして、今回、恐らく弟子たちは、みんなそんな気持であったであろう時に、ヤコブとヨハネの母親が願い事をしたというのであります。
しかし願いというものは、他でもない21節にありますように「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」というものであった訳です。
果たしてこの母親は、イエス様の18,19節の言葉を聞いていたのでしょうか。それとも知っていたのでしょうか。イエス様の最後が、どれほど悲惨であるか、自覚していたのでありましょうか。
一つの考えとしては、なってみないと分からないよ、というのが一つの答えであります。しかし、イエス様はそうは言われませんでした。 22節で、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。 わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と言われたのです。
私達は、本当にあの十字架刑の模様を再現し、自分が、その場に立ったなら、尻込みするに違いないと思うのです。実際に弟子たちは、クモの子を散らすように、逃げ隠れしたものでした。しかしこの今の時点では、その情景を求める事は酷かもしれません。あの恐ろしさを知ってか、知らないでか分かりませんが、「彼らは『出来ます』と言った」というのであります。
彼女は言ったというのではなく、「彼らは」となっています。 つまり母親だけでなく、ヤコブもヨハネも言ったという事でしょう。 イエス様の弟子たちが12人いる中で、ヤコブとヨハネの二人が、天の御国では、イエス様の左と右の席につきたいというのです。これは、イエス様と一緒に最高権威につきたいという事です。
即ち、他の十人は、その下で良いという事になります。 従って、これは当然ながら他の十人から不満が起こるのは当然と言えば当然であります。24節を見ますと、「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」とある通りであります。
そういえば、このマタイ18:1では、「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」という質問をイエス様に弟子がしましたが、そこでイエス様は小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)と言われたのでした。
どうも、私達は、この弟子たちとイエス様とのやりとり、今回の場合、母親も登場しましたが、どうしても、順位を付けたがる。そして、自分が少しでも上になりたい、そういう願望が潜んでいるのではないかと思えて来るのです。
人の話すことに、いちいちケチをつける。反対をする。それを裏返しますと、自分が一番偉いという事を、案にほのめかしているということではないでしょうか。ですから、最初の方でも言いましたが、イエス様は、「ただ、先の者があとになり、 あとの者が先になることが多いのです。」(19:30)と言われたり、「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(20:16)と同じようなことを逆の言い方で言わざるを得なかったのだと言えましょう。
順位をつけて、どうしても一番でなければならない、そういう思いが常に働く。 これは、イエス様の弟子として正しくないという事です。 ここで、興味深いのは、22節でイエス様が言われた言葉の後、つまり「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。 わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と問われた事です。 すると彼らは「できます。」と言った、とありますが、実際の所、ヤコブは、イエス様の十字架の後、使徒の働き12:1-2を見ますと、ヘロデの手にかかって、12弟子の中で一番最初に殉教の死を遂げますし、ヨハネは、100歳ころまで生きたとはいえ、島流しに遭い、生きながら、牢の中で、困難、苦難を経験したのでした。
そういう意味では「出来ます」との言葉は、真実であったと言っていいでしょう。 とは言いましても、そこで納得していてはいけないのでありまして、イエス様が、繰り返し、繰り返し言われている事な何か、という事をしっかりと受け止めなければならないのであります。
そのことが、更に25節以下に続くのです。 「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、 異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』」とあるのであります。
更に27節では、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」と言われるのです。イエス様の弟子たちは、多くの人の中から選ばれた人たちでした。それだけに、自分はイエス様の直属の弟子だぞという誇りがあったかもしれません。
更には、その弟子の中でも、我こそは、イエス様に特に目を留められ、可愛がられている存在だ、そう思いたい弟子たちもいたに違いないのであります。だからこそ、「天に御国では誰が一番偉いのでしょうか」とか、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従って参りました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 という言葉も出て来るのであります。
これは、何も弟子たちの思いだけではなく、私達の心にひそむ一人ひとりの思いではないでしょうか。とするなら、それは、決してイエス様の喜ばれることではない、むしろ、悔い改め、イエス様の喜ばれる歩みを真剣に求めて行かなければならないと教えられるのです。
私達は、自分の目の前に見本となる者がいないのでは、決してありません。 イエス様こそが、私達の生きるべき完全なる見本なのです。 そのイエス様は28節でこう言われました。 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、 また、多くの人の為の、贖いの代価として、 自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」とです。
毎週、私達は、鈴木先生と通して訓練会の時間に、バプテスト教理問答を学んでいますが、その問29に、こういう質問があります。
「キリストは、どのように王の職務を果たされますか」 それに対して、答えは、 「キリストは、私たちをご自身に従わせ、支配し、守り、 また、キリストと私達のすべての敵を抑制し、征服して下さる事で、王の職務を果たされます」とあります。
考えてみていただきたいのですが、神である方、王である方が、そのような職務を果たされる権限を持たれる方が、実は次の問30で、実にへりくだった方である事が書いてあるのです。
まず、こういう問いであります。 「キリストの謙卑はどの点にありますか」 この謙卑というのが、神であり王であり、主であるお方が、 へりくだられたのは、どの点にあるかという問いであります。
それに対して答えは、 「キリストの謙卑は、彼の低い状態で生まれ、律法の下に置かれ、この世の悲惨と神の怒りのもとに置かれ、十字架ののろいの死、葬られ、しばらくの間、死の力のもとに留まった事にあります」というふうにあります。
イエス様のこの地上での生涯を聖書を通して見るなら、本当にこの方が、神の子なのか、本当に王なのか、そう思えるほど、謙遜に私達の為に仕えて下さった事が、よくわかります。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」、そしてそうなさった生涯でした。そしてまた「また、多くの人のための、贖いの代価として、 自分のいのちを与えるためであ」った。そして本当に最後は、それを全うして下さったのでした。そのイエス様が、同じように私達に仕える事を求めておられるのです。
神様に仕えることの大切さは言うまでもありません。 また同じように人にも仕える事が求められているという事です。 勿論、イエスのごとく歩むと言いましても、贖いの死を遂げることなどを指している訳ではない。それは、いうまでもないことです。 それはできない事です。
また、イエスのごとく歩むとは決して、天の御国で、イエス様の左右に座らせていただくためでもありません。この世で、一番になる事でもないのです。 ただ、キリストが謙遜に歩まれたように歩む。 そのように私たちにこの朝イエス様が求めておられると言えましょう。 謙遜に、しかしまた勇敢に、この世をキリスト者として歩ませていただこうではありませんか。
2013年8月11日(日) 「イエスのごとく歩む」 マタイ20:20-28 竹口牧師
イエス様は、最初の頃、ガリラヤ伝道をなさり、続いて12使徒の訓練をされ、最期に近くなった頃、ユダヤ伝道、またペレヤ伝道をされました。そして、いよいよその巡回伝道も終わりをつげ、ついにはエルサレムへと進まれるわけでありますが、そのエルサレムまで、あと一日の距離の所まで来られました。それがエリコという町の地点でありました。
エリコの町は、旧約聖書のヨシュア記に出てきますが、荒野の旅を終えたイスラエルがヨルダン川を渡ってギルガルに宿営し、そこを拠点にし、まず最初に戦いを交えたのが、このエリコの町でありました。
ヨシュア記には、その時、ヨシュアが神様のお働きによって勝利した、そういう話しが出ておりますが、その場所を旧市街としますと、イエス様の時代のエリコの町は、新しい町でありまして、少し別の所で、死海のほとりに作られ、ヘロデ大王の建てた大規模な建築物が並び立つ豊かな町でありました。
イエス様は、そこでもお話しをなさったのでありましょう。 大勢の群衆がイエス様について行った事が29節に出ております。またその29節の一番最初には「彼らがエリコを出て行くと・・」とありますし、次の章、21章1節を見ますと、「それから、彼らはエルサレムに近づき・・・」とありますから、イエス様は、エリコの町を出られ、いよいよますます十字架刑へと近づいて行かれる状況が読みとれるのであります。
そんな中できょうの話しは、大切な部分へと入って行くのであります。 30節で、「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」と叫んだのでありました。
まず、ここで第一に考えたい事は 目の見えない人二人は、イエス様に何を求めたかであります。 もうお分かりのように、彼らは「憐れみ」を求めたのでした。 これは実に大切のように思います。
憐れみを求めるその態度というものは、目上の者が目下の者にするものでは決してありません。また仮に地位的には同じ状況であったとしても、憐れみを求める場合は、自分を下げて願うものであります。
ですから私たちが、この彼らの態度をみながら、私たちがイエス様に願っている態度というのは、果たしてどんなものであろうかと、考えさせられるのであります。
謙遜に、また低くへりくだって、恐れをもって御前に出て、憐れみを求めているのだろうか。もしかしたら、イエス様と対等で友達関係のような、あるいはそうではなく、 願いを聞いて下さるのが当たり前というような、思いで願ってはいないだろうか、そう、考えさせられるのであります。
「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」とは、本当にへりくだった態度である事をまず気付かされ、またそれを心に留めたいと思うのであります。
私たちが物事を願う時、自分の願った通りになって当たり前、そうならなかったなら、あたかも自分が被害者のごとく思う。なんで神様は聞いて下さらなかったのだろう。そう思う事は、正しいとは言えないと言えましょう。 そう考えますと彼らはまず、憐れみを求めたのは正しい姿勢であったと言ってよいでしょう。
ローマ人への手紙9:15-16にこうあります。 「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、 あわれんでくださる神によるのです。」とです。
その事を知った上で、なおかつ信頼してお願いできる特権を、私達信仰者は頂いているのは、なんという恵みでありましょうか。どんな時代にも弱者はいます。 しかし、中でも外国の支配の中にあったパレスチナ。一人ひとりが必死に生きていた時代です。弱者に対して、どれだけの人が目を留めた事でしょうか。
それが如実に現われているのが、31節にあります 「そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、」とありますように、邪魔者として目の見えない人をどけようとしたのでありました。
当時の教師は、歩きながら教えた、そのようにもある本には出ておりましたので、それならば、なおのこと、30節にありますように、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」という叫びは、学びの邪魔になってイエス様の近くにいる人たちには、決してよくは思わなかったでありありましょう。
それでも彼らは、叫び続けましたし、また、イエス様も彼らを憐れんで下さったという事です。弱い者を、困った者たちだと思われている者に対して主は、目を留めて下さったのでありました。 第二番目に考えてみたいのは、二人の盲人は、次に目が見えるようになる事を求めたという点に注目したいのです。盲人が見えるようにされたと言う記事は、マタイは、もうすでに初めの方の9:27-31で取り上げておりました。
そこでは、二人の盲人が登場し、そして今回もまた二人の盲人が登場したのでありますが、最初の方9章では、イエス様と盲人との間にこんな話のやり取りがあった事が書かれておりました。
「ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。 家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」とでありました。
つまり、イエス様は、この時、目が見えるようになるよう求めている事を知っておられ、「わたしにそんなことができると信じるのか。」と問われました。
それに対して彼らは「そうです。主よ。」と答えました。 彼らが願う前に、イエス様は彼らの必要を知っておられた。 これは、イエス様であるからこそ、当然なことと取って良いのですが、 しかし、ともすれば、別にイエス様でなくても、私たちだって同じように目の見えない人が見えるようになる事を求める。それくらいわかる。 と考えるのは、正しくないという事です。
なぜなら、イエス様はきょうのところでは、こう言われているからであります。 目の見えない人に向かってであります。32節で「わたしに何をしてほしいのか。」とであります。イエス様には、求めている人が目の見えない人であり、それも、目が見えるようになる事を願っている。その事を、イエス様は知っておられる。にもかかわらず、イエス様は「わたしに何をしてほしいのか。」問われているのであります。
ですから、これは、実に大切なイエス様の質問である。 そういう事が出来るでしょう。 ではなぜイエス様は、分かっているにも拘らず、 そのような質問をされたのか、という事にならないでしょうか。 実は、そこには、大きな理由があります。
と言いますのは、彼らの目が見えるようになったからと言って、 働かなくても食べていけるわけではありませんし、 またそれは、安心して生きていける事にもつながらないからです。
別に、目が見えなくても、安心して食べて生きていけるようにしていただければ、そのほうがずっと安心だと言えるでしょう。 でも、目の見えない盲人は、他の何ものでもない。 目が見える事を求めたということであります。
その人にとって、何が本当に必要なのか、イエス様は、一人一人の必要を知っておられました。しかし、それでもなおかつ、聞かれるという事であります。
私達は、あれが欲しい、これがほしいと子どもの頃、親によくねだったものです。 でも、親は本当に必要と思われる物でないと首を縦に振らなかった事を思い出します。 まだ与えるには早すぎるとか、不必要と思ってよいでしょう。
それはともかく イエス様は、私達の本当の必要を知っておられながら、あえて、「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれる事がある。これは、私達信仰者はよく覚えておかなければならない点だと思います。
私達は求めるものは何でも、与えて下さるのではなく、本当に必要なものをイエス様は、与えて下さる。そのために、考える時も与えられるのです。イエス様は、十字架にかけられる前の晩に弟子たちにこう勧められました。
ヨハネは16:23-24に書いてあるのですが、 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。 あなた方は今まで、何もわたしの名によって求めた事はありません。 求めなさい。そうすれば受けるのです。 それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。
私達は、こういう素晴らしいお言葉をイエス様から頂いているのですが、 神の子としての身分を考え、盲人たちが憐れみを求めたように、 また、それに応えて下さるお方が、主であり、ダビデの子であるお方、 救い主である事を認めて、叫んだごとく、 私たちもまた、願う時に、そのように謙遜に願いたいものです。
神様は、全てをご存じのお方ですから、私達の必要を知り、求める心を与え、お願いすることを赦して下さいます。主の為に必要なものを、遠慮なく求めさせて頂きたいものです。「謙遜に」です。
第3番目にここで教えられます事は、34節の最後の言葉です。 「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」とありますように、彼らは、「イエスについて行った。」という点であります。
実は、今回の話しは、マタイのほかに、マルコもルカも取り上げております。 しかも、マタイは二人の盲人を取り上げておりますが、マルコやルカは、その内の一人にしか焦点を当てていません。その上、マルコはその一人の人の名前さえあげて、テマイの子のバルテマイと言っております。
事実は一つでありますから、当然と言いますと当然なのですが、 どの場合も、イエス様に憐れみを請い、イエス様はそれに対して、目が見えるようにして下さり、その後、彼らはイエス様について行った事が書いてあるのであります。
「イエス様、感謝します。ありがとうございます。 これからは、手に汗して自分で働き、生きて行きます」 とか何とか言って去って行ったのではなく、イエスについて行った、とあるのであります。
そして、それに対してイエス様が「着いてくる」なとも「着いてこい」とも何とも書いてありません。イエス様は、彼の行為を受け取って下さったという事です。 そして、それは、彼の感謝の気持ちを素直に現わしていると思うのです。 それはまた、とても大切な行為だと言えましょう。
勿論ある時は、イエス様について行きたいと思っても、それよりもむしろ、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんで下さったかを、知らせなさい。」(マルコ5:19)と言って、家族に伝えることを勧められたこともあれば、あるいはまた、こういう場合もありました。
かつてイエス様は、「エルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた」時の事、ある村にはいると、十人の病人がイエス様に出会い、彼らが憐れみを求めた所、イエス様の命令で祭司の所に行くように言われましたので、その病人は、その祭司の所へ行くのですが、その途中で、十人は癒されたのに、イエス様の所に戻って来て感謝を現わしたのはたった一人でありました。
そこでイエス様は言われました。 「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」とそう言われたのでした。
これらの例からもお分かりのように、私達は、何かの願いをした時、主に憐れみを求めた時、それが自分の願った通りにならなかったとしても、ましてや願った通りになったとするならなおのこと、感謝の気持ちを現わすのが正しいのではないかという事です。
私達は、それを何によって表すかであります。 私達はみんな裸で生まれ、裸で死んで行くのです。 この地上で与えられているものは全て、神様からのものです。 ですから、また去っていく時は、神様が用いられる人に、 与えられている物を委ねて去って行かなければならないのです。 またそれを喜んでそうしたいのです。 それ故に、何をするにも感謝が先に出て来ると言えましょう。
私達は、それを言葉で表すか、また言葉で表すと共に、献げもので現わすか、更には、与えられた賜物、技術、時間、あらゆるもてるものをもって元気な時にお仕えしていく事です。その心が問われていると思うのです。
自分の持っているもの、与えられているものをむしり取られるような思いで、あるいははぎとられるような思いでお献げするとするなら、それを神様が本当に喜んで下さる事でありましょうか?それは、本当の献げものではありません。献げ物は、感謝からのものでなければ意味がないのです。
きょうの34節は、イエス様の行為と、私達の思いが、非常に良く言い表されていると言えましょう。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」と。
私たちもまた、どんなに小さなことでも、 いいえ、一日一日生かされ、必要なものが全て与えられ、守られている事は、主の憐れみであり、感謝なことであると、心から告白し、またそれに相応しい行動をしたいものです。
2013年8月18日(日) 「憐れみの主」 マタイ20:29-34 竹口牧師
イエス様は、最初の頃、ガリラヤ伝道をなさり、続いて12使徒の訓練をされ、最期に近くなった頃、ユダヤ伝道、またペレヤ伝道をされました。そして、いよいよその巡回伝道も終わりをつげ、ついにはエルサレムへと進まれるわけでありますが、そのエルサレムまで、あと一日の距離の所まで来られました。それがエリコという町の地点でありました。
エリコの町は、旧約聖書のヨシュア記に出てきますが、荒野の旅を終えたイスラエルがヨルダン川を渡ってギルガルに宿営し、そこを拠点にし、まず最初に戦いを交えたのが、このエリコの町でありました。
ヨシュア記には、その時、ヨシュアが神様のお働きによって勝利した、そういう話しが出ておりますが、その場所を旧市街としますと、イエス様の時代のエリコの町は、新しい町でありまして、少し別の所で、死海のほとりに作られ、ヘロデ大王の建てた大規模な建築物が並び立つ豊かな町でありました。
イエス様は、そこでもお話しをなさったのでありましょう。 大勢の群衆がイエス様について行った事が29節に出ております。またその29節の一番最初には「彼らがエリコを出て行くと・・」とありますし、次の章、21章1節を見ますと、「それから、彼らはエルサレムに近づき・・・」とありますから、イエス様は、エリコの町を出られ、いよいよますます十字架刑へと近づいて行かれる状況が読みとれるのであります。
そんな中できょうの話しは、大切な部分へと入って行くのであります。 30節で、「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」と叫んだのでありました。
まず、ここで第一に考えたい事は 目の見えない人二人は、イエス様に何を求めたかであります。 もうお分かりのように、彼らは「憐れみ」を求めたのでした。 これは実に大切のように思います。
憐れみを求めるその態度というものは、目上の者が目下の者にするものでは決してありません。また仮に地位的には同じ状況であったとしても、憐れみを求める場合は、自分を下げて願うものであります。
ですから私たちが、この彼らの態度をみながら、私たちがイエス様に願っている態度というのは、果たしてどんなものであろうかと、考えさせられるのであります。
謙遜に、また低くへりくだって、恐れをもって御前に出て、憐れみを求めているのだろうか。もしかしたら、イエス様と対等で友達関係のような、あるいはそうではなく、 願いを聞いて下さるのが当たり前というような、思いで願ってはいないだろうか、そう、考えさせられるのであります。
「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」とは、本当にへりくだった態度である事をまず気付かされ、またそれを心に留めたいと思うのであります。
私たちが物事を願う時、自分の願った通りになって当たり前、そうならなかったなら、あたかも自分が被害者のごとく思う。なんで神様は聞いて下さらなかったのだろう。そう思う事は、正しいとは言えないと言えましょう。 そう考えますと彼らはまず、憐れみを求めたのは正しい姿勢であったと言ってよいでしょう。
ローマ人への手紙9:15-16にこうあります。 「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、 あわれんでくださる神によるのです。」とです。
その事を知った上で、なおかつ信頼してお願いできる特権を、私達信仰者は頂いているのは、なんという恵みでありましょうか。どんな時代にも弱者はいます。 しかし、中でも外国の支配の中にあったパレスチナ。一人ひとりが必死に生きていた時代です。弱者に対して、どれだけの人が目を留めた事でしょうか。
それが如実に現われているのが、31節にあります 「そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、」とありますように、邪魔者として目の見えない人をどけようとしたのでありました。
当時の教師は、歩きながら教えた、そのようにもある本には出ておりましたので、それならば、なおのこと、30節にありますように、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」という叫びは、学びの邪魔になってイエス様の近くにいる人たちには、決してよくは思わなかったでありありましょう。
それでも彼らは、叫び続けましたし、また、イエス様も彼らを憐れんで下さったという事です。弱い者を、困った者たちだと思われている者に対して主は、目を留めて下さったのでありました。 第二番目に考えてみたいのは、二人の盲人は、次に目が見えるようになる事を求めたという点に注目したいのです。盲人が見えるようにされたと言う記事は、マタイは、もうすでに初めの方の9:27-31で取り上げておりました。
そこでは、二人の盲人が登場し、そして今回もまた二人の盲人が登場したのでありますが、最初の方9章では、イエス様と盲人との間にこんな話のやり取りがあった事が書かれておりました。
「ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。 家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」とでありました。 つまり、イエス様は、この時、目が見えるようになるよう求めている事を知っておられ、「わたしにそんなことができると信じるのか。」と問われました。
それに対して彼らは「そうです。主よ。」と答えました。 彼らが願う前に、イエス様は彼らの必要を知っておられた。 これは、イエス様であるからこそ、当然なことと取って良いのですが、 しかし、ともすれば、別にイエス様でなくても、私たちだって同じように目の見えない人が見えるようになる事を求める。それくらいわかる。 と考えるのは、正しくないという事です。
なぜなら、イエス様はきょうのところでは、こう言われているからであります。 目の見えない人に向かってであります。32節で「わたしに何をしてほしいのか。」とであります。イエス様には、求めている人が目の見えない人であり、それも、目が見えるようになる事を願っている。その事を、イエス様は知っておられる。にもかかわらず、イエス様は「わたしに何をしてほしいのか。」問われているのであります。
ですから、これは、実に大切なイエス様の質問である。 そういう事が出来るでしょう。 ではなぜイエス様は、分かっているにも拘らず、 そのような質問をされたのか、という事にならないでしょうか。 実は、そこには、大きな理由があります。
と言いますのは、彼らの目が見えるようになったからと言って、 働かなくても食べていけるわけではありませんし、 またそれは、安心して生きていける事にもつながらないからです。
別に、目が見えなくても、安心して食べて生きていけるようにしていただければ、そのほうがずっと安心だと言えるでしょう。 でも、目の見えない盲人は、他の何ものでもない。 目が見える事を求めたということであります。
その人にとって、何が本当に必要なのか、イエス様は、一人一人の必要を知っておられました。しかし、それでもなおかつ、聞かれるという事であります。
私達は、あれが欲しい、これがほしいと子どもの頃、親によくねだったものです。 でも、親は本当に必要と思われる物でないと首を縦に振らなかった事を思い出します。 まだ与えるには早すぎるとか、不必要と思ってよいでしょう。
それはともかく イエス様は、私達の本当の必要を知っておられながら、あえて、「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれる事がある。これは、私達信仰者はよく覚えておかなければならない点だと思います。
私達は求めるものは何でも、与えて下さるのではなく、本当に必要なものをイエス様は、与えて下さる。そのために、考える時も与えられるのです。イエス様は、十字架にかけられる前の晩に弟子たちにこう勧められました。
ヨハネは16:23-24に書いてあるのですが、 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。 あなた方は今まで、何もわたしの名によって求めた事はありません。 求めなさい。そうすれば受けるのです。 それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。
私達は、こういう素晴らしいお言葉をイエス様から頂いているのですが、 神の子としての身分を考え、盲人たちが憐れみを求めたように、 また、それに応えて下さるお方が、主であり、ダビデの子であるお方、 救い主である事を認めて、叫んだごとく、 私たちもまた、願う時に、そのように謙遜に願いたいものです。
神様は、全てをご存じのお方ですから、私達の必要を知り、求める心を与え、お願いすることを赦して下さいます。主の為に必要なものを、遠慮なく求めさせて頂きたいものです。「謙遜に」です。
第3番目にここで教えられます事は、34節の最後の言葉です。 「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」とありますように、彼らは、「イエスについて行った。」という点であります。
実は、今回の話しは、マタイのほかに、マルコもルカも取り上げております。 しかも、マタイは二人の盲人を取り上げておりますが、マルコやルカは、その内の一人にしか焦点を当てていません。その上、マルコはその一人の人の名前さえあげて、テマイの子のバルテマイと言っております。
事実は一つでありますから、当然と言いますと当然なのですが、 どの場合も、イエス様に憐れみを請い、イエス様はそれに対して、目が見えるようにして下さり、その後、彼らはイエス様について行った事が書いてあるのであります。
「イエス様、感謝します。ありがとうございます。 これからは、手に汗して自分で働き、生きて行きます」 とか何とか言って去って行ったのではなく、イエスについて行った、とあるのであります。
そして、それに対してイエス様が「着いてくる」なとも「着いてこい」とも何とも書いてありません。イエス様は、彼の行為を受け取って下さったという事です。 そして、それは、彼の感謝の気持ちを素直に現わしていると思うのです。 それはまた、とても大切な行為だと言えましょう。
勿論ある時は、イエス様について行きたいと思っても、それよりもむしろ、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんで下さったかを、知らせなさい。」(マルコ5:19)と言って、家族に伝えることを勧められたこともあれば、あるいはまた、こういう場合もありました。
かつてイエス様は、「エルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた」時の事、ある村にはいると、十人の病人がイエス様に出会い、彼らが憐れみを求めた所、イエス様の命令で祭司の所に行くように言われましたので、その病人は、その祭司の所へ行くのですが、その途中で、十人は癒されたのに、イエス様の所に戻って来て感謝を現わしたのはたった一人でありました。
そこでイエス様は言われました。 「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」とそう言われたのでした。
これらの例からもお分かりのように、私達は、何かの願いをした時、主に憐れみを求めた時、それが自分の願った通りにならなかったとしても、ましてや願った通りになったとするならなおのこと、感謝の気持ちを現わすのが正しいのではないかという事です。
私達は、それを何によって表すかであります。 私達はみんな裸で生まれ、裸で死んで行くのです。 この地上で与えられているものは全て、神様からのものです。 ですから、また去っていく時は、神様が用いられる人に、 与えられている物を委ねて去って行かなければならないのです。 またそれを喜んでそうしたいのです。 それ故に、何をするにも感謝が先に出て来ると言えましょう。
私達は、それを言葉で表すか、また言葉で表すと共に、献げもので現わすか、更には、与えられた賜物、技術、時間、あらゆるもてるものをもって元気な時にお仕えしていく事です。その心が問われていると思うのです。
自分の持っているもの、与えられているものをむしり取られるような思いで、あるいははぎとられるような思いでお献げするとするなら、それを神様が本当に喜んで下さる事でありましょうか?それは、本当の献げものではありません。献げ物は、感謝からのものでなければ意味がないのです。
きょうの34節は、イエス様の行為と、私達の思いが、非常に良く言い表されていると言えましょう。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」と。
私たちもまた、どんなに小さなことでも、 いいえ、一日一日生かされ、必要なものが全て与えられ、守られている事は、主の憐れみであり、感謝なことであると、心から告白し、またそれに相応しい行動をしたいものです。
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