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2013年10月13日(日) 「無知を装おう」  マタイ21:23-27  竹口牧師

今、私達は、マタイの福音書を見ておりますが、21章に入りましてイエス様は、エルサレムに入城され、神殿を清められ、また、神殿内で奇跡を行なわれ、更には、子ども達の賛美も耳にされたという所を見ました。

多くの群衆は、イエス様のエルサレム入城を歓迎し、
「ダビデの子にホサナ。
祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
ホサナ。いと高き所に」
そう言って、熱烈な歓迎をしたのでありました。

しかし、その一方で、実は、その事を快く思っていなかった人もいた訳でありました。
それが、今回登場しました祭司長、民の長老たちであります。

彼らは、きょうの23節のところで、イエス様に質問を投げかけたのであります。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」とでありました。

ここに、「権威」と言う言葉が二度でてきます。
つまり、質問を投げかけた人たちは、自分たちには権威があるが、「あなたは一体、何ものですか」ということになります。祭司長や民の長老たちが、権威を二度も使うという事は、自分たちの権威を嵩(かさ)にかかった態度であり、どうもそれは、サンへドリンの議員であったからのようにも思えます。

彼らは当時、ユダヤの宗教に関する事はこの権威のもとにあり、議会の許可なしには何も教える事ができませんでした。ところが先ほども言いましたように、イエス様は神殿の宮清めをされました。その時に行なわれました事は、「宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」のでありました。

しかしこれは、考えて見ますと、もともとは、地方からの巡礼者、あるいは外国からの巡礼者に便宜を図るものでありました。

献げる牛も羊も鳩も、きよいものでなければなりませんでしたので、献げ物を遠くから持って来たけれども、これは献げ物にはならないと言われたのでは済まされないので、神様にささげられるに相応しい、良く審査されたものが捧げられるよう、予め検査して用意されていました。

あるいは、神聖なシェケル銀貨を扱っていた両替人は、宮の献金用に両替するためにいた人たちでありました。ですから、彼らのしていたことは、エルサレム当局から認可され、誰にも咎め立てされる事はない筈でした。

「ない筈でした」と言いますのは、人の世界ではそうであったかもしれませんが、神様の目にはそうではなかったのであります。それは、前回までにお話ししましたように、神殿関係者と業者とは大きく癒着しておりまして、利害関係がしっかりと結びついていたからでありました。

ですから、イエス様は、少し手あらでありましたけれども、宮清めをされたのでありました。祭司長や民の長老たちは、神に仕えながら、人の権威により頼んでいた訳であります。表向きは、外国から来た人たちに対する配慮、国内でも遠くから来た人たちへの配慮をしているようで、実は、そこには、利害関係が大きく絡んでおりました。
収入の一部、両替の一部は、神様とは関係のない所に流れていたのです。

つまり、真の神に対する本当の配慮が欠けていた。そう言っても過言ではなかったでしょう。真の神様は、本当は何を喜ばれるのでしょうか。真の神様とは、どんなお方なのでしょうか。その事を正しく知っておかなければならなかったと言えましょう。

ホセア6:6には、こう書いてあります。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とです。

あるいはまた、詩篇51:17には、
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。

あるいは更にミカ書6:8
「主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とであります。

真の神の正しい意図を知ろうともしないで、ユダヤ教における制度上の権威を大切にし、専門家ラビの教えに忠実であろうとした。そこには、真の神様の求めておられる事とには、大変大きなギャップがあったのでした。

ところで、祭司長や民の長老たちの質問には、ただ単に、自分たちの規則に従っていないではないかと言うことを言いたかったのではなく、実はイエス様を訴える口実を得るためにしかけた罠でありました。

あまりにもイエス様に人気がありすぎるものですから、このままではいけないという焦りというものがあったからです。ですから、その焦りを見抜かれたイエス様は、逆に質問されたのでありました。

24、25節でこう言われております。
「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。
もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」とでありました。

これには、祭司長達、民の長老たちも慎重に応えざるを得ませんでした。
なぜなら彼らは、バプテスマのヨハネの働きをよく知っていたからです。

人々は、バプテスマのヨハネの事を聞きますと、ヨハネからバプテスマを受けようと、
彼のもとに大勢行っていたからでありました。それは、人々の心に神に対する飢え湧きがあった衝動と言うより、神の挑戦に応えるべく、罪を責められ、悔い改めを求めての行動であった訳でありました。

とはいえ中には、マタイの3章で見ましたように、「パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見ましたので、そのとき、ヨハネは彼らにこういったものでした。

「まむしのすえたち。
だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」とです。

ですから、反キリスト勢力もその中にいたのでした。
彼らが、バプテスマを受けたかどうかは分かりませんが、彼らこそ、本日でてきました祭司長や民の長老達の立場を取る者たちであったといえましょう。

イエス様の質問は、彼らの質問を上回っていました。
なぜなら、彼らに「分かりません」と言わしめたからです。
本当に分からなかったのでしょうか。
そうではありませんね。
ちゃんとそこには、計算が働いていたのであります。
イエス様は25節でこう言われました。
「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

すると祭司長、民の長老たちは、互いに論じ合います。
「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」

これだけ、状況を正しく受け止めながら、なぜ、イエス様の行なわれたことを受け入れようとしないのでしょうか。これは、一旦否定する側についたなら、それは、もうなかなか変えられないという事でしょうか。

一旦、イエス様が嫌いになったならば、もう、何が何でも嫌いであり、いや待てよ。これは考えるに値することだな、とはいかないものなのでしょうか。ある先生は、こんなことを例にあげておられます。

「人は、すべての物体に慣性(あるいは惰性)の法則がある事知っています。質量の重い物体ほど、一度動きだせば、それだけ長く同じ運動を続けます。しかし、重さのない人の心にも惰性があることは、朝寝坊の習慣が直らないとか、夜更かしの癖を直せない、というような小さな体験からも分かります。

人は一度、イエスはメシヤではあり得ないと決めてしまえば、たとえ、ヨハネが天からだと思える節が出て来ても、たとえ他人が悔い改めた素晴らしい革命を目撃しても
その考えを変えようとはしません。この惰性通り自分の主義主張に固執して進んで行く事は、どんなに初めは不信仰な出発をしても途中で悔い改める人と比べれば、はるかに悪質であります。

罪人の理性は、「ずるい」、そればかりか貪欲である。もっと悪い事には、それには惰性がある。その理性を変えなさい、魂の惰性を止めて方向を転換しなさい。キリストは、そう呼び掛けておられます。その方向転換をするのに遅すぎる、ということはない。・・・」というふうに、であります。

この朝の祭司長や長老たちのかたくなな態度、一旦、イエスを敵とみなしたならば、
決して変えようとはしない。いいえ、むしろますます心がかたくなになって行く。
それは、まことに残念と言わざるを得ません。

今年の夏、一日夏期修養会で「モーセと旅をする」という主題で、モーセの120年の生涯を見てきましたが、モーセは、その生涯の終わりのころにこう言っておりました。

申命記8:6−7節ですが、
「知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。」と、そう書いているのであります。

昔からイスラエルは、真の神様に選ばれながら、その歩みは、教えに逆らってばかりでありました。

イエス様の時代も、全く変わっていませんでした。
ですから、祭司長、民の長老たちが質問しても、イエス様は、それにまともには取り合われなかったのであります。彼らの言う「わかりません」というのは、無知を装った分かりませんなのでありました。

本当に分からないのではない。
正しい答えをもちながら、それを言うと自分たちの立場がない。
立場が無くなってしまう、それほどの威力のある質問を、自分たちでイエス様にしておきながら、「わかりません」で通そうとするのです。

自分たちで仕掛けた罠に、自分たちがはまりそうになる。
彼らが慌てたのは言うまでもありません。
イエス様は、彼らの思いを十分すぎるほど読んでおられました。
ただ、今の時点で、彼らと正面から争う事は、十字架を早める事であり、それは御心ではありませんでしたので、

イエス様はこう言われたのであります。
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」とでありました。

私達は、ここで、大切にしたい事があります。
それは、イエス様と直接話す事の出来る人に対しては、いつでも、自分が変わるチャンスを与えておられるという事です。いろんな人がイエス様を尋ねてきました。それは、病気を直してほしいと願う人、永遠の命がほしいと願った人、人は老年になっていて、どのように生まれる事が出来るのか、そう尋ねた者もいました。

彼らはみな、好意的でありました。
しかし、そうではない人たちもいた訳です。
その彼らはいつも、罠を仕掛け、訴える口実を探し回っていたわけでありました。
しかし、それでもイエス様は、決して拒否的で、全く受け入れない事はありませんでした。

イエス様が、間違いを示された時、それに気付いた人が、「ごめんなさい。間違っていました」と言うのを待っておられたのです。そしてそのように変ればよかったのです。

イエス様が人々に求めておられる。
その姿勢は、昔も今も全く変わりません。
この事を、全ての人が知るべきでしょう。

イエス様はいつも人々が、自分の間違いに気付き、悔い改める事を求めておられるのであります。イエス様は、罪を激しく嫌われます。
神に背く事は、決して許されることではありません。

しかし、罪を認めてイエス様のふところに飛び込む者には、人が考えている以上の愛をもって臨んで下さるのです。それが、救い主イエス様なのです。

姦淫の罪を犯したと言われる女性をイエス様の前に突き出し、
どのように裁くか、イエス様を計った事がありました。
その時、イエス様はこう言われました。(ヨハネ8:1-11)
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と。
すると、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」と言う事もありました。

この時のイエス様を訴えようとした人たちは、実に、自分の罪と真正面に向きあい、そして罪を罪として認め、女性に石を投げる者はいませんでした。
これほど見事に大勢の人が、それも悪意に満ちた人たちが自分の罪を認めた例は、なかなかないのであります。

人の前に無知を装う事は誰にでも出来るでしょう。
「わかりません」ということはできるでしょう。
しかし、その言葉の裏にある思いを神様は全てご存じである、その事を、私達はいつも確認したいものです。そして、人の前にも神の御前にも
「無知をよそおう」ようなことはしないようにしたいものです。

私達は、神様を試みてはならないのです。
そうではなく、罪を罪として認めて、主のふところに転がり込む事がどんなに幸せであるか、改めて確認しようではありませんか。

イエス様が、私達の全ての罪を背負ってあの十字架にかかって死んでくださった、
その事の意味をしっかり覚え、こんなに弱い者でも主は救って下さったのだという、
恵みによって、歩ませていただいていることを感謝しようではありませんか。

人の権威が神の権威の上にある事は決してありません。
私達は生涯、罪を犯します。
それは、避けられない事です。
しかし、罪を罪として認め、神の御前に悔い改め、正しく歩もうとするなら、
私達の人生は神との平和を保ち、幸いを頂く事が出来るのです。

2013年10月20日(日) マタイ21:28-32  「心を変えて」  竹口牧師

イエス様は、エルサレムに入城をなさり、ベタニヤで夜を過ごし、その朝の出来事でしたが、イチジクの木を枯らすことをされました。それは本来、イチジクは、実がなるのと葉が茂るのとが同時なのに、そのイチジクの木は、実がなかったからでした。
ですから、それはまさしく、選ばれたイスラエルが退けられる、そのことを意味しておりました。見せかけだけの信仰では駄目であるということです。

イエス様がエルサレムに入城されてから三日目の朝の事ですが、イエス様は、宮に入って教え始められました。群衆は、イエス様のエルサレム入城を歓迎したものの、エルサレム当局は、イエス様を危険視しておりました。

そんな時、なかなか宮に入って教えるというのは、大変勇気が必要であったと私は思うのであります。しかしイエス様は、いつものように教え始められたのでありました。
案の定、祭司長、民の長老たちがやって来て質問をしました。

イエス様のしていることは、何の権威によってですか、とでありました。
しかし、イエス様はその質問には答えられませんでした。
それどころか逆に質問をされ、それに答えれば自分も答えるし、もし答えなければ、自分も答えないようにされました。

そして、その質問はまさに、イエス様が何者であるかを明確にするものでしたので、彼らは、人々の目をはばかって、答えませんでした。そしてイエス様もまた答えられなかった、という所で先回は終わりました。

そして今日の所では、大変分かりやすい一つのたとえ話をされたのでありました。それは祭司長や民の長老達の行く末を暗示するものでした。先回の所では、イエス様は、質問された事に対して質問され、体をかわされましたが、それに対して祭司長や民の長老たちは、別に機嫌を悪くする事はありませんでした。それどころか、今回の場合、イエス様からの質問に彼らは素直に答えるのであります。

実際の所イエス様の質問は、非常に易しいたとえでありましたし、その意味する所を深く追求しなければ、自分たちが傷つく事はなかったのでありました。ですから、易しい質問だとばかりに答えたのでありました。たとえは、こんな話でありました。

「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。
ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」というものです。

人の心というものは、コロコロと変わるものです。だから、心というのでしょうか。その時その時に、正直な気持ちで答えていても、いざその時が来れば、状況は変化していますので、実際は、約束もまた変る事もありうるのであります。

では、その時その時に正直に答えているならば、その後の事は、またその時に考えればよい。果たしてそういう考えで良いのかという事になりましょう。場当たり的で、約束を守らない。「イヤアー。あの時は真剣に考えて返事をしたけれど、状況が変わってね。ごめんよ」とか、「すみません」とか、「申し訳ありません」とか、謝るしかないというものなのでしょうか。

そういういい加減な人と、大切な約束を皆さんはするでしょうか。
少なくとも私はしたくないですね。
出来たら、お付き合いも遠慮したいものです。

ところで、人生、初めはどうだっていい。
終わり良ければ、全てよしなのか、ということであります。
これは、よくよく考えなければならないことであります。

始めも真ん中も終わりも全てよしというのは、一番いいのですが、人生、なかなか思うようにはいかない。だから、苦労が付きまとうのであります。そして最終的に死の時を迎え、その人にとって、本当に人生良かったのかと考えさせられるのです。勿論、最終的には、よしで終わる事が大切である事は、言うまでもありませんが、皆さんの人生、どのように進んでいるでしょうか。

さて、きょうの話しには、兄と弟が出てきました。そして、結果がはっきりと分かれる話しであります。ですから兄は誰を指し、弟は誰を指すか、これは重要な点です。

実はこの話しは、ユダヤ人か異邦人かの区別ではありません。
目の前におられるイエス様を、神様が遣わされた御子であると、そのように認める事ができるか、それとも認められないのか、この二つのグループに分けられるのであります。

神の御国は、もともとユダヤ民族に約束されておりました。
ところが、次回見る事になるのですが、同じマタイの21:43にありますように、彼らの不従順さのゆえに、イエス様を主と仰ぐ他の人たちへと変って行くのであります。
ですから、兄の側につくのか、弟の側につくのか、非常に大切なのであります。
ところで、今ここでイエス様がなさっておられる事は、祭司長、民の長老たちを陥れようとされているのではなく、むしろ、彼らが自分たちの間違いに気付き、天の御国に入れるようにという思いから質問されているのであります。ですから、明らかに今回のたとえは、易しいものです。兄は約束を破り、弟は心を変えて父の願いに応えた、そういうものでした。

もう少し、このあたりの言葉を見て見ますと、28節で二重『』の所に米印がついております。そしてそれを欄外注で見て頂きますと、「原文に『子よ』という呼びかけ語がある」とあります。あるいは、29節の二重『』の中は『行きます。おとうさん』とありますが、欄外注には「おとうさん」というのが「主よ」となっている事が分かります。

つまり、ここの対話は、主従関係がはっきりしているという事です。
そしてそれは、古代のユダヤ人社会では、父親の権威は絶対的で、それに反抗する事は許されなかったそうです。父親に対して子は逆らえないということであります。

ですから29節で兄は、父親に「行きます。主よ」と答えているのであります。
最初は父親の言う事に従う気持ちが兄にはあったのか、
父親には逆らえないのでそういったのか、分かりません。
そして、何が理由でいけなかったのかも分かりませんが、
がしかし、何はともあれ、行かないですっぽかしたわけであります。
これは、非常に大きな罪でありました。

一方、では弟はどうかと言いますと、『行きたくありません』と、親に逆らうような、あるいは無視したような恐ろしい言葉を言ってのけたのです。それに対してその時の父親の反応は書いてありませんが、随分、思いきったことを言えたものだと思います。

父親は、私の育て方が悪かったのかなあと考えたかどうか、
そういうところまで、たとえですから何も書かれていません。
少なくとも弟の言動は、明らかに面と向かっての反抗です。
言ってはいけない、してはいけない事をしているのです。
でも弟は、「あとから悪かったと思って出かけて行った。」とあり、
反省の色を見せております。

さて、この二人の行動に対してイエス様は、31節で、
「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」と問われました。

この質問に対して恐らく祭司長、民の長老たちは、我先にと答えたのではないかと思うのです。まさか、自分たちのことがそのたとえの中に入っているとは思っていませんから。

「そんな簡単な質問くらい分かるわい」という感じでしょうか。
何しろ彼らは23節の所では、質問を用意して来ていたのですから。

「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
そう言ってイエス様を攻撃する為にやって来た彼らだったからです。

しかし、彼らは気付かないうちにイエス様のペースにはまっていた。その事に気づいていませんでした。そして、イエス様の質問に素直に答えている。しかも得意そうであったのではないかと、少なくとも私にはそう読めるのです。

話術と言うのでしょうか。不思議ですね。
人の心を読まれるイエス様は、相手がいきり立ってやって来ても、ひょいと体をかわされる。そして、その彼らの勢いを利用して逆に質問をされる。これは、実にイエス様らしい会話だと思います。

イエス様は、彼らの思いを自分の手の内に引きこんでおいて、ご自分の言いたいことをさらりといってのけられる。まさにイエス様だからこそなせる業ともいえましょう。

まあ、この世には言葉を巧みに使い分け、こう言えばああいう。ああ言えばこういうという人がいない訳ではありません。

しかし、話しがいくら巧みであり上手であっても実体の伴わない人からはやがて人は去っていくものであります。そういう意味では、イエス様は、決してそうではありませんでした。むしろ話せば話すほど、どんどん人が集まってくる状況でした。

それだけに、祭司長や民の長老たちは、イエス様の行動を、そのままにしてはおけないと焦っておりました。イエス様は、そんな彼らに例え話が何を意味するかを
次に明らかにされるのであります。

31節「二人のうちどちらが、父の願った通りにしたのでしょう。」彼らは言った。『あとの者です。』」イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。』」とです。

なぜですか。
どうして「取税人や遊女たちのほうが、・・先に神の国に入っているのですか」と問いたくなるでしょう。

それは当然であります。
取税人や遊女たちというのは、当時のユダヤ人たちには嫌われていました。
彼らこそ罪びとであり、神様に愛される資格などない、そう思っていた人たちでありました。つまり、例えで言いますと「行きたくありません」と言った弟の側なのです。

でも、その弟は、「あとから悪かったと思って出かけて行った。」のでした。
つまり、弟は悔い改めたという事なのです。
イエス様が求めておられるのは、実は、正にこの事でありました。
何よりも一番大切にしておられる事なのです。

人は、まっすぐに生きたいと考えます。
しかし、自分の内側に弱さがあり、外には誘惑、落とし穴がいっぱいあって、失敗するのです。間違いを犯すものです。それは、誰も避けられない事なのです。

だから、罪を犯しても良いと悪を正当化している訳ではありません。悪い事は悪いのです。してはいけない事はしてはいけないのです。人を殺してもいけないし、盗んでもいけないし、妬んでもいけないし、姦淫してもいけないのです。

しかし、それを悪い事、罪として認めなくなったら、その人はもうおしまいです。
罪を犯して痛みを感じる所に、まだ立ち直る可能性があります。
だから取税人や遊女たちは、悔い改めたのです。

一方、ではあなた方はどうかと言って、
はっきりと「あなたがた」と面と向かってイエス様は言われるのです。

32節「あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。
しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」とです。
ここに大きな違いがあると言われます。

取税人や遊女たちは、確かに罪人でした。
遊女は別としまして、取税人の中には、まじめにローマの指定された税金を集め、まじめに手数料をもらっていた者もいたでしょう。

しかし、概して誘惑の多い仕事であったでしょうから、悔い改める者も多くいたのでありました。
もう一度いいますけれども、ここで大切なのは、悔い改めたかどうかなのです。
人の罪を見て責めるだけで、自分には罪がないと思いこむ事、
ではないのです。

自分の罪に気付く事なのです。
確かに人の罪は、よく目につきます。
しかし、その目をもって、自分を見なければならないのです。
もっと正確に言うなら、みことばによって自分を見るのです。
祭司長や民の長老たちは、イエス様の所にやってきました。
そして質問しました。

「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
あなたは、勝手なことをして、この町を乱しているとでも言っているような質問でありました。

しかし、本当にイエス様の行動はそうだったのでしょうか。
当時の宗教指導者たちの間違いを正し、真の神に立ち返るように勧めておられたのではないでしょうか。体裁だけ整え、「行きます。おとうさん」というだけで、実行が伴っていない兄、一方、「行きたくありません」と言って勝手なことを言った弟。
しかし、弟は悔い改めたではありませんか。

あなた方は、取税人や遊女たちがヨハネを信じたのを見ながら、「あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」とイエス様は言われました。
イエス様は易しいたとえで、しかも言い逃れのできない言葉で、迫っておられるのです。

ところで、私達がここを読んで、この話しの中に、非常に危険なところがある事に気付かなければなりません。それは、自分の立場を弟の側に置いて兄を裁く事です。取税人や遊女の側に立つ事はあっても、祭司長や民の長老たちの立場にはあまり立とうとしないからです。

私達は、イエス様からほめられる事は期待しても、責められる事は期待しません。それは嫌なものです。しかしながら、イエス様は、この朝、ここにおられる皆さんに対してイエス様が良いとされている弟の立場、取税人や遊女の立場に立つことを求めてはおられません。

むしろ体裁だけ整え、「行きます。おとうさん」と言った兄の立場、祭司長や民の長老たちの立場に立つことを求めておられます。そして、弟のようになる事、取税人や遊女のようになる事を求めておられるのです。

つまり、あなたは悔い改めたのだから、もう今のままでいいよ、ではなく、
もっともっと自分の弱さに目を向けて、罪ある自分の姿を目にしながら、
イエス様にしか、この私のような罪びとは救えない。
否、救って下さったのだという感謝へと導かれなかったなら、
イエス様は、決して喜ばれないという事であります。

上から目線という言葉がありますが、罪人を見下げる心ではなく、まさに自分が罪びとである事を認めて、イエス様にすがることであります。
もしそうでなかったなら、イエス様が言われました言葉、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)という言葉が成就する事になるのです。

それ故に、まず自分の罪に目を向け、イエス様にすがることを忘れないようにしようではありませんか。
私達は天の御国に到着するまで、罪を犯すことから逃れることはできません。
それ故に、悔い改めの心を与えられ、心を変えられ続け、神様の喜ばれる歩みにしてくださることの幸いを何度も何度も味わい、確認し、天の御国を目指して歩ませていただきましょう。


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