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2013年11月10日(日) マタイ21:33-46  「罪示されても」  竹口牧師

イエス様が今回、エルサレム入城を果たされたのは、ご自分が十字架にかかる時が近づいたことを悟られたからでした。それは即ち、その時が、刻一刻と近づいていたという事でもあります。イエス様は、そういう危険を感じつつ、宮に入り、話しをされたのでありました。

そこへ、祭司長、民の長老たちがやって来て、彼らはイエス様に質問をした。
しかしながら、イエス様はそれにはお答えにならないで逆に質問をされ、それだけでなく、たとえをもって彼らに迫られた。きょうは、そういう流れの中の続きであります。

イエス様はそこで二つのたとえをされたのですが、その一つを先回見た訳でありました。ある人に二人の息子がいて、その人が兄の所に来て「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と言いますと、兄は「行きます。おとうさん」と答え、弟にも同じように働くように言った所、不遜にも弟の場合は「行きたくありません」とはっきり断った。

しかし、結果はどうだったかと言いますと、行くと言った兄のほうは、仕事をすっぽかし、弟のほうは、悔い改めて出かけて行って父の願いどおりにした、そういう話でありました。

このたとえは、非常に良い悪いがはっきりしていまして、弟はよいが兄は悪いという同じ結論を大体の人が出すのですが、この話しを、自分の事として置き換えなければならないのに、なかなか私達は、そうしないと申し上げました。また、たとい置き換えたとしても、自分は弟であって、兄ではない、そういう思い込みを持ちやすい所に問題があるのであります。

もしかして、これって、私は兄のような、父である神を裏切っているのではないか、
そのように感ずるなら、それは、とてもよい霊的な感覚であると私は思うのであります。ですから、これは当時の祭司長や長老たちだけの問題ではなく、すでに救われている私たちもまた、彼らとは違った視点で、このたとえは、読んだ方が良いように私は感ずるのであります。常に私達は、神様の御前に悔い改めて、謙遜に神様の御心を行なうものとされたいものであります。

ところで、きょうのたとえは、非常に残酷なものであります。
仕事に行った、行かなかったというような軽い話しではなく、人の生き死にがかかっている話しであります。

ひとりの家の主人がぶどう園を作っていて、農夫たちに貸して旅に出ます。そして、収穫の時が来ましたので、主人は、自分の分を受け取ろうとして、農夫の所に使いを送りました。しかし、その使いに対して彼らは、非情な扱いをしました。袋叩きにし、殺し、石で打ったというものでした。

そこで、もう一度更に多くの別のしもべたちを遣わしましたが、扱いは同じようなものでした。そこで、主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、送りだしたら、とんでもない事でありまして、その息子は跡取りだから殺して、跡取り息子の受ける財産を取ってしまおうと言いだしまして、実際にそうしてしまったという話しであります。

この場合のぶどう園の主人は帰ってきたらどうするだろうか、そういう問いかけで終わるのであります。そこでこれを聞いた祭司長、長老たちは何と言ったかと言いますと、

41節「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」と、そう言ったのでありました。
恐らく、非常に突飛な考えでももたなない限りは、つまり普通の人であるなら誰でもが考える答えではないかと私は思うのであります。

恐らくぶどう園を預けた主人は、農夫たちのやったことに対して情け容赦なく殺し、別の農夫に貸すに違いありません。そういう意味では、祭司長たちの考える事は、間違っていないでありましょう。

ところで、わたしは、このたとえを読みます時に、旧約時代に王として活躍しましたダビデのしたことといつも重なってくるのでありますが、皆さんはどうでしょうか。
もしかしたら、私だけかもしれませんが・・・。

ダビデのした事と言いますのは、彼は、若いころには先代の王に仕え、そして苦労して王となったのでありましたが、彼は、してはならない罪を犯したのでありました。それは、優秀な部下の一人の男の妻を横取りした事であります。それだけでなく、部下にも手をくだし、自分の犯した罪を隠すために殺してしまいました。

そこで神様は預言者ナタンをダビデの所に遣わされるのであります。
預言者ナタンは、ダビデの犯した罪を指摘するために、一つのたとえで話しました。
そしてそれは、こういうものでありました。

「ある町にふたりの人がいました。
ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。
富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊の他は、何も持っていませんでした。

子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。

あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。
彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」という話しをしました。

すると、その話を聞いたダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、
預言者ナタンにこう言ったというのであります。
「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」とです。

そこで ナタンはダビデに言いました。「あなたがその男です。」
『あなたこそがその男ですよ』
まさかダビデは自分の事を話されているとは思いませんでしたので、本気で怒ったのでありますが、それがまさに自分であるとは、言われて初めて気が付いたのでした。
(Uサム12:1-15)

この話しで、私が特に注目したいのは、預言者が王に忠告をするとは、どう言う事かという点です。これは預言者としては当然の義務であり、また責任でもあります。

しかし、それはまた、自分の命にも関係する大きな仕事であります。それだけに、あからさまには言わないようにしたい。預言者としては、そういう誘惑に陥るのであります。できたら、王の機嫌を損なわないようにしたい。そのように言いたいという思いが働きます。

しかし、ナタンは、ダビデに向かって、「あなたがその男です」とはっきり言いました。
一方、ダビデは「そんな男は死刑だ。雌の子羊を4倍にして償わなければならない」と言いました。

例え話を聞きますと、その話はよくわかります。
良い人、悪い人、可哀そうな人、憐れみをかける必要のない人、明白になります。
しかしその時、自分がまさか、悪い人の立場であり、憐れみをかける必要のない人であるとは思わない。ここに、大きな問題があるのであります。

長い歴史の中で、たとえば預言者エリヤはどうだったでしょうか。北イスラエルの王アハブと対立し、王妃イゼベルに睨まれ、命を狙われ恐怖におびえて逃げだしました。
また、預言者アモスは、北イスラエルの王の行く末を預言し、ベテルの祭司アマツヤによって二度と預言するなと脅されました。(アモス7:10-17)

あるいはまた預言者エレミヤは、捕えられ穴に放りこまれました。(エレミヤ38:6)
更に予見者ハナニは、自分の預言した事が王に気に入らず、王を怒らせたために足かせをかけられました。(U歴代16:10)更に祭司エホヤダの子ゼカリヤは、(U歴代24:17-21)。王を主に立ち返らせようとしましたので石で打ち殺されました。

というように、王によっては、その預言者を首にし、自分の都合のいい事を言ってくれる者を預言者として他は殺すか、退けるかそういう事をして来たのでした。でも、ダビデは違っていました。

預言者ナタンが、はっきりとダビデの罪を指摘した事に対してダビデは、あっさりと罪を認め、悔い改めたのでした。実は、私が長々と預言者の話しをして来ましたのは、次のような理由があったからであります。

一つは、自分の罪は、誰かに指摘されないと分からないという事。
もう一つは指摘された時、それを素直に受け入れられるかどうかという事であります。

さまざまな預言者の例をあげましたが、ダビデは自分の罪をはっきりと認め、その罪から逃げませんでした。それでは翻って、きょうの聖書箇所に戻りまして、
祭司長、長老たちは、イエス様の例え話を聞きながら、どういったでしょうか。
41節の言葉を彼らは言ったのでした。

「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

そうなのです。まさにそう主人はするのです。
では、その悪党どもが誰か、先回の例えに当たる兄にあたるものは誰なのか、
もしかしたら自分たちではないか。更には、自分たちが間違っていたというようには、
なかなかいかないということであります。

パリサイ人たちがイエス様の話しに自分の事として気づくのがどの地点であったかわかりませんが、少なくとも45節には、こう書いてあります。
「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらの例えを聞いたとき、
自分たちをさして話しておられることに気づいた。」とです。

実は、お分かりのように、ぶどう園の話しでイエス様の話しは終わっていないのです。
更に42節から44節まで話しが続くのです。そうして初めて、45節の状況となるのであります。では、42節以下でイエス様は彼らに何を言われたのでしょうか。
こう書いてあります。

「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさった事だ。私たちの目には、不思議な事である。』と言われました。

そして今お読みしました所の二重『』に入っている箇所は詩篇118:22-23節の言葉の引用でありました。イスラエルの家は、言うまでもなく木造ではなく石造りであります。従って、石をいくつも積み重ねて建て上げるのでありますが、やはりそこには、建築の専門家がおりまして施工する訳です。

しかし、その専門家が見誤っていらない石として捨てた石、それが、実は最も大事な場所を占める「隅の親石」であり、それがなければ建て物が建たない事に、その専門家は気付く。そういう事であります。

イスラエルに行きまして、その石造りの建物を見ながら、この部分があの聖書に言われている「隅の親石」ですといわれ、ふーんと納得したものです。確かにそれがなければ、すべてが崩れてしまう、そういう位置にありました。つまり、律法学者たちの解釈とは根本的に違っていて、あなたたちは、間違った解釈の上に立っているとそのようにイエス様は指摘されたわけでした。

あなたたちは、新しい神の宮を建てる時、一番大切な、そして基礎になるべき石を、見抜けないで捨ててしまった。そういう建築士だと言われました。
しかも、それだけに終わりませんで、43節「だから、わたしはあなたがたに言います。
神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」とそう言われたのでした。

つまり、最初のほうでは、祭司長や民の長老たちを裁かれ、あなたがたから信仰が取り去られ、新しい民族が神の支配に入れられるようになる。そういう新しい時代の到来となる、そのように告げられているのでありました。
ここで、私達は確認するまでもない事ですが、イエス様は、何もパリサイ人や律法学者たちを排斥してしまおうとされておられた訳ではありません。彼らが、自分たちの間違いに気付いてほしかったのでした。だから、例え話をされた訳です。

しかし、かれらは例えで、自分たちがその中に入っている事に、どうも、気付いていなかった様に私には思えるのです。それは、誠に残念な事でありました。イエス様の思いは一つでありました。それは、神がご自分のひとり子をお遣わしになり、その遣わされたひとり子イエス様を受け入れるように。そのために、私は遣わされているのだよということでした。

このことを、色々な所で、ある時は奇跡で、またある時は話しで、説明して来られたのでありました。しかし、祭司長、パリサイ人、長老たちは、それを受け入れようとはしませんでした。それどころか、敵意をむき出しにするのであります。

ただ、群衆がどうも気になって仕方がなかった。群衆に支持されないようでは、自分たちの命が危ない。そこで、イエス様に対する行動を抑えていたのでありました。ここで、私達は、父なる神様がイエス様を通して語って来られた事、そのことを、もう一度確認しておきたいのです。そして、その命令にお従いしたいと思うのです。

神様の言われたのはこうでありました。「自分の罪に気付きなさい。謙遜になりなさい。あなたの主を心から主と認めて、主に立ち返りなさい。私が遣わした子どもに従いなさい。」ということなのです。

父なる神が愛をもって働きかけ、最後の使者であるイエス様を遣わされたのに、それに対して、殺すことを決意した人たち。例えを聞きながら、一層その殺意の思いが強く確信となって行った。これは、神様の御前に罪に罪を重ねている事なのです。

たとえ話は分かりやすいのは当然です。分かりにくいとするなら、それは、たとえにはなっていないのです。でも、例えが分かっても、何にたとえられているのか、それを読み違えたなら、何の意味も持ちません。

イエス様が、分かりやすく話して下さっているそのたとえから、私達は、今の信仰のあり方が間違っていたと気付かされたなら、それを今からすぐに変えて行く必要があります。少なくとも私達は、イエス様によって救って頂いた者です。真理が分かるようにされている者です。

それだけにイエス様が指摘されている人の罪深さを祭司長やパリサイ人の内に見るだけでなく、私たち自身を振り返ってみて、同じ間違いをしないように、そして、主の喜ばれる道をひたすら歩むよう教えられます。罪を示されて他人事のように思うのではなく、自分の事として受け止めると共に、姦淫の場で捕えられた女性にかけられたイエス様のおことば、
「わたしも、あなたを罪に定めない。
行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません」
というイエス様のお言葉を思い出し、罪に定められないで、否、罪赦された者としてここから遣わされて行こうではありませんか。

2013年11月17日(日) マタイ22:1-14  「選ばれし者少なし」  竹口牧師

この朝は、マタイ22章に入るのですが、先回見ました21章最後の所45,46節で、「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」とマタイが書いているほど、敵対している状況で先回は終わっていました。
ですから、そういった話しの流れの続きで今回は見る事になります。

この朝は、王子のために結婚披露宴を設けた王の例えでイエス様は話されます。
そのたとえの後、15節以下でエルサレムにおける宗教指導者たちとの論争が始まります。従って、きょうはまだ、彼らは黙ってイエス様のたとえを聞く所であります。

今回は、その論争になる前に、それに先だって神に招かれる者は多いが、救われる者は少ないという事をたとえで言われる所でありまして今日の最後の14節に書かれております。

結論を私は、一番最初に今申し上げましたが、これは非常に大切な真理でありまして、聞き流してはならないものであります。なぜなら、招かれながら救われない人がいる。これは、非常に残念な事だからです。

つまり、様々な人を通して、神様に招いてくださっても、そこを素通りする人がなんと多いか、ということ共に、逆に、招かれて、選ばれた少数の神の民とされた人は、何と大変な光栄に与っているか、という事を指すからであります。

これは即ち、神の憐れみによって救って頂き、神の民として永遠のいのちを頂いている方は、大変な恵みをいただいているのだということを、改めて自覚し、感謝してほしいのであります。

単に例えの意味を知るだけでなく、まさに、王の息子の婚礼に招かれ、喜びの輪の中に入れて下さっているという事実は、自分の力は全く関係なく恵みに与れたという事でもあります。

前置きはともかく、具体的に、今日の所に入って行く事にします。
1節「イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。」とありまして、先回までに、2つのたとえを話された。その事を指しております。そして次に2、3節を読んでみますと、2節「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」とあります。そして3節「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」と、そういう風にあります。
その当時の結婚披露宴の事を申し上げますと、まず前もって招待状なり、知らせなりをしておいて、準備ができるまで待ってもらう、というのが一般的でした。そして次に、祝宴の準備が整いますと、しもべを遣わし、実際に来てくれるよう客を呼ぶというものでした。ですから現代のように、披露宴の時間の指定などありませんでした。

王の息子の結婚披露ですから、次のカップルが待っているので、時間を押さないようにとか、次の予定がありますので、お急ぎくださいなどという事はこの場合ありません。昔は優雅に時間配分されておりまして、ゆったりとして行なわれていた訳でありました。

ところで、開始時間はともかくも、今3節を読みましたように、このたとえでは、「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」というのであります。

人が集まってこその祝宴であります。それが、どうも、どいつもこいつも理由をつけて来ないという。もてなしが悪いからかというと、実はそうでもない。4節を見ますと「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と言って披露宴としては申し分ないもてなしの準備だった。そういっていいでしょう。

しかし、招かれた人たちは「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」とまであるのであります。

最後のほうの「殺してしまった」などというのは、大変穏やかならぬ事でありました。これはどうも、もてなしがどうのこうのではなく、王に対する反感があるようにも思えてきます。

ところで、では、そもそもこのたとえに出て来る登場人物の中で、誰が誰を表しているのか、それを考えて見る必要があります。

たとえば「王」というのは誰か。これは神様を表しております。
次に王子とは誰か、これはイエス様のことであります。
そして披露宴とは何か、これは神の国のことであります。
また、「招かれていた人たち」とは、ユダヤ人のことを指しております。
そしてここで、結婚の披露宴の用意の全てのことを考えて見ますと、
一手に神が引きうけて下さっているのであります。

つまり、神様はまず「客」を招かれ、実際の披露宴の時刻になりますと、しもべを遣わし、断られても、他のしもべを遣わすという、そういう熱心さと寛容、忍耐をもっておられました。先回見た例えもまったく同じでありました。

しかしながら今回は、それだけでなく、実はそれとは違った面が含まれていることに気づかされるのです。それは、ぶどう園のたとえでは、ユダヤ人は働き人でありましたが、今回は婚宴に招かれた客であり、ユダヤ人は飲み食いするだけでよいのであります。

あるいはまた、ぶどうの収穫は、毎年訪れるのに対して今回の結婚披露宴は、ただ一度限りのものでありました。ですから、二度とない招きであった訳でありました。それだけに、神様の招きは、熱心でありました。しかし、招かれた人たちは、それに対してどんな行動を取ったかと言いますと、先ほども見ましたように、まことに自分勝手な行動を取ったのでありました。

もう一度5,6節を読みますが、
「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」そういう状況でありました。これは、どう考えてもひどいですね。

ですから、王の心が激しても当然でありましょう。
招待を無視したのは、ユダヤ人でありました。
十分なもてなしの準備をし、しかも、ただの一度しかない誘いを断り、自分勝手な行動に彼らは出たのでありました。彼らは、神の民、選ばれた者として優先的に救いに与る特権を与えられていました。

それにもかかわらず、彼らは神の遣わされたしもべを捕まえ恥をかかせ、そして殺し自分たちは畑に、商売にと自分勝手な行動をとったのでありました。ですから、王の怒りは尋常ではない事が7節にでております。

「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」とあるほどであります。王の怒りは、当然と言えば当然でありましょう。

もう一度7節の終わりのほうを注意深く見て頂きたいのですが、「彼らの町を焼き払った」とあるのであります。ただ王が遣わしたしもべを殺した者だけを殺したのではなく、町全体が怒りの対象となったということであります。

昔、神様がソドムとゴモラの町を滅ぼそうとされた時、アブラハムは、一生懸命とりなしをしました。神様は義なる方なので、正しい者と悪い者とを一緒に殺される筈はありませんよねと言いました。もし、その町に50人の正しい者がいたなら、否、もしかして40人かもしれません。いやいや30人かもしれません。そして最終的には10人の正しい人がいたなら…と言いました。それでも、悪い者と一緒に良い人も殺されるのですか、そう、アブラハムは問いかけたのでありました。

すると、神は「滅ぼすまい。その10人のために」とそう言われた箇所が創世記18章にありますけれども、そして結局は、それさえもいませんでしたので、結局は、ロト一家だけを救い、他は焼き払われたのでありました。

ですから今回の例えに出て来る「彼らの町を焼き払った」というたとえは、神の非常な怒りを表しているのであります。そしてこのたとえを、今、イエス様の時代から遡って考えて見ますと、どうも、思い当たる節があるのであります。

選民イスラエルと言われた彼らユダヤ人は、旧約時代に、神の言葉の伝達者である預言者を迫害し、また殺したりして、神の招きを無視した事がありました。そしてそんなかたくなな態度を貫いたために、ユダヤ人たちは、ついには外国人の手によってある者は殺され、またある者は、捕囚として外国に連れて行かれました。

一方、エルサレムの町はどうかといいますと、当然ながら預言者という人に対するのと町に対するのとは違いはありますが、略奪され、神殿にあった高価な物はみんな持って行かれました。そして次から次に外国の支配下に入るのであります。北はアッシリヤ帝国に、南はバビロン帝国というように、外国の支配に任せられました。

更には、何とイエス様の時代に至るまでには、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下へと移って行ったのでありました。ですから、イエス様の時代には、エルサレムは、ローマの支配の中にあり、そういう中で、神様はなお憐れみをもってユダヤ人に語りかけておられた、そういう状況であります。

ユダヤ人たちが旧約時代に神のお招きに応じず、背を向けて来た。そういう歴史の中で、では現在はどうかというと、神様は、祭司長やパリサイ人たちにも同じように語りかけておられるとイエス様は言われるのであります。

ところで、イエス様は、ここで、たとえ話しを新しい段階に進められます。
それが8,9節であります。
「そのとき、王はしもべたちに言った。
『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』」
とでありました。

いわばもう、こうなれば誰でもよい。このめでたい日を、寂しい日にしてはならない。大通りに行って手当たりしだい連れて来なさい。そう命じたと言ってよいでしょう。
そうすると宴会場はどうなったかと言いますと、言うまでもなく、10節のようになったのでありました。

「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」というのです。何と宴会場は、いっぱいになったのであります。

とはいえ、そこには、良い人も悪い人も集められましたので、色々でありました。
そこで、想像してみて頂きたいのですが、この結婚披露宴はうまくいくのだろうかとであります。そういう不安がない訳ではありませんでした。それは、あまりにも急な事なので、礼服など持っていない。いろんな格好の人がいる。大丈夫なの?という、そういう心配であります。

でも、そういう事の心配は無用でありました。
礼服は、そういう場合王が部下に命じて用意させるものであります。
ここでは、王の息子の結婚披露宴ですから、なおさら着替えさせない訳には、いきません。
とはいえ、外側をそろえても、内側、心はどうなの?という問題があります。
良い人でも悪い人でも、出会った者は誰でもでありましたので、そこには、悪い人もいたわけであります。

しかし、ここでちょっと考えておかなければなりませんのは、悪い人と言いますのは、これは、当時取税人や遊女のようないわゆる罪人と考えられていた人たちも入る事は言うまでもありません。

そしてよくよく考えて見ますと、人はみな、生まれながらにして罪人ですから、実は、良い人というのは神様の御前には全くいないことになります。ですからこの場合、悪い人とは、道徳的に捉えるしかありません。この世の人がいう、いわゆる一般的に言われている罪人を指していると言っていいでしょう。

さて、いよいよ王が、客を見ようとして入ってきますと、そこには「婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」のでありました。そこで、王は彼にその理由を聞きますと黙ったままでした。

そこで王は、言いました。「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」とでありました。

ところで、ある人はこれを、とても厳しい処置であったと思われるでしょう。あるいはまた、可哀想と思う人もおられるでしょう。しかし、実際はそうではありませんね。誰かれとなく招かれた事は確かであります。

しかしながら、婚礼に出席する者は、礼服を着ないものは、駄目なのです。ここでいう礼服とは、私たちキリスト者からいえば、イエスをキリストと信じる事によって与えられる義の衣を指しています。だから、着ていないと駄目なのです。

聖書の他の個所に、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなた方はみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)という場合の「キリスト」がそれに当たりますし、あるいはまた、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-24)
と言われる「新しい人」を指すと言っていいでしょう。

神様は、民族の差別なく、すべての国民を招いておられます。
良い人も悪い人も関係なくであります。
先ほども言いましたように、この地上の全ての人は、生まれながらにして罪びとでありますから、良い人というのは、神様の前にはいないというのが現実です。

ですから、いずれにしても婚礼に出るには、指定された服を着なければ出席出来ないのであります。そこで王は、それを用意した。しかし、それでもそれを身につけなかったというのは、祝宴に出る資格がないということなのであります。

12節で「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。」とありますが、指定された服を着ない者は、その理由を答えようがなかったのです。そして、その者は、外の暗闇にほおりだされて当然でした。

イエス様は14節で「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
と、まとめられるのです。私達は、一人ひとりが、自分の歩みを振り返ってみる必要があります。そして、何の功もなく、神を崇める礼拝に招かれ、神からのお言葉をいただけるこの素晴らしい恵みにどうして与る事が出来るのか、あるいは出来たのか。それは、神様の一方的なお働きによったからではないか。そこの事にまず気付く必要があります。そして感謝をささげたいものです。

多くの人が、礼拝へと導かれてやって来られます。
しかし、本当にその祝福に与る人は、王の用意された礼服を着ている人だけです。とするなら、その服を頂いて、主の御前に出られることは、何という幸いでしょうか。その事も覚え、この朝、主の礼拝に招かれたことを心から感謝しようではありませんか。

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