2014年1月12日(日) マタイ22:23-33 「生きている者の神」 竹口牧師
先回と少し話がダブルのですが、きょうの一番最初にサドカイ人という人たちが登場しますので、イエス様の時代の宗教事情、あるいは政治事情というものをまずお話しして、今日の聖書へと入っていく事にします。
当時、色々なグループがユダヤ人の間には存在しておりましたが、大きく分けて4つのグループをまず紹介する事に致します。
第一のグループは、熱心党と呼ばれる人たちです。 彼らは、ユダヤ民族が神の選民である事を誇りに思い、熱狂的に先祖伝来の神を信じる人たちでありました。彼らは、選民から税を取る異邦人は、ローマ総督であれ、ヘロデ領主であれ、不遜な侵略者としてことごとく反逆する人たちでありました。この熱心党と呼ばれる人たちの中には、イエス様の弟子の中にもシモンという弟子がおりました。
第2のグループは、ヘロデ党と呼ばれるグループであります。 彼らは、エドム民族出身で、ユダヤの名門ハスモニヤ家の血筋をもつヘロデ家を何とかして、先祖ヘロデ大王時代のような状況に戻そう、そう願っている人たちでありました。先回16節に出てきたグループであります。ヘロデ家を盛り上げるためには何としてもローマ帝国に忠義を尽くしてカイザルに税を納め、よい心証を与えることを目指していたグループです。
第3のグループは、パリサイ派の人たちであります。 このグループは、第一番目に言いました熱心党ほど過激な実力行使はしませんが、同じようにローマ帝国やヘロデ領主には税を納める事にあまり積極的ではない人たちで、総督や領主たちからみれば野党的な分離派の立場でありまして、宗教的には、復活を信じ、律法に厳格でありました。
そして最後の第4のグループは、サドカイ人であります。 彼らは、当時の権力者に好意的な与党の人々でありまして、最高議会の議員の大半を占めておりました。また、時代の流行に敏感であり、ローマ文化とギリシャ文化に好意を寄せ、世俗的貴族的な勢力の人たちでありました。
一応、ユダヤ教を信じてはおりましたが、モーセの律法に記された明白な定め以外は 何の権威をも認めませんでした。つまり、ラビの学説も、伝承も一切信じませんでした。ですから彼らは、パリサイ人や一般民衆が長い間信じてきた事も「律法に記されていない」という理由で否定しました。
従って、メシヤの来臨、死人の復活、天使、霊などという事は全くと言っていいほど信じない人たちでありました。そして今回、23節に登場しましたのがこのサドカイ人であります。少し例えが強引的かもしれませんが、信仰から言いますと、私達は、メシヤの来臨、死人の復活、天使とか霊の存在を信じていますので、明らかにサドカイ人ではなくパリサイ人的であるといえましょう。勿論、言うまでもなく私達は律法主義的ではありませんので、付け加えておかなければなりませんが、
ところで、きょうの所は、復活はないと言っているサドカイ人がイエス様の所にやって来て質問したのでありました。 「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうち誰の妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」とでありました。
これは、人が復活するとするならば・・・というなかなか興味深い質問だと思います。 この質問は、仮定で成り立っていますが、有り得ない事ではありません。 と言いますか、私達は信じているのです。
でも、サドカイ人は、死人の復活を信じておりませんので、意気揚々と、そういう質問をイエス様にしたのでありました。
一方、パリサイ人たちは、体の復活を確信しておりますから、そういう人たちは、それにまつわる色々な事を考えていたようです。例えば、死人は、着物を着て復活するのか、裸のままで復活するのか、もし着物を着て復活するとするなら、死んだ時の物か、それとも別の物かというというような点を論議したそうであります。
あるいはまた、甦りの時には、死んだ時の体の欠陥をそのままもってあらわれるのか、あるいはそうではないのか。もし、死んだ時の体の欠陥を持っていなければ、同一の人である事が分からないではないか、まあ、そのようにも考えたそうであります。
更には、ユダヤ人が外国で死んだ場合、地下に穴があって外国で埋葬された場合、その穴を通ってパレスチナに来る、そのようにも言ったとある本にありました。
こういったように、パリサイ人は、死人の復活を非常に大切な教義としてかかげておりましたので、それに関するさまざまな問題を真剣に考えておりました。 一方、それを真っ向から否定したのがサドカイ人でありました。 つまり、人の甦りを信じなかったわけです。そして、そのために一つの意地悪な質問を彼らはイエス様にしたのでありました。先ほども読みましたが、イエス様を試すためでありますから、少し大げさな例となっていますが、質問した訳であります。
もともとは、ユダヤには、人が、子どもがいなくて死んだ場合、その人の兄弟は、その未亡人と結婚して、兄弟のために子どもをもうけなければならないという義務がありましたので、そこから、今回の質問を考えたようです。
それは、申命記25:5-6節にある御言葉に根拠を置いているのであります。 因みにそこを読みますと、このように書かれているのであります。 「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」とあるのであります。
つまり、今回、サドカイ人が取り上げましたのは、全く聖書的根拠がなかった訳ではなく、ただ、少しオーバーに言っただけでありました。そのようにしますと、問題がより明確になるからでありましょう。
復活がないと信じているサドカイ人は、もし復活があるとするなら、その甦りの時、7人の男のうち誰が妻となるのか、それが問題になりませんか、とであります。サドカイ人は、我らに勝利ありと意気込んだでありましょう。
しかし、それに対してイエス様のお答えは、29-30節で、こう答えられました。 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」とでありました。
これには、サドカイ人も驚いたに違いありません。彼らは、聖書から考えて言った筈だからです。では、あの申命記の言葉はどうなるのだ。もし復活したなら、自分たちが心配している事が起きるではないか。まあ、そういわんばかりであったでしょう。
でも、イエス様は、はっきりと二つの問題を指摘されました。 その一つは、あなたがたは聖書を知らないということでした。 これは何も当時のサドカイ人だけがそうであったのではありませんで、いろいろな例を考えていたパリサイ人たちにも当てはまりますし、更には、現代においても、全く同じであります。
つまり、聖書をよく読まずして聖書は間違っていると批判する人が何と多い事かということであります。いろんなことで、ああだこうだと難癖をつける人が多い。考えて見て頂きたいのですが、聖書の一番最初の創世記は、紀元前1500年頃書かれたと言われます。そして今が2014年ですから、約3500年は経過しているのです。その間、ずっとその聖書に置かれている神を信じる人が次から次に生まれ、現代では世界人口の三分の一が、その神を信じているというのです。
なぜなのでしょうか。 もし聖書が、信じるに値しなかったなら、とっくの昔に、消滅したはずであります。 しかし、そうならなかった。今も読まれている。それは、どういう事かと言いますと、聖書には真理があるという事であります。
サドカイ人が、聖書の言っている事をきちんと正しく捉えないで、この世の考えで読んでしまう。そこに大きな間違いがある。そういう事でありましょう。聖書を知らずして、聖書を批判するべきではない。そうあたかもイエス様が言われているようでもあります。
第二番目にイエス様が言われている事は、あなたがたは、神の力を信じないという事であります。 サドカイ人は、死人の復活はないと言います。 しかし、イエス様は、30,31節でこう言われます。「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。」とです。
あなた方は聖書を読んでいると思っているかもしれないが、それなら、死人の復活について読んだことはないのか、そう問われたのであります。
最初のほうでも言いましたが、サドカイ人は、モーセ五書は信じております。 その中には、出エジプト記もある訳であります。その中からイエス様は3:6節の言葉を引用して言われました。そこには、こうあるのであります。神様がモーセに向かって語っておられるお言葉です。「また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」とであります。
つまり、二重括弧の部分を引用された訳です。 なぜ、イエス様は二重括弧の部分『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』という部分を引用されたのでしょうか。
それは、もし、サドカイ人が言うように、アブラハムやイサクやヤコブが甦らなかったなら、つまり、彼ら3人は、モーセから言いますと約500年ほど前に死んでいる人たちならば、イエス様がわざわざ『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』と書かれている箇所を引用されない。
もう彼らが存在しなければ、聖書に書いてある事は無意味である、そういう事になると言われるのです。
アブラハム、イサク、ヤコブが死んでもなお生きている。現在でも神と霊の交わりを持つ事の出来る存在でなければ、神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とは神様はおっしゃらないという事であります。ここは、神様の方からアブラハム、イサク、ヤコブを見て言われている事に注目しなければなりません。
ある人は、ここをこのような意味にもなると言われます。 「アブラハムに対しては、私はアブラハムの神となった。イサクにはイサクの神に、ヤコブにはヤコブの神となって、一人、ひとりを守って生かした。だからモーセよ。恐れるな。お前がアブラハムと同じように真剣に信じるなら、私は今から『モーセの神』になろう」 そういうモーセへの力強い保証と励ましであると、であります。
もう一つは、神は「私はアブラハムの神であった。あれはおしいやつであった」と感慨を込めて思い出のように言われているのではない!!「私は現に今もアブラハムの神である。アブラハムの姿があなたたちの視界から消えても、アブラハムの骨が土中で塵になっても、この私がアブラハムの神でい続ける厳粛な事実は変わらない。私が知ったアブラハム、私のものとして捕まえているアブラハムが死人となったか、それとも生きて輝いているか考えて見よ。神は死人をこしらえるような無力な神ではない」とであります。
なかなか面白い捉え方だと思います。まさにそうだと言えましょう。 結論的に言いますなら、サドカイ人が言うように、もし復活がないとするなら、アブラハムもイサクもヤコブも存在しないのですから、聖書の言葉は無意味である。なぜなら、アブラハム、イサク、ヤコブが復活して神と霊の交わりを持つことのできる存在でなければ、神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という事は出来ないからです。
神は、人間を永遠に朽ちる事のないいのちに甦らせることのできる生きている者の神であるということです。甦りの姿が、どのようなものであるのか、この世の考えで考えるなら、それは、全く不可能な状況に私達ははまり込んでしまいます。
アブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、多くの信仰の偉人が死にました。 しかし、肉体は滅んでも、魂は生き続け、時が来た時には、復活の体に、それはまた栄光の体にして下さる事を私達は期待できるのです。なぜなら、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とイエス様が言われるからです。
復活については、このイエス様のお言葉だけでなく、パウロがTコリント15:42-44やTテサロニケ4:16-17などに明らかにしています。ただ今回は、時の流れで、今の時点では、パウロは登場していませんので、引用しませんけれども、
イエス様の時代に、イエス様が復活についてどう見られていたか、 サドカイ人の質問によって明らかにされた部分を見たわけです。 私達はもっともっと聖書を知らなければなりませんし、また、神様がどんなに大きな力をお持ちかも知らなければなりません。
真の神は、生きている者の神である事をしっかりと心にとめ、もはや、私達がこの地上では会えない人たちに対しても、神であられることをしっかりと覚え、永遠のいのちを頂いている事の幸いを感謝しようではありませんか。
新しい年を迎えて早いものできょうはもう12日ですから、1月も2回目の主日で、前半が間もなく終わろうとしています。そういう事からして私達は、否応なく刻一刻と死が近づいていることを知らされます。
しかしながら、私達キリスト者は、もう一方の目で主が完全な身体にして下さる時が近づいている。その方にも目を向ける事が出来るのは、何という幸いでしょうか。
真の神は死んだ者の神ではなく、肉体が死んでもなお生き続けている魂の神であるお方である事をしっかりと覚えつつ歩もうではありませんか。 たとい肉体は朽ちても魂は永遠に神の御許で安らぎをいただけるのですから。更には、復活の希望もあるのですから。キリスト者にして下さった神の恵みの事がここにあることを感謝しましょう。
2014年1月19日(日) マタイ22:34-40 「一番大切な戒め」 竹口牧師
先回は、復活はないと信じているサドカイ人達がイエス様の所に来て、質問した所を見ました。
7人兄弟で長男が死んで、跡継ぎを残さなかった場合、弟がその兄嫁と結婚し、跡継ぎをもうける。もしそれがかなわなかったならば、次の三男と結婚する。そのようにして四男、五男と進み、最後の7番目の者と結婚してもとうとう後継ぎは生まれなかった。そしてついには嫁もなくなった。その場合の夫人の夫は誰になるかというものでした。
イエス様は、それに対して30節でこう言われました。 「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」と。そう言って、結婚状態は無くなると言われました。
更には、32節に於いて「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」と言われて、肉体は死んで朽ちても、その人の魂は、生きている。それ故に、生きている者の神ですと言われました。
すると今度は、きょうの所では、パリサイ人が質問をしました。パリサイ人は、サドカイ人とは違った考えをもちます。つまり死人の甦りを信じ、天使の存在を信ずる人たちであります。またモーセ五書だけでなく、旧約全体を信じる人たちであります。
しかし、35節を読みますと、その彼らは、「イエスをためそうとして、尋ねた。」とありまして、悪意ある思いをもって試みようとしている所であります。
この個所と同じような場面は、他にマルコの福音書だけにあるのですが(12:28-31)、マルコは、質問した人が悪意あるようには描いていません。まじめな質問として書いているのであります。ですから、この違いは、どこからくるのかと考えます時に、多分、質問をした人自体は、そんなに悪い人ではなかったけれども、その周りにいる人たちが悪かったので、マタイは、その人たちに目を向けて書いたのではないか、そういう考えもあります。
ところで、パリサイ人の行なった質問は何であったかと言いますと、36節「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか。」でありましたが、私の信仰生活の初期の頃の事ですが、この質問を受けた印象というものは、もしかしたら私だけかもしれませんが、 あまりよいものではありませんでした。
と言いますのは、聖書を初めて手にし、読みはじめた頃に教えられましたことは、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、というように、とても否定的なことを多く聞かされたように思ったからです。
そして次には、こうでなければならない。ああでなければならない、というように、「ねばならない」という理想的な姿をよく聞かされました。もしかしたら、そのように私が特に敏感に感じたのかもしれません。
がしかし、その結果、私は、ああ、もう駄目だ。自分にはできない。 そういう思いになって、とっても息苦しさを感じ、それから解放されたいと思った事が何度かありました。
ところで、パリサイ人の一人がここでは質問しておりますが、それも、イエス様を試すためであったのですが。それと共に、もしかしたら、自分自身も分からずに尋ねた、と、そう言えなくもないのであります。
と言いますのは、こんにちの私達は、聖書1冊あるだけですが、とは言え、彼らとは違って、私達には新約聖書がついています。それも、解釈上、色々な説があるわけですが、このイエス様の時代の人たちには、言うまでもない事ですが、新約聖書に書かれていることを今まさに行なっているのですから、彼らには、新約聖書はない訳であります。
しかしながら、それとは別のもので何とミシュナーと言われる口伝律法なるものがありまして、随分、そういうものに縛られていたのでありました。つまりそれには「ラビ何々はこう言っている」とか、また「別のラビ何々はこう言っている」というように、色々な解釈があって、どの戒めが最も重要であるのか、律法学者達の間にも難解なものになっていた様だからであります。
パリサイ派の学者たちは、モーセの律法を分析して、248の積極的命令と、それに365の禁止命令があり、合計613の戒めがあると数えていたそうであります。「父と母を敬え」という命令があるかと思えば、「供え物をささげよ」という命令もある。間違った優先をするならば、親不幸や貪欲の罪に陥る。
そこで、どちらを優先すべきか、はたと考える訳であります。ですから36節の「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか。」という律法とは勿論、トーラーといわれるモーセ五書ですが、そのモーセ五書だけで、613の戒めがあるとするなら、彼らは一体、旧約全体ではいくつ戒めを数えていたのでしょうか。
サドカイ人は、モーセ五書だけを信じ、パリサイ人は、預言書、また詩篇などの諸書も信じていましたので、確かなことは分かりませんが、しかし、613の戒めがあると聞いただけでも、私は、日常生活に息苦しささえ感じるのであります。
でも、パリサイ人たちは、律法に熱心でありましたので、食事の前に清めのために手を洗うとか、安息日の道のりは、2000キュビト、つまり900M以内にする。それ以上は仕事をした事になるということで、禁止していた。などなどを考えますと、本当にうんざりするのであります。
ところで、その当時、ユダヤ人なら誰でも知っている、こういう一文が律法にはありました。それは、へブル語で「シェマー」で始まる命令であります。日本語で言いますなら「聞きなさい」という言葉であります。これは、ユダヤ人ならまず一番最初に覚えさせられる言葉です。
申命記6:4-9にこのようにあります。お聞き下さる事で結構ですが、 「 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」とであります。
特には、8節、9節にあります。 「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」とありますので、その通りをするようになったのでした。
現代でもユダヤ人の中には身につけている者もいるのでありますが、祈祷ひも(テフィッリーン)と呼びまして頭に巻き、腕に巻き、常にみことばを見につけるようになりました。
頭につけるのを「頭の経札」、腕につける物を「腕の経札」と呼び、頭の部分は、出13:1‐10,11‐16,申6:4‐9,11:13‐21の4箇所の聖句を別々に記した羊皮紙を、4つに仕切った箱の各仕切りに1枚ずつ収め、その箱に革のひもをつけました。
大きさはさまざまで、一辺が3cmのものから4.5cmのものもあり、箱の外側には左右にヘブル文字のシーン(「全能者」という意味の〈ヘ〉シャッダイの頭文字)が書かれていたといわれます。
「腕の経札」は、箱の大きさが頭の経札と同じですが、外側に文字がなく、内部の仕切りもない。箱の中には、先ほどあげました4つのみことばが入れてありまして、1枚の羊皮紙に7行ずつ4段に記して収めてありました。また、家の右柱には、メズザーと言いまして、御言葉を入れた箱が、つけられておりました。
そのようにして彼らは、常に御言葉から離れることをしなかった。 それはいわば、みことばを形にしただけでありましたが、大切にし、実行していた訳でありました。現代も同じです。
で、今回問題していることは何かと言いますと、36節の「律法の中で、たいせつな戒めはどれか」でありました。イエス様は、そこでこう答えられた訳でありました。 37、38節「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」とであります。
これは、先ほど言いました経札の中にもあったわけであります。 つまり、イエス様はその中から取り上げられたとも言えます。 申命記の一部で、6章5節であり、全てのユダヤ人が日々、祈りで唱える「シェマー」ではじまる句の一部分であり、これを彼らは日に二度口にしましたし、礼拝においては、そのたびごとにまず最初で唱えるものであり、それこそ、ユダヤ人なら誰でも知っている聖句でもありました。
それは全面的に、神に対しての愛、私達の感情と思想と行動とを支配し、動機づける愛を、神様に献げるという事であります。人は神様から多大の恵みを戴いている。それこそ、100%神様から頂いているのですから、それに応えていくというのがまず第一に来るという訳です。
パリサイ人が答えを求めた時、イエス様は、彼らの姿、額と左の手首とにあります経札を見ながら、37節の言葉を言われたに違いありません。これはですから、今も言いましたように、周りにいる誰にもわかる御言葉でありますし、ですから、パリサイ人にも勿論、分かる箇所でありました。
ある本に出ていた事ですが、神戸のユダヤ会堂でも、ニューヨークのシナゴーグでも申命記6:4だけは、必ずへブル語で唱えるのだそうです。 「シェマー、イスラエル。アドナイ、エロヒーム。アドナイ、エハード」とであります。 つまり「聞きなさい。イスラエル。(シェマー、イスラエル。) 主は私たちの神。(アドナイ、エロヒーム。) 主はただひとりである。(アドナイ、エハード)」という言葉です。
律法に「主の御名をみだりに唱えてはならない」とありますので、 主の御名の所、つまり神の固有のお名前はアドナイと言い変えて、 唱えている訳です。
まあ、それはともかく、信仰者への神の第一の命令は、神をまず仰ぎ見る事。それは、義務や恐れで服従するのではなく、神を愛する事、これが全ての出発点となるという事であります。
私たちは神様に創造された者です。ですから、その私達が、創造者なる唯一のお方を愛していく。これは、ごく自然な姿でもあります。ですから「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と言われなくても、そのようにしたいと願うのが造られた者の姿である筈なのです。
が、そうではないから、神様は求められるという事でしょう。 見かけは、一生懸命そうしているようですが、神様から見られれば、そうではないゆえに、求められている。それは、当時の律法学者パリサイ人やサドカイ人だけでなく、全ての造られた人が、そうすべきであるというべきでしょう。
ですから、「聞きなさい。イスラエルよ。」との始まりは、マタイはそれを書かないで、イエス様の周りにいる人たちを対象に書きながら、全ての人への語りかけているように私には思えてなりません。少なくとも聖書を手にしている私達は、私たちにも語りかけられているととらなければなりません。
次にイエス様は、こう言われております。 39節「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」とです。第一があれば、第二がある。
では、そこには、優先順位があるのかと言いますと、必ずしもそうではありません。 それは、今読みました39節の最後の方の言葉でわかります。 「第二の戒めも、それと同じように大切です。」とあるからです。 「それと同じように大切です」という言葉はとても大切です。 なぜなら、神を愛せない者に隣人は愛せないからです。 また、隣人を愛せない者に、神を愛する事は出来ないからです。
イエス様の弟子であったヨハネは、手紙でこう書きました。 「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Tヨハ4:20-21)とであります。
気をつけませんと、最近は、自分をも愛せない人がおられますので、そういう人は、より近く主の御許に行く必要があります。そして、神様が一つの器として創造してくださり、あなたという一人の人にも心に目を留め、愛して下さっていることを十分に知る事が必要があるのであります。これもまた、とても大切です。
きょうの所では、律法は十分守っているという自負のあるパリサイ人が、イエス様を試みるための問ですから、それに対して、答えておられるという事を忘れないで見て行かなければならないのでありますが、今も言いましたように、横道にそれるようですが、自分自身を愛せない者に、神様も人をも愛せないことを、この時に覚える必要があるとも言えましょう。
その上で、もう一度言いますけれども、第二の戒めと言いましても、結局は、第一の戒めと同じように大切な戒めであるという事を覚えたいものです。
因みにイエス様が言われた第二の戒めは、レビ記19:18の引用です。 そこには、このように書かれております。 「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」とであります。
今、ユダヤでは、ローマによって支配され、外国文化が流れ込んできており、更には、税金を取り立てられ、民はメシヤの来臨を待ち望んでいる。そういう中で、真の神を愛するなら、異教徒であるカイザルやヘロデやピラトなどの言う事に聞き従う必要はない。むしろ熱心党員のように反逆する筈だ、そういう思いをもしかしたらパリサイ人は引き出したかったのかもしれません。
しかし、イエス様は、決してそのようには言われませんでした。 神を愛し、隣人を愛する。これこそが大切な神の戒めであるとイエス様は言われたのです。
ところで、沢山の戒めがある中で、ともすれば自分自身が自信を失ない、また、生きる目標を見失なった時代が、私にはありました。しかし、Tヨハネ3:16のみことばを私は戴きました。
「キリストは、私達のために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とのことばです。
この御言葉によって、私はなぜ生きるのか、生きなければならないのかが分かりました。そして今日があります。 神を愛するのが先か、人を愛するのが先か、自分を愛するのが先か、 その答えは、「どっちも!」否「どれも!」一番と言えるかもしれません。
なぜなら、神様が愛して下さっているのに、自分を嫌ってはいけないし、 隣人をも神様は愛しておられるのに、その人を愛さないのも正しくないからです。 まして、自分も隣人も愛を愛せないというのは、言うに及ばずだからであります。
悪意ある質問、更には策略は、パリサイ人やサドカイ人に任せ、私達は、心から主イエスを愛していこうではありませんか。命を捨ててまで愛して下さったイエス様に、喜びをもってお仕えしていきたいものです。そして隣人も、更には自分をも愛していく事が求められています。
イエス様は言われました。40節「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」とであります。何という重い、そして深いお言葉でしょうか。 要約すれば、この二つになると言われるのです。 喜んでお従いさせて頂こうではありませんか。
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