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2014年2月9日(日) 「論争ではなく信仰を」 マタイ22:41-46  竹口牧師

この朝の聖書箇所はマタイ22:41-46であります。何回となく読み、一体これは何を言おうとしているのか、随分考えさせられた箇所であります。今までの所でイエス様は、パリサイ人やサドカイ人がイエス様に質問をし、試みようとしていた事が書かれていました。きょうの所は、逆にイエス様の方から質問をされた箇所であり、それも、パリサイ人が集まっている時になされた所であります。

具体的には42節にイエス様の質問と、パリサイ人の答えがまず出ております。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼(キリスト)はだれの子ですか。」とイエス様が質問されますと、彼ら(パリサイ人たち)はイエスに言った。「ダビデの子です。」と、そう答えました。

キリストというのは、意味としては「油注がれた者」であり、ギリシャ語の言い方です。それも、個人名ではなく、職務をあらわすことばで、王とか、祭司とか、預言者が、その職務に任命される時、旧約時代は、油を注がれた者を言いました。ヘブル語でマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、それがメシヤであり、「油注がれた者」という意味ですから、ギリシャ語のキリストともメシヤは繋がってくるのであります

ところで、メシヤという称号を「救済者」の意味に用いたのは中間時代のユダヤ人だと言われています。ですからそれまでは、そのような意味では用いられておりませんでした。しかも、それはダビデの家系の王としての救済者を待望して用いられた称号でありました。

メシヤという言い方は、新約聖書では3回でてきます。その3回の内の一つはヨハネ1:41でこのように使われています。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った」とあります。

次に2番目に用いられている個所は、ヨハネ4:25で「 女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』」とあります。

そして最後の第三番目は、使徒3:20で、「 それは、主の御前から回復の時が来て、
あなた方のためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」と、そうあります。つまり、何の疑いもなくメシヤは、ダビデの子孫から生まれ、イスラエル民族を解放する王として来ると考えられていました。それも、必ず来る、今か今かと期待されていたのでした。

イスラエル民族を解放する王としてのメシヤ、それは即ち、ローマ帝国という他国からの解放と共に、国家的、政治的、軍事的な力と栄光を意味しておりました。ローマ帝国を覆し、その悪魔的な力を排除してはじめて、神の正義は行なわれる。神が本当にメシヤを遣わして民族を救って下さるとするなら、そういったメシヤでなければならない。それ以外のメシヤでは、私達の希望はかなわない。そういった感じであったでしょう。

しかもそれが、「ダビデの家系」から生まれて来る。そのように彼らは考えておりました。これが、まずこの朝見たい一点でありました。そして次に見たいのが、旧約時代に活躍しましたダビデ自身は、メシヤ、キリストをどう言っているか、あるいは、どう考えていたかを見たいのであります。それが、43,44,45節に出ておりまして、いわば、イエス様による疑問がパリサイ人たちに投げかけられているのであります。

それは、あたかもダビデの言っていることを考えれば、あなた方の言っていることは矛盾していませんか、そういう問いかけでもあります。つまり、武力的、政治的メシヤ観の誤りを指摘されたわけです。そして、イエス様は、ダビデがメシヤを主と呼んでいることを詩篇110篇1節からの引用によって明らかにされるのです。

この詩篇の句は、メシヤを預言している、と誰もが認めていたものでありました。ですから、パリサイ人達とて認めざるを得ない詩篇でもありました。この詩篇110篇は、新約聖書のこの福音書のこの記事以外にも節は違いますが、5回引用されるという大切な詩篇であります。

もっとも、使用回数が多いから重要というよりも、イエス様が「御霊によって」と言われていますように、つまり、「霊感によるものであった」という点が重要なのです。
霊感による預言で、ダビデがメシヤを主と呼んでいるからには、メシヤはダビデの肉による子孫以上のお方、即ち、神の子でなければならないということ。つまり「ダビデの子」は、ダビデの主・神であるということです。また、そうでなければならないという意味です。

44節、二重括弧の部分を読みますが、こう書いてあります。ギリシャ語ではなく、実際にへブル語の詩篇110篇を読みますと、「主は私の主に仰せられた」という部分の最初の主は、神様の固有のお名前、ヤーウェともエホバとも呼ばれるお方を指します。
そのお方は、へブル語でアドナイ、つまり私の主に仰せられるということになります。
つまり、イエス・キリストを指すのであります。マタイの福音書では、最初の「主」と「私の主」という場合の「主」は同じ文字を使ってありますが、そしてまたその元になるギリシャ語でも、その区別はありませんが、旧約のへブル語では、新改訳では、最初の主を太い文字で書かれ、次の主とを区別して訳してあります。そして実際に、へブル語の詩篇ではそのように違いがあるのであります。

44節には「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」とも書いてあります。これは、キリストに言われた言葉であり、
ダビデに言われた言葉ではありません。全ての敵が屈服するまで神の座についておられるのは、メシヤであるイエス様であってダビデではありません。その結果、43節でイエス様はこう言われます。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」とです。

旧約のあのダビデの時代に、すでにダビデが、メシヤを主と呼んでいる。だったら、そのずっと後に生まれるダビデの子孫がメシヤなのか。これは、肉的に考えるなら、決してつじつまが合う話しではありません。つまり、メシヤを歴史的な側面だけで理解するなら、誤りを犯しますよという事でもあります。

先ほど私は、詩篇110篇は、今開いています福音書の部分以外にも、5回引用されていると申し上げましたので、詩篇110篇全体を読んでおくことにします。このように書いてあります。
110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」
110:2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」
110:3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
110:4 主は誓い、そしてみこころを変えない。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右にいます主は御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。
110:6 主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。
110:7 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。」以上であります。

このように読んで行きますと、荒々しさ、戦いで敵を打ち破られる。そんなイメージを持たれるかもしれませんが、イエス様がきょうの所で引用されたのは、決してそういうことではなく、あくまでもパリサイ人たちが考えているメシヤ観とは違う事を、
示されると同時に、時代的に考えるとどうなりますか、ということです。
どうしても、詩篇の110篇1節を読むなら、あなた方の考えているのと、違いませんかという事になります。

イエス様がこれまでして来られた数々の業は、人間のなせる業ではなく、それを超えた存在でありました。イエス様は、そのことに目を留めてほしいとパリサイ人に願われた、そう言っていいでありましょう。言うまでもない事ですが、私達は、旧約聖書と新約聖書を併せ持って、神の言葉としています。しかし、イエス様の時代には、旧約しかなかった時代です。そして、その旧約こそが、彼らが生きるために必要な神の言葉であった訳です。ですからいつも、旧約が引用され、それによって、間違いが正されて行きました。しかし、時代と共にずれていった。そこに、イエス様の指摘が入ったのでありました。

さて、第3番目に入ります。それは、46節の最後の節です。「それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」とあります。これは、パリサイ派の人たちが、知識の上で、もはやイエス様に太刀打ちできない。イエス様の言われる事が正しいと見抜いたからでありましょう。

メシヤは、「ダビデの子」であるだけでなく、「ダビデの主」であるお方である。
そう認めざるを得なかったパリサイ人でありました。しかし分かっても、はいそうですかと言えないのが彼らであります。論争には勝てない。いいえ、負けを見せると更に、群衆はイエス様の側に着く。それだけに、これを境に、論争は止めたという事であります。

イエス様は、ガリラヤの田舎から出て来られ、最初は、簡単に抑えられると考えていた事でしょう。しかし、時が流れれば流れるほど、群衆はイエス様の側につき、ついには、表立っては、戦えなくなって来たのでした。そして、最後には、捕えてから、罪を着せる方法とは何かとなって行くのであります。

イエスをキリスト(メシヤ)とは認めない人は、この世には沢山います。あからさまに攻撃してくることもたまにはあります。攻撃はしないけれども、そんなの信じないよという人もおられます。「キリスト教って、いいね。信じてみたいわ。」と口にする人はおられますが、本心かどうかは分かりません。いずれにしましても、イエス様はある時こう言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、
わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ12:30)と。

あるいはまた、こうも言われました。マルコ9:40「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」と。私達は、きょうのところで、第一番目に、メシヤは、どこから来るのか。ダビデの子なのかについて、見ました。そして第二番目に、詩篇110篇1節からダビデはどう言っているかを見ました。そして第三番目は、パリサイ人たちが考えているようなメシヤではないことを明確にされました。
人は、イエス・キリストをいろいろと観察します。行なわれたことを評価します。聖書を調べます。ある時には、キリスト者と論争になるかも知れません。いずれにしましても、イエス様が最終的にあなたに望んでおられることは、イエス様に対して、敵でもなければ、散らす者でもない。むしろ味方であり、集める者であってほしいと願っておられるのです。その為に、この地上に神でありながら人となって来られたのでした。

イエス様には、これからなすべき大仕事が残されております。それは、全ての人の罪を贖うという仕事であり、それはまた、罪人の身代わりの死を意味しておりました。
イエスがキリスト、メシヤである理由はここにあります。ここに到達するまで、人は、ああでもない、こうでもないと、イエス・キリストに対して間違った考え方を繰り返すのです。聖書に書いてあることをどんなによく知っていても、ヨハネ20:31にありますように「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」という真理に、至らなければ、何の意味もないのであります。

キリストと戦い続けることではなく、キリストと共に平和であり続けることが、どんなに大切であり、また幸いであるかをこの朝もう一度考え、すでにキリストの恵みによって救われている私達は、どんなに素晴らしい真理に神様は導いて下さったかを覚えて感謝しようではありませんか。


2014年2月9日(日) 「論争ではなく信仰を」  マタイ22:41-46  竹口牧師

この朝の聖書箇所はマタイ22:41-46であります。何回となく読み、一体これは何を言おうとしているのか、随分考えさせられた箇所であります。今までの所でイエス様は、パリサイ人やサドカイ人がイエス様に質問をし、試みようとしていた事が書かれていました。きょうの所は、逆にイエス様の方から質問をされた箇所であり、それも、パリサイ人が集まっている時になされた所であります。

具体的には42節にイエス様の質問と、パリサイ人の答えがまず出ております。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼(キリスト)はだれの子ですか。」とイエス様が質問されますと、彼ら(パリサイ人たち)はイエスに言った。「ダビデの子です。」と、そう答えました。

キリストというのは、意味としては「油注がれた者」であり、ギリシャ語の言い方です。それも、個人名ではなく、職務をあらわすことばで、王とか、祭司とか、預言者が、その職務に任命される時、旧約時代は、油を注がれた者を言いました。ヘブル語でマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、それがメシヤであり、「油注がれた者」という意味ですから、ギリシャ語のキリストともメシヤは繋がってくるのであります

ところで、メシヤという称号を「救済者」の意味に用いたのは中間時代のユダヤ人だと言われています。ですからそれまでは、そのような意味では用いられておりませんでした。しかも、それはダビデの家系の王としての救済者を待望して用いられた称号でありました。

メシヤという言い方は、新約聖書では3回でてきます。その3回の内の一つはヨハネ1:41でこのように使われています。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った」とあります。

次に2番目に用いられている個所は、ヨハネ4:25で「 女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』」とあります。

そして最後の第三番目は、使徒3:20で、「 それは、主の御前から回復の時が来て、
あなた方のためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」と、そうあります。つまり、何の疑いもなくメシヤは、ダビデの子孫から生まれ、イスラエル民族を解放する王として来ると考えられていました。それも、必ず来る、今か今かと期待されていたのでした。

イスラエル民族を解放する王としてのメシヤ、それは即ち、ローマ帝国という他国からの解放と共に、国家的、政治的、軍事的な力と栄光を意味しておりました。ローマ帝国を覆し、その悪魔的な力を排除してはじめて、神の正義は行なわれる。神が本当にメシヤを遣わして民族を救って下さるとするなら、そういったメシヤでなければならない。それ以外のメシヤでは、私達の希望はかなわない。そういった感じであったでしょう。

しかもそれが、「ダビデの家系」から生まれて来る。そのように彼らは考えておりました。これが、まずこの朝見たい一点でありました。そして次に見たいのが、旧約時代に活躍しましたダビデ自身は、メシヤ、キリストをどう言っているか、あるいは、どう考えていたかを見たいのであります。それが、43,44,45節に出ておりまして、いわば、イエス様による疑問がパリサイ人たちに投げかけられているのであります。

それは、あたかもダビデの言っていることを考えれば、あなた方の言っていることは矛盾していませんか、そういう問いかけでもあります。つまり、武力的、政治的メシヤ観の誤りを指摘されたわけです。そして、イエス様は、ダビデがメシヤを主と呼んでいることを詩篇110篇1節からの引用によって明らかにされるのです。

この詩篇の句は、メシヤを預言している、と誰もが認めていたものでありました。ですから、パリサイ人達とて認めざるを得ない詩篇でもありました。この詩篇110篇は、新約聖書のこの福音書のこの記事以外にも節は違いますが、5回引用されるという大切な詩篇であります。

もっとも、使用回数が多いから重要というよりも、イエス様が「御霊によって」と言われていますように、つまり、「霊感によるものであった」という点が重要なのです。
霊感による預言で、ダビデがメシヤを主と呼んでいるからには、メシヤはダビデの肉による子孫以上のお方、即ち、神の子でなければならないということ。つまり「ダビデの子」は、ダビデの主・神であるということです。また、そうでなければならないという意味です。

44節、二重括弧の部分を読みますが、こう書いてあります。ギリシャ語ではなく、実際にへブル語の詩篇110篇を読みますと、「主は私の主に仰せられた」という部分の最初の主は、神様の固有のお名前、ヤーウェともエホバとも呼ばれるお方を指します。
そのお方は、へブル語でアドナイ、つまり私の主に仰せられるということになります。
つまり、イエス・キリストを指すのであります。マタイの福音書では、最初の「主」と「私の主」という場合の「主」は同じ文字を使ってありますが、そしてまたその元になるギリシャ語でも、その区別はありませんが、旧約のへブル語では、新改訳では、最初の主を太い文字で書かれ、次の主とを区別して訳してあります。そして実際に、へブル語の詩篇ではそのように違いがあるのであります。

44節には「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」とも書いてあります。これは、キリストに言われた言葉であり、
ダビデに言われた言葉ではありません。全ての敵が屈服するまで神の座についておられるのは、メシヤであるイエス様であってダビデではありません。その結果、43節でイエス様はこう言われます。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」とです。

旧約のあのダビデの時代に、すでにダビデが、メシヤを主と呼んでいる。だったら、そのずっと後に生まれるダビデの子孫がメシヤなのか。これは、肉的に考えるなら、決してつじつまが合う話しではありません。つまり、メシヤを歴史的な側面だけで理解するなら、誤りを犯しますよという事でもあります。

先ほど私は、詩篇110篇は、今開いています福音書の部分以外にも、5回引用されていると申し上げましたので、詩篇110篇全体を読んでおくことにします。このように書いてあります。
110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」
110:2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」
110:3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
110:4 主は誓い、そしてみこころを変えない。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右にいます主は御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。
110:6 主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。
110:7 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。」以上であります。

このように読んで行きますと、荒々しさ、戦いで敵を打ち破られる。そんなイメージを持たれるかもしれませんが、イエス様がきょうの所で引用されたのは、決してそういうことではなく、あくまでもパリサイ人たちが考えているメシヤ観とは違う事を、
示されると同時に、時代的に考えるとどうなりますか、ということです。
どうしても、詩篇の110篇1節を読むなら、あなた方の考えているのと、違いませんかという事になります。

イエス様がこれまでして来られた数々の業は、人間のなせる業ではなく、それを超えた存在でありました。イエス様は、そのことに目を留めてほしいとパリサイ人に願われた、そう言っていいでありましょう。言うまでもない事ですが、私達は、旧約聖書と新約聖書を併せ持って、神の言葉としています。しかし、イエス様の時代には、旧約しかなかった時代です。そして、その旧約こそが、彼らが生きるために必要な神の言葉であった訳です。ですからいつも、旧約が引用され、それによって、間違いが正されて行きました。しかし、時代と共にずれていった。そこに、イエス様の指摘が入ったのでありました。

さて、第3番目に入ります。それは、46節の最後の節です。「それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」とあります。これは、パリサイ派の人たちが、知識の上で、もはやイエス様に太刀打ちできない。イエス様の言われる事が正しいと見抜いたからでありましょう。

メシヤは、「ダビデの子」であるだけでなく、「ダビデの主」であるお方である。
そう認めざるを得なかったパリサイ人でありました。しかし分かっても、はいそうですかと言えないのが彼らであります。論争には勝てない。いいえ、負けを見せると更に、群衆はイエス様の側に着く。それだけに、これを境に、論争は止めたという事であります。

イエス様は、ガリラヤの田舎から出て来られ、最初は、簡単に抑えられると考えていた事でしょう。しかし、時が流れれば流れるほど、群衆はイエス様の側につき、ついには、表立っては、戦えなくなって来たのでした。そして、最後には、捕えてから、罪を着せる方法とは何かとなって行くのであります。

イエスをキリスト(メシヤ)とは認めない人は、この世には沢山います。あからさまに攻撃してくることもたまにはあります。攻撃はしないけれども、そんなの信じないよという人もおられます。「キリスト教って、いいね。信じてみたいわ。」と口にする人はおられますが、本心かどうかは分かりません。いずれにしましても、イエス様はある時こう言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、
わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ12:30)と。

あるいはまた、こうも言われました。マルコ9:40「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」と。私達は、きょうのところで、第一番目に、メシヤは、どこから来るのか。ダビデの子なのかについて、見ました。そして第二番目に、詩篇110篇1節からダビデはどう言っているかを見ました。そして第三番目は、パリサイ人たちが考えているようなメシヤではないことを明確にされました。
人は、イエス・キリストをいろいろと観察します。行なわれたことを評価します。聖書を調べます。ある時には、キリスト者と論争になるかも知れません。いずれにしましても、イエス様が最終的にあなたに望んでおられることは、イエス様に対して、敵でもなければ、散らす者でもない。むしろ味方であり、集める者であってほしいと願っておられるのです。その為に、この地上に神でありながら人となって来られたのでした。

イエス様には、これからなすべき大仕事が残されております。それは、全ての人の罪を贖うという仕事であり、それはまた、罪人の身代わりの死を意味しておりました。
イエスがキリスト、メシヤである理由はここにあります。ここに到達するまで、人は、ああでもない、こうでもないと、イエス・キリストに対して間違った考え方を繰り返すのです。聖書に書いてあることをどんなによく知っていても、ヨハネ20:31にありますように「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」という真理に、至らなければ、何の意味もないのであります。

キリストと戦い続けることではなく、キリストと共に平和であり続けることが、どんなに大切であり、また幸いであるかをこの朝もう一度考え、すでにキリストの恵みによって救われている私達は、どんなに素晴らしい真理に神様は導いて下さったかを覚えて感謝しようではありませんか。


2014年2月9日(日) 「論争ではなく信仰を」 マタイ22:41-46  竹口牧師

この朝の聖書箇所はマタイ22:41-46であります。何回となく読み、一体これは何を言おうとしているのか、随分考えさせられた箇所であります。今までの所でイエス様は、パリサイ人やサドカイ人がイエス様に質問をし、試みようとしていた事が書かれていました。きょうの所は、逆にイエス様の方から質問をされた箇所であり、それも、パリサイ人が集まっている時になされた所であります。

具体的には42節にイエス様の質問と、パリサイ人の答えがまず出ております。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼(キリスト)はだれの子ですか。」とイエス様が質問されますと、彼ら(パリサイ人たち)はイエスに言った。「ダビデの子です。」と、そう答えました。

キリストというのは、意味としては「油注がれた者」であり、ギリシャ語の言い方です。それも、個人名ではなく、職務をあらわすことばで、王とか、祭司とか、預言者が、その職務に任命される時、旧約時代は、油を注がれた者を言いました。ヘブル語でマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、それがメシヤであり、「油注がれた者」という意味ですから、ギリシャ語のキリストともメシヤは繋がってくるのであります

ところで、メシヤという称号を「救済者」の意味に用いたのは中間時代のユダヤ人だと言われています。ですからそれまでは、そのような意味では用いられておりませんでした。しかも、それはダビデの家系の王としての救済者を待望して用いられた称号でありました。

メシヤという言い方は、新約聖書では3回でてきます。その3回の内の一つはヨハネ1:41でこのように使われています。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った」とあります。

次に2番目に用いられている個所は、ヨハネ4:25で「 女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』」とあります。

そして最後の第三番目は、使徒3:20で、「 それは、主の御前から回復の時が来て、
あなた方のためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」と、そうあります。つまり、何の疑いもなくメシヤは、ダビデの子孫から生まれ、イスラエル民族を解放する王として来ると考えられていました。それも、必ず来る、今か今かと期待されていたのでした。

イスラエル民族を解放する王としてのメシヤ、それは即ち、ローマ帝国という他国からの解放と共に、国家的、政治的、軍事的な力と栄光を意味しておりました。ローマ帝国を覆し、その悪魔的な力を排除してはじめて、神の正義は行なわれる。神が本当にメシヤを遣わして民族を救って下さるとするなら、そういったメシヤでなければならない。それ以外のメシヤでは、私達の希望はかなわない。そういった感じであったでしょう。

しかもそれが、「ダビデの家系」から生まれて来る。そのように彼らは考えておりました。これが、まずこの朝見たい一点でありました。そして次に見たいのが、旧約時代に活躍しましたダビデ自身は、メシヤ、キリストをどう言っているか、あるいは、どう考えていたかを見たいのであります。それが、43,44,45節に出ておりまして、いわば、イエス様による疑問がパリサイ人たちに投げかけられているのであります。

それは、あたかもダビデの言っていることを考えれば、あなた方の言っていることは矛盾していませんか、そういう問いかけでもあります。つまり、武力的、政治的メシヤ観の誤りを指摘されたわけです。そして、イエス様は、ダビデがメシヤを主と呼んでいることを詩篇110篇1節からの引用によって明らかにされるのです。

この詩篇の句は、メシヤを預言している、と誰もが認めていたものでありました。ですから、パリサイ人達とて認めざるを得ない詩篇でもありました。この詩篇110篇は、新約聖書のこの福音書のこの記事以外にも節は違いますが、5回引用されるという大切な詩篇であります。

もっとも、使用回数が多いから重要というよりも、イエス様が「御霊によって」と言われていますように、つまり、「霊感によるものであった」という点が重要なのです。
霊感による預言で、ダビデがメシヤを主と呼んでいるからには、メシヤはダビデの肉による子孫以上のお方、即ち、神の子でなければならないということ。つまり「ダビデの子」は、ダビデの主・神であるということです。また、そうでなければならないという意味です。

44節、二重括弧の部分を読みますが、こう書いてあります。ギリシャ語ではなく、実際にへブル語の詩篇110篇を読みますと、「主は私の主に仰せられた」という部分の最初の主は、神様の固有のお名前、ヤーウェともエホバとも呼ばれるお方を指します。
そのお方は、へブル語でアドナイ、つまり私の主に仰せられるということになります。
つまり、イエス・キリストを指すのであります。マタイの福音書では、最初の「主」と「私の主」という場合の「主」は同じ文字を使ってありますが、そしてまたその元になるギリシャ語でも、その区別はありませんが、旧約のへブル語では、新改訳では、最初の主を太い文字で書かれ、次の主とを区別して訳してあります。そして実際に、へブル語の詩篇ではそのように違いがあるのであります。

44節には「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」とも書いてあります。これは、キリストに言われた言葉であり、
ダビデに言われた言葉ではありません。全ての敵が屈服するまで神の座についておられるのは、メシヤであるイエス様であってダビデではありません。その結果、43節でイエス様はこう言われます。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」とです。

旧約のあのダビデの時代に、すでにダビデが、メシヤを主と呼んでいる。だったら、そのずっと後に生まれるダビデの子孫がメシヤなのか。これは、肉的に考えるなら、決してつじつまが合う話しではありません。つまり、メシヤを歴史的な側面だけで理解するなら、誤りを犯しますよという事でもあります。

先ほど私は、詩篇110篇は、今開いています福音書の部分以外にも、5回引用されていると申し上げましたので、詩篇110篇全体を読んでおくことにします。このように書いてあります。
110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」
110:2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」
110:3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
110:4 主は誓い、そしてみこころを変えない。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右にいます主は御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。
110:6 主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。
110:7 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。」以上であります。

このように読んで行きますと、荒々しさ、戦いで敵を打ち破られる。そんなイメージを持たれるかもしれませんが、イエス様がきょうの所で引用されたのは、決してそういうことではなく、あくまでもパリサイ人たちが考えているメシヤ観とは違う事を、
示されると同時に、時代的に考えるとどうなりますか、ということです。
どうしても、詩篇の110篇1節を読むなら、あなた方の考えているのと、違いませんかという事になります。

イエス様がこれまでして来られた数々の業は、人間のなせる業ではなく、それを超えた存在でありました。イエス様は、そのことに目を留めてほしいとパリサイ人に願われた、そう言っていいでありましょう。言うまでもない事ですが、私達は、旧約聖書と新約聖書を併せ持って、神の言葉としています。しかし、イエス様の時代には、旧約しかなかった時代です。そして、その旧約こそが、彼らが生きるために必要な神の言葉であった訳です。ですからいつも、旧約が引用され、それによって、間違いが正されて行きました。しかし、時代と共にずれていった。そこに、イエス様の指摘が入ったのでありました。

さて、第3番目に入ります。それは、46節の最後の節です。「それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」とあります。これは、パリサイ派の人たちが、知識の上で、もはやイエス様に太刀打ちできない。イエス様の言われる事が正しいと見抜いたからでありましょう。

メシヤは、「ダビデの子」であるだけでなく、「ダビデの主」であるお方である。
そう認めざるを得なかったパリサイ人でありました。しかし分かっても、はいそうですかと言えないのが彼らであります。論争には勝てない。いいえ、負けを見せると更に、群衆はイエス様の側に着く。それだけに、これを境に、論争は止めたという事であります。

イエス様は、ガリラヤの田舎から出て来られ、最初は、簡単に抑えられると考えていた事でしょう。しかし、時が流れれば流れるほど、群衆はイエス様の側につき、ついには、表立っては、戦えなくなって来たのでした。そして、最後には、捕えてから、罪を着せる方法とは何かとなって行くのであります。

イエスをキリスト(メシヤ)とは認めない人は、この世には沢山います。あからさまに攻撃してくることもたまにはあります。攻撃はしないけれども、そんなの信じないよという人もおられます。「キリスト教って、いいね。信じてみたいわ。」と口にする人はおられますが、本心かどうかは分かりません。いずれにしましても、イエス様はある時こう言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、
わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ12:30)と。

あるいはまた、こうも言われました。マルコ9:40「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」と。私達は、きょうのところで、第一番目に、メシヤは、どこから来るのか。ダビデの子なのかについて、見ました。そして第二番目に、詩篇110篇1節からダビデはどう言っているかを見ました。そして第三番目は、パリサイ人たちが考えているようなメシヤではないことを明確にされました。
人は、イエス・キリストをいろいろと観察します。行なわれたことを評価します。聖書を調べます。ある時には、キリスト者と論争になるかも知れません。いずれにしましても、イエス様が最終的にあなたに望んでおられることは、イエス様に対して、敵でもなければ、散らす者でもない。むしろ味方であり、集める者であってほしいと願っておられるのです。その為に、この地上に神でありながら人となって来られたのでした。

イエス様には、これからなすべき大仕事が残されております。それは、全ての人の罪を贖うという仕事であり、それはまた、罪人の身代わりの死を意味しておりました。
イエスがキリスト、メシヤである理由はここにあります。ここに到達するまで、人は、ああでもない、こうでもないと、イエス・キリストに対して間違った考え方を繰り返すのです。聖書に書いてあることをどんなによく知っていても、ヨハネ20:31にありますように「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」という真理に、至らなければ、何の意味もないのであります。

キリストと戦い続けることではなく、キリストと共に平和であり続けることが、どんなに大切であり、また幸いであるかをこの朝もう一度考え、すでにキリストの恵みによって救われている私達は、どんなに素晴らしい真理に神様は導いて下さったかを覚えて感謝しようではありませんか。


2014年2月16日(日) 「謙遜に生きる」  マタイ23:1-12  竹口牧師

きょうからマタイの福音書23章に入ります。イエス様は、エルサレムに入城をなさり、宮清めをされました。これまでにもそうでしたが、宮清め以後も変らず律法学者、パリサイ人、祭司長、サドカイ人達が質問し、イエス様は、それに答えられました。
22章の最後になりまして、46節で「その日以来、もはや誰も、イエスにあえて質問をする者はなかった。」とありますように、表向き、堂々と質問を仕掛ける者はいなくなりました。

きょうの所は、イエス様が、律法学者、パリサイ人の行なっている事を非難される場面です。そして、その非難を私達は、他人事のように考えることなく、自分に言われている事として、受け取りたいのであります。

まず第一番目に注目したいのは、1-3節の事であります。そこには、こう書いてありました。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。『律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなた方に言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。・・・』とです。

ここで、私達が、まず気をつけなければならないのは、イエス様の否定的な言葉だけに目が行って、肯定的な言葉を見失う事の危険であります。イエス様は、決してパリサイ人の悪い点だけを言っておられる訳ではありません。それは、見落としてはならない大変大切な点であります。何しろ、良くも悪くもユダヤ教、キリスト教が今日まで続いたのは、彼らの果たした役割がとても大きいからです。

では、イエス様の言われた肯定的な事というのは何でしょうか。
それは、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」という点であります。では、このモーセの座が何を指しているかと言いますと、諸説あるのですが、私は、「教える権威を指す」とか「モーセの律法を解釈し適用する責任を公に認められた者たちを指す」という説を支持します。

これが、何を意味するかと言いますと、彼らは、確かに解釈の点で、大きくイエス様と異なる部分がありました。しかし、みことばに権威を認め、大切にし、それに忠実に生きようとしたパリサイ人の姿勢には、まず私達は学ばなければなりません。確かにパウロがローマ10:2で言っていますように、「熱心であっても、その熱心が知識に基づくもの」でなければ、意味がないことは確かです。

しかし、何よりも御言葉に権威を認め、それと格闘し、それに生きようとした姿には、私たちは学ぶ必要があります。私達は、誰よりも何よりも御言葉に権威を置かなければなりません。その上で、イエス様のパリサイ人に対する否定的な言葉にも耳を傾けるべきであります。「彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」とイエス様は言われているからです。

イエス様は、言われました。「彼らがあなたがたに言う事はみな行ない、守りなさい。」とです。勿論、その彼らの言っていることが、御言葉に真に合致していれば、ということになります。

ここで大切なのは、繰り返しますけれども、御言葉に権威を置くという事です。ラビ誰々が何と言ったから、ではないのです。言った人が偉いから、その人の言う事は正しいというのではなく、御言葉がそう言っているから、私はそうするのである。そうでなければならないのです。イエス様は、弟子たちに注意を与えられました。「彼らの行ないをまねてはいけません。」とです。

なぜ、真似てはいけないのでしょうか。それが、この朝第二番目に教えられたいことです。4節、5節に、その回答があります。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、
自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」とあります。

イスラエルはかつて、神様を礼拝する場所、神殿を失い、外国への捕囚を経験し、そういう中で、御言葉に生きることの大切さを経験上学びました。とっても大切なことを彼らは学んだ訳でした。しかし、御言葉に生きるという事がどういう事か、周りの国々の支配の中で、もまれ、時には、流行に流されそうになりました。力で、御言葉から引き離そうとする締め付けもありました。しかし、それでも頑なにみことばを大切にしてきたのが、彼ら、パリサイ人たちでありました。

ところがどうでしょうか。あまりにも熱心なために、彼らは間違った方向に、ずれて行ったのでした。例えば、モーセの十戒の第四番目にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」とあります(出20:8-10)。

さあここで、ではこの所で言われている仕事とは何かと考えました。そして次々に、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、具体的に上げて行きました。その結果、生まれたものと言えば、不自由だけでした。次々に規則に規則を加えて行き、その数限りなし。それはまた、人々に対しては耐え難い重荷となったのでした。
神様は、安息日に仕事をしてはいけないと言われましたが、そんなにがんじがらめに縛ろうとはされていませんでした。むしろ、創造主を覚え、共に喜ぶ日、安息の日であるべきでした。だから、イエス様は、安息日の病人を癒されましたし、弟子たちが、麦の穂を摘んで食べた時にも、してはいけないとは、言われなかった訳でありました。

5節をもう一度読みますと、こうありました。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」これなどは申命記6:4-9などの言葉から来ていると思われますが、そこには、こう書かれております。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」という言葉です。

これは、マタイ22:36節のパリサイ人の質問「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか」という質問を見た時にも開いた聖句であります。この今の申命記にありましたように、パリサイ人たちは、御言葉を「しるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」を実行するために、御言葉を小箱に入れ、額につけ、
それを経札「ティフィリン」といいますが、それはまた「手に結び付け」とありますので左腕にもつけるようになったのであります。

これは、イエス様の時代にすでに行なわれておりましたし、現代のユダヤ人の中にもそれを行なう人たちがいるのであります。あるいはまた、「衣のふさを長くしたりする」というのもまた、民数記15:37-39からきているのであります。そこをまたお読みしますとこうあります。

「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、
着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、・・・』というふうにであります。

経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするというのは、明らかに人の目を意識しての行為でありますので、御言葉を重んじているというよりも、見せかけの偽善行為であると言わざるを得ないのであります。そしてまさに、それをイエス様は指摘されたのでした。

なぜ神様が、あの旧約時代にモーセを通して言われたのか。そして、イエス様の時代の人たちはどうすれば良かったのか。そして更には、現代の私達はどうすれば良いのか。これは、神様が何を意図して言われたかを知るなら、旧約時代であろうが、イエス様の時代であろうが、更には、今日の私たちであろうが、いつの時代の人たちでも全く違いがないのであります。

つまりそれは、御言葉を書いた物を体から離さないことではなく、あるいは、持つことではなく、その書いてある意味を汲み取り、御言葉と共に生きなさい。歩みなさい。行ないなさい。それがたといどんな時であっても、という事なのであります。神様が命じられたことを、杓子定規に受け取り、それを行なう事が、御言葉に生きているとは言えないのです。

それはまた、この朝の第三番目に取り上げる事へとつながるのです。
6節から11節の言葉であります。まず、もう一度お読みしますが、「また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場で挨拶されたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。

しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人しかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、即ち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」とこのようにイエス様は言われました。

皆さんはこれを読んで、どのようにお感じでしょうか。きょう、只今より、1週間だけためしにやってみられるでしょうか。「先生と呼ばれてはいけない」では、先生と言わないようにしよう。「父と呼んではいけません」それでは、お父さんとか、父上とか、言わないようにしようとか。「師と呼ばれてはいけません」では、牧師とは言わないようにしよう。

ここで言われていることは、そういう事なのでしょうか。
イエス様は、そのように果たしてここで言われているのでしょうか。
ある団体では先生と呼ばないで「何々さん」と呼んでいるそうです。
それが、この聖書箇所から来ているかどうかは知りません。
が、いずれにしましても、イエス様がきょうの所で言われていることは、決して使ってはならないと果たして言われているのでしょうか。
ここの所も、一度、止まって考えてみる必要があると言えましょう。
イエス様の言われたお言葉ですから、非常に重いものがあります。
それは、ちょうど申命記にありました、「しるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」に通じるものがあります。つまり、手に結び付け、額の上に置く事が目的ではなかったように、イエス様が言われたことも、同じような事が言えないだろうか、と、そう言えるでありましょう。

使徒の働き7:2節でステパノは、議会の席でこう語り始めました。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて・・、」そう言って、話しを始めております。或いはパウロもまた、使徒の働き22章1節でこう言って、弁明を始めています。

「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」と、こういう風に、であります。パウロは手紙の中で、へペソ人に向けて6:4で「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって主の教育と訓戒によって育てなさい。」と書いていますし、

或いはコロサイ人に3:21で、「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」と書いていますし、更には使徒ヨハネが、Tヨハネ2:13で、また2:14で「父たちよ」と書いているのであります。

こうして見ますと、使ってはいけないのではなく、私達の本当の先生であり、また師であるお方、更には、父なるお方は、真の神であり、そのお方がおられることを決して忘れてはならないよ、という事でありましょう。呼ぶ方も、呼ばれる方も、この、真の神様を決して忘れてはならないという事であります。

「初代のキリスト教会では、このラビという称号(つまり、先生)という言い方ですが、もはや使われなかった」といいます、そのようにある本にはありました。
しかし、いつしかまた使われるようになりました。私達がいつも気をつけたいのは、
律法学者のように「先生」と呼ばれているうちに、自分が権威をもっているかのごとく錯覚したり、また、人を裁いたりしないようにという事でありましょう。

「先生」とか「師」とか「父」というこれらの称号は、どれも権威ある存在であることを意味し、尊敬されるべきものでありますので、イエス様が、きょうの最後の所で言っておられるように「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」という事を知って、本当に権威のあるお方から目を離さないで、
謙遜に歩むことを教えられるのです。

ここにおられる皆さんお一人、お一人が、家庭や職場、学校、或いは、さまざまなサークルの中で、大切な働きと地位があると思います。その中で活動する時に、その地位に甘んじたりすることなく、生殺与奪の権威をお持ちの方を意識しつつ、神様がそれぞれの地位につかせて下さっているのですから神様に仕えるように人にも仕えなさいという事なのです。そのように謙遜に歩ませていただこうではありませんか。それこそが、神様があなたに求めておられる事なのです。


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