2014年3月9日(日) 「イエスの怒り」 マタイ23:13-32 竹口牧師
司会者の方には、13節から22節までを読んでいただきましたが、この朝は32節までを範囲として、お話し致します。
イエス様は、先回の所で、群衆と弟子たちに対して、律法学者、パリサイ人たちに注意するよう教えられました。そして今日の所では、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と呼びかけ、この言い方で、13節、14節、15節、23節、25節、27節、29節と、全部で7回繰り返し言われて、痛烈にパリサイ人をイエス様は批判しておられます。
ただここで、14節は、括弧つきで入っておりまして、「異本に、この節を欠くものもある」とありますので、これを一つと考えないで、16節の「忌まわしいものだ」というのを、一つにあげて、7つとしている本もあります。
その全体像は、このような構成になっております。最初の二つ、つまり、13,14節、もしくは15節が、パリサイ人の教え全体が誤っている事、次の二つ16,23節が、教えが本末転倒していること、最後の部分、25,27,29節は、彼らの偽善に対する警告であります。これは、当時の人たちであれば、イエス様の言われていることを聞けば、なるほどと納得できる。そういう的確な指摘をイエス様はなさった所であります。
聖書の長さが長いものですから、2回に分けてしようかと思いましたが、あえて、2回にはしませんでした。
ところで、先ほども申し上げましたように、イエス様は、7回繰り返して同じような言い方で、語りかけておられます。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」とです。
しかしここで、私達は、このイエス様のお言葉から、パリサイ人全員が、悪かったのではない。その事は言うまでもありませんが、まず彼らの悪い点を見る前に私たちは、心しておかなければならない点があるのであります。
なぜなら、ニコデモのような人もいたからであります。そして、もう一つは、イエス様は、彼らの間違いを指摘されましたけれども、だからあなた方はもう救いようがないとそのように突き放すために言われたのではない、そのことも覚えつつ、読んで行かなければなりません。なぜなら、彼らの行なっていた事は、私たちもまた、行なう可能性があるからであります。熱心のあまり、イエス様の求めておられることの反対をしている、そういう事もあり得るからです。
では早速、イエス様の言葉に入っていきますが、まずイエス様の繰り返しの言葉、きょうの所で「忌まわしいものだ」と訳されているギリシャ語は、Ouvai「ウーアイ」であります。そして、この単語の意味は、「ああ」という「溜め息」といいましょうか、イエス様の悲痛な気持ちが現われている言葉であります。この同じギリシャ語の言葉を、新改訳では、ここでは、「忌まわしいものだ」ですが、24:19では「悲惨である」、26:24では「のろわれる」、あるいは11:21では、先ほども言いました「ああ」という風に、色々に訳されています。
こういうところが、翻訳の難しさというのでしょうか。私には全く手に負えない領域なのであります。が、少なくとも、イエス様が繰り返されているという事は、最初の方でも申し上げましたように、その言葉の中に、完全には見捨ててはおられない事に注目しなければなりません。
しかし、それにしましても、熱心のあまり間違った方向に行ったというパリサイ人たちにとっては最大の悲劇であったと言えましょう。イエス様は、彼らの間違いを徹底的に述べられるのであります。まずは、もう一度13節を読むことにします。
「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないのです」と。 自分でイエス様の言う事を信じないのはともかく、入ろうとする人々をも入らせない。これは、大変な罪であります。しかもそれが、パリサイ人たちにとっては、正しいことであり、まじめな人、道徳的で、何と言っても、律法を行なう事によって義とされ、その者だけが、天の御国へ行ける、そう信じて行なっていたのですから悲劇であります。
彼らの物差しで、律法に従っていないと見たものは全て罪人として彼らは人をさばいていたのでありました。また、イエス様の述べ伝えられた福音を信じないで拒絶し、それだけでなく、人々がイエス様に従わないように導いた。従って、今回のような事をイエス様に言わしめたのでありました。
ところで、括弧つきの14節は、いわば、みせかけの行為の否定が書かれているのであります。そして第2番目の指摘は、15節であります。 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。 改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」とあります。
「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り」とありますが、勿論、この当時飛行機などありませんから、船で外国にまで出かけて行って、ユダヤ教に改宗させ、そのためには、割礼を施し、更には、律法を彼らが考えるところの解釈で教えたのでありました。その結果、ユダヤ人よりも更により熱心なユダヤ教徒にさせるということになりました。それによって、神の国からますます遠ざける結果となり、「ゲヘナの子」即ち、滅びの場所に行くようにしたのでした。 考えて見て頂きたいのですが、熱心なことはよい事です。でもその熱心が、間違っていたなら、それは最悪であります。パリサイ人たちのしていた事は、正にそれだったわけです。
次に第3番目の指摘は、16-22節にあります点で、これは、誓いについての間違いであります。イエス様は、具体的に述べておられます。 16節『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。 しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 18節『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。 しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』と言っていると言われます。 つまり、ここには、神殿の黄金や祭壇の供え物を指して誓った事は果たさなければならないけれども、神殿や祭壇を指して誓った事は果たさないで良いとパリサイ人たちは教えていたということになります。
しかもここには、巧みな「からくり」がありまして、誓いを果たせなかった時の言い訳も含まれているのであります。しかし、そのようなことは、聖書には書かれておりません。そこでイエス様は言われるのです。 19節以下で「 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらが大切なのか。」 20節「 ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」とです。 21節「 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。」 22節「 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」とです。要するに、何を指して誓おうが、誓う事に変わりはない。 そして、その誓いは、必ず果たさなければならない。そういう事であります。
誓いは、果たすためにあります。ですから、誓いを破るかもしれないことを想定して誓う事は誓いではない、そうも言えないでしょうか。日本語に、「嘘も方便」という言い方があります。まあ、その場をうまくとりつくろっておけばいいや、と言った感じでしょうか。また「あのことは、一切水に流そう」という言い方もします。その場、その場で、上手に取り繕い、うまくいけばそれでよし。うまくいかなければ、ごめんなさい。そういう言い逃れをしないために、彼らパリサイ人は、厳格に、色々決めごとをしたのだと思われます。
しかし、そういう考えは、神様の御前には通じない事を、イエス様は、指摘されますし、私たち日本人も、よく覚えておかなければなりません。今も言いましたように、パリサイ人たちは、御言葉を通して、「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ19:12)という神のお言葉を守ろうとしつつ、いかにして誓った誓いが、罪に問われないか、その事に考えをめぐらし、いわば、律法の網の目をいかにかいくぐるか、あるいは、どのようにして律法を犯していない事にするか、いわば、言い逃れのような事を一生懸命考えたようにも思えます。
しかし、主は、表に出た行為だけでなく、その行為に至る過程にまで遡って吟味されるのです。ですから、聖書の本来の教えから離れて、勝手な解釈をし、彼らが、自らが滅びに行くのは致し方ないとしても、神の国に入ろうとする者をも妨げたりしないようにと、イエス様が言われる訳であります。私たち達もまた、大変注意が必要であると言えましょう。
さて、第4番目から第6番目については、パリサイ人たちの行ないに関するものであります。まず4番目は、23,24節で、献げものについてであります。 23節「 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中で、はるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。 24節 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」とイエス様はいわれました。
はっかは香料に使われます。いのんどもまた香辛料に使われます。クミン、これもやはり香辛料に使われます。つまり、お分かりのように、料理の中で、これらは、中心的なものではない訳です。確かに料理としては、香りが良いとか、一味違うとか、 そういう違いはでてきます。 しかし、料理としては、それがなければ、成り立たない。そのようにいう人もいるかもしれません。しかし、それがなければ、食べ物にはならない。そういうものではないはずです。あくまでも、料理を引き立たせる役目でありましょう。ですから、そのような物に対しても厳格に、その10分の1を神に納め、自分たちが如何に律法を守っているか、それを表していたのが、パリサイ人であった訳でした。
恐らく彼らは、レビ記27:30にある「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」そういうところから来ていたのではないかと私は思うのです。
でも、そこで言っている十分の一の意味は、そうではないでしょうとイエス様は言われるのです。確かに「地の産物であっても、木の実であっても、採れた物の十分の一は、主のものである。」とあります。それは、間違ってはいない。
しかし、それよりももっと気を配る必要がある。それは「律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義も、憐れみも、誠実こそ、おろそかにしてはならない」そうイエス様は言われるのです。正義、憐れみ、誠実をおろそかにして、つまり、罪人や取税人を憐れまず、やもめの家を食いつぶして、不正の利益をむさぼっていた。これでは、主に本当に従っていると言えるのか、という事です。
祭壇と祭壇の上の捧げられた物とどちらが大切か。勿論、祭壇は腐ることはないけれども、祭壇に捧げられた物は腐るので、その方が大切でしょうか。きっちり十分の一捧げられたものであるから、その方が、大切でしょうか。
いいえ、いいえ、そうではないでしょうとイエス様は言われます。 20節「・・・祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」とイエス様は言われるのです。区別できないのです。 21、22節「また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。 22節 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」大切なのは、誰を証人として誓っているのかということです。神様の御前に、神様を証人として誓っているのではありませんか。それならば、その事を無視して、自らが神となってこれは罪に問われない、否、これは罪に問われる、ということ自体が間違っていませんか。ということではないでしょうか。
24節には、面白い言い方がされています。 「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」とあります。
「ぶよ」「らくだ」は、レビ記の規定では、「不浄の生き物」です。 その不浄のものを間違って食べないように、飲まないように、飲み物は、こして飲んだそうです。それくらい自らを聖く保っているはずの者が、どれほど、大きな不正や不義に目をつぶっているのかとイエス様は言われるのです。私達はまた自らを省みたいものです。
さて第5番目は25,26節で、杯や皿の内側、外側のきよめについてそして第6番目は、27,28節で、墓の外側、内側について、そして最後の第7番目は、記念碑について取り上げられています。まず、第5番目の杯や皿の清めについてですが、儀式に使う器物は、特に神経質に洗いきよめたようです。
ラビたちの教えでは、「特に内側を念入りに清めよ」と言い、そうしていたようですが、イエス様は、いくら内側をきれいにしても、それは結局は外側にすぎない。本当の内側とは、それに盛られる中身の食べ物であり、その中身が、不正と貪欲で獲得した物であったなら、いくら清めても、聖くはならない。そういう皮肉も込められていた様にも思えます。
第六番目は、墓の内側、外側ですが、毎年過ぎ越しの祭りの前後には、各地から多くの巡礼者が訪れ、エルサレムとその近郊は、ごった返し、巡礼者が墓に近づいて汚れないよう、白い漆喰で必ず墓の入口や周囲を塗りなおしておく習慣があったそうです。 どんなに小さな墓でも、真っ白に塗って、危険信号としてわかるようにしたようです。 なんという巡礼者に対する素晴らしい配慮でありましょうか。
ところが、ご存じのように、墓の中がそうなら、まして墓のそばを通る人間の方もその内側は偽善と不法でいっぱいだとイエス様は言われるのです。
そして最後の第七番目は、イエス様の時代、ダビデの墓に行って聖人崇拝に近い事をしたり、殉教した預言者のために記念碑を建立したりすることが流行ったと言われています。ですから、イエス様は、そんな宗教行事に熱心な彼らであるけれども、皮肉にも殺人者の精神だけを受け継いだように証言している、そんな風に言っておられます。
31節32節「あなた方も先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」そう、イエス様は述べられました。
以上、今まで見たことから、私達は何を学ぶべきかでありますが、一番最初のほうで申し上げましたように、イエス様は、彼らが犯した数々の間違いの指摘には、その間違いに気付いてほしいという事でありました。これから更に39節にかけて審きの宣告でありますが、しかし、神様は、私達がどんなに悪くても、その罪に気付き、悔い改める者を見捨てることはなさらない、この事は、私達がどんな事があっても忘れてはならない点です。
罪を犯しても、その罪に気づかされ、イエス様に憐れみを求めても一切許されないとしたなら、イエス様と共にあの十字架に架けられた強盗の一人は、例外中の例外という事にならないでしょうか。
そうではない筈です。 人は行ないによらず、恵みによって救われるのですから、罪に気付かせていただいた時、赦しを求める者に、どうして、審きが下るでしょうか。厳しいイエス様の指摘の中にも、悔い改めの心を求めておられることを私達は忘れないようにしたいものです。 そして悔い改めて、同じ間違いを犯さないように、また、その罪から離れられるように神様に助けを求めて歩もうではありませんか。
2014年3月16日(日) 「イエスの宣告」 マタイ23:33-39 竹口牧師
先回は、イエス様が7回も、同じ言葉で、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」とパリサイ人に語りかけられ、彼らの罪の指摘をされた所を見ました。 自分たちが罪を犯しただけでなく、周りの人をも巻き込んで、「入ろうとしている人々をも入らせないのです」と言われるほど、彼ら律法学者、パリサイ人は、人々に悪い影響を与えておりました。
そして今日見る所は、その結果、彼らがどうなるか、それをイエス様が宣告される所であります。イエス様のお言葉は、いきなり激しい言葉で始まっています。 「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」とであります。
「蛇ども」とか「まむしのすえども」という言い方は、パリサイ人たちの悪の象徴、本性を表していると言えましょう。が、実際の所、この世には、恐ろしいもの、危険な生き物は、沢山おりますが、創世記の3章に出てきた蛇の事を考えますと、人を惑わす物として出てきますので、イエス様は今回、そう言われたのかも知れません。
ただ、この世の中に、蛇をこよなく愛し、ペットにする人は、全くいないとはいいませんが、そう多くはいないでしょう。実際に、ペットにしている人をテレビで見た事がありますから、まんざらいないわけではありません。がしかし、一般的には、気持ちが悪い存在であります。
まむしは、勿論、命取りになる生きものですから、怖さに於いて蛇以上に危険に通じるものがあります。従ってイエス様は、パリサイ人たちをそう擬人化されたのでした。 そういえば、バプテスマのヨハネもまた、ヨルダン川において活動していた時、やって来たパリサイ人やサドカイ人達に対して「まむしの末たち」という言い方をしておりました。
しかし、イエス様はそれほどまでにあからさまに「蛇ども、まむしのすえどもと言われた理由は、先回見た通りでありまして、非常に大きな罪をパリサイ人たちは犯しているのでありました。今回は、そのように呼ばれた彼らの行く末がどうなるか、それが語られているのであります。
まず最初に、34節から36節までをひとくくりとしてみることにしますが、13節「忌まわしいものだ。偽善の律法学者」から始まった非難の総まとめともいえましょう。 34節にはこうあります。「だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。」と言われます。 イエス様はここで、「だからわたしが・・を遣わすと・・」と言われています。 本来なら父なる神様が遣わされるというところを、原文では「わたしが」「遣わす」「の所へ」「あなたを」となっておりまして、「わたし」という単語が先に来て強調されています。
ギリシャ語は、大事な事、強調したいことを単語では、先にもってくる来ると言われますので、つまりは、イエス様は、父なる神との一体性を前提にして言われているという事になるわけです。イエス様が遣わされると、その遣わされた人は、お前たちにこのようにされるとイエス様は言われます。「ある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。」とであります。
もっとも、イエス様が遣わすと言われた「預言者、知者、律法学者たち」というのが誰を指すのかははっきりしたことはわかりません。が、いずれにしても、イエス様のお名前によって遣わされる人と言っていいでしょう。そしてまた、ここを読んだ感じでは、旧約時代を思わせますが、時代的には、イエス様はもうすぐ捕えられる頃ですから、イエス様が、直接命じられるというよりは、その時代の前後の人たちのことを指しているのかもしれません。
そして次の35節に進みますと、「義人アベル」の名前が出ています。 これは、聖書の中で、一番最初に殺された人で創世記に登場します。 また「ゼカリヤの血」というのも出ていますが、これは、歴代誌に出て来る人で、神殿の庭で、主の言葉を伝えながら殺された人であります。
そもそもへブル語の聖書では、歴代誌の書は、私達の聖書の並びとは違っていまして、一番最後の所にある書なのであります。ですから、「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで」というのは、旧約の最初から最後まで、罪で満ち、血が流されている。そうイエス様は言われているという事になります。
それだけに、神様は、最後の正しい報復を、あなた方の上に下されますよ、という宣言であります。しかしながら、そう言われますとある人は、ここを読む時に、旧約時代の罪は、旧約時代の人に罰を与えれば、それでいいではないか。先祖たちの報いが、今の時代に報いられるべきではない、そういう考えもでてくるのであります。
しかし、実際は、そういうことではありませんで、彼らパリサイ人たちは、悔い改めるべきであるのにそうしない。それ故、今の時代の罪に更に、これまでの罪も加えられて臨みますよということです。イエス様はそうおっしゃいます。そして、これは、大変恐ろしい事であります。何しろ罪の加算でありますから。 こうして見ますと、もうパリサイ人には、救いはない、そのように思えてきます。 しかしながら、考えて見て頂きたいのですが、彼らは私達と違って、今まさにイエス様が目の前におられるのです。彼らは、ここで、間違いに気付かされ、悔い改めればよいだけなのです。ところが、実際はそうはいかないのです。
一旦、イエス様を敵とした彼らは、殺そうと躍起になっているのです。 それゆえ、きょうの後半に見られますようにイエス様の嘆きとなって現われている訳であります。37節「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」とであります。
ここで、新改訳では、「ああ」という感嘆詞がありますが、ギリシャ語本文には、その言葉に当たる単語はありません。しかしイエス様の嘆きの深さ、強さを表すには、適切だと思います。それだけイエス様の嘆きは大きいという事でありましょう。
この世には多くの生き物がおりますが、その生き物は、その性質上、ゆくゆくは一人立ちしなければなりません。勿論、人間でもそうですが、従ってそのためには、一人で生きて行くための術を、親は子どもに教え、一方、子どもはそれを見ながら、習うのであります。
今回、イエス様はめんどりを例えに挙げておられますが、言うなれば、めんどり即ち親鳥ですが、それに限らず、動物でも魚でも、小さい時には、親は、自分の命をかけて守ろうとするものであります。それこそ、命がけの戦いを繰り広げるのです。これも、神様がそれぞれに与えられた子孫の永続のためでしょう。
ところで、道を外れたイスラエルに対して、神様は預言者をお遣わしになりました。 けれども、イスラエルは、その預言者を殺して答えました。神様の愛は、イスラエル、中でもエルサレムという町は特に愛の対象が大きいものでした。ですから、特別多くの預言者をエルサレムにお遣わしになりました。しかし、パリサイ人たちは、遣わされた人たちを石で打ちました。そしてそれは、今も続いていることを指して言っておられます。
旧約の預言者も含めて、神の民のために遣わされた者は、イエス様の招きの使者であり、従って、それを拒否する者は、先祖も今の時代も全部であり、それはつまり、あなた方なのですよと言われるのです。イエス様の方から善意に基づく、愛と恵みの招待をした。しかし「それなのに、あなた方はそれを好まなかった」、願わなかった、拒絶した、とイエス様は言われます。 それは、イスラエルに罪に罪を重ねさせるために人を送ったのではなく、むしろ悔い改めることを願ってしたこと。それだけに、それを求めないイスラエルは、極悪の罪を犯した事になるということなのです。一体、人とは何者なのでしょうか。罪を指摘されると怒ります。罪赦されると、その事の喜びで感謝する事を忘れてしまいます。 それどころか、罪を犯したことすら忘れてしまい、再び罪を犯してしまうのです。
イエス様の求めておられることはそうではないのです。悔い改めを求めておられるのです。そして、その犯した罪から離れるよう求めておられるのです。しかしながら、イスラエルの歴史は、罪を犯して罰を受け、悔い改めたかと思うとまた罪を犯す。その繰り返しでありました。
「ああ、エルサレム、エルサレム。」と嘆きつつ、神様の姿勢を次に述べられました。 「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」とです。親子の関係の愛のように、とりわけめんどりという例えをもってイスラエルに語りかけられました。しかし、それでも「あなたがたはそれを好まなかった。」と、そうイエス様は言われるのです。
どうして人は、そんなにも頑ななものなのでしょうか。 罪に罪を重ねる方向になぜ行くのでしょうか。 私には、不思議でなりません。
イスラエルの歴史を見ていますと、困難にあってまことの神に立ち返る者もいれば、ますます、罪に罪を重ねた王もおります。分裂王国で南ユダの最初の王になったレハブアム。彼などは、最初は神の人の言葉に聞き従っていました。しかし強くなると、神に背くものとなって行くのです(U歴代12:1)。多くの場合がそうですが、中には、マナセ王のように最初から神に背く王もいます。
しかし、神が人たちに罰を下され、外国に連れて行かれますと悔い改め、またエルサレムに戻された王もおります。(U歴代33章)翻って、人は誰でも生まれた時は罪人なのですから、神に喜ばれる者ではありません。しかしそれが、神によって変えられて、神の子とされるのです。それだけに、律法学者パリサイ人であっても、心をかたくなにしないで、神様に変えて頂くなら、イエス様のあの嘆きの言葉を聞く必要はなかったのであります。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。」まるで、イエス様のこれから起こることを、前もって言われているような感覚になります。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」と言われます。
イエス様が、どれだけエルサレムを愛され、イスラエルを愛され、イエス様を信じる者を愛されているか、お分かりでありましょう。しかし、現実はそうではなく、愛されている事が分からないのです。だから、イエス様は38節でこう宣言されます。 「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」とであります。
主の求めておられるのは、本当は何か、その事を知る必要のある事を覚えます。 それについて言うとするなら、イスラエルの王であったダビデはこう歌いました。 詩篇51:16-17にこのようにあります。 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」とです。
真の神様とは、そういうお方なのです。いけにえではなく、悔いた心を求められるのです。あるいはまた預言者ホセアは、こう書いております。 ホセア書10:1-3 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。 それなのに彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしが癒したのを知らなかった。」と。
神様は、イスラエルを愛し、近づかれます。しかし、近づけば近づくほど、イスラエルは去っていきます。離れて行きます。なぜなのでしょうか。罪ある故でありましょうか。あれほどイスラエルを思い、イスラエルに語りかけ、イスラエルと交わろうとされているのに、イスラエルは、心を固く閉ざしたままです。ですから、イエス様は、最後の締めの言葉として39節の言葉を述べられるのであります。
「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」とであります。
ご存じのように、イエス様は数日の内に、十字架にかかられ、殺され、葬られ、三日目に甦られ、そして40日間、弟子たちと共に過ごされますが、やがて天に帰られます。 ということは、二重括弧の『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』という時というのは、つい先日、エルサレムにイエス様が入城された時のような、人々に歓迎され迎えられる再臨の時と言えるでありましょう。
私達は、それが、いつ、どんな時かを知らされていません。 けれども、再び来られる事だけは確かですので、かつてイスラエルがイエス様を歓迎し、迎えたように、その時には、心から喜びをもって迎えたいものです。 ただし、この聖書の時点では、パリサイ人たちは審きの対象です。
イエス様が来られることを、信じて救いに与っている人にとっては、大変喜ばしい事ですが、そうではない人にとっては、大変恐ろしい時である事は、心に留めておかなければならないと言えましょう。神様は、イスラエルを愛されました。しかし、イスラエルという国を愛されたのではなく、ユダヤ人を愛されたのでもなく、イエス様を救い主と信じ、王の王、主の主と信じる者を愛された。また愛される。 そのことを決して見過ごしてはならないのです。
何度も言いますが、パリサイ人たちにイエス様は厳しく接しられました。 それは、彼らが救われないようにするためではなく、また、滅びの道に行くようにされたのではなく、愛をもって語りかけ、間違いに気付くようにされたのであります。 その事を覚えつつ、彼らの間違いを、私たちもまた行なっていないか、自分自身の心を探ってみようではありませんか。偽善者と呼ばれるような見えをはっていないか。 外側だけ取り繕って、歩んでいないか。人々の躓きの石となっていないかと考えさせられます。
主を信じさせて頂き、イスラエルの民の一員とされた私達が、イエス様の警告に謙遜に耳を傾け、神様が本当に喜ばれる歩みをさせて頂こうではありませんか。
2014年3月30日(日) 「終末の前兆の中で」 マタイ24:1-13 竹口牧師
世の中がこれからどのようになっていくか、その見方は、大きく、二つに分かれます。 それは、限りなく理想的な社会が出来あがるという見方と、一方、人間の欲から見れば、この世は破滅するという見方です。皆さんは、どう思われるでしょうか。今まさに、軍備増強の時代に入った感があります。ニュースを観ながら戦争に発展しない事を願っております。
ところで、聖書は、そのような二つの考えの中で、どう言っているかと言いますと、人間の力、能力に過信し、神様に敵対する人間に対して、例えば、バベルの塔の時のように、散らされたり、あるいは、ノアの洪水の時のように、地球全面を水で覆い、人間を滅ぼされたりとされたと言います。それらは、かつてあった事であり、これからは別の方法で世の終わりが必ず来るとそう聖書は言っております。今は、それに向かって進んでいる。必ず厳しい時代がやってくると聖書は告げます。そして私達は、その聖書の教えの通り、そう信じている訳であります。
ところで、本日イエス様が語られている所は、まさに、この世が、終わりに向かっていくことを宣告される所であります。
イエス様は、前の章の所で、激しく律法学者を責められました。それは、彼らが正しく神様のお言葉を伝えていなかったり、また、自らも行なっていなかったからでありましたが、その後イエス様はどうされたかと言いますと、宮を出て行かれたのでありました。そして、オリーブ山に向かわれました。
その時に、きょうの聖書箇所の1節を見ますと「弟子たちが近寄ってきて、イエスに宮の建て物を指し示した」というのであります。
ではなぜ、弟子たちがそんな事をしたのでしょうか。 それは、2節によって想像がつきます。つまりヘロデ大王によって紀元前20年に神殿修復増築が始められ、そして、ヨハネの福音書2:20によりますと「この神殿は、建てるのに46年かかりました」とありますので、イエス様が公生涯に入られた時は、完成していたことになります。勿論、まだあちこち手を入れていたかもしれませんが・・・。
それ位かけて立派な建て物にしていたという訳であります。シオン山の頂上が約300メートル四方の平地になっていて、その一番奥に神殿が建っておりました。白い大理石の建物に、金の屋根は、日光を受けると、眩しく反射したそうであります。低地にあるエルサレムの町と神殿の丘には、トロポエオンの谷があり、その谷には、巨大な橋がかかっており、神殿の周囲には、ソロモンの廊、王室の廊があり、この廊を支える支柱は、原石から切り出した一枚石で、高さ11メートル、厚さは3人の男が手をつないで、やっと届くほどのものであったそうです。
また、神殿の角から発見されたおや石は、約6Mから12Mの長さがあり、100トンの重量を支えられるものであったと言われます。そんな感じですから、オリーブ山の方からガリラヤの田舎から出て来た弟子たちが、イスラエルの中心都市エルサレムの街並みや神殿を見た時、ひときわ際立つ神殿には圧倒されていたでありましょう。
しかしながらイエス様は、建物の素晴らしさではなく、これから起こることに目を向けるようにと、弟子たちに言われたのでありました。 2節「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とであります。
イエス様は、弟子たちが、今、目の前にしている立派な神殿の、「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とまで言われたのでありました。 これは、実に大変な事をイエス様は言われた事になります。 そしてこの事は、弟子たちにとって、にわかに信じがたい事であったと思われます。
しかしそれは、紀元70年にローマ軍によって、徹底的に破壊されることが実際に起こる事になるであります。しかしながら、弟子たちは今のこの時には、それがいつ起こるのか分かりませんでしたし、またそれだけに、いつなのか知りたいと思うのは、誰でもが心に感ずる自然なことありまでしょう。ですから、3節で、弟子たちは聞くのであります。
聞く内容がただごとではないだけに、弟子たちが、ひそかにみもとに来てこう言ったとあります。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』とであります。
これを読んでお分かりのように、弟子たちが聞いていることは、ヘロデの神殿のゆくすえだけでなく、「あなたの来られる時や世の終わりには、・・・」と言っていますから、イエス様がこの世を去られ、その後再び来られることを知って言っていますし、それ故に、その時までの事、つまり、イエス様がこの世を去られ、そしてまた再び来られる、その事をも指して聞いていることがわかります。
また、イエス様の答えも、ローマ軍によって神殿破壊されることだけでなく、今現在の私達の時代から言いますなら、それをも飛び越えて、要するに、弟子たちにしてみますと、彼らは知らなくても、神殿の破壊という間近の事も含んでおりますが、ずっと先の事をもイエス様は語って下さったという事であります。つまり、近くと遠く将来という両方に起こる事、それを世の終わりの預言の兆候として話されるのであります。
実は3節の弟子たちの言葉をよく読んでみますと、彼らは、ヘロデの神殿が、そんなに間近に破壊されるとは思っていない。ずっと先の出来事、言うなれば、世の終わりとヘロデの神殿の石が崩されるのと同じ時期のように考えて言っているようにも考えられなくもないのですが、どうでしょうか。読み手によって大きく違いますが・・・。
が、まあそれはともかくも、イエス様は、次のような事が起こると言われるのであります。私達から見れば、遠い昔の出来事として、ヘロデの神殿が壊され、今はもう、跡形もない事を知っています。ですから、弟子たちよりは、もっと私達には更に次の段階に入っていることを意識しますし、また、意識しなければならないのです。そういう環境にあるともいえましょう。従って、いつ、その時が来ても良いように備えておきたいものであります。
さて、では、世の終わりが近づくとどんな事が起きるのでしょうか。 まず一番目は、4.5節で挙げられています。 「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、 『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。つまり、偽メシヤが現われるということであります。
しかし、これは何も、昨日やきょう、始まったことではありません。 キリスト教の初期の段階から、次から次に異端が出て来て、多くの人を惑わし、真理から引き離して来たのであります。現代もまた多くの異端が存在し、人をまどわしているのであります。異端の中には、ある一人の人物をキリストとして崇めさせている。 しかもそれは、巨大な勢力を維持し、今も盛んに布教活動をしているのであります。
そのある一人の人物とは、警察に逮捕され、懲役に服し、出所した人であり、女性問題も数多く起こした、そういう人柄です。でもメシヤ、キリストとしてその群れの人たちは信じることを止めないのであります。実に恐ろしい事であります。
何が恐ろしいかと言いますと、キリストに敵対しているのですから、滅びの道をまっしぐらに突き進んでいる。その事を知らないからです。彼らにはその自覚がないのです。
第二番目のイエスの指摘は、6節であります。 「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」とあります。
今でも、世界のあちこちで戦争が起こっています。 しかし、それは、地域的な規模であるとも言えるでしょう。 戦争と、戦争のうわさというものは、私たちの国の周りでも、ありますし、一触即発という非常に危険な状況であります。それだけに、何としても避けたいものでありますが、最悪、そのような状態になったとしても、しかし、それが即、終末ではないとイエス様は言われます。経験したくない事ですが、終わりの始まりに過ぎないとイエス様は言われます。
第3番目のイエスの指摘は、7節であります。 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」とありますように、天変地異が起きると預言されています。日本も、阪神淡路大震災や、東日本大震災を経験しましたが、もっともっと大きなことが世界的な規模で起こる。しかし。それがいつ起きるか分からないという恐れがあります。
南海トラフトがどうのこうのと言って、盛んにその対策が考えられ、準備するよう言われています。自分たちが、震災、災害に遭わなくても、そういう人たちを助ける働きは当然するようになります。また、インドネシアや、トルコやあるいは、中国に於いても、というように、地震が世界各地で起こっております。
世の終わりが近づきますと、このような事が頻繁に起こる事が考えられます。 しかし、イエス様は8節で「しかし、そのような事はみな産みの苦しみの初めなのです。」と言われ、世の終わりには、もっとひどいことが起きる、その事をイエス様は言われているという事でしょう。
そのようなことを考えますと、まことに恐ろしくなってきます。 少なくとも、科学の発展によって、人間の未来は明るいなどとは、どうしても考えられません。むしろ、新しいものが開発されるたびに、危険度は増してきている、そういうこともできましょう。一つの便利な物をこしらえますと、それをまた必ず悪用する者が出て来ることからも分かります。
第4番目は、9節にありますように迫害の指摘であります。 「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」とあります。 これを読む時、本当に私は心が痛みます。それは、自らがそういう目に会う事の辛さは勿論ですが、私達が神様から頂いている宣教の使命を果たす事によって、そして、救われる人が起こされることの喜びと共に、実は、イエス様の言われた迫害のもとに、伝道によって救われたその人たちをさらす事になるからです。
イエス様の弟子たちも、自らが宣教のために犠牲となりましたし、更には、宣べ伝えることによって救われる人が起こされ、その人たちが受ける素晴らしい恵みと共に、苦しみをも賜った事を実感したのでありました。
ですから、イエス様に従うという決心は、それは生半可な思いでは、出来ない事であります。永遠のいのちをいただけるのは、それだけに、選びに選ばれた人だけである。 そこに、救いの素晴らしさがあるとも言えましょう。
今日この日本でも、戦時中のクリスチャン達が経験したような事が、これから起きてきそうな思いを持たざるを得ない事を考えますと、本当に辛いものを私は感じます。 イエス様の弟子たちは、迫害を受け、殺されていきました。あの、使徒たちから今日に至るまで、本当に多くの人が迫害に会い、殺されていったのでありました。
恐らく、もっと厳しい時代が来るだろうことが予想されるのです。 でも、それに怖気づいてはいけないのであります。 肉体は殺されても、魂は殺すことはできないからです。
さて第5番目のイエスの指摘は、10節に見られることです。 「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。」とありますように、これはいわば、外からの問題ではなく、内側の問題です。
「大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います」とは、兄弟姉妹が、お互いに兄弟姉妹とは呼べない、そういう関係になると言われるのです。誰も信じられなくなる。 疑いの目で見たり、見られたりする。何という恐ろしい事でしょうか。そこには一層、神様だけに目を向けて歩まなければならない、その事を実感すると言えましょう。
第6番目は、11節に見られます偽預言者の出現です。 「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」とありますが、これまでに、長い歴史の中で多くの偽預言者があらわれました、しかし、世の終わりが近付くに従って、更にもっとひどく、もっと多くそれはあらわれるという事です。
しかしながら、この事を違った方向から見ますと、こういう事も言えるのではないでしょうか。ある人は、こういう風に書いておられます。 「イエスの名を名のる」からには、イエスの名声が知れ渡っていなければならないし、 「わたしである」と言っただけで通じるからには、メシヤの再臨が待望されていなければならないし、「時が近づいた」というからには、終末を待ち望む心が、根をおろしていなくてはなりません。つまり、偽メシヤの出現は、すでに聖書知識とキリスト信仰が広くいきわたっていることのしるしです。
だからこそ、これが終末近しという事の前兆になりうるのです」という風にであります。世の終わりには、世界中に、宣教がなされた状況である、そういう事が出来ましょう。
世界宣教が急がれます。しかし、それはまた、主の再臨が近づく事でもあります。 キリスト者である私達は、それを待ち望まなければならないのです。それに至るためには、痛みを伴いますが、それ以上の素晴らしいものを主は用意して下さっている。 ですから私達はメシヤが再び来られるのを待ち望んでいるのです。その事実を利用して、偽メシヤが現われ、人を惑わすのです。私達は気をつけなければなりません。
さて、預言者という「よ」という文字を、世の中では、未来の事をいう、つまり予めと言う文字を使います。しかし、聖書は預かるという文字の「預」を使います。 それは、未来の事だけでなく、神様からのお言葉を預かり、それを伝えることを言うからです。そこには、人の考えが入ることは許されないのです。
しかし、偽預言者はそうではないゆえに、偽なのです。未来を予言し、あたかもそれが当たったかのように吹聴する。そして、世の人は、何も知らないので、それを信じて振り回される。そういう人が多くいる訳です。何の根拠もないことに怯え、自分自身を傷つけたり、また人を傷つけたりして、挙句の果ては、イエス様の教えを信じない。あるいは、ひとたび信じたとしても、根がなく、この世に流されてしまう人になってしまう。これは非常に残念ですし、また恐ろしい事であります。
なぜなら、本当にイエス様の救いの素晴らしさを味わった者は、その逆の事を味わうからです。イエス様は、同じマタイ10:28でこう言われました。「身体を殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、魂も身体も、共にゲヘナで滅ぼす事のできる方を恐れなさい。」とであります。
そして、きょうの最後の所では、13節「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とあります。世の終わりには、様々な苦難が襲ってくる事が分かります。しかし、しっかりと主に従って歩んで行こうではありませんか。イエス様を信じる者は、いつもイエス様がそばにいて下さり、知恵を与えて下さるお方であり、この世で本当に頼れるお方だからです。
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