2014年4月6日(日) 「終末を生きる」 マタイ24:14-28 竹口牧師
先回、マタイ24章1-13節までを見ましたが、そこには、世の終わりが近くなると起きる事がイエス様によって預言されていました。たとえば、戦争のうわさであったり方々に飢饉と地震が起きたり、更には、そのようになるとキリスト者は苦しい目に会わせられる。兄弟姉妹の間には、裏切り、憎み合いが生じ、偽預言者が起こって、多くの人を惑わす、とそうありました。不法がはびこり、多くの人は冷たくなるけれども「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われます」と13節で結ばれ、忍耐の必要を教えられて、終わっていました。
裏切り、憎み合い、更には迫害といったことを自分がするなどと、想像もしたくはありませんが、世の終わりが近づけば、もしかしたらするかもしれない。十字架にイエス様がつけられた時、弟子たちは、身を隠し、ペテロが知らないと否定したように、私たちもまた、そのような状況に置かれたなら、どうなるか分からない。そこで、イエス様の言われることを素直に受け入れ、心の準備はしておく必要を私は感ずるのであります。
ところで、きょうの最初の御言葉を私は14節と致しましたが、それは、15節へとつなげたいからでありました。14節は、世の終わりに至る順序が書かれております。 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、全ての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」とです。
この節にあります「この御国の福音」とは、御国をその内容としている福音ということでありまして、それがまず、全世界に宣べ伝えられると言われます。それがまず最初であります。次にそれが、全ての国民に証しされると言われます。それが第二番目であります。そして第三番目その後に「終わりの日が来ます」と言われます。
ちょっとここで、皆さんに考えて頂きたいのですが、こんにちキリスト教は、世界三大宗教の一つに挙げられております。ですから、キリスト信仰者は、大変増えて多い訳であります。では、イエス様が14節の言葉を言われた時代のユダヤの状況は、どうであったでしょうか。イエス様は、実にスケールの大きい事を言われましたが、実際は、12弟子をはじめとしてガリラヤの小さなグループと、それに、ユダヤ人の僅かな人たちだけのグループであったのでした。
ですから、イエス様の言われたお言葉「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、」というのは、途方もない事を言われた事になるのであります。しかし、弟子たちは、それを信じてつき従っておりました。何でも最初は小さく、また力が無いように感じるものでありますが、遠い将来を見通せる力があるなら、 現実はあまり問題にはならないものであります。 ところで、これから申し上げる事が、実際に起こった時に、人々は、どういう行動をとったのでしょうか。また、どういう行動をとればよかったのでしょうか。それをこれから見て行きたいのであります。
まず一番目は、15節にあります『あらす憎むべきもの』についてですが、これは、ダニエル書にでてきます「あの荒らす者」(8:13)とか、「荒らす忌むべき者」(9:27)とか「荒らす忌むべきもの」(11:31、12:11)などと関係があります。そしてこれは、ユダヤ人歴史家ヨセフスが言っているそうですが、ダニエルの預言がローマ軍のエルサレム征服において成就した、という風に理解しました。同じようにしてダニエルもまたローマ政府に関して、また、我々の国が彼らによって荒らされることを書いた。そういいます。
ヨセフスはまた書いているそうですが、シリヤ総督監督ポンテオ・ピラトがカイザリヤからエルサレムへ軍隊を派遣し、カイザルの肖像のついた軍旗をエルサレム市内に立てようとした時、偶像を拒否するユダヤ人が死を賭しても軍旗の撤去を誓願する熱意に打たれて、ついにカイザリヤに返したという、こともあったようです。
ですから、「荒らす憎むべき者」とは、ローマ軍旗の事でありまして、ローマのエルサレム攻略軍の軍旗が見えた時、15節のみことばは文字通り成就したとも言えましょう。あるいはまた、『荒らす憎むべき者』というのをこのようにいう人もおります。「ダニエル書のこの表現は、西暦前167年、エルサレム神殿にゼウス神への祭壇を築き、豚や汚れた動物をいけにえとして献げたアンテオコス・エピファネスを指している。イエスは、そのようなエピファネスを終わりの日に神に反逆して立ち上がる人物のタイプに見立てたのである。」とであります。
ローマにしろ、シリヤにしろいずれにしましても、私たちにとっては、もうすでに起こった事であり、過去の事でありますが、しかし、それで終わりではなく、同じような事が今後、世の終わりには必ず起こる。この事を、私達はしっかりと心に留めておかなければならない、そういう事であります。その時に、果たして私達はいかなる行動を取るかであります。心配すればきりがありませんが、一つは、神様に委ねる事が必要であります。
次には、御言葉に信頼して生きる事であります。実は、きょうの16-20節に書いてあることは、実際に起きて、それに従った人たちは助かったのでありました。それが、先ほど言いました、ローマ軍が攻めてきた時のことが上げられるのであります。具体的に見ていきますと、16-18節にこうあります。
「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」とあります。何かが起きた時、人間の心理としてやはり置いておくのは忍びない。取りに帰りたいという欲望にかられます。着の身着のままでは、後で苦労するからと考えます。
しかし引き返しても、命を決して失わないのなら意味があるのですが、引き返した事によって、命を失えば、それは意味がないのです。しかし、それでも、引き返したい思いに駆られるのが世の常です。実際の所、聖書で言っていますのは、神殿滅亡の時、ユダヤ教徒は、おりしも過ぎ越しの祭りに来ていた無数の巡礼者と共に宮に立てこもり、宮は、天の神によって救われる、守られると信じていたそうです。しかし、実際は、そうではありませんでした。彼らは、全滅したのでした。
一方、ではクリスチャンたちはどうしたかと言いますと、主の言葉を信じて、すぐさまその言葉に従ったのでした。彼らは山を登っていき、宮も都も捨てて、死海の反対側にあるペレヤ地方にまで避難して助かったのでありました。これは、普段神様から御言葉を聞いていないと、なかなかできない事でありました。
次に、19-20節の御言葉で言われている事ですが、「だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」という点であります。これは、ローマ軍がまだ都を包囲し尽くさぬ頃、敵がまだ家々に侵入しないうちから、市民はすでに、熱心党員たちによって脱出が禁じられていました。
しかし、イエス様の教えは、家の中の物を持ちだそうとしたり、着物を取りに戻ってはいけない。ただひたすら、何もかも捨てて、逃げろ。それも山に向かって逃げないさいであったのでした。しかし、そうしなかった者たちは、町中の飢饉は激しく、妊婦や赤ん坊を持つ親の苦悩は、想像を絶するものがあったと言われます。
では飢餓状態になった時、私達は一体どんな行動を取るのでしょうか。目撃者ヨセフスの記録は、決して大げさではなかったでありましょう。このように書いているそうです。飢えのために「子どもは父親の食べているパンを、その口元からひったくり、もっとあわれなことには、母親が赤ん坊にまで、同じ事をした。最もかわいい者が、その手の下に死ぬと、彼らは、自分の命脈を保ってくれそうなものなら最後の一滴までも奪って、恥なかった」とであります。
戦争という異常事態の中で、理性が働かなくなり、暴走した姿が見えて来ると共に、 そういう恐ろしい時代が、世の終わりには、もっとひどい形で起こってくることを、私達は覚悟していなければならないと教えられるのであります。 次に教えられます事は、偽メシヤが現われるという事であります。 23節にこうあります。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。」とであります。私達が、メシヤの来臨に対する待望が強ければ強いほど、気をつけなければならないのは、この世の人々のことばに、乗せられやすい、踊らされやすいという事です。 そういう危険があるのです。
勿論、イエス様がもう一度来て下さることは確かでありますので、期待して待つことは大切です。しかし、御言葉に照らし合わせ、本当に神様が言われているメシヤなのかということを、真剣に見極めなければならないという事であります。本物の宗教には、多くの偽物がぶら下がっています。この世の人たちは、偽物の活動が活発である故に、それが本物のように思われ、惑わされる人が多いのです。
多くの人が信じれば、それがあたかも真理であるかのように思われる所に怖さがあります。大切なのは、本当に聖書に書いてあるところのお方なのか、その点を、きちんと見極めなければならないと言えましょう。そのためには、常に御言葉に親しんで真の神様につながり続けていなければならないという事です。
さて、最後に見たいのは24節以下の御言葉であります。 「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」とあります。ここには、偽キリストとともに、偽預言者たちが出ております。偽キリストとは、メシヤではないにもかかわらず、メシヤを名乗る人の事であります。
また、偽預言者たちとは、神様が派遣されたのではないのに神の御名によって活動する人の事であります。両者は、本来違いがありますが、ここで扱う場合、あまり違いがありませんので同じように扱いますが、彼らのすることは、「できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」
しかし、何しろ、偽物ですから、人々には、本物であると認めてもらわなくてはなりませんので、「大きなしるしや不思議なことをして見せ」るのであります。もしかしたら、本人も騙す気がなくても、自分自身、思いこんでいる可能性もない訳ではありません。ですから、私達には、大変危険であり、惑わされる可能性が大きいのです。
従って、慎重に見極めなければなりません。しるしや、不思議を行なう事が即ち、 キリストでもなければ、預言者でもない訳であります。だからイエス様は言われるのです。26節で、「だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる。』と聞いても信じてはいけません。」とであります。
なぜ、そういう事になるかと言いますと、イエス様の次の言葉によるからです。「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。」とです。27節の言葉は、つまりは、一瞬の内に、地球のどこにいても分かるように来られるということです。
「そら、荒野に・・・そら、部屋にいらっしゃる」というような限定的な場所に現れるお方ではないのです。従って、そのようなことを言うこと自体が間違っている。偽ものであるという事であります。考えてみますと、私こそ再臨の主であるという人が 長い歴史の中で、何度も起きているのであります。そして、結局は間違っているものですから、消滅してしまうのです。
何年何月何日に主は再臨すると明言し、その日が来ても結局の所、何も起きなかったということで、マスコミにひどく叩かれた、そういう場合も外国ではありました。ウソがばれるまでは、人を騙すことができ、人もついてきます。しかし、嘘がばれると一瞬の内に人は去っていきます。この世の人は、そういうものであります。私達信仰者は、付和雷同ではいけないのです。
いつでも、何かの判断をする時は、御言葉に照らし合わせ、主の御心かどうか、主の教えから外れていないか確認し、決めなければならないのであります。イエス様は言われました。28節「死体のある所には、はげたかが集まります。」とであります。
禿鷹の視力は抜群です。高い空から獲物を探します。それも、くるくる円を描きながら探していますが、大体見つけるのは、他の禿鷹も同じであります。ですから、一斉に急降下していきます。下から人が禿鷹を見上げる時、その飛んでいる禿鷹の下には 獲物があることを知る事が出来ます。誰でも、それは簡単に知る事が出来るのです。 つまり、イエス様は、ある特定の人だけでなく、誰でもが分かるように再臨されるという事であります。
この世には、世の終わりを思わせるような出来事が、何度も起きてきました。その度に、人々は、世の終わりではないかと感じたものです。最近では、第二次世界大戦がそうであったでしょうし、その前には、彗星の接近がそうであったでしょう。 イエス様が話された事の中には、それから約40年先の事も含まれておりましたが、それよりもずっと先の事も指して言われておりました。そして、その時は必ず来ることを私達は知っていますし、知らされているのです。
それ故に、いつも主からの御言葉をいただき備えていたいものです。この世の人のいう「そら、キリストがそこにいるとか、ここにいるとか」とかいうものがあっても決して惑わされることなく、常に、主の言葉に土台を置いてこれからも歩もうではありませんか。
2014年4月27日(日) 「キリストの再臨」 マタイ24:29-31 竹口牧師
2014/4/27 マタイ24:29-31 キリストの再臨 先回のマタイの福音書のところで見ましたのは、イエス様が言われました、この世の終わりに起こる事についてでありました。それはある部分、紀元70年にローマ軍がエルサレムで行なった事で成就したという事もありましたが、 それだけでなく、まだこの世の終わりが来ていませんので、つまり、現代の私達にも関係する、まさに世の終わりの事が書かれておりました。
それは、偽キリスト、偽預言者が現われるということ。彼らは人を惑わすので、惑わされないようにしなさい。またイエス様が前もって話しておかれたことに信頼するように、というようなことが書かれていました。
世の終わりには、いろいろな事が起きますが、その終わりである事を決定づけるものは何かと言いますと、イエス様の14節の言葉でありました。即ちそれは「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」という、三段階を踏むというものでありました。
つまり、第一段階が、御国の福音が全世界に宣べ伝えられる事ですから、今伝えられています。そして第二段階目が、全ての国民に証しされる事。随分浸透しましたが、まだまだです。そして第三段階目が、終わりの段階に入るという訳です。即ち、神様がこの終わりの日の為に、着々と進めておられますので、私達信仰者は、その日に備えて待ち望むことが求められている。ということであります。
従いまして、第一と第二の段階に今の私達は、専念する事が求められているのであります。ということで、先回のところをも踏まえて、きょうもまた、その続きをみることにします。
きょうは、たったの3節を扱いますので、大変細かく見ていくことになります。 まず、29節から入って参りますが、そこにはこうありました。 「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」と、であります。
この節は、ある人の解釈によりますと、イザヤ書やエゼキエル書のよく知られた詩のことばがメドレーのように繋がっている、とそのように言われます。
では、具体的には、どのような箇所かという事になるでしょう。 そこで、このような例が挙げられておりました。文を引用しますが、 「聖書に親しんだ人なら誰でも覚えていた文句ですから、どこからの引用という事はないけれども、『太陽は暗くなり・・・』から、『天の万象は揺り動かされます』までは、まぎれもなく預言者が描く終わりの日の様相だ」、そのようにあります。 更に、そのあとの30節にもゼカリヤ書とダニエル書が反響している(こだましている)と言われます。
そこで、では具体的に29節をみる事にしますが、 まず「太陽は暗くなり、月は光を放たず、」という箇所に欄外注を見ていただきますと、 イザヤ書、エゼキエル書、ヨエル書が引照されています。その中でイザヤ書では、このように書かれております。イザヤ書13:10, 24:23の2か所の引照聖句をお読みします。まずはイザヤ書13:10ですが、こうあります。 「天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」とであります。 また次のイザヤ24:23では、「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」とであります。
そして次にエゼキエル書では、32:7では、こうであります。 「あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。」とであります。つまり、お気づきのように、これらは、みなそれぞれに太陽、月、星が出ており、普段とは違う状況になる事が書かれているのであります。いうなれば、天変地異が起こるということであります。世の終りにはであります。
この29節の引照では、3番目として「星は天から落ち、」という所の引照として、黙示録6章13節が挙げられています。そしてそこには、このように出ております。 「そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。」というように、であります。
最近では、気候の変動によって、異常気象が叫ばれています。 竜巻、突風、台風、大雨、地震などなど、今まで記録した事のない、あるいは経験した事のない状況が次々に起き、新記録を樹立しておりまして、被害も大きく、大変恐ろしいものを感じるのであります。
しかし、世の終わりには、まだまだそんなものではない、と聖書はいうのです。 つまり、聖書に書かれていますことは、もっと恐ろしい事が書かれているのであります。とはいえ、主によって選ばれ、救われた私達は、そういった自然災害の事をも覚えつつ、しかし、世の終わりに起こる事に決して恐れるのではなく、むしろそれは聖書の言う通りに起こるのですから、何か不思議な事が起きたかのように恐れるのではなく、心の備えをどんな時にでもしておくべきであると教えられるのであります。
ヨハネの黙示録6:12-17にはもっと具体的に書かれていますので、そこで、その部分も読んでおく事に致します。これは、皆さんにも開いてみていただきましょうか。 黙示録6章12節以下です。
6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。 6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。 6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。 6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、 6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」以上であります。
神様のなさる事がどんなに大きいか、想像できるでありましょう。身につまされます。これがまず、この朝見たかった第一番目であります。
つぎに、2番目の項目に進みますが、マタイ24章に戻って頂いて、第2番目は、30節であり、このように書いてあります。 「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」とあります。
先ほど、第一番目に、まず天変地異が起こる事を話しました。 そして第二番目は、「その時、人の子のしるし」が天に現れる、そのようにイエス様は言われます。「そのとき」とは、いつでしょうか。天変地異が起きている最中か、起き始めた時か、さらには、それが終わった時か、いずれか分かりません。 ですから、この点については注意深くなければなりません。
次に「人の子」とは、誰を指すのでしょうか。 当然ながらそれは、イエス様を指すのであります。 またイエス様はキリスト、つまりメシヤでありますので、人の子とは、メシヤ的称号でもあります。決して、イエスが名字で、キリストが名前ではありません。
次には、この30節に「人の子のしるし」とありますので、では、しるしとはなんでしょうか。実は、これもよくわかっていないのであります。ですから学者は、「しるし」とは一体何かと、いろいろ考えるのであります。
たとえば、真っ暗闇の空に輝く十字架ではないか、とか、特別な星ではないか、とか、 更には30節の「大能」とか「輝かしい栄光」ではないか、とか。あるいはまた次の31節から「ラッパ」「旗」「天が開ける現象」などなどが挙げられています。
これだけ挙げる事が出来るというのは、先ほども言いましたように、それだけ、やはりはっきりした事は分からない、という事でしょう。そしてそれはどういう事かと申しますと、分からない事は、そのままにしておきないさいという事でもあります。
その時が来れば神様がわかるようにしてくださる。そういう事でもあるのです。 従って、無理に分かろうとして、間違った結論を出してはいけないのです。 間違った結論のもとに、どんどん違った方向に進むとき、異端となり、 果ては呪われた者となるからであります。
熱心の挙句の果てが異端になっている、ということにもなりかねませんので、その事には特に注意が必要であります。ということで、誰にでもはっきりわかる、あるいは見えるしるしが現われるまで、そっとして置くことのほうが大切であります。
と言いますのは、長い歴史の中で、もうすでに、多くの偽物が出てきたからです。 そして、騙されて従った人も大勢いるのであります。そして彼らは、散って行ってしまいましたし、堂々と今、栄えているグループもあります。
いずれにしましても、世の終わりには、はっきりする事であります。 お分かりのように、実際にはまだ世の終わりは来ていないからです。 世の終りには、必ず正しいものと間違っているものとを明確に神さまは区別をされるのであります。だから、とても注意して過ごすことが必要です。 みことばに真剣に立ち向かい、素直な心でお従いしたいものです。
さて、30節をもう少し見ていきますと、こうあります。 「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら・・」であります。 ここでまた人は考える訳であります。 悲しみの理由は何か、とであります。 そして理由としてこんな事が挙げられています。
一つは、自分の罪やこれまでの歩みに対しての悲しみ また、第2は、その罪が神によって裁かれることに対しての悲しみ 第3は、悔い改めを示すものとしての悲しみ、 4番目は、自分たちがメシヤに対してとった事での後悔ではないか、 というように、まあいろいろな解釈があるようです。
これも又どれか分からないのであります。これ以外の理由かもしれません。 あるいはまた、いろんなものが混じり合ったものと考えてもよいでありましょう。 結局は、明確ではない訳であります。大切なのは、しるしを見た人が、 イエス様の再臨を確認できればそれでよい訳です。そういう意味からしますと、ばらばらでも一向に構わないと言えば、構わないのです。
理想的には、イエス様に喜ばれるような歩みを積み重ねていて、そういう状況の時に、イエス様の再臨に遭遇出来れば、それに越した事はありません。 が、私たちは24時間、365日、御心に叶うことだけをしているかと言いますと、 非常に心もとないゆえに、神様の御前に恥ずかしいのであります。だから、最善を尽くすのであります。それしかありません。
さて次に、その時、「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるの見るのです。」とあります。ここで言われています「人の子」の描写は、明らかにダニエル書7:13-14のことを言っていると言われます。ですから、ではそこにはどう書いてあるのかという事になりますが、それは次の通りであります。
ダニエル書7:13-14、2節だけですので、お聞き下さるだけで結構です。 「7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」とあるのであります。
つまり、これを読みますと、イスラエルの地を限定する必要はないように思えます。 「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。」とあるからです。地球上のすべての人という意味が自然でありましょう。つまり、すべての民族、すべての国民であります。勿論、キリストの名に於いて救われた人はすべてという意味であることは言うまでもありません。
だから、キリスト者にしていただいている私達は、何という平安であろうかと思うのです。いつもびくびくして生きる必要がないからです。
さて、きょうの聖書範囲の最後の31節を次に取り上げる事にします。 まずは読みます。 「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。
イエス様は、この地上に来臨される時、天の軍勢にラッパを吹き鳴らすよう命じられます。そしてそれが合図のごとくして、御使いが遣わされ、あらゆる場所から御国の民が集められます。ラッパは、民数記10:2では銀製ですが、青銅のものもありました。弁はなく、形は真すぐで、その先端の部分は朝顔型に広がり、澄んだ音色を出しました。長い型や短い型があり、古代は日常的な合図にも使用されましたが、しだいに宗教的な楽器となり、レビ人がこれを吹奏しました。
また会衆を集める為とか、戦争の時など(U列11:14)に用いられ、 そして、今出ていますように、終末時の重大な事件の合図としても用いられるというのです。(Tコリ15:52,Tテサ4:16.〈ギ〉サルピンクス)。
ラッパは、いろいろなことに用いられましたが、そしてこれからも用いられることでしょうが、何よりも大切なのは、大きなラッパの響きがとどろく時は、世の終りが近づいたことを、私たちは知る必要があるということです。
平和の中にも、また、戦争の中にも、また嵐の中にも、私たちは、絶えず耳を澄ませ、みことばに聞き入るとともに、ラッパの音に耳を傾け、主がいつ来られてもよいように、備えていたいものであります。そして、キリストの再臨の時には、イエス様を心から喜び、迎えようではありませんか。
先週は、復活の主の御名をほめたたえたばかりですが、天に昇られた主イエス・キリストが、再び来られる時には、救い主としてではなく、審き主として来られるのですから、心して待ち望みたいものです。
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