2014年5月4日(日) 「不滅の御言葉」 マタイ24:32-35 竹口牧師
私達は、4月20日に復活節礼拝を行ない、主が死より甦られた。その事の記念として特別礼拝を致しました。これによりまして、人は死で終わるのではなく、甦りによってまた新しい展開が始まる事を確認しました。 人がなぜ、死を怖がるかと言いますと、多くの場合、その先に何が待っているか分からないからというのが、大きな理由の一つだろうと思います。私の知る限りでは、イエス・キリスト以外には、死を経験し、この世に再び現れた者はいないとそう信じます。
色々な本では、死を体験したというような事が書かれていますが、それは臨死体験であって完全に死んではいないのであります。また臨死体験ですから、本当の死後の事は分かっていない。そのように私は考えております。従って、死後の事を語れるのは、実際の所は、イエス・キリスト以外にはいないというのが現実であります。
ところで、私達は、復活節礼拝を行なった次の週は、普段の説教の順に戻りまして、マタイ24:29-31においてキリストの再臨と題して見てきた訳でありました。
神が人となって来て下さった。それがイエス・キリストの誕生であり、また降臨でもありました。そして30数年の地上での歩みをされ、最後は十字架刑を受けられ、殺され、葬むられ、三日目に甦られた。その甦られた事を記念して、4月20日に復活節礼拝をおこなったわけであります。
実はその甦られた後、40日間弟子たちと一緒にイエス様は過ごされ、その後昇天された。そして、ゆくゆくは再臨の時がやってくるので、それに備えなさいよという順で見て行けばよかったのですが、復活された日から、その後のもろもろの話しは勿論しませんで、昇天された話しもなく、一気に再臨の話しとなった訳でありました。それが、先回の所でした。そこには、こう書かれていました。
29-30節「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」とでありました。
頭を整理しながら聞いて頂きたいのですが、私達は今や、再臨の事をあつかているのです。苦難があり、天変地異があり、人の子のしるしが天にあり、人の子であるイエス様が雲に乗ってやって来るとありました。
で、私達はこの朝、その続きを見ようとしているのであります。 それは、イエス様が再び来られるのですが、その時期について触れておられるのがきょうの所であります。イエス様はこうおっしゃいました。32、33節
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とであります。
33節に、再臨のことが少し触れられておりますが、まずは32節に、イチジクが出てきますので、そのことについて短く触れておく事に致します。イチジクは、イスラエルには、非常に多くありまして、生のまま食べたり、また保存食にしたりしております。特にアラブ民族の間では、「天国より来りし果実ありとせば,それはいちじくである」というようなことばがあるくらい、尊重される、そうであります。
そういえば、モーセが12人の斥候をカナンの地に遣わした時、彼らが持ちかえった果物は、担いできたブドウのふさでしたが、その他にざくろやいちじくもありました(民数記13:23)ですから、イエス様は、イスラエルのどこにでもある物、そのいちじくを例えに用いられたのでありましょう。
イチジクは、落葉樹ですので、冬には完全に葉が無くなります。春になると葉をつけ、実をつけはじめます。そして夏には食べられる状態になります。6―7月にかけて熟するのが夏いちじくで、それから更に8―9月にかけて熟するのが秋いちじくと言われます。
私は、田舎育ちでありながら全く植物に興味がなく育ちましたので、イチジクの木を見ながら、そして食べた事ありますが、まさか花がないなどとは全く気がつきませんでした。実際の所、いちじくを漢字で書くと花が無い果物というように(無花果)書きますが、そのことも随分後から知ったものでした。
ところでイエス様が言われましたように、「枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏の近い事がわかります。」とありますように、イエス様は、それと同じように、御国の民は、周囲の状況からイエス様の再臨が近い事を悟りなさい、と言われました。
考えてみますと、イチジクだけでなく明日の天気でさえ、私達は、天気予報を見なくても「夕焼けだから明日は天気だとか、朝やけだと天気が悪い」などと予想をします。(マタイ16:2)そしてそれはよく当たるのであります。経験から生まれたものです。
ですから、イチジクが実をつけるようになると夏が近いとわかるように、世の中の情勢を見ながら、主が来られるのが近いと気付くようにと言われました。 そういう意味では、この世の情勢によく注意を払う必要があります。
ただ今回、いちじくが取り上げられていますが、実るのが夏だから、或いは秋だから、 再臨が夏だ、秋だと決めつける事は、正しくないでしょう。あくまでもいちじくは、一つの例で言われています。
もし、そのような時期的な事を通して言われたとするならば、植えて管理し、育てた者にとっては、収穫時期というものは、農夫にとって、とっても嬉しい事ですので、それと同じように信仰者にとっては、主の再臨は、恐ろしいことではなく、とても喜ばしい時である、その事は、言われていると受け取っても差し支えないと私は思います。
さて次に、33節を取り上げますが、もう一度読んでみます。「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とあります。
ここにあります「そのように」とは、前の節のいちじくの葉の様子を見て、夏が近い事を日常の経験から知る事が出来るように、そのようにという事ですが、その後に続きます「これらのことのすべてを見たら」というのは、何を指すかと言いますと、当然ながら今まで見てきたところであり、この24章の4-14節の終わりの日に至るまでの世界状況であり、また15-22節の終わりの日のひどい苦難であり、そして23-28節の偽キリストの出現など、全てを含むのであります。
そして「あなたがたは、人の子が・・・」という「あなたがたは」というのは、強調されおりまして御国の民であるあなた方は・・という思いが込められていまして、「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と続くのであります。
ただ、人の子という所に米印がついておりまして、補って訳されております。 「戸口まで近づいている」というのは、すぐそこまで来ていることを強調している表現であります。そして次の節にも「これらのこと」というのが書かれています。
即ち、34節「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」とであります。そして、ここにあります「これらのこと」と言いますのは、当然ながらこの24章の15節から31節に述べられていること全部という事になるのであります。
しかしながら、この34節の最後のほう、「この時代は過ぎ去りません。」という部分を巡って、いろいろな解釈がなされ、議論が分かれているのであります。それは、新改訳の「この時代」と訳されている言葉が、「この世代」とも訳せますし、「種族」を表す場合もあり、更には「人類」と解釈する者もいるそうでありまして、それぞれに一長一短があるようでありまして、決定打がないのが現実のようです。
従って、ある先生は、いろいろな訳をあげましたが、種族という言葉で説明され、「ユダヤ民族はなくならない」という意味に解釈すると言われます。そうすれば、イエス様の再臨までユダヤ民族は滅びないという意味になり、現代までユダヤ人は生き延びているのだから問題は解消される、とそう言われるのであります。そして私もそのように理解する方が良いように思います。
イエス様は、いちじくを例えに使われ、再臨の時期的な事を言われ、世の終わりにはどのような事が起きるか、明らかにされました。私達は、その一つ一つを気にしながら生きる事は、大変つらい事であります。けれども、全く無視して、何もないかのように歩む事もこれまた大変危険であります。ですから、その両方を意識しながら歩む事が必要であります。
ところで、イエス様は35節でこう言われました。 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と。何という力強い、そして信頼できるお言葉でしょうか。 また、私達が信頼し、生きるためによりどころとしているのが、このイエス様のお言葉そのものではないでしょうか。決して滅びる事がない御言葉に信頼し、生きているのです。
時代によって書き換えられて、全く逆の意味になったりはしないのです。 だから、私達は、イエス様の警告を素直に受け取るとともに、恐れながら毎日を過ごすのではなく、主が来て下さる事を、喜びを持って待ち望む者でありたいし、そうしているのではないでしょうか。
イエス様の時代から多くの年数が経ちました。その間に、イエス様の言われた事で、ある部分は実際に起こった。そのような部分もない訳ではありません。けれども、イエス様の言われた事がまだまだ全てが起ってはいないのです。それはまた、今生きている者に、神の審きの猶予が与えられているとも言えるでしょう。
主の再臨は間近です。それ故に、この世の情勢にしっかりと目を向ける必要があります。あるクリスチャンは、この世の情報を一切遮断している方がおられます。そのほうが、心配がないと言われます。思い患う事がないと言われます。
しかし、それは大変極端であり、危険であります。 神様がこの世に生かして下さっているのは、この世と交わり、この世に世の光として輝く事が求められているからです。
一方、逆の方もおられるのであります。 何かが起きるとパニック状態になられ、ああ、もう世の終わりだと言って、悪い事ばかり考える人であります。サリン事件とか、阪神淡路大震災とか、東日本大震災とか、原発の水素爆発とかというように、本当にいろいろな事が起きたからですが・・・・。
ある本にイエス様の時代の事をこのように表しておられました。 「ローマ人の基地を襲うべく作戦を練る特攻ゲリラ。そのローマ軍が見せしめのために、エリコ街道に延々と並べ立てた十字架と死骸。泣き叫ぶ家族。飢えて死ぬ老人と幼児。疫病と悪霊付きと悪霊払い師たち。荒れ野に3万人の信者を連れ出して野営する自称メシヤ。海の彼方から伝わってくる戦争のうわさ。
主は「みよ。いちじくの枝が柔らかくなって、葉が伸びている」と言われたのですが、マタイもシモンもアンデレも、その時の模様を、彼らなりに、ハッキリと見ていたはずです。その「青々とふくれていくいちじくの枝々」の中に、「人の子は来られる。その『人の子の日』を希望の日にする道は一つしかない」ということを、イエスの弟子たちだけは分かり始めていたのです。私達の主、ナザレのイエスを信じてこの方に委ねるしかない・・と。」そのように結んでおられます。
考えてみますと、あれから約2000年の月日が経とうとしています。 果たして、あのイエス様の弟子たちが現実を見、また将来を見たように、私たちもまた、今の時代を見ながら、その先の事も同じような思いで見る事が出来るでありましょうか。
「あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と言われたイエスのお言葉を、どう受け取られるでしょうか。昔も今も変わらずに、国は国に対して対峙しております。まだ富国強兵が表立っては叫ばれていませんが、なんだか嫌な雰囲気が漂い始めております。私だけの感覚でしょうか。
この嫌な雰囲気を感ずる時、いよいよ再臨の日が間近に迫っている。そんな思いをするのであります。そしてイエス様の言われたことば「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」というお言葉の確かさに、私の心は平安を得るのです。皆さんもまた同じでありましょう。
詩篇32:10にこのようなみことばがあります。「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」とであります。 そして、聖書の一番最後の書、それも最後の節ヨハネの黙示録22:20-21にこうあります。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
私達は、世界情勢をしっかりとらえつつ、動揺することなく、「わたしのことばは決して滅びることがありません。」とのイエス様のお言葉に信頼して歩もうではありませんか。
2014年5月11日(日) 「その日は突然に」 マタイ24:36-44 竹口牧師
先週は、いちじくの木からのたとえで、人の子が戸口まで近づいている事を悟るようにと、そう言われている所を見ました。つまり、イエス様が再び来られる日が間近である、という事でありました。
で、今回は、きょうの一番最初の個所にありますように、イエス様は、こう言われました。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とであります。
イエス様さえ知らないことってあるのでしょうか。もしないとするなら、「天の御使いたちも子も知りません。」などと、どうしてイエス様は言われたのでしょうか。まず、イエス様さえ知らない事があるのかということですが、それは、ヨハネの福音書14:5節以下のイエス様と弟子たちとの会話から知る事が出来ると思います。それは、十字架刑を前の日にしての会話であります。
イエス様は、弟子たちにあなたがたの住まいを用意しに行くと言われました。そこでトマスがイエス様に聞いた訳です。 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」とであります。 するとイエス様は言われました。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、 また、すでに父を見たのです。」と。 するとピリポはこう言いました。 「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 イエス様はそこでこう言われました。 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」 とイエス様はいわれたのであります。
こうして、イエス様と父との関係を見てきますと、今回の36節の言葉の意味が、本当に知っておられないのか、が分かってまいります。 つまり、「それがいつであるかは、この私の口からは、あなたがたに知らせる事が出来ない。なぜなら、それが父の意志だからです」という意味にも聞こえてきます。
しかし、その一方で、イエス様が十字架の上で、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りをされた所を見ますと、「子であられたイエス様が、ご存じでないはずはないが、地上で子として、しもべのかたちでおられた間は、人間としての限界に甘んじておられた」という風にも考える事が出来るのであります。
どちらの考えにも一理あります。 がしかし、どちらもあり得ますが、共通しているのは、あなた方には知らせる事が出来ないという事であります。知っていても、あるいは仮に知らないということにしても、どちらにしてもです。
36節をもう一度よく読みますと、「天の御使いたちも知りません」と言われています。 これは、極秘中の極秘であるという風にもとれます。 そして、これは何を私達は教えられるかと言いますと、人は、外向きは信じているように振舞っていても、心の中では実は、「イエスは来る事はないのだ。単なる脅しだけだ。」と、そういう生き方をしている人にとって、実際に来られた時には、もうどうする事も出来ない。そしてそれは、大変恐ろしい事であるという点であります。
それはまた、ノアの時代の人々のように、まるっきり最初から信じる気がなく、ノアのしていることを愚かな行為として、無視し続けている。そして、それは38,39節には、このように書いてあります。
「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり食べたりめとったりとついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とであります。つまり、聞く耳を持たない事の恐ろしさが分かってくるというものであります。 ノアの時代の人たちは、何事も起こらないかのように、いつもの生活を続けていたのでありました。
確かに、いつもの生活を続ける事は、別に悪くはありません。 しかし、主は再び来られるという事を聞かされていて、その事が、実際に起こった時に、何をどう対処すべきか、全く考えなかったというのは、大きな失敗であり、取り返しのつかない事であったということでしょう。つまり40節、41節に、その典型的な結果が出ているのであります。
「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とであります。やっていることは、同じであります。畑にいて、耕していたか、収穫していたのかは分かりませんが、しかし、一人は取られ、一人は残されるのです。臼を挽いている人もやはり同じです。恐らく二人で、一つの臼を力を合わせてひいていた事でしょう。ところがそこには、二人の間に明確な違いが起こるのです。つまり、一人は取られ、一人は残されるという事実であります。
この違いは大変大きい事を、知っておかなければなりません。人はみんな同じであると思いやすいものです。人はみんな同じ所に行くと思っています。人と同じ事をしていれば、何となく安心も致します。しかし、神様の目からしますと、二人の間に、大きな違いを見られるのであります。それは、私たち人間の目では分かりませんので、 可哀想のうんぬんということは抜きであります。
ただ、現実はこうです。 一人は取られ、一人は残されたという事です。理由は分かりません。 理由を、もし知らされていないのなら、知る必要がないからかもしれません。 またもしその知らされていない事をあたかも知らされたかの如く行動をするなら、どうなるでしょうか。それは言うまでもなく、その報いを受けるのであります。
では一体、知らされていない事に対して、人は、どうしなさいと言われているのでしょうか。42節に結論があります。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」ということであります。
ここに答えがあるのです。 つまり、「目を覚ましていなさい」という事であります。 でもそれは何も、一睡もしてはならないということではありません。 もし仮にそうなら、私たちの肉体は、悲鳴を上げ、限界に達し、いつしか眠りに落ちることになるでありましょう。一睡もしないで、人は生きていけるものではないからです。
「目を覚ましていなさい」とは、寝てはいけないと眠ることを否定しているのではありません。そうではなく、私たちの心が、いつも主のおことばに目を向け、必ずその通りになると信じて、それに信頼することなのであります。その中には、主が再び来ると言われているのですから、その事を、その日、その日に起こると信じて待ち望むことなのです。
今日も起こらなかった。昨日も起こらなかった。これだと、明日も起こらないのではないか。主のおことばは、本当なのだろうかというように、不信仰に陥らない事であります。
主のおことばを、その通りになると素直に受け止め、信じて、待ち望むことであります。44節以下に、その理由をたとえで述べておられます。ただ、イエス様の再臨と泥棒の突然の侵入とを同じような感じでたとえてありますのは、滑稽でありますが、人の心の読みを盗むという点では、あるいは同じかもしれません。
イエス様は言われました。43、44節 「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」というふうにであります。
まさにそうであります。 主の御心を知らないゆえに、いつも備えておかなければならないのです。 漫画とか映画とか小説とかというように、作りものでありますなら、 何年何月何日にどこそこに展示してあるダイヤを奪いに行きます。 あるいは、高価な絵をいただきますと、そのように予告しておいて、本当に取ってしまう。
警備を何重にもしておきながら、それでも取られてしまうということになりますが、 実際には、予告なく、警備の盲点をついて泥棒は仕事をするのであります。 実際にあった話では、銀行の金庫に入るために、その真下に地下通路を作って入り込み、その銀行のお金を根こそぎとったという事件がありました。 外国の話しですけれども・・・・。
それには、何日もかけて、しかも十数名でひたすら穴を掘り続け、成功したのでした。 しかし、その事件は数年後に思わぬところから解決へと進みました。 それは、盗んだお金の分け方で、仲間割れしたことによりました。 人間の欲とは結局の所、そういうものでありましょう。 犯罪そのものは、完全でありましたが、もろくも犯人は、 この世にすべて知れ渡る事になったのでした。
ところで、ではもう一度、42節の「目を覚ましていなさい」とはどういう事か、考えてみなければなりません。これを私なりに解釈をしますと、眠らないで起き続けることを求めておられるのではなく、心に隙を作ってはならないということでありましょう。イエス様は必ず来られる。そして、私たちを迎え入れて下さる。それは、喜びの瞬間であります。だから、心に隙間を作らないようにしなさいということです。 ある本に、こんな話が載っていました。あくまでも話しです。 見習い修業の最終課程として、地上に派遣される悪魔の弟子の事が書かれていました。 この弟子たちは、悪魔の頭領であるサタンに、人間を誘惑して滅ぼす計画を報告するように求められます。
第一の弟子が言います。 「私は人間に、神はいないと言います」 すると頭領のサタンは答えます。 「そんなことでは多くの人をだますことはできない。神がいることは、みな知っているのだから」と。
次に第二の弟子が言います。 「私は地獄がないというつもりです」と。 それに対して頭領のサタンは言います。 「そんなことでだまされる人は一人もいない。人間は、罪に対して地獄があることを今でも知っている」 とそう言います。
そして次に第三の弟子がこう言いました。 「私は急ぐ必要はないと言いましょう」でありました。 すると頭領のサタンは言います。 「命じる。行きなさい。お前がたくさんの人たちを堕落させることができる。」とであります。
皆さん、どうでしょうか。 この3人の悪魔の考えは、まことによく人の心をとらえていると言えないでしょうか。 特に三番目の悪魔は、非常に人間の弱さを巧みについていると私は思うのであります。
まだ大丈夫。まだ明日があるさ。まだ私は若いんだから。 そういう、時間が十分あると思うことは、すべての錯覚の中で最も危険なのであります。なぜなら、今晩死ぬかもしれないからです。だから、明日に依存するのは非常に危険なのです。
誰も、明日があることを保証できるものはいないのです。 義務を怠るものは追放され、任務に忠実な者は、賞賛を受けます。 努めを忠実に行っていたしもべは、さらに大きな責任が与えられ、 務めを怠っていたしもべは、厳罰に処せられます。
イエス様が来られる時、私たちが励んでいるべきは、日ごとの務めではないでしょうか。それを、一日一日やっていくことこそ大切なのです。
一日一生と言う言い方があります。 まさに、一日一日が一生なのです。 神様の御前に、ベストを尽くした一日であるべきなのです。 それも、的外れな一生懸命ではなく、 先ほども言いましたように、主の働きをすることが大切なのです。 それがまた、目を覚ましていることにもつながるのであります。 一日、一日を大切にし、主の来臨を待ち望みつつ歩もうではありませんか。 その日は突然にやって来るのですから。
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