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2014年6月8日(日) マタイ24:45-51  思いがけない時に  竹口牧師

私達は、先回までに人の子がもう一度来られる再臨について、イエス様が話されたことばを学んできました。

たとえば、ノアの洪水の例を話しながら、「信仰の姿勢を取り続けた人」のことが語られていましたし、臼を挽いていた「目を覚ましている人」のことが語られましたし、あるいは、泥棒の例でしたが、いつ来るか分からないという例で、「イエス様を主と仰ぎ、主を待つ用意が出来ている人」の事、そういうしもべの事が語られているところを見ました。

そしてきょうの所で、教えられます事は、イエス様が再び来られる時に、どういう心で待つかが問われている、そういう部分であります。45節にこう書いてあります。

「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」とあります。

ある家のしもべが、その家の食事係を命じられた。
主人は、出かけてしまったのでいない。
食事係をしなければならないが、手を抜く事も可能である。
その時、しもべは、どう考え、どう行動するか、
非常に大きく問われるのであります。

しもべは、場合によっては、いろいろ考えるかもしれません。
「少しくらい手を抜いても構わないだろう。」とか、
あるいは、あくまでも忠実に今まで通り任務を遂行しようとか、
というようにであります。

人は、できるだけしない方向、怠ける方向に傾きやすいものであります。
もし、仮に主人が厳しい人であったなら、この際、出来るだけ手を抜こうという気持ちを持つのではないでしょうか。要するにサボリたいという気持ちがわくのです。

逆に、優しい主人でしたらどうでしょうか。
いつも通り、一生懸命努めを果たそうと考えるでしょうか。
そうは考えないのが罪の性質を持つ人間であります。
やっぱり、サボリたくなるのです。
どうせサボっても、叱られることなどないわいという感じです。
要するに、人とはそういう、なまけ者であります。
このことをしっかりと頭に持っていないといけません。
そうしませんと、48節以下の、悪いしもべの例を見ながら、決してそれが自分の事とは思えないからです。むしろ、自分は、忠実な思慮深い人間であると気がつかないうちに思いこんでいる傾向があるからです。

こういう言い方は、ある方には大変失礼かもしれませんが。でも、私はあえて、ここでそう申し上げるのであります。なぜなら、イエス様が例えとして取り上げられるには、それだけの重みがあるからです。また注意する必要があるからです。

それは、少数の人には関係ない。言う必要はない。
そのようには、イエス様は考えておられないからです。
むしろ、全ての人に警告として言われていると受け取るべきでしょう。
それだけ大切なことをイエス様は述べておられる。
その事をまず申し上げなければなりません。

ところで、多くの研究者は、ここに出て来る「しもべ」を他の人たちの世話をする責任が委ねられているという点から、教会のリーダー的存在ではないかとそう考えるようです。確かに、言われてみれば、そう考えられなくもありません。しかし実際の所は、キリスト者はみんな神のしもべであります。

と言いますのは、パウロは、Tコリント7:22で「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」とそう言って、奴隷であっても、自由人であっても、キリストに属するなら奴隷だと言っています。

或いはまたペテロも、Tペテロ2:16で
「あなたがたは自由人として行動しなさい。
その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」
と書いて、神の奴隷として行動するよう勧めているからです。

ですから私達信仰者はみな、キリストのしもべであり奴隷でありますので「私には関係ない」、という思いで聞いてはならないのであります。むしろ、忠実な思慮深いしもべと言われるような毎日を送りたい、あるいは、送るべきである、そう思うのであります。

では、その「忠実な思慮深いしもべ」とは、どんな人のことでありましょうか。
きょうの所では、45節に於いて、このように書かれております。
先ほどもお読みしましたが、
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべ・・・」という風にであります。

まず、この言葉をよく見ますと、
一つ目は、主人からその家のしもべたちを任されているのですから、主人に信頼された人であるという事であります。主人から信頼されるには、まず普段の生活がきちんとしていなければなりません。

二つ目に気付かされる事は、
「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような」とありますので、几帳面である事の必要であります。何か食材が入らなかったりした場合、急きょメニューを変更するなどしてでも、時間を守る事の必要です。

洗濯をする時はこの時間に、掃除をする時はこの時間に、食事の用意をする時はこの時間にと、手際良く、いつもてぬかりなくこなす。いつも同じように日によってむらなく行う。それによって、主人は、出かけても、ああ、今しもべは、何何をしているな、と良くわかるのであります。

三つ目は、まさにそれを指していると言っていいでしょう。
つまり46節「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」とある通りであります。

突然に主人が帰ってきても、しもべは決して驚かない。
いつもの通り、いつもの時間に、いつもの事をしている。
従って、していることは、決して手を抜いていない。
だから、そばにいなくても、何をしているか主人には読めるという事です。
これはもう、監視の必要がないという事でもあります。

ところが、48節以下に書かれているように、その真逆のしもべがいるから、主人は、選ぶ必要があるのです。賢く振舞う僕を選ぶのです。私は最初のほうで、全財産を任せられるような人は、どんな人かを三つあげました。

一つ目は、主人に信頼された人であるという事
二つ目は、几帳面である人
三つ目は、その人の行動が読める事です。

ところが、48節以下に出て来る僕はどうかと言いますと、一つは、「悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い」とありますように、悪事を考えるという事です。それも、その心の思いは、主人の事は自分が一番良く知っているという高慢な気持ちが現われております。勿論それは、すぐには帰ってこないという間違った考えですが。

それと共に、私達は、心にどんな思いを持っていようと、口から出さなければ、周囲の人には、分からない事が結構あります。またわからないように、控えるものです。
言うことによって混乱を起こしてはならないからです。

ですから、ここに登場しているしもべが、「『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思・・」っていた事は、そのこと自体は周りの人には伝わっていないのでありますが、自分が、これから何をしようか、何でもできるという思いがあり、そのことは、主人の思いを裏切った心の行為です。これは外には現われていないとはいえ、立派な裏切り行為であります。

二つ目は、「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると」とありますように、主人がいないので自分が主人となり、他の者たちを従わせるために打ちたたき、従う者には酒をふるまうという、振る舞いそのものは、まるで主人のような振舞いをするのです。

そこには、「酒飲みたち」が登場しますが、奴隷仲間で、酒飲み友達の事でありまして、「飲んだり食べたり」は、宴会を開いて自分たちだけが楽しんでいた事を指します。
恐らく、彼らは職務中にこのような事をしていると思われます。

もっとも、このようなことは現実の奴隷社会では起らないであろう、と言われています。イエス様が言おうとしていることを印象付けるために、あえてそのように言われているのだと思われるからです。突飛な事を言われれば、聞く人にとって非常に印象に残るからです。

三つ目は、「そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。」を取り上げましたが、主人の行動の読めない人に対して、読めていると勘違いする者に対しては、抜き打ち試験するのが一番効果てきめんであります。

50節の「そのしもべの主人は」とありますところから、しもべが外部の人ではなく、そのことはつまり、御国の民である。イエス様は、御国の民の間に生じる事柄を取り上げて話されていると言われます。

主人は、しもべが全く予期していなかった時に帰って来た。
「思いがけない日の」「思わぬ時間に」、
これは、イエス様の再臨が、不意の出来事であることを強調しておられるのであります。「帰ってきます」というのは、再臨の事を指します。それはまた44節の「人の子は思いがけない時に来るのですから」と同じ事です。

旅から帰って来た主人はどうするか。それは、火を見るより明らかであります。
大爆発を起こすのであります。烈火のごとく怒るのは当然でありましょう。
51節にこうあります。
「そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」とであります。

ここにあります「厳しく罰して」というのは、「こなごなに切り刻む」というニュアンスのことばで、実に厳しい対処だそうです。その他にも、「その報いを偽善者たちと同じにする」などとありますが、その報いというのが、主人がしもべに報酬を約束していたとするなら、その報いを偽善者と同じにするとなりますが、しかし、主人に背いた事に対してなら、その背いた報いに対してという事になりましょう。

従いまして、よいものでは決してありません。「しもべは、そこで泣いて歯ぎしりするのです」とあります。今回のイエス様のたとえは、ここまででありますが、イエス様は、一体ここで私たちに何を言おうとされたのでしょうか。これが、一番大切です。

イエス様のたとえの内容はよくわかった。教えられる事多大です。
しかしながら、イエス様の意図されていることを理解しなければ、それは、そのたとえの役目を果たしていない事になります。そこで、繰り返しになりますが、なぜイエス様がこのような話をされたのか、確認したいのです。

実は24章に入りましてマタイは、世の終わりについてその前兆、そして再臨について書いて来ました。イエス様の名を名のる者が多く出るとか、(5)だから惑わされてはいけないよとか、偽預言者が多く起こって人を惑わすとか(11)天変地異が起きるとか、(29)その後に主は再び来られるとありました。(31)

では、主はいつ来られるのか、
それは誰でもが知りたい情報であります。
しかし、イエス様は、それをはっきりとは言われませんでした。
いちじくの木から例えを学びなさいとか(32)人の子が来るのは、ちょうどノアの日の様だとか(36)そのように言われて、雰囲気としては分かるのですが、はっきりとは明示されませんでした。

ですから、この事から、もし誰かが、主がこう言われた。
「何年の何月何日の何時に来られる」というようにいう者が現われたなら、確実に異端である事を私達は知るべきです。私達は偽預言者にも気をつけなければならない事を知っています。

しかし、その一方で、きょう、イエス様が話された例えも非常に大切なのです。
その結論は、50節にあるのであります。
「主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。」という結論であります。
では、私達はどのように生きたらよいのでしょうか。

それは言うまでもありません。
主人が旅に出かけた時に、よいしもべ達はどうしたか、それに学ぶべきだという事です。私達は、決して生きて行く質を落とす必要はありません。主が来られたならば、今の生活は全て終わるのだからと、いい加減に生きても良いとはならないという事です。

主が私たちを信頼し、委ねて下さったものは、大切に管理し、几帳面な歩みをしながら、キリスト者として歩みをし、待ち望む事でありましょう。

もう一度言いますが、キリストは、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来られるのです。だから、いつ来られてもよいように歩んでいなければならないのです。

ある方がこう言われていました。
「自分は何時死ぬか分からない。どこで死ぬかもわからない。だから、お風呂には毎日入ること。下着は毎日変える事をしている。そのようにして、いつ死んでも、どこで死んでも恥ずかしくない生き方を心がけている」とであります。
その人はクリスチャンでした。
そして死については常に意識し歩んでおられましたので、恐らく、主の来られる事についても、やはり同じように考えておられたことでしょう。

が、それはともかく、いつ主の再臨があってもよい生き方を、私たちは、日々していたいものであります。ただし、それを無理して、そのように努めるのではなく、その生き方が喜びである、そういう生き方でありたいものです。思いがけない時に主が来られても、本当の喜びを味わうためにそうしようではありませんか。

2014年6月15日(日) マタイ25:1-13   変わらぬ恵みの中で  竹口牧師 

マタイの福音書も残す所あと4章になりました。
その4章の中には、イエス様が十字架にかかられるという、非常に大切な部分も含まれている訳でありますが、そんな中で、きょうから見ます25章は、3つのたとえが、続けてある所であります。

一つはきょう見ます「10人のおとめのはなし」であり、二つ目は、「タラントのたとえ」であり、三つ目は、「全ての民族をさばく」というものであります。これを1回ずつ見て行くのでありますが、前の章に引き続いて、たとえが3つ続き、その後は、イエス様の逮捕そして裁判、死と復活の記録となり、

しかも、これはとても重要な出来事ですので、今まで書かれていた事は、長い序論ではないか。つまり、今回も含めて3回のたとえ話は、その序論の終わりを意味すると、
そういう人もおられます。

が、それはともかくとしまして、きょうの所に入りたいと思いますが、その前に、先回見た所には24:45でイエス様はこう言われておりました。
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」とです。

そしてイエス様はしもべに託して主人が出かけるというたとえ話をされたのでした。その話しの前には、42節で「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」と言って、目を覚ましておくように言われたのでありました。

そのようなことを思い出しながら、きょうのたとえへと入って行くのであります。
まず、1,2節にこうあります。「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。」と、こうあります。

まず、賢い娘5人と愚かな娘5人が登場します。
しかも、きょうの話しは、結婚にまつわる話ですので、聖書の世界のユダヤでの結婚式事情というものを見ておいてから、それできょうの例えへと入る事が良いように思われます。

まず、これを読んでみますと今日の私達のしている事とは、随分違うようであります。
がしかし、現代の私達とは違いますが、現代のユダヤ人たちとはそうは違わないという風に言われます。
ユダヤでの結婚といいますのは、3段階の過程をたどります。
まず第一は、男性と女性が結婚するに相応しいと両家が認めた時、その男性と女性の両家の両親が、子どもの結婚の約束をまず交わします。日本の婚約式に相当します。

第二は、ユダヤの婚約式です。
しかもこれは結婚の前約束ではなく、「夫婦になった契約」の事で、それは、通常、花婿の家で、幾人かの証人達の前で立てられ、その席上、花婿から花嫁の父へ結納が贈られます。この日から、二人は、法律上正式に夫婦となります。しかし、まだ同棲生活はできません。実際の同棲生活は、約一年の後に始まるのであります。

それが、第三番目の項目です。礼拝や誓約よりもむしろ、法律上夫婦である二人が、いよいよ家庭を築くというめでたい喜びの婚宴であります。

普通は、大勢参加できる夕刻から始まりますが、まず花婿は、親族か友人の家で身支度を整え、その間、自宅は手伝いの人の手で婚宴の会場をしつらえます。夕刻、花婿と花婿の友は、花嫁の家に行き、花婿の友が音頭を取り、花嫁の友は美しく着飾り、二人を花婿の家・婚宴の席へ導きます。

行列は、たいまつとランプで照らし出され、道沿いの家家からは花嫁の美しさをたたえる祝いの言葉が投げられます。にぎやかな行列が会場に着くと、気前の良い宴会が開かれ幾日もの間、歌と踊りと酒によって一同はめでたい時を祝います。
ラビは、婚宴の喜びに与るためなら、律法の学習をやめてもよい、というほど、二人を祝福する事は喜ばしい事でした。

ところで、イエス様のたとえでは、「十人の娘」は、「花婿を迎え出る」女です。
それで、ある人々は、彼女たちが花嫁の家に迎えに来る花婿を待ち受ける女たちである、と考えます。しかし、いくら身支度が遅れたからと言っても、花婿が「夜中に」花嫁を迎えに来るとは思えない。

とはいえ、花婿が戸の内に入ると婚宴が始まっている。
従って、どうみても、この家に花婿が付いた時、結婚としては完了ということになります。つまり、先ほどのユダヤでの一般的な結婚式どおりとするなら、イエス様の話しは、少し様子が違ってくるのであります。

そして、その違いをどう説明できるかということですが、婚宴は、必ずしも常に花婿の家で行なわねばならなかったわけではなかったという点が挙げられます。つまり、花婿と花嫁とが遠く離れて住んでいた場合、または花婿の家で祝宴を行なうには不便な場合などは、花嫁の家で婚宴の席を設け、そこに花婿が行って婚宴が開かれることもあったわけでありました。

例えば、ヤコブの婚宴(創世記29:22)即ちヤコブとレアの結婚、更にはサムソンの婚宴(士師記14:10)、つまりペリシテ人の女との結婚の時のことですが、それぞれ花嫁の家で開かれた有名な実例があるのであります。

ですから、今回のたとえでも花婿が花嫁の家に来て婚宴を催すので、花嫁の家の玄関で花嫁の代理として、花婿を迎えようとしていた、花嫁の友の事が語られている、そのように解釈されるのであります。

しかし、その一方で、別の考えがありまして、
あくまでも花婿の家で祝宴を上げるのであるが、花婿が花嫁の家に到着する前に、先ぶれの男が花嫁の家に行き、「そら、花婿だ。迎えに出よ」というと、花嫁の友人がそろって花婿を迎えるのが常であったのに、時として結婚式の準備に時間がかかり、花婿が真夜中になって来る事もあった。

ですから、そのような情景を巧みに使ってイエス様は話された、そういう解釈もあります。どちらにしても、ここには、花嫁はでてきません。ところで花婿を迎える娘10人は数に意味がある訳ではありません。

この10人の娘のうち、5人は愚かで、5人は賢かったとあり、ここで愚かと言われているのは、この娘たちは、ランプに油を入れて持っていたが、ランプの油が無くなった時のために予備の油を用意していなかったことが、問題となったのでありました。

つまり、ここでは、万が一の場合を予想して万全の準備をする事が求められていたのに、そうしなかった。婚宴というめでたい時に、失敗は許されないのに、失敗してしまったというのです。

とは言いましても、花婿は予想に反してなかなかきませんでした。
夜も次第に更けてきたために、娘たちは、賢い者も愚かな者も、待ちくたびれてついにうとうとと眠ってしまいました。それほど、待ちくたびれたという訳です。

ところが、夜中になって先ぶれの男が到着し、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫びました。娘たちは、慌てて起きて、自分のランプの灯に火をつけ、花婿を出迎える準備をしました。ところが、愚かな娘たちは自分のランプの油がなくなりかけていましたので、8節を見ますと、『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』と賢い娘にいうのです。

ところが、賢い娘はこう言いました。
『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。
それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』とです。

このやり取りを読んで、賢い娘と言われている者に対して非常な冷たさを持つ方が必ず数人はおわれるのであります。
「何という冷たい人だろう。」「少しくらい分けてもいいだろう」
「こんな夜中に、油を売っている所などあるのか。」とであります。

でも、10節を見ますと「そこで、買いに行くと・・」とありますので、実際に売っている所があったのか、それとも、買う事が出来ないまでも、なんとか調達できたのか、彼女たちは帰って来た、ということになります。

ここで私達は、この話しはあくまでもたとえであることを、理解しておかなければなりません。そうでないと、話しにならないのであります。「余分の油を準備したのと、しないのとで、どうしてここまで厳しく裁かれるの」とか「分けてやらないのは冷たいのではないの」という風に、先ほども言いましたような疑問がわくのであります。

そもそも、このたとえは、そういうことをいうために、イエス様が話された訳ではないのであります。一つのたとえには、一つの意味があり、それ以上のものはない。
これがたとえの原則であります。

ですから、例えを読む時は、いつもその点に最大の注意が必要なのであります。
そしてそれは、「目を覚ましていなさい」と言われていても実際は眠り込んでしまう。
だから、仮にそうであっても、目を覚ました瞬間に何が念頭にあるのか、ある一つの事に集中しているのか、ということが大切であるのです。

それは、主を出迎えることである、この一点につきます。
10節「そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」とあります。
特に最後の「戸がしめられた。」ということばは、大変、冷たいものを感じますが、しかし、主のことばに忠実に生きているかどうか、それが、問われて来るのであります。

人の子をお迎えするその日に、ノアの時代の人たちのように、「まさか、そんなことになろうとは。こんな大雨になろうとは・・・。そんなつもりで、ノアを見ていたのではない」と言っても駄目なのです。

「人の子は思いがけない時に来る」と言われていたが、まさかこの時とは、思いもよらなかった、では駄目なのです。そうイエス様は言われているのであります。
11,12節
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。」とあります。

ここで『ご主人さま、ご主人さま。』と訳されている言葉は、7:22では「主よ、主よ」と訳されている言葉と全く同じです。娘たちにとってご主人様とは、主の事であります。

そして、その主なる方がいわれるのです。
12節『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』とです。これは、非常に恐ろしい言葉です。こちら側は知っているつもりであり、つながっているつもりである。
心が通じ合っているつもりである。しかし、主の側からは、ハッキリと言われるのです。『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』とであります。

そしてこれは、主の最終的な言葉として、厳粛に受け止めなければならない現実なのです。いまここで、花婿を迎える10人の娘の話し。5人は愚かで、5人は賢かった。
そして、これを読む誰でもが、自分は賢い側の一人に数えます。

でも、本当にそうだろうかと問わなければなりません。
13節を読みますと
「だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」とあります。
あなたがたは、賢い方にも入るし、愚かな方にも入る。
なぜなら「その日、その時を知らないからです」と言われるのです。

天の父の全権を帯びて世界に臨まれる審判者である主は、こう言われるのです。
「人の子が来られるのは、私の予定外であった」
「こんな時間になって来られるなんて、冗談じゃあないよ」
とかなんとかいろいろ言い訳をしても、もし、手遅れになる時が来たとしたなら、
それは、その人自身が信仰を拒否した結果と知りなさいよ」とであります。

このたとえには、厳しさがあります。
油をわけてもらえなかったり、戸は閉められて開けてはもらえなかったりというようにです。しかし、このことは、他の誰の準備の物をも借りる事も出来ない。
頼りに出来る人の信仰を流用して、自分に役立てるという事も出来ないのです。
私達自身が、イエス様を信じて、再び来られるとの約束を信じ、待てるようになれるか、ということが問われるのであります。主が来られた時、私達が、どんな事をしているか。そして、来られた瞬間、何をどう思うか、それは、非常に問われる事であります。

「目を覚ましていなさい」というのは、24:42でもでてきました。
それは、「寝ずの番をしていなさい」に近い言い方でした。
でも、寝ないで起き続けることが出来る筈もなく、また、主はそれを求めてもおられません。主の求めておられるのは、「生涯変わらぬ、一つの信仰の姿勢を変えないでいてほしい」ということかもしれません。

しかしながら、今回のイエス様のたとえの中に出て来る娘たちは、賢かろうが愚かだろうが、みなうとうとして眠り始めました。これは、人として生身の人間として仕方のない事であります。それが現実だとも言えましょう。

しかし、賢い娘たちは、
「『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。」時、ランプの準備がすぐにできました。実は、そうあるべきだとイエス様は言われているのかもしれません。

私達の肉体も魂も、強い時もあれば、弱い時もあります。
しかし、主の恵みによって救われれている私達は、弱ければ弱いなりに、主の来臨を待ち望む事が出来ると言えましょう。強ければ、なおの事、待ち望む事が出来るのですが、ここで大切なのは、いつでも、どんな時でも小さくても、細くても、とにかく、主の来臨を待ち望み続けることだと言えましょう。

そしてそれには、イエス様の十字架の恵みの上に立ち続けることだ、ということです。
そしてそれは、主が恵みのうちにそうさせて下さるとの確信を持ち続けることでありましょう。主が、私たちのために犠牲を払って下さったのですから、主が責任もって主の祝宴に入れて下さるでありましょう。

その確信を与えられている人は、何という幸いでしょうか。変らぬ恵みの中に入れられている私達は、変らぬ信仰で歩み続けようではありませんか。


2014年6月29日(日) マタイ25:14-30  内にある宝  竹口牧師

この朝見ます聖書箇所は、イエス様が話されたタラントのたとえ話しであります。
このたとえ話の前には、先回見たのですが、花婿を出迎える十人の娘の話しがありました。

ではなぜ、このような話しが続くのかといいますと、その前の章の45節に於いて、「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」と問われていました。
そして、そういう思慮深いしもべとは、どういうしもべかを、50節に於いて、

「そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。」ので、それに対処出来る人でなければならないという事になりました。

では、どのようにして待てばよいのかという事になり、花婿を出迎える十人の娘のたとえで現わされた訳でありました。更に本日見ますタラントの話しでも明らかにされるのであります。

そのタレントの話と言いますのは、「ある主人がしもべたちを呼んで、自分のお金を預け、旅に出て行く話し」であります。それも、単に出て行くのではなく、その時に、しもべのそれぞれの能力に応じて、お金を預けて、でかけたというものであります。
一人には、5タラント。もう一人には2タラント。そして三番目の人には、1タラントを預けて旅に出たと言います。

1タラントとは、どの程度のお金に現代ではなるのかと言いますと、18章のところでも申し上げましたが、もともとは重さの単位であり、国によって差があり、金か銀かによっての値打ちが変わったのでありました。

でも大体、1タラントは、6千デナリであり、1デナリは、当時の1日の労賃に当たると言われています。ですから、6千デナリは、6千日の労賃ということになります。これを1年365日で割りますと、約16.4年分になります。これをみなさんの給料で計算してみてください。

年収1千万以上の方もおられるでしょうが、ずっとさげて年収500万としますと、1タラントは16.4年分ですから、その16.4年分を金額にしますと、8200万円ということになります。1タラントでも結構な額になります。

ですから、2タラントの人はその2倍ということになり、1億6400万円、
5タラントの人は5倍預けられた。つまり、4億1000万円預けられたという事になります。これは、仮に年収を500万円にしましたのでこの額ですが、800万円とか、1000万円とかにしますと、もっと額が大きくなるのは言うまでもありません。つまり1タラントでも相当な額を預かった訳です。ですから、1タラント預かった人を軽く見てはいけません。

私は、もともと大金には関係ない道を歩みましたが、もし、私にそんな高額なものを主人なる人が預けたなら、どうしただろうかと、真剣に考えるのであります。
あの1タラント預けられた人のように、地面に隠すことを選ばなかっただろうか、とであります。一番確実に元本は返せるからであります。

でも、ここで、このたとえを、注意深く読んでみますと、分かるのであります。
それは、主人は、それぞれの能力を知っていて、それを見極めて、預けているということであります。たとえば5タラント預けても大丈夫そうな人には、5タラントを預けたのであります。2タラント預けられた人もそうであります。1タラント預けられた人も言うに及びません。

では、彼らはどうしたかと言いますと、
16節「5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。」とありますように、すぐに行動に移したのであります。

2タラント預かった人も同じでありました。
17節「同様に、2タラント預かった者も、さらに2タラントもうけた。」とあるのであります。ただ、17節には、「すぐに行って」という言葉はありませんが、恐らくそうでしょう。そういう事には長けていたのでしょう。

この世には、金儲けの話しはいくらでもあります。
ただ、自分がそのお金を使いまわす能力があるかどうか、良く知らなければなりません。そうしませんと、ハイリスク、ハイリターンならまだいいのですが、全くリターンのないものを掴ませられる事も、この世にはいっぱいあるのであります。

うまい話には手を出すなとよく言われますが、まさにそうであります。
ハイリスク、ハイリターンだって、相当の経験者でないと失敗するのであります。
そういう意味では、地面に埋めておくというのは、元本保証という事で、考えによっては賢い方法だったと私的には考えます。

というのは、現代で言いますと、あるいは昔もそうであったかもしれませんが銀行がつぶれる時代だからであります。銀行なら大丈夫だろと言いたいのですが、現代は、そうとも言えない時代となってしまいました。
何が起きるか、本当に皆目見当がつかない時代であります。
主人は確かに、27節で「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」と言っていますが、今日では、銀行さえつぶれるかもしれない時代です。

しかし、ここで問題なのは、主人がなぜ、何千万円から数億円もする程のお金を
しもべに預けたかであります。土に埋めるのであれば、主人にも出来た筈であります。
しかし、そうしないで、しもべに預けたのには、それ相当の理由がなければならないのです。

やはりそこには、任せても大丈夫という信頼がなければできません。信用がなければならないのです。あいつに渡せば持ち逃げするかもしれない、そういう心配があるなら、それは、預ける事はなかったでありましょう。

1タラントといいますと、わずかな額のように聞こえますが、先ほども言いましたように数千万円ですから、それを預けたという事は、信頼していたという事になります。
しかし、預かった方は、その場で断らないで預かってしまった。そしてその人は、主人の信用、信頼を大きく裏切った、そういう事にまずなるでしょう。

しかも、主人がどういう人であるかを、当たっているか、ハズレているかは別としましてこう24節で言っているのであります。
「『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」25節「私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』とであります。
つまりこの人は、自分が主人から信頼されていたのに、それを無視した事になります。

もう一つは、与えられているタラントを生かす事が出来なかった。
せっかく与えられたチャンスをつぶしたという事にもなります。
では、どうすればよかったのでしょうか。

その人は信頼され、任され、委ねられていたのですから、最初から恐れて諦めるべきではなかったのであります。そのことを思いますと、主人の心をどれだけがっかりさせただろうかと思わされるのです。従って、多くの人々の中から選ばれ救われた私達は、まず、主に信頼されていることを決して忘れてはいけないと言えるでしょう。

能力の点で言いますと、人それぞれ得意分野が違います。
ですから、自分の得意分野で持って、兄弟姉妹と競いあっても意味はないのであります。得意分野で、相手の不得手な分野で勝負するなら、勝つのは当然でしょう。
確かに金ころがしの上手い人はこの世にいます。しかし、何かを作る事なら私にお任せください。そういう人も中にはいるのであります。

ですから1タラント預けられた人と、5タラント預けられた人とを比べて優劣をつけてはならないのです。大切なのは、主人の思いを形にしたのは誰かであります。それは言うまでもなく、5タラントの人であり、2タラントの人であったわけであります。

私は、一人の人間の成績がオール5である必要はない。そう思っています。
何か一つの事で5であればそれで良い訳です。そして、それを用いて、主に仕える事であります。主人が帰ってきた時、少しも変化がないというのは、主人としては、非常にがっかりではないでしょうか。

ある本には、この1タラントを預けられた人というのは、パリサイ人、律法学者だと言っております。その理由を、こう述べております。

なぜなら、彼らがしている事は、律法を変えずにそのまま保つ事であり、彼らの言葉を借りれば「律法の周囲に垣をめぐらす」ことであった。彼らは、律法を僅かでも変え、それに何か少しでも付け加えれば呪われると考えていた。

この態度は、宗教の真理を曇らせ、新しいものを排斥する結果となった。昔のままの状態を維持しようとする律法学者、パリサイ人は、ちょうど1タラントを受けたしもべのようであり、その態度がイエスの非難を受けたのである。」とであります。

私は、この言い方は、あまり正しい言い方ではないと考えます。
もっともパリサイ人、律法学者は、正しく律法を解釈していませんでした。
つまり、律法の本来持っている意味から外れて、間違った解釈に走っていた。
ですから、律法を変えて減らしたり、付け加えたりする必要は、本来の律法そのものには、全くないのであります。神の言葉は永遠に変らないものだからです。

14節のはじめに「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」とイエス様は言われておりますので、パリサイ人を指して言われているかどうかは疑問です。

が、それはともかく、主人から預かったお金を有効活用をしなかったしもべはどうなるか、これは、興味深いものがあります。
「まあいいか。他の二人が倍にしたのだから。」
それで済んだでしょうか。済みませんでしたね。
主人の性格がどんなものであったか、それが当たっていたかどうかは別としまして、
26節にありますように、
『悪いなまけ者のしもべだ。
私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来た時に、利息がついて返してもらえたのだ。」と主人は言っています。

私は先ほど、銀行さえもつぶれることを言いました。
しかし、主人は銀行に預けるべきだと言っています。
ここで、何が問題になっているかと言いますと、預けられたお金を、用いなかった事なのです。この点だけは見落としてはいけません。

銀行に預けたら、銀行がつぶれた。元も子もなくなってしまった。
それでは駄目ではないかと言いたいのですが、銀行がつぶれるかどうかは別としまして、運用した事だけは、認められるでしょう。主人がお金を預けたのは、そのためではなかったか。だから、そこを問うたのではないでしょうか。

よく言われる事に、お金は使ってこそお金であり、貯めておくのは、単なる紙くずにすぎないと言われます。お金に対する考え方も国によって大きく違うようでありまして、ある国では、現金は決して持ち歩かない。みんなカードで決済してしまう。

またある国では、預金は絶対しない。あるお金はすべて使ってしまう。
それだけでなく、借金をしてお金を使う。借金のために働いて、借金を返し、そして借金をして又返す。

人は何のために生きているか。それは、借金を返すために生きている。そういう国もあるそうであります。それぞれの国柄がありますので、優劣はつけられませんが、
少なくとも、主から預けられたものは、有効に使って初めて、主がお喜びになる事は、
肝に銘じておくべきでありましょう。

主人は28節でこう言っています。
「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」とであります。そして29節で 「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」とイエス様は言われました。

人がこの世に生まれてきた以上、何か光るものを、他の人になくて、その人にしかないものを神様は与えておられる。だから、人と比べて卑下する事は決してあってはならない。ただ、それが何かを人生の中で探す事は必要でしょう。
あなたの宝とは何か。それが分かった時、それを用いる事であります。イエス様は30節でこう言われています。「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」と。

ここに出て来る主人は、しもべに対して5タラント預けた人を「お前は有能だったから5タラント預けた」とか何とか云っていません。
あるいはまた2タラント預けた人にも、「お前は有能だから2タラント預けた」とも言っていないのです。5タラント預けた人にも2タラント預けた人にも同じ言葉でねぎらってます。

5タラント預けた人には、21節で『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』とこう言っています。
そして2タラント預けた人にも23節でこう言っています。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と言っているのです。

預けたお金は決して僅かではありません。5タラントと2タラントでは大きく違います。しかし、両方とも「僅かな物に忠実だったから」と言います。この主人にとって、1タラントも2タラントも5タラントもあまり価値の差はないのです。
大切なのは、それを有効に利用したかどうか、なのです。

それは、お金に限らず、私たちに与えられている全てのものに言える事です。
神様が与え、委ねて下さっているものを、神様のために用いなければ、
「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」ということになるのです。

私達は、そういう宝を内に秘めている事をまず知る必要があります。そして、そういう宝を神様が与えている者を救うために、キリストをこの世にお遣わしになったのだという事です。

従って、私は、イエス様のいのちをもって救っていただくような者ではない。
そんな器でもないし、賜物もない、そう思ってはいけないのです。

あなたには、あなたの宝がある。
神様が与えておられる宝が必ずある。
そのために、主は十字架にかかり、救って下さった。
またその主は、天に行かれ、再び戻って来られるといわれるのです。
いつ、主は再び戻って来られるかが分かりませんが、この与えられた生涯を通して、自分に与えられている宝を、主の御用のために失敗を恐れることなく用いさせていただこうではありませんか。そのことを、主は喜ばれるのですから。

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