2014年7月13日(日) マタイ25:31-46 真実に主に仕える 竹口牧師
マタイは、24、25章に於いて、終末に関する話しをまとめています。 そしてその中身はと言いますと、24:1から今回見ます所以前まで、つまり25:30までは、終わりの日とはどのようなものか、キリストの再臨はいつ起こるのか、その時まで御国の民はどのように歩んだらよいのか、そのようなことを述べていました。
そして、今回見ます25:31から最後の46節までは、キリストが再臨された後に、どのような事が起こるのか、という点に焦点を当てて書いています。 まずきょうの最初は、25:31-34節までをみることにします。
これは、選び分けられる事が出ているのですが、まずは、イエス様は、再臨されなければなりませんので、その時の模様が31節に出ております。「人の子が、その栄光を帯びて、全ての御使いたちを伴って来る時、人の子はその栄光の位に着きます。」とであります。
これを分解しますと、 一つ目は、イエス様は、神様の栄光を帯びて来られるという事。 二つ目は、御使いを伴って来られるという事。 三つ目は、栄光の位につかれるという三つの点が言われています。
そして、そのひとつひとつに目を留めたいのですが、まず一つ目の点について言いますと、イエス様は、天から身を低くして降りて来られ、人のかたちをとり、この地上で人と同じように歩まれました。そして父なる神様は、そのイエス様の事を「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)とイエス様がバプテスマを受けられた時に言われました。
天におられたイエス様がこの世界に来られるのに、受肉され、神の栄光を捨てて貧しい者となって来て下さいました。ところがどうでしょうか。今度、再び来て下さる時には、神としての尊厳と威光を身にまとわれて来ると言われるのです。ですから、この時には、誰にでもわかる姿だと言えましょう。
さて、再臨の第2の模様は、御使いを伴って再臨されるとあります。 これは、御使いを部下として従えて来られるように考えられますが、しかしそれについては、ある本によりますとギリシャ語文法的には、御使いはイエス様に同行するというのではなく、主体的に大きな役割を果たすと書かれている、とそのようにありました。
ですから、イエス様の配下にあって何かをするというのではなく、何か使命をもってやってくるということかもしれません。
次に再臨の第三の模様は、イエス様は栄光の位に着かれる点です。 これは、神の栄光を帯び、御使いと共に再臨されるその時、イエス様は王として就任されると言われるのであります。そしてそれが何を意味するかと言いますと、32,33節にそれが書かれてこうあります。
「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」とであります。つまり、人が選び分けられることが言われているのです。
イスラエルに於いて、羊は良い動物、山羊は悪い動物とされ、善人と悪人とが、象徴的に表現されていますが、そして終わりの時、栄光の王はすべての人を、善人と悪人とに選り分けると言われます。それはまた、審きを指している事は言うまでもありません。
審きは全ての人が受けます。 けれども、罰を受けるかどうかという点は、また別の事です。 羊が罰を受けるはずもありませんから、羊が恐れる必要はない訳であります。 イエス様は、羊と山羊とを分ける作業を終えられると、右にいる羊たちに、神の国を相続するよう励ましの言葉をかけられます。
34節『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』と、であります。
イエス様は、審き主であると共に王でもあられます。 ですから、そのように言う事が出来るのであります。 ここで「右にいる者たち」とは、羊にたとえられた人たちで、天の御国の民を指します。それは、幸いな人たちであります。
一方、イエス様は王としての権威を持って宣言され、イエス様の父が審き、御子がそれに従うというのではなく、イエス様ご自身が審き主となられるのです。ですから、イエス様に対する敵対的な思いや行動をする者は、今申し上げたことを理解したうえで、行動していただきたいのです。
ところで私達は、これから、きょう見る所の聖書範囲で言いますと第二番目の部分に入って行きます。つまり35-40節の部分であります。
この部分の結論は、40節にあります。即ちこうあります。「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」ということであります。
そして、「これらのわたしの兄弟たち」というのが誰を指すのか、それがその前に書かれているいろいろな人たちであります。いわゆる善行を行なった人、しかも兄弟たちであります。ただ善行を行なった人ならだれでも入るのかと言いますとそうではない。「わたしの兄弟たち」だと言われるのです。
では、どんな兄弟たちかと言いますと、 一人は、空腹の時、食物を与えた兄弟 二人目は、乾いている時に飲ませてくれた兄弟 三人目は、旅人であった時、宿を貸してくれた兄弟 四人目は、裸の時、着る物を与えてくれた兄弟 五人目は、病気をした時、見舞ってくれた兄弟 六人目は、牢にいた時、尋ねてくれた兄弟、であります。 この世には、善行を行なう人は、たくさんおられます。
言うまでもなく、犯罪を犯す人もたくさんいますけれども。 しかし、そのような普通の人のことではなく、キリストの贖いの御業に信頼し、信じた人、兄弟であり姉妹であります。
そういう人が御国に招かれ、入れていただけるのであり、 そういう人の善行に主は目を留められるのであります。 御国の民にとって、他の人の必要に応え、愛を注ぐ生き方をすることが最も自然であります。空腹のときに与え、乾いているときに飲ませ、旅人であった時、宿を貸し、裸の時に着る物を与え・・云々、というように、困っている人に手を差し伸べている。そういう人であります。
そして、35-36節にかかれていることは、わたしが何々であった時、と言って、 「わたし」「わたし」「わたし」というように、「わたし」ということを強調しておられます。そしてその「わたし」とは、言うまでもなく、イエス様のことであります。 そしてこれは、いろいろな善行を行なう人がこの世にいるけれども、わたしを、つまりイエス様を大切にすることが重要な点だということであります。
人に親切にする。それが巡り巡って自分のためになる。 だから、良い行いをしなければならないというのではありません。 良いことをすれば、必ず報われるからという報いを求めてするのでもありません。
もしそうなら、こんなことをしても誰も喜んでくれない。 そのようになって、人の目に付くこと、はっきり喜ばれること、そういう事だけをするようになっていくのであります。
しかし、それは間違いであることをイエスさまは次の37-39節で明らかにされます。 「25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』」とです。つまり、本人には、善行を行なった意識がなかった。覚えがなかった。ということであります。
従って、人に喜ばれるための点数稼ぎでもなければ、主に喜ばれるために意識してやったことでもない。主にある兄弟姉妹として普通通りやった、までです、ということになります。
37節で「主よ。いつ、私たちは、・・」と言って、「主よ」と呼びかけています。 本人は行なったことを、善行として行ったのではなく、行なうべくして行ったのであり、まして主を意識して、自分の前にいる方は主であるから、ということでおこなったのではないということでした。ですから、自分の行ったことに疑問すら覚えています。
しかし、主は良く見ておられました。また、良く見ておられるのであります。 40節で王は、こう言います。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、 しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』とであります。
イエス様は、ご自分の血を流して贖った者を、 いいえ、実際はこれから血を流して贖って下さるのですが、 その者に対して、兄弟として姉妹として、手を差し伸べることは、それは即ち、私にしたのだと言われるのです。初代教会のキリスト者たちは、厳しい迫害の中に突入していきます。ですから、今ここで言われていることが、実際に兄弟姉妹の中で行われることが求められるようになっていきます。
従って、彼らの事を第一に念頭に置きながら、言われたと言えるでしょう。 とはいえ、クリスチャン同士には、愛を注ぎ、そうでなければ、見向きもしないというのでは、それはまた、主の御心ではないと言えましょう。
良い羊というものがどういう者であるべきか、 それは、申し上げるまでもないことであります。 まず、キリスト者を優先すべきですが、 そうではない人にも愛を注ぐことは大切だからであります。
ところでこの朝の第三番目の項目に移りたいと思いますが、41,42、43節でイエス様はこう言われています。 「25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、 渇いていたときにも飲ませず、 25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』」とです。
これは、さっきの羊と言われた人たちと真逆の事を言われています。 どちらも、困っている人を主とは認めていませんでした。 一方は、主の愛から出た行為であり、もう一方は、今取り上げている者たちの事ですが、主がもし困っておられるなら、してあげたのに、そんなのは見なかった。いつそんな状態であったのですか、と聞くような感じで答えています。44節にこうあります。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 そんなのは知りませんでした。というような感じでしょうか。
彼らもまた「主よ」と呼びかけています。しかし、その呼びかけには、尊敬と畏敬と 更には、申し訳ありませんでしたとの謙遜さは見受けられません。自分の犯した失敗を、また心にもないことを口にし、自分たちを正当化いている感じすら見受けられます。そして、そんな彼らに45節で王は言います。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』とです。40節の場合「兄弟たち」ということばがありますが45節の場合はありません。 けれども、同じ兄弟たちを指していることは明らかです。
従って、そして前者は、「わたしにしたのです」であり、 後者は「わたしにしなかったのです」とはっきり言われています。 私たちは、この違いの大きさを、良く考えてみなければなりません。
主がはっきりと羊は右に、山羊は左に分けられました。 そして、羊は祝福を受け、山羊は審きを受けるのです。 では、私達キリスト者は一体どちらなのでしょうか。 右でしょうか。左でしょうか。 永遠のいのちでしょうか。永遠の刑罰でしょうか。
46節でイエス様はこう言われます。 「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、 正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」とです。 私たちは、自分は全く間違いがない。完全なものである。 罪を犯さない人間であると言える人は一人もいない。 もしいるとするなら、それは思い込みであって、 決して完全ではないと知っています。
それ故に、キリストの贖いの業が必要であると認めるのです。 それだけでなく、キリストの血によって贖われた者は、「罪から解放されて神の奴隷となり、清潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです」とローマ6:22にありますように、全く変えられた者なのです。
それだけに、罪赦されていることを感謝し、主に喜ばれる事だけを願って、歩む人生を送ろうではありませんか。それがまた、私たちの喜びそのものでありたいものです。 羊の発する「主よ。いつわたしたちは・・・」というのと 山羊の発する「主よ。いつわたしたちは・・・」というのと ことばは同じでも、その意味するところは全く違います。
それは聞いた限りでは、分かりません。 わたしたちにわかるのは、外に現れた実であります。 実が大きく育つのは、それは主のしてくださることです。 大切なのは、主が私たちを贖って下さったのですから、 決して裁かれることはないという確信をまず持つ事です。
そして恐れることなく感謝しながら、喜びをもって、主に仕えると共に、また主が遣わされた兄弟姉妹にも仕えることであります。主にお仕えし、また兄弟姉妹に仕える事によって、お仕えする事の喜びを味わって行きたいものです。
2014年7月20日(日) 「時を知る」 マタイ26:1-13 竹口牧師
いよいよ今日から26章に入ります。マタイの福音書もあと3章で終わりであります。 それも、イエス様の十字架刑による死、葬り、復活、昇天という地上の生涯の終わりへと入っていくのであります。
イエス様は、オリーブ山で世の終わりの説教を24章25章で行なわれました。 そして、いよいよ地上の生涯最後の夜を迎えられ、十字架への道の備えと共に、その道をこれから着々と進められます。
ところで、きょうの聖書箇所の1節から5節までを読みますと、イエス様の周囲の環境が大変悪くなっているのが分かります。と言いますのも、2節でイエス様が言われていますように、「あなたがたの知っている通り、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」というように、二日経つと自由の身でなくなると言われていますし、
一方、3,4節を見ますと祭司長、民の長老たちは、大祭司の庭に集まり、イエスを殺そうと相談しているからであります。つまり、非常に重くるしい空気がエルサレムの町を流れておりました。彼らは、イエスを捕える、そして殺すという時をいつにするか、真剣に考えていたわけであります。
5節にこうあります。 「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」とであります。彼らは、時というものを、非常に慎重に考えていたのでした。時というものを正しく読まないと、急いては事を仕損じるではありませんけれども、下手をすると自分たちが悪者になってしまう。それは、自分たちの本意ではない。あの憎きイエスを無き者にすることこそが、自分たちの最大の願いであり、また勝利であると考えておりました。
当然ながら、同じ捕えるのでも自分たちに責任が降りかかっては勿論、いけなかったわけであります。ですから、彼らにとって最善の時を探すわけであります。
ところで、大祭司カヤパについて少し触れておきますと、もともと大祭司の職は世襲制で、しかも終身制でありましたので、死ぬまで任期があった訳であります。 それも、大祭司が死んだ場合、旧約時代においては、逃れの町に逃れていた過失による殺人者が、自分の所有地に帰る事が出来る(民数35:28)。そういう事になっておりました。ですから、大祭司の死は、そしてそれに伴う交替は、その人たちにとっては、大変大きな意味を持っておりました。
ところがどうでしょうか。 ローマ軍がパレスチナを占領してからというもの、ローマの都合次第で大祭司が、次から次へと変えられてしまったわけでありました。その交代は非常に早く、なんと紀元前37年から紀元後67年までに、つまり、神殿が破壊される前に任命された最後の大祭司までに28人が立てられ、入れ替わり立ち替わり変ったのでした。従って、約100年の間に28人が大祭司となった訳であります。
では、今、イエス様を殺そうとしている時のカヤパは、どのくらいの任期であったかと言いますと、紀元18年〜36年でした。計算しますと、ですから18年間大祭司であったということになります。ということは、随分長く大祭司を務めた事になります。
ではどうして彼がこんなにも長く大祭司であり得たのかということになります。 それはある人曰く「カヤパがローマと協力する術を完全に身に着けていたからである」と言います。実際の所、恐らくそうでありましょう。外国の支配下にある中では、それが一番長続きする方法でしょう。
しかしまた、そのためには、ユダヤ人に対しても気を配らなければならなかった事だけは確かであります。つまり、両方に気を回さなければならなかった訳です。 そしてそこに、彼が一番恐れていた事がありました。それが、民を平穏に収めなければならないということでした。暴動を絶対に起こさせてはならなかったのです。
もし起こしたならば、大祭司カヤパの首は飛ぶし、ローマの総督の首も飛ぶという訳であります。ですから、何とか平穏に事を進めたい一心でした。しかし、過ぎ越しの祭り時のエルサレムは、非常に危険度が増すのが常でありました。と言いますのも、ユダヤ全土から参拝者がやって来るだけでなく、世界からも人がやって来たからであります。
従って、何かちょっとした事がきっかけで、暴動に発展するということは、あり得たのであります。だから5節にありますように、 「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」というように、イエス様を捕える事により慎重になっていたわけでありました。
ところが、その考えを覆す事が起きるのであります。それが次回見ます14節以下のユダの登場であります。そのユダの裏切りによって、祭司長や町の長老たち、更にはカヤパの考えは、完全に狂って来るのであります。なかなかこの世はままならぬものです。思うようにはいかないものです。神様のみが、主権を持っておられ、時を進められるからであります。
また、その時を正しく知る事によってのみ、正しい行動が出来るというものであります。それ故に、伝道者3章1節の言葉「天の下では、何事にも、定まった時期があり、全ての営みには時がある」の言葉がぴったり合っているといえましょう。神様のご計画、またその時というものを無視してはうまくいかないものであります。ユダの登場によって、思わぬ方向に彼らは向かう事になって行きます。
そして今日の2番目の話しは、イエス様と一人の女性に対して弟子たちは、理解に苦しむ所であります。
なぜ理解に苦しむかと言いますと、やはり時というものを正しく理解していなかった事があげられます。確かに、時というものを考えなかったなら、弟子たちの言い分が正しいかもしれません。事の次第はこうでありました。
一人の女性が大変高価な香油をイエス様の頭に注いで差し上げたのであります。 それも、並の量ではありませんでした。マルコの福音書14:5によりますと、「その注いだ油は、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しが出来たのに」というほどのものでした。
その当時、1デナリとは、一日の労働賃金と言われた時代でした。つまりは、1年分の労賃をイエス様に注いだ事になるのです。ですから、弟子たちはこう言いました。 『何のために、こんな無駄なことをするのか。 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』とそう言ったのでありました。
確かに、そう考える事も出来ます。でも、彼女のした事は、何であったのかと言いますと、彼女の持っていたものの中で最も高価であったと思われる物。また、高価であったがゆえに、イエス様にささげたともいえる。イエス様に献げた物は、そういうものでした。
ある人はこれを、愛の献げものだと言います。そして、「愛は計算を度外視する。愛は、体裁を保つための最小限の送り物は何か。そんな事は考えない。愛は、最大限に与え、全てを与えた後でなお足りなく思う。人の尊敬を失わない程度に、最小限にキリストと教会に献げるにはどうしたらよいかなど考える者は、クリスチャンという事は出来ない。」とまで言い切るほどであります。
考えてみますと、知らず知らずのうちに、献げる事に計算をしていた事に私はきづかされたのでありました。惜しみなく与える事の大切さが教えられます。ただイエス様は、ここでこう言われている事に注意をする必要があります。 それは、10,11節の言葉であります。
『なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対して立派な事をしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしは、いつもあなた方と一緒にいるわけではありません。』とそう言われたのです。イエス様と共に歩んできた弟子たちが、イエス様の今ある状況を把握していないで、むしろ、一人の女性はイエス様の事を気にかけ、そしてまた、イエス様に出来る限りの事をして差し上げたのでした。しかし、弟子たちは、その行為が理解できませんでした。一方、彼女は、意味があって行動したという訳であります。
では一体これはどういうことでありましょうか。 一番近くにいた弟子たちは、イエス様のことを、まだあまり自覚的していなかったという事でしょうか。いわば灯台下(もと)暗しということも言えなくもありません。 もし、その女性に神様がイエス様の事を教えて下さったとするなら、それは、非常に幸いな女性であったと言えましょう。あるいはまた、この女性が誰であるのかはっきりしていませんが、ヨハネは、マルタとラザロの姉妹のマリヤだと書いていますが、ルカはこの話しを記していません。
しかし、ルカはパリサイ人シモンの家でイエス様に油を注いだ話しをしていますので(ルカ7:36-50)、その人かといろいろ論議が尽きないのであります。 が、誰であれ、以前にイエス様に何かをしていただいていた人であるなら、そのお礼が、イエス様の十字架が近いこの時にこうなった。そういう事も出来ましょう。
しかし、イエス様ご自身はそのようには受け取ってはおられません。それどころか12節でこう言われるのであります。「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」とであります。この「わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」というのは、冗談にしては、言葉が重すぎます。なぜなら、ご自分の死の事を指して言われているからです。
また聖書を読んでいる私達は知っているのですが、イエス様のお言葉は、冗談ではなく、本当に死が間近であり、埋葬の用意をしたともいえるからでありました。彼女はまさに、それをしたと言えるのであります。ここにも、私には神の不思議な時というものを感じるのです。弟子たちは、女性のしている事が、もったいないとか。無駄だとか。そのように映った一方で、他方、女性にとっては、イエス様が自分にとってかけがえのないお方として映り、彼女にとって出来る限りの事をして差し上げようとの思いが、今回の行動に至ったのだと思われるのです。
時を彼女は知っていた。しかし弟子たちは、時よりも香油の方ばかりに目がいき、 大切なことを見落としていたということができましょう。まさにイエス様は、 「いつもあなた方と一緒にいるわけではありません。」そういうお方なのです。 イエス様の十字架と葬りの事がはっきりと、そして重く語られているのであります。 時を私たちは、正しく読む事を知らなければなければならないと強く教えられるのです。
そこで第三番目に取り上げたいことは、イエス様の13節のお言葉であります。 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と言う、このお言葉です。
これは、非常にすごい言葉だと言えないでしょうか。だって、弟子たちはそろって、彼女のしたことは無駄のように思え、馬鹿にさえしたのでした。 ところが、その無駄のように思えたことが、実はとても大切な、そして重要な愛の働きであった。それゆえにまた、永遠に語り伝えられる素晴らしい事であったとイエスさまはおっしゃるのであります。私たちは、私達の行っていることで、この女性のしたことと同じように語り伝えられるべきことがあるのでしょうか。
この女性のしたこと以上の愛の表現、それを、私たちは持ち合わせているでしょうか。 実はないのです。なぜでしょうか。
人となって来て下さったイエス様が、もう、この地上にはおられないからです。 今度来られる時は、救い主としてではなく、王の王、主の主として審き主として来られるのだからです。つまり、弟子たちは、時というものを間違えていた。そういう意味では、弟子たちはまことに恥ずかしい失敗をしたものだと思います。
今や福音は全世界に宣べ伝えられています。しかしまだまだ、御言葉を伝えるべき所がこの世界に沢山あるのです。ウィクリフ聖書翻訳協会という団体があるのをご存じの方もおられましょう。
全ての人が自分の国の言葉で御言葉を読めるようにしようというそういう目標を立てて働いている団体です。そのホームページを見ていますと、私達の国のように、聖書全巻が訳されている国が518言語、新約聖書だけ翻訳されている国が1275言語、聖書の分冊がある国が1005言語、ただ今翻訳プロジェクトチームが勧めている国が2075言語そして全く手が付けられていない言語が1967もあるのだそうです。
そうしてみますと、まだまだイエス様のお働きが、これからも世界に伝えられていくことが目に見えてきます。そしてそれはまた、今回の女性が果たした愛の行為もまた語り伝えられていくということでもあるのです。 私たちは、ここで、本当に大切なのは何であるか。その事に目を向け、またそれから目を離してはいけない。そのように教えられます。当然ながら、私達は生きて行くためにまず必要なものに目を向けます。しかし、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、 人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)とイエス様が言われましたように、まことのいのちより大切なものはないのです。
そのまことのいのちを失っては、元も子もないのです。 命は大切です。 しかし、それには時があるのです。
私たちは、この朝、すべての事に時があることを今一度確認しましたので、その時を正しく知り、本当にすべきことを、その時にするよう、神様に導いていただこうではありませんか。そしてイエス様から 「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」 と言われて初めて気付くのではなく、良くやった、忠実なしもべよ、と言って下さるような行動をさせていただきたいものです。
今回取り上げました大祭司は、時を知りませんでした。弟子たちも間違えておりました。しかし、一人の女性は、時を正しく知り、主にほめられました。私達は、一人ひとりに与えられている時を正しく知り、用いさせていただきたいものです。
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