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2014年12月28日(日) 「ユダヤ人の王」   マタイ27:11-14   竹口牧師

2014/12/28    マタイ27:11-14  ユダヤ人の王
この朝、司会者の方には、27:11-14を読んでいただきましたが、そこへとつながって行く前の部分をまず読んで、きょうの所へと入って行く事に致します。つまりこの章の最初、27:1-2の部分であります。そこには、こうありました。
「さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」以上であります。そしてきょうの11節へと続いて行きます。

ところで、イエス様は、十字架にかけられ、殺されるまでに、4つの福音書から見ますと6回の審問や裁判を受けられたと言われています。つまりきょうの所では、その内の4回目に当たります。

1回目は、ヨハネの福音書18章にでておりまして、アンナスによる尋問でありました。アンナスは、紀元6年から15年まで大祭司の職にありましたが、その後3年間に3人が入れ替わりまして4人目で現在のカヤパになりました。しかし、そのカヤパの背後で力をふるっていたのがすでに引退しておりましたアンナスでありました。ですから、まずそのアンナスの所へとイエス様は連れて行かれたのでした。

そして2回目の審問が、このマタイの福音書にもありました26:57-68にありますカヤパとサンへドリンでの裁判でありました。そして更に3回目が27:1にあります夜が明けての祭司長、民の長老たち全員による協議であります。そしてきょうが4回目になるわけであります。

1回目の時には、イエス様は尋問に対してこう答えておられました。
ヨハネ18:19節からお読みします。
「そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」

イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、『大祭司にそのような答え方をするのか。』と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。『もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。』
アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。」以上です。

こうしてイエス様は、現役の大祭司カヤパの所に連れて来られた訳でありました。
それがマタイの26章の所でした。そしてこの26章の63節の所でカヤパがこう質問しました。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

するとイエス様は、「あなたの言う通りです」と答えられました。
そして、これは新改訳の訳でありまして直訳では「あなたは言った」(スー エイパス)であると、この所を見た時に、申し上げました。

「あなたは言った」ですから、肯定にも否定にも摂れる言葉です。
そして今日の所でも同じような訳の違いが出て来る所であります。
それが、27章11節の所です。
「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた」と新改訳では訳されております。

しかしながら『そのとおりです。』とイエス様が言われたと言いますのは、直訳では「あなたは、言う」(スー レゲイス)であります。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』という質問に対して答が「あなたは、言う」では、答になっていない。「あなたは神の子キリストなのかどうか。その答えを言いなさい。」に対して、その答えが「あなたは言った」では、答になっていない。それで、新改訳のような訳になったようです。

しかし、この訳は言語学的に正しいのかという事になり、新共同訳では「それは、あなたの言っている事です」と訳されるようになりました。

こうなってきますと、イエス様の答えられた言葉が、大祭司の言葉を認めたことから、
「それは、あなたの言っている事です」、が実はそうではありません、という認めないことへと変った返事になってしまうのであります。そしてこれは、実にイエス様の応答としては、大変な違いである事がお分かりでありましょう。そして、祭司長、長老たちから次々に訴えがなされても、イエス様は、それに沈黙されたのでした。

そこである人は、この状況をこのように説明しております。ある本をそのまま引用しますとこうあります。
「最近の語学者の研究によると、このスー レゲイスつまり、あなたは言った、というのも元のヘブライ語の表現、アマルターも両方ともこれは無条件の同意と断定ではなく、『あなたの言葉だという事を忘れないように』つまり、『私は確かにユダヤ人の王だが、あなたが考えている【ユダヤ人の王】とは内容を異にする』という警告です。
ですから、口語訳と新改訳までは、『その通りである』と訳しましたが、新共同訳では『それはあなたが言っていることである』と、厳しく言い返す言葉に変えられています。イエスは、ピラトや告発者が言う意味とは別の意味で、真に『ユダヤ人の王』だと言われるのです、とあります。勿論、この場面をここに描いているマタイには、その『ユダヤ人の王』の意味と内容が、少なくとも彼なりに分かっていたと思います。」とあります。

私は、これは、非常に大切な点であると思うのです。
なぜなら、ユダヤ人の王とイエス様が言われた時、その意味するところは、アブラハムから始まっているユダヤ人という人種を指さず、民族を指す訳ではないからです。
あるいはまた、ローマ2:28-29でパウロが言いましたように「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」という事も出来るからです。

今の時代で言うなら、キリストこそ我が罪の為に十字架にかかり死んで甦られた方こそ王であり、その方こそ、私の支配者ですと告白できる者の王であります。
だからこそ私達はつい1週間前に降誕節礼拝をお献げしましたし、4日前には、燭火礼拝をして王の誕生を祝い、ほめ称えたのでした。そしてそれは、世界で行なわれたのでありました。

イエス様は、ピラトに「ユダヤ人の王ですか」と言われた時、ピラトの考える王でもなければ、祭司長や長老たちが考える王でもない。もっと広い、全世界の王であります。それはまた、人々から称賛、ほめことばをかけられ、満足するような人間的な王ではないのです。

私たちにとって、心から自分の罪を認め、赦しを請う時、神の御前に義として下さるお方が、真の王なるお方であります。ですから、ここで、もっと先の事を話すべきではないのですが、あえて申し上げるとするなら、イエス様が、十字架に架けられた時、罪状書きが、その十字架上に掲げられました。そしてそれは「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」でした。しかもそれは、へブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてありました。多くの人が読めるようにでありました。

しかし、この罪状書きを巡っても、ひと悶着がありました。
ヨハネ19:21-22を見ますと、こうあります。
「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには『ユダヤ人の王ナザレ人イエス。』と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」とであります。

つまり、祭司長達の申し出は、通りませんでした。ピラトが強引に却下した訳であります。しかし、ここに私の目に見えて来るのは、2つの皮肉であります。ピラトがユダヤ人たちの希望に反して、自分の考えを通しました。そこには、十字架に架けられた方がどう言うお方か、ピラトには、私達クリスチャンが考えるほど、イエス様が世界の王として理解して掲げさせたのではありませんでしたけれども、ユダヤ人の王とは、それが何を意味しているか、よくわかる表示であったという事であります。

もう一つの皮肉は、もし、祭司長たちが希望したように「彼はユダヤ人の王と自称した」と書くことになったなら、それを彼らは、イエス様を蔑視の思いで希望したのですが、実はイエス様は「ユダヤ人の王と自称した」けれどもそれ以上のお方であった、そのことを示唆することにもなる、ということであります。私には、そう思えてならないのです。

ところで、きょうの12節に戻りまして、
イエス様が一言答えられた後、「しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。」と沈黙された事が出ています。
ピラトは13節でこう言います。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」とです。果たしてピラトが、イエス様の側に立って本当に心配して言っているのだろうか、それとも、自分の立場を守ろうとして言っているのか、或いは、正義の審判者として心配しているのか。ここでは分かりません。
次回見ます15節から26節の部分で、幾分かは分かって参ります。

しかし、それだけでピラトの心を判断するのは危険です。
が、それはともかく、きょうの14節にありますように
「それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」とあるほど、イエス様はご自分の不利な証言に対してでも
沈黙されたのでした。

そこには、言うまでもなく大きな目的を果たすためであった、ということを、私達はしっかりと意識しなければならないでしょう。マタイは、最初のほうでは、民の祭司長達、学者たち(2:4)とか、長老、祭司長、律法学者達(16:21)とか祭司長、律法学者達(20:18、21:15、)とか祭司長、民の長老たち(21:23)とか祭司長たちとパリサイ人達(21:45)と書いて来ました。

先頭を切ってイエス様に反対したのは彼らだと書いて来ました。
しかし、26章に入ってからは、祭司長、民の長老たちという言い方に26:3、47、27:1、3、のように変わってきています。祭司長は、大体が筆頭に書かれていますが、その次には律法学者であり、それはまたパリサイ人でありますし、また26章に入って民の長老たちと言いますと、結局の所、サンへドリンのメンバーではないかと思えます。

つまりは彼らが、自分の思うように出来ない議会運営のやりづらさ、そのために、何としてもイエスを消したい思いが、よくあらわれているのであります。自分たちの王であってほしくない。自分たちが王であるのだ、そう言いたいに違いありません。そして、それが果たして正しい事なのか、もう一度私達は信仰の原点に立って考えなければならないのです。

「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と聞かれた時、イエス様は、直訳では「あなたは言った」でありましたし、新共同訳では「それはあなたが言っていることである」と訳されているものもあることを紹介しました。

この朝、一番大切な点は、もしあなたが、また、皆さん一人ひとりが、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」とイエス様に聞くならば、更に次に、「私の王でもありますね」と重ねて聞いてほしいのです。もしそうでなければ、あの祭司長や民の長老達と同じ立場に立って、イエス様に向かって、私たちこそ全議会の権限を握っている管理者であり、王である。お前は、それに従うべき者だとイエス様に言っているのと同じように私には思えるのです。

神のひとり子が、人となってこの世に来て下さり、自らの命をささげ、私達の全ての罪を贖って下さり、神との和解をなして下さったイエス様が、この世で言う単なるユダヤ人の王ではなく、私達異邦人にとっても王であり、救い主である事を、この朝告白し、またその方に救っていただいていることを感謝しようではありませんか。

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