2015年2月1日(日) 「神の御子の死」 マタイ27:45-56 竹口牧師
今年の受難週は、2014年度最後の主日であります。つまり3月29日が受難週礼拝となります。しかしながら、私達は、マタイの福音書を続けて読んできていまして、今、丁度受難の聖書箇所に差し掛かりました。このまま行きますと、後5回でマタイは終わりますので、その5回の間には、復活の所もすることになります。
従いまして3月29日に受難週礼拝、そして年度が変わりまして2015年度、第一回目の主日4月5日になりますが、復活礼拝をお献げする事になります。ですから、今の流れは、少し早目の受難、復活の礼拝をお献げし、そして他の書に入りながら、また受難、復活の礼拝に入ることになりますので、ご了承ください。
先週、伝道礼拝でしたが、マタイの福音書をそのまま続きで説教しましたので、今回は、その伝道礼拝の時の聖書箇所の続きという事になります。先回は、イエス様を真中にして両側に強盗が一人ずつ十字架にかけられた状態で、イエス様は、周りの人たちから悪口雑言を言われていた所でした。
イエス様はそれに対して反論はされませんでした。 ただルカの福音書では、強盗の一人が悔い改めましたので(23:43)、こういう言葉を持って約束をされました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とです。その強盗にとって何という幸いな言葉であったでしょうか。
ところで、マルコによりますと(15:25)、イエス様は、午前9時頃に十字架にかけられたとありまして、そして今日の聖書箇所45節を見ますと12時になり、全地が暗くなって3時に及んだと出ております。それからイエス様は、口を開かれ、こう言われました。
46節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とでありました。「これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」とあります。 これは、実に大変な叫びでありました。なぜなら、神の御子が、父なる神に対しての言葉であるからです。お見捨てになったのですかという関係性の否定であるからです。
それだけに、すぐには信じられない。そういう事が実際あるのかとか。父なる神と御子との関係でさえそうなるの?と、そう人は考えるわけであります。そこで考え出されたのが、詩篇22篇をイエス様は言われたのではないか、そのように考える人もいるくらいです。
なぜなら、その詩篇22篇は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」ということばで始まっているからであります。 更には、イエス様は十字架上で「わたしは乾く」とも言われましたので、 同じく詩篇22篇15節には、「私の舌は、上あごにくっついています」とありますので、 この22篇を言われたのだと考えるのであります。
しかし、苦しさの極みを味わっておられるイエス様が、あの十字架上で詩篇を言っておられるとは思えません。この地上で忙しい日々を送られただけでなく、十字架にかかられる前の晩は、一睡もしておられなかった。そんな体であったイエス様だったからです。
従って、ある人は詩篇22篇を原語から確かめておられます。 それはこうであります。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とイエス様は言われましたが、ヘブル語ではどうなのか、とであります。すると、「エリ、エリ」(わが神、わが神)は、詩篇と同じなのですが、その後の言葉「レマ、サバクタニ」というのが、そうではなく、詩篇では「ラーマー、アザヴタニー」となっているわけです。しかもイエス様の叫びは、当時の日常会話に用いられたアラム語で叫んでおられるようです。
ところがです。 当時、ユダヤ教会堂では、すでに聖書朗読にアラム語訳が併用され、そのアラム語訳(タルグーム)は、次第に固定しつつありました。がしかし、イエス様はそのアラム語を引用された訳でもありませんでした。因みにアラム語訳は「エリ、エリ、メトゥル、マ、サバクタニ」だそうであります。
つまりイエス様は、元の古典へブル語文でもなく、教会のアラム語訳でもなく、自分自身の言葉で、へブル語とアラム語を混ぜ合わせて叫ばれた、という事でありました。 それほどに、イエス様は、実感として、確かに神から見捨てられた、暗黒を感じておられた、ということであります。
神から見捨てられた、暗黒を感じておられたということは、一番身近な弟子であるユダに裏切られたとか、あるいはサンへドリンというユダヤ人最高議会での判決だからとか、ローマという外国の手による十字架刑だからというどちらかと言いますと外面的な理由による苦痛ではなく、父なる神が味方であるはずなのに、敵になられた。
そして罪人に怒りと呪いを注ぐ審判者の立場を父なる神は、イエス様にとっておられる。そのことが、イエス様にとって、何にも代えられない苦痛であったといえましょう。 実際の所、私達は一人ひとりこの世から去って行きます。死が確実に忍び寄ってきております。そしてその死の先に神の報復、審き、審判があるのであります。
とすれば、どのようにして、その審きから逃れられるのか、そういう事になって来るでありましょう。つまり「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、私たちが本来、そう叫ばざるを得ない存在なのに、イエス様は、私たちが受けるべき罰を一身に受けて下さった。それ故の言葉であると言えましょう。 いわゆる身代わりの罰であり、罰を受ける者の言葉であります。 これが、この朝、みたかった第一の点であります。
そしてそれに関連して、47節48節には、イエス様の言葉に反応した人の姿がでておりますので、それをみたいのであります。まず47節は、一つの反応です。 「すると、それを聞いてそこに立っていた人々のうち、ある人達は、『この人はエリヤを呼んでいる。』と言った。」とあります。
最初の「エリ、エリ」を聞いてそう感じたのでありましょうか。 また48,49節にはこうあります。「また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 ほかの者たちは、『私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。』と言った。」とあります。
「酸いぶどう酒」は、詩篇69:21節によりますと、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とありますところから、あざ笑う行為とみることも可能でありますが、それはともかくイエス様は、徹底的に罪人が受ける罰を、そのまま受けられた。あるいは受けて下さったと言えましょう。イエス様の身代わりの死とは、それ故にそう言えるのであります。
さて、第2番目に見たいのは、51-53節であります。 このようにあります。「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。 そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。」とであります。
まずここで注目したいのは、幕が真二つに裂けたという事です。 それも、上から下に向かって裂けたというのです。下から上なら、誰か人によってでも出来ましょう。しかし、そうではなく、上から下に向かって避けたというのです。 それも真二つに、でありました。 これはもう、幕の働きをしなくなったという事であります。 あるいは、その必要性も無くなったという事でもあります。
そもそも神殿の幕とは、その奥に、年に一度、大祭司が全国民の贖いの為に入る事しか許されていなかった至聖所と聖所とを隔てる垂れ幕の事でありました。 神様はモーセの時代からこの垂れ幕の先に置かれた契約の箱の上、そして贖罪所のケルビムの間から、あかしの板を通してイスラエルに語られました。
ですから、垂れ幕は、イスラエルが聖なる神の御そばに、そのままでは近づけない事、大祭司による贖罪の必要な事を象徴的に教えていました。
しかし、今ここで、イエス様が十字架上で贖いの死を遂げられた時、隔ての幕が裂け、神と人とを遮る隔てはなくなったのであります。
それだけではありません。 垂れ幕の奥にあったものは、モーセの幕屋や、ソロモン神殿にあった証しの板、契約の箱などはありませんでした。実は、バビロン捕囚で取られた時、何がどこに行ったかは、全く分からなくなっておりました。
従って、エルサレム神殿で繰り返されてきた旧約儀式の全ては、そう言ったものが何もない、無意味さを示すかのようになりました。従って、キリストの死によって明らかになったのは、旧約で行なわれていたいけにえの儀式の終りを示すものでした。
ですからヘブル書の記者はこうそれを書いております。 ヘブル10:19-20であります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」という風にです。
新し時代の幕開けでありました。 それ故に、70年に神殿は破壊されますが、いけにえが献げられなくて困ることはありませんでした。今もその必要はありません。ヘブル9:12にありますように「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とある通りであります。 イエス様は、完全な働きをして下さったのでした。 何という感謝なことでしょうか。
さて、第三番目に見たいのは、 ご自分の死をもって大いなる働きをなさったイエス様。 その時、何が起こったかであります。 51節以下をもう一度お読みしますが。 「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。 そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。」とあります。
ここを読んでお分かりのように不思議なことが次から次へと起こったことが分かります。これは、そこに誰がいても、恐ろしさを感じたでしょう。地は揺れ動き、岩は裂けました。イエス様の復活の後、死んで墓に葬られていた人たちが出てきて、エルサレムの町に入ってきた。
死んだ者がぞろぞろと町に入ってきたなら、その甦った人達と関係のある人たちは、どういう反応をしたでしょうか。とても、想像がつかないのであります。甦った後、その人たちはどうなったかは書いてありませんが、大変興味のあることであります。
ところで、東日本大震災の時、皆さんはいろいろな所におられ、さまざま怖い思いをされた事と思います。私は、教会の2階におりました。その同じ二階で姉妹が一人事務の働きをして下さっていました。ぐらぐら揺れた時、下りるか下りないか一瞬考えました。そしてそれはもう、ただ事ではないと感じましたので、二人で駆け足で下りて庭に出た訳でありました。
その時のことを考えますと、聖書に出ていることは、それ以上のいろいろなことです。 普段の状況が一変するような事が立て続けに起きたのであります。そしてこのことを、百人隊長および彼と一緒にイエスの見張りをしていた人々は、非情な驚きを感じ、「『この方はまことに神の子であった。』と言った。」というのです。
私達は普段、綿密に計画を立て、そしてそれを実行に移します。 そして、計画通り進む場合もあれば、遅れたり早まったりします。 その事によって一喜一憂するかもしれません。 しかし、想定外の事が起こった時、私達は一瞬固まってしまいます。 そして恐怖を覚えます。 更には、人間の力ではない何かの働きを感じます。 ここに出てきた百人隊長や十字架刑の見張りをしていた者たちは、イエス様を見上げて「この方はまことに神の子であった。」と言わざるを得なかったのでした。
最初は、いろいろと悪く言っておりました。 しかし、結局はそれらを全て打ち消し、「この方はまことに神の子であった。」と言わしめ、疑いようのない事実として言わざるを得なかったのでした。そして、この時の状況を遠くから眺めている女性たちが沢山いたと55節にはあるのであります。
なぜ男性も含めて「多くの人々」とマタイはしなかったのか。 男性どもはいなかったのか、そういう疑問がわきますが、 まあ、それはともかく、遠くから眺めている人の中には、イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちがいました。しかもその中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいたと55節から56節にかけてあります。
イエス様に従った人たちは勿論の事、百人隊長やイエス様を見張っていた人々なども含めて、多くの人が、イエス様を神の子と認めざるをえなかったのでした。
でも、「死んだらおしまい」、と多くの人が考えます。 しかし、キリストは、死ぬことによって、人に新しい命を与えるとしたら、それは決して「おしまい」ではない。終わりではないのであります。なぜなら、新しい命を与えられた人は、それで生きるからであります。
ローマ6:23にこうあります。 「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠の命です」。キリストが死の刑罰を徹底的に受けて下さった。そしてまことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げて下さいました。
それ故に、神の御子の死を私達は、決して悲しまないのです。 むしろ、父なる神に感謝をささげるのです。 それは、私達キリスト者にされた者の心からの表現であります。 皆さんは、神の御子の死をどう見ておられるでしょうか。 私達信仰者は、常に主の犠牲によって生き、生かされている事を覚えたいものです。 そして、主の喜んで下さる事を一つでも多くしようではありませんか。 そのために新しい命が与えられ、生かされているのですから。
2015年2月8日(日) 「虚しい対策」 マタイ27:57-66 竹口牧師
イエス様は、朝の9時には十字架にかけられました。そして12時になりますと全地が暗くなり、それが3時まで続いたと先回見た所にはありました。そしてイエス様の死とその後、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたとあり、これは、キリストの贖いを信じる者が大胆に主に近づけるようになったことを表しました。
私たちに対する神様のお働きは、そこで終わりではありませんで、さまざまな経過を経て復活にまで進む訳でありますが、きょうはまだ、墓に葬られる所までであります。
イエス様のお身体を墓に葬るという大事な働き。 しかし、もともと仮に死刑囚の死体であっても、ユダヤの律法によりますと、夜中、木の上にかけておいてはならず、その日のうちに降ろして、葬らなければなりませんでした。なぜなら、申命記21:22-23にはこうあるからであります。
「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」とです。
ただ、今回の死刑は、ローマによってでありますので、ローマのやり方に従わなければなりませんでした。イスラエルの律法に従えば、イエス様の場合、律法を二重の意味で守らなければなりませんでした。と言いますのは、翌日は、安息日であったからであります。
安息日は、土曜日。 そして実際には、金曜日の夕方から安息日は始まります。 ですから亡くなられた午後3時から夕方6時頃までに、遺体を引き取り、墓に納めなければなりませんでした。大体、遺体は身内の者が引き取るのですが、引き取る者がいませんと、ずっと十字架にかかったままで、野良犬の餌になったとある本には出ておりました。
もっとも、先ほども言いましたように、今回はローマによる死刑執行でしたからローマ法に従わなければなりません。それには、十字架刑にされた者は、そのまま放置するというのが、原則で、申し出れば、降ろす事も可能であったのでした。ただ、その為には、エルサレムに墓を持っている必要がありました。
イエス様の親族は、ガリラヤ人で、エルサレムに墓を持っていませんでしたので、 遺体を引き取ることはできませんでした。
ところが、ここに遺体の引き取り手が現われたのであります。 本来なら弟子たちが、丁重に葬るべきでありましたが、逃げ隠れしておりましたし、果たしてエルサレムに墓を持っている者がいたでありましょうか。誰一人墓を持っている者はいなかったのではないだろうかと思われます。その多くがガリラヤ人でしたから。
その上、多くの人に馬鹿にされ、笑い者にされ、罵られた者の遺体を引き取るなどという事は、大変勇気のいる事でありました。そういう状況の中にあって、イエス様を引き取りたいと申し出る者が現われたのでありました。それが、アリマタヤのヨセフという人でした。
そのアリマタヤとは、どこにあるかと言いますと、大変大雑把な言い方ですが、まずガリラヤ湖と死海との中間あたりにサマリヤがあります。また、エルサレムが、死海の北端、西側にあります。そのエルサレムとサマリヤの更に中間あたりの西寄りにあるユダヤの町にありました。
しかも彼は、サンへドリンの議員でもあったわけであります。 それもイエス様の隠れた弟子でありました。 その彼が、この時とばかりに行動を起こしたのでありました。
イエス様の直弟子11人、特にペテロとかヨハネとかが何もしない中であります。 卑近な例ですが、ある会社が倒産しそうな危機に突然陥ったというような場合、普段大したことをしていないと思われていたような社員が我然その危機的な時に急に力を出すようになって、活躍するというような場合がよくあります。
今回も、本当のことを言いますと、今言いました11弟子たちが引き取るべきでありましたが、彼らはしませんでした。いいえ、出来なかったというのが正しいでしょう。エルサレム当局者を恐れていたからです。
ところがここで、アリマタヤのヨセフという人が申し出たのでした。 しかも彼はゴルゴタの近くに、最近墓を造っておりました。 ということは、エルサレムに住んでいたのでしょう。
彼はサンへドリン議員でもありましたが、今回の議員たちの行動や計画には同意しなかった事が、ルカの福音書によりますと出ておりますので(ルカ23:51)他の人たちから、そういう目で見られていた事は確かであります。ですから、この時とばかりに行動に出たと言えましょう。
彼は、ピラトの所へ行って、身体の引き渡しを願ったのでした。 ピラトは、ヨセフの願いに何の問題も感じることなく、すぐさま身柄を引き渡すよう命じました。従ってヨセフは、堂々とイエス様の身体を下ろす事が出来ました。そしてその様子を、遠くから女性たちは見ていたのでありました。
ところで、ヨハネの福音書によりますと、埋葬の時、夜イエス様を尋ねてきたニコデモが現われ、没薬とアロエを混ぜ合わせた物を、およそ30kgばかり持って来たと書いてありますので、ニコデモも埋葬に関しては活躍したようであります。
墓は、岩を掘って造った自分の為の新しい墓でありました。 自分の為に造った物が、まさか救い主を葬るために使われようとは。 しかも、それがずっと語り継がれていくようになろうとは。 ヨセフはこの時、考えもしなかった事でありましょう。
しかも、その場所が主の甦りの場所になろうとは! これはまた次回になることですが、アリマタヤのヨセフは、実に驚くべきことをしたことになります。60節をもう一度読みますが、こう書いてあります。
「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」とであります。ヨセフが自分のためにと造っておいた真新しい墓に イエス様を葬ったのでありました。
余計な事ですが、今でこそ終活、終活と言って、終活ブームであり、自分の入る墓を生きている間に考える人は増えて来ましたが、また、地方から出てきた人は、地方に葬るのは大変だからと、自分の住んでいる家の近くに買う方も現在では多くなりました。
私達東京聖書教会の会員の方は、少なくとも、墓の心配をする必要はありません。立派な教会の墓地がありますから。また更にその先、死の先がどうなっているか、キリスト者であるなら、心配無用であります。もし、キリスト者でなければ、しばし考えていただきたいものです。誰でもが迎える死に際して、どこに行こうとしているのかを・・。
私達キリスト者は、天の御国へ行かせて下さる恵みを覚え、確信を持って一日一日を送りたいものです。マタイは後に活躍する女性の事をそっと61節に書いております。 「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」とであります。イエス様の死と葬りを確認しつつ、見守っていた彼女たちでした。
そして62節で、次の日を迎えるのであります。 備え日の翌日、つまり安息日であります。 どんなことが起きたか、司会者の方に読んでいただきましたが、もう一度お読みいたします。
「さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。『閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、【自分は三日の後に甦る。】と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、 『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。
そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」ピラトは『番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。』と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」 以上であります。
これを読んで、いくつか疑問を持たれる方もおられましょう。 その一つは、パリサイ人とサドカイ人は、死人の甦りについて考えが違っているのに、問題なかったのかです。パリサイ人は、死人の甦りを信じ、サドカイ人は信じませんでした。どちらの意見を優先するか、もめなかったのでしょうか。サドカイ人は、人の甦りを信じませんので、生前言っておられたイエス様の言葉で心配するのは、 サドカイ人にとっては、無駄な気がしたでしょう。しかし、用心に越した事は無い。 そう思って、同意したのかもしれません。
もう一つの疑問は「弟子たちが来て、彼を盗み出して・・」というくだりであります。 これは、パリサイ人、サドカイ人関係ありません。 確かに弟子たちが来て盗み出すかもしれません。 その可能性は、0%とは言いきれません。
がしかし、弟子たちは、イエス様が十字架にかけられる時、どこにいたのでしょうか。 捕えられることを恐れて、十字架のそばにはいなかったのです。 これが現実のようです。
確かに、ヨハネの福音書によりますと、イエス様は、十字架のそばに立っている母親とイエス様の愛される弟子をみてこう言われました(ヨハネ19:26)。 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」とであります。 ですから、全く弟子がいなかった訳でもなさそうであります。
三つ目は、確かに弟子たちがイエス様の遺体を盗んでイエス様は甦られたと触れまわることは、彼らエルサレム当局にとって怖い事であり、弟子たちがそうしないことではありません。
しかし、イエス様だけを捕えることを目標にして来た当局が、どれだけ弟子たちの働きを恐れていたでしょうか。私は、殆ど脅威には感じていなかったのではないかとそう思います。なぜなら、もし、脅威に感じていたなら、イエス様だけでなく、弟子たち全員を捕えたと思えるからです。
イエスだけを捕まえれば、後は徐々に消えてしまうと考えていたに違いありません。 としますと、イエス様の遺体を盗み出すというのは、相当大胆な行動でありますのでその盗み出す事が出来ないように考えるというのは、大変神経質になっているとも思えます。
更にその神経質の極めつけは、66節にあります。 「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」というほどのものでした。墓の前には番兵が立ち、墓には大きな石が転がして蓋がされ、更には封印さえしてありました。
墓の中はと言いますと、新しい墓であり、いくつもの遺体があって、見間違えて甦った等とは言えない。本当に甦ったかどうかは、遺体があるかないかで決まって来る。それは、一目見ればわかる事であります。それだけに、厳重を要したのでありましょうか。
総督ピラトは、相変わらず優柔不断であり、本来ならイエス様を生かしたかったのですが、群衆が「十字架につけろ」と叫び続けたことに押し流され、イエスを十字架に付けることを決定し、今はまた、「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」とさも権力を行使しているかのごとく振舞いつつ命じております。
しかし、内心は、ユダヤ教の指導者たちの嫉みにうんざりし、 とはいえ、彼らの言う事に従わなければ、自分も危なくなる。 それ故、自己保身からあのように言うしかなかったと言えましょう。 ピラトは、ここに於いても、ピラトらしさを発揮し、身を守るのであります。
考えてみますと、自分の地位、立場など省みず、遺体の引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフとは何という違いだろうかと思えます。大した人であります。 ただひたすら祭司長、パリサイ人達は、「自分は三日目に甦る」と言ったイエスを恐れ、そうさせまいと彼らに考えられる最高の事をしたと信じて、三日目に備えたのでありました。
神様を敵に回して、神様に対して戦いをいどむ。 それが、本当に正しい事なのか。 全ての人が考えなければならない大切な点であると私は思います。 この結果は、皆さんは御存じでありましょう。
とするなら、神様に敵対しないで、素直に自分の間違いを認め、主に頼って、安心した人生を送ろうではありませんか。結果が分かっていてなお逆らう事は、何というむなしい生き方でありましょうか。そうではなく、自分の間違い、弱さを認めて主のふところに飛び込んで主と共に歩む事がどんなに楽であろうか。 クリスチャンであるなら知っていますし、クリスチャンでないなら今年、今日、いいえ、今、主のふところに飛び込んでほしいものです。そして心からの平安を頂いて下さい。
2015年2月15日(日) 「空の墓」 マタイ28:1-6 竹口牧師
イエス・キリストは、十字架にかけられ、殺されました。その時、そのイエス様のおそば近くにいたのは多くは女性たちでした。弟子たちのほとんどは、身を隠していたというのが現状でした。
イエス様は、生前には、さまざまな奇跡を行なわれました。 最初の奇跡は、カナの婚礼に於いて、水をぶどう酒に変えることから始まって(ヨハネ2:1-12)カペナウムで王室の役人の子どもの病気を癒され(ヨハネ4:46-54)、悪霊につかれた人を癒され(ルカ4:31-37)中風の人を癒すとか、さまざまな病気の人の病を癒されました。
病気だけでなく、自然をも支配しておられることを現わされました。 たとえば、ガリラヤ湖に於いて嵐を鎮める事によって示されまし(マタイ8:23-27)、或いは、水の上を歩く事もされました。(マタイ14:22-33)また、死をも支配していることを示すために死んだラザロを、生き返らす事によって現わされました(ヨハネ11:1-46)。
今、イエス様のなさった奇跡を重複しないように、選んで挙げましたが、実に多くの奇跡をされたお方でした。そのようなイエス様が、敵の手にかかって死なれた。これは、本当に信じがたい事でありました。
それだけに、イエス様が十字架にかけられておられた時に、律法学者や長老たちが、そのことを理由にして「他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら今十字架から降りてもらおうか」と嘲り、皮肉を言ったものでありました。
まあ、当然と言えば当然でしょう。何も知らない人にとって、そのようにしか見えないのが現実です。確かに、人は救っても自分は救えないとなると、やはりそれは、神ではなく人であった。そう多くの人は受け取ったでありましょう。
しかし、そこで結論付けることは愚かでありました。勝利だと思っていた者が恐怖に陥り、失望していた者が、歓喜に湧く時が来るのであります。皆さんの今、お一人おひとりが、どういう状態であるかは、私は知る由もありませんが、神様は全てをご存じであります。
そしてもしクリスチャンであるなら、それも今、幸せに暮らしておられるとするなら、もし仮にですが、今、突然に死んだとするなら、その人の行かれる所は、もっと素晴らしい天国であり、最高の幸せを頂くことになりますし、
逆にまた、仮にですが、心配で心配で仕方がない、そういう状況であったとしても、その状態で天国に行かれたなら、そのギャップの大きさに驚かれるに違いないのであります。
つまり、信じる者に対して神さまは素晴らしいものを用意して下さっているのであります。勿論、このようなことを言えるのは、聖書の最後の書の黙示録を読むことによって、今との違いを知る事ができるのでありますけれども。
申すまでもなく、私はまだ死を経験していませんので、聖書からそのお約束を述べているのであります。また、これから述べます事もイエス様の場合である事は言うまでもありません。
私たちは今までずっとイエス様の歩まれた道を見てきました。そしてとうとう、死まで来てしまいました。これでもう話は終わりだと思いきや、実は違うのであります。 主人公が死んだらもう話は終わりではないか。とそう思うのでありますが、なんとまあ素晴らしい知らせが入るのであります。
少し時をさかのぼって、思い出していただきたいのですが、イエス様が殺されたのは金曜日の午後3時頃でした。それから夕方までに遺体は降ろされ、墓に葬られました。 その働きをしたのは、アリマタヤのヨセフという人でした。
そのアリマタヤのヨセフという人は、自分のために新しい墓を造っておりました。いわば、終活の準備をしていたということでありましょう。自分が死んだなら、ここに葬ってほしいよと家族に言っていたことでしょう。また、自分が入る所ですから、特別な思いでその墓をみていたことでしょう。
別に死んだなら何も分からないのですが、でもやっぱり気になる人もおられるようです。あなたの入る所に私は入らないわよとの夫婦の会話とか、あなたの先祖の墓には入りたくもないわ、特に、あなたのお母様と一緒にはなりたくないわなどという人もおられます。
しかし、結局のところは、遺された人が最終的には決める事であって、死んだ人は、違う所に葬られても文句は言えないのであります。誰が決めるかは、その家の実権を握っている人の意見が強くにじみ出るのが一般的であります。
しかし、それでもアリマタヤのヨセフは、自分のために墓を買ったのでありました。ところが、その買った墓がどういうわけか、イエス様に提供することへと心が動き、従って、ピラトに申し出ることになったのでありました。
そして実際にイエス様を葬ることになりますと、ヨハネの福音書を見ますと、夜イエス様の所に質問に来たニコデモもやってきて、彼がもってきた没薬とアロエを混ぜ合わせたものをイエス様に塗って布を巻いたことが出ているのであります。
アリマタヤのヨセフは、自分のためにと墓を買った。 しかし、イエス様に入っていただくことにした。 こう考えてみますと、自分の本当の最期は、 どこで、どうなるかわからないものだということになります。
さて、イエス様が生きておられた時に、『自分は三日の後に甦る』と言っていたと言って、墓の石のふたに封印し、更には番兵に番をさせることまで祭司長やパリサイ人はしたのでありました。
彼らは、これによって、もう大丈夫。もともと何も起きないはずだから、と思っていた。そのうえ、これだけ対処しておけば、何かことが起ころうと、問題はないと安心しきっていた。弟子たちがイエスの体を盗むこともできやしない。言葉は悪いですが「ざまあみろ!」という感じだったでしょう。
ところが、安息日が静かに終わって、次の日、週の初めの日の明け方、状況は一変するのであります。マグダラのマリヤと他のマリヤが墓を見にやってきます。注解書によりますと、キリストの遺体に油を塗り、手厚く葬るために、女性たちはやって来たように書かれています。
としますと、三日過ぎれば、後は自由にイエス様の体に触らせてもらえる。もっと私たちの手で丁寧に葬りをしてあげよう。そういう考えが女性たちの心の中にあったのかもしれません。
実際の所、女の人だけで行きましたが、しかし、女の人の力による入り口の墓石の移動は、難しいと思われます。それでも、何とかイエス様の体をヨセフやニコデモがした以上の事をして差し上げたいと考えたのでありましょう。石を動かすことの困難なことなどどこ吹く風でありました。
イエス様の体を納められるのをしっかりと見ておりましたので、安息日が終わってですから、週の初めの日、つまり、今で言いますと日曜日早朝ということになりますが、墓までやってくるのであります。
これまでは、反キリスト側は、勝利で勝ち誇っており、これから自分たちの世界だと言わんばかりでありました。 一方、キリストを慕う側の者達は、逆にイエス様の死で失望し、悲しみに落ち込み、これから一体どうしたらいいのだと沈んでいる者もいた事は、十分に考えられるのであります。
しかし、神様は、その両者の考えを一変させられるのであります。地震を起こし、主の使いを遣わし、石をわきへころがし、なんと天使がその石の上に座った、その事によってであります。
「天使の顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。」とあります。 私にはここにある「いなずまのように輝き」という輝きがどんな輝きか想像がつかないのであります。
稲妻と言いますと、ご存じのように一瞬であります。その落ちたところは、破壊であります。もし、生えている木であるなら、燃えるとか裂けるとか、折れるとかになって、枯れてしまうのであります。田舎にいたころ、そのような木を何本も私は見たことがあります。ですから、落ちた後を見た時、本当に恐ろしさを感じます。
でも、ここに書いてあるのは稲妻のように輝きであります。輝きが持続している輝きとはどんな輝きか、想像つかないのです。ただ、4節を見ますと「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。」とありますので、この世にあるものとは思えない、そんな姿であったことだけは確かであります。主の使いは決して優しい顔ではなかったのでありましょう。
では、ここまで見て来て、何を教えられるでしょうか。 それは、神様は、どんな力をお持ちかということであります。つまり人の考える以上の、想像できないほどの力をお持ちであるという事です。 一つは、人が、どんなに知恵を尽くして、大きな石でふたをし、封印をし、番兵までつけても、後でわかることですが、イエス様は、墓から出られるのです。
もう一つは、人は、憎しみをもって殺しても、それ以上はどうにもできないと言う事です。まさにイエス様が生前言われていた言葉、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とそう言われたことが思い出されます。(マタイ10:28)
つまり、悪の力が優勢に見える時というのはあります。 正義は一体どうなっているのだと言いたくなる時もあります。 しかし、神様が無力であることをそれは表していないのです。 悪の働くのを神様が赦しておられるだけだからです。
ですから、そこまではしてよい。 しかし、それ以上はするなと言われると悪魔はそれ以上手を出せないのです。 神様はご自分の支配力を、時に見せつけられます。 そして神様の本当の力を見るとき、人は恐怖におびえるのです。 これが現実なのです。
祭司長やパリサイ人がもしこの現場にいたなら、彼らも必ずや青くなったに違いありません。御使いは、女たちに語りかけました。5節、6節 「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、 私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」とであります。
理解できますでしょうか。 アリマタヤのヨセフは、岩を掘って造った自分の新しい墓を、イエス様を葬ることに提供しました。それが、何体入る墓の大きさか分かりません。しかし、入れられたのはイエス様の遺体だけでした。
ですから、墓の奥を見れば、その遺体があるかないかは、一目瞭然でありました。 蟻の通る隙間もないほどといえるかどうかわかりませんが、大きい石を転がしかけ、封印し、番兵が見張る。これは、どう考えても遺体は盗みようがありません。
しかし、遺体はないのです。 確かに入れていたのを彼女たちは見ていました。 だから、早朝やって来たのでした。 人間の行うマジックと言いますのは、必ず種があります。細工があります。 ですから、それを見破られるともう、どうすることもできません。
しかし、イエス様の遺体が無くなったのは、人のせいではありませんでした。 神様にしかできないことを神さまがなさったと言う事であります。 しかし、何をどうされたかは一切明らかにされていません。 福音書は、起こった事実を天使のことばに託して伝えるだけでした。
この時、墓の中では、どんなことが最初に起こったのか。死んだイエス様の体に命が入り立ち上がったのか。イエス様が、その墓からどのようにして出られたのか。考えてみれば、興味深いことだらけであります。
長い歴史の中で、いろいろ想像され、物語が生まれたことでありましょう。 しかし、どんなに詳しく書かれても、それは想像であります。作り話であります。 だから、聖書とは一線を画し、厳しく区別をした経緯があります。
マタイはこの福音書を書く時、神様が行なわれたことを、当事者の一人として、記録しました。神様が行なわれた事実を、それも簡潔に書きとどめました。天使が女性たちに言った言葉だけをしるしています。
もう一度5節6節を読みますと 「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、甦られたからです。来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。」であります。
天使はそう告げました。 マグダラのマリヤと他のマリヤは、疑う事も出来ました。 しかし、彼女たちは、この後の続きを読んで下さればお分かり頂けるのですが、疑う事をしていません。8節を見ますと、「恐ろしくはあったが、大喜びで・・」とあるのであります。
彼女たちは、疑うどころか大喜びでそこを去るのです。 では、あなたはこの朝、この事実に触れて信じられるでしょうか。 それがこの朝の神様からの問いかけなのであります。
聖書は、いろいろなところで、あなたに問いかけます。 事実を示し、あなたはこれを信じますかと問いかけるのです。 遺体があると思ったらない。空の墓。それは非常に虚しいものです。 しかし、死人が甦ったとなると、ことは全く変わります。 悲しさ、虚しさから喜びへと変わるものです。変わるはずです。 なぜなら、私達も神様がそうして下さるという希望が持てるからです。
では、あなたはこの朝、空の墓に遭遇して、どう反応をされるでしょうか。 何とかこの事実を打ち消したい思いにかられるでしょうか。 これは、作り話だと言われるでしょうか。 それにしては、イエス様の弟子たちが、この事の為に命をかけて伝えたのはなぜだったでしょうか。事実であったからこそではないでしょうか。
空の墓、それは虚しいものです。 しかしそれが、人の甦りを現わしているとするなら、それは、何という素晴らしい事実でありましょうか。あなたはきょう、今それを信じられるでしょうか。神様はあなたに問いかけておられます。
私達の地上での時間はそう多くはありません。 生かしていただいている間に、 まことの神様の語りかけに素直に従っていただきたいものです。
2015年2月22日(日) 「ガリラヤで待つ主」 マタイ28:7-10 竹口牧師
本日取り上げました最初の7節は、先回見ました御使いのことばの続きです。 従って、もう一度御使いの言葉を、通して読んでおきます。 5節の途中から始まるのですが・・・。
イエス様は、十字架にかけられ、殺され、墓に葬られてから、三日目の朝を迎えた、その出来事から今日の話は始まります。 御使いは、マグダラのマリヤと他のマリヤに言いました。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、甦られたからです。来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこの事を知らせなさい。 イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」との御使いの言葉であります。
昔、この話を初めて聞いたときは、私は信じられませんでした。 まだ死という事実が遠いと言う思いや、死の先にある恐怖を知らない故に自分には関係ないと言う思いがそうさせたのかも知れません。でも、クリスチャンたちは、全く疑いなく信じている。その事に、私は不思議さを感じたものでした。
しかし、今は違います。 イエス様が死より甦られたということは、本当にあったのだと信じています。そしてそれを、信じている人は、その恵みに与らせていただける。そう確信を御言葉を通してもっております。
ある人は、考えるでしょう。 もう一度、自分の目の前で、死んだ人が生き返ったなら信じると。 でも、イエス様の死と甦りというものは、ただ一度だけであり、二度と起こることはありません。そのことを、聖書を通して受け入れなければなりません。なぜなら聖書はこう言っているからであります。
ヘブル人への手紙9:28にこうあります。 「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」とです。
たった一度だけ、キリストは死を経験され、甦りも経験されました。 これ以上でも、これ以下でもありません。なぜなら、私達が生まれるのも一度であり、 死ぬのもたった一度だけであるからです。従って、もう一度起これば信じるとか、キリストが甦ったなどというから信じたくない。キリスト教は愛の宗教だから、愛があればそれで十分だ。そのように言う人がおりますが、決して甦りの事実を無視してはいけません。
聖書ははっきりと一度死に、一度よみがえったと言うのです。 そして、その一度ということに、非常に大きな意味があることも知っていただきたいのです。それは、先ほども言いましたが、私達が生まれたのも死ぬのも、たった一度だけだからです。決して何度も生まれ、何度も死ぬわけではありません。
それ故に、それぞれの人生、つまり、あなたの人生や私の人生に大きな意味を持つのであります。それは、繰り返しの利かない人生ともいえるでしょう。常に新しい人生を歩んでいるとこういう訳であります。ですから、一分一秒が大切なわけです。それを無駄にしてはならないのです。
イエス様が甦られた当初、番兵たちは度肝を抜かれました。 地震は起きる、御使いは現われるし、墓の入り口の石は転がり動いたのでありました。でも、とにかく御使いの指示に従って墓の中を見ますと、遺体がありませんでした。
そこできょうの7節の所で、念を押すように御使いはこう言ったのです。 「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中から甦られたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」とでありました。
女性たちは、イエス様の死を確認し、墓に葬られるのも、遠くから見ておりました。 恐らく、封印される所もみたでありましょう。でも御使いは、三つのことを確認しました。 一つは、イエス様が死人の中から甦られたこと。 二つ目は、甦られただけでなく、ガリラヤに行かれたこと。 三つ目は、そこで会えると言う事実です。
しかし、これは、十字架の一部始終を見てきた者にとって、決して、「はい分かりました」と言えることではありません。とはいえ、一つ目のイエス様が死人より甦られたというのは、確実であり、彼女達は確認できたわけでありました。
問題は、二つ目、三つ目であります。 先にガリラヤに行き、そこでお会いできるというものです。 このことは、信じられなかったなら、行動しなかったでしょう。 エルサレムからガリラヤまで結構な距離があります。約100Kmであります。 ここから御殿場まで約100kmですので、そんな感じになります。
それに、高さで言いますとエルサレムが標高790M。ガリラヤ瑚がー212Mですから、 足しますと1002Mの標高差があるのであります。下りとはいえ、これはなかなか大変です。なぜそこまで行かなければならないのでしょうか。イエス様は、どうしてそこで待っておられるのでしょうか。わざわざ、エルサレムを離れる必要は無いように思われます。
しかし、実は、イエス様にはお考えがありました。 それは、イエス様の弟子たちの殆どはガリラヤ出身であった訳です。 しかも、そこで彼らはイエス様について行く事を決心した所です。
イエス様は、自信を失っている弟子たちを励まし、もう一度、神様のために働く決意を新たにさせるために、そうさせるという意味があったと思われます。 「ガリラヤ」それは、弟子たちの出発地点。 失敗と失望に打ちひしがれたときに戻るべきは、何といっても出発地点に戻るのが一番でありましょう。そこでイエス様は待っていると言われたのです。
ガリラヤに帰りなさい。 そのガリラヤから、あの最初の時と同じように新しく始めなさい。 あなたたちへの私の思い、愛、信頼は変っていない、という事でありました。
イエス様が捕えられて殺される間、弟子たちの殆どは、イエス様のそばにはいませんでした。そんな失敗者でしたが、これからの働きを担えるのは、弟子たちの勇気や成績や素質ではなく、命と力を与える復活者であるこの私である。そのように、イエス様は言われているようであります。実際にそうであります。
自分の中に誇りと恥を見続ける人はガリラヤには帰れません。 イエス様の中だけに力を求める人だけが帰られるのであります。 そこで、その場所でイエス様は待っておられると言われているのです。 イエス様は、成功者を求めてはおられません。 むしろ、神様がその人のうちで働く事の出来る人を求められます。
翻って、あなたは今、勇気、力、自信をお持ちでしょうか。 それなら、主の弟子としては相応しくありません。 逆に、自分の弱さを認め、助けを求める人には、神様は大いに働いて下さるお方であります。どうぞ、神様にすべてをお任せし、委ねる人になっていただきたいものであります。
イエス様が捕えられた時も、裁判を受けられた時も、十字架にかけられた時も、弟子たちの殆どは、イエス様のそばにいませんでした。それは、怖れというものが支配していたからであります。
しかし、女性たちは、ずっと十字架のところでは、一部始終を見守っていたのでありました。そんな彼女たちに御使いは、命じたのであります。マリアたちは、恐ろしくはありましたが、8節にありますように、「大喜びで急いで墓を離れ弟子たちに知らせに走って行った。」のでありました。
この聖書の記事を通して、皆さんは、どう思われるでしょうか。 あるいはまた、すごいと感じられるでしょうか。 ばかばかしいと感じられるでしょうか。 どう感じられるかは分かりませんが、実は世界人口の三分の一はキリスト教であることに目を留めてほしいのです。
勿論、多くの人が信じているから正しいとは言えません。 そこは、大変気をつけなければならない点であります。 ただ、申し上げたいのは、あのマリヤのように、私も、そういう経験をできるならばしてみたい。そういう気持ちを少しでも持って頂ければ、幸いであります。 マリヤたちは、怖れと喜びとが混在しておりましたが、御使いの言う事が決して嘘だと言う思いはありませんでした。
では、ここまで話しを聞いてきて、あなたはどう思いますかと、聖書は、あなたに対して問いかけるのです。あなたは、この御使いのことばを信じますか。 一度だけ死んで、そして甦られたイエス様は、あなたもそのようにしてくださると言われたなら信じますか。
神様は、私達を、つまり私やあなたを救うために、自ら犠牲となって、一度死んで下さり、また甦りをされたのでした。この事実は、非常に大切です。イスラエルは、当時のローマ帝国の支配下にありまして、犯罪者としてイエス様は裁かれたというのとは、全く違うからです。
あなたのために、身代わりとなって死んで下さり、私達の希望となって、甦ってくださいました。それ故に、クリスチャンは死を恐れることはないのです。むしろ、それを待ち望むのであります。あなたもそうなってほしいものです。
第二番目に見たいのは、9節、10節の部分です。 「すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。 『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、 ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。』」という部分です。
先ほどは墓の所で、御使いが彼女に言いましたが、今度は、マリヤたちが走って弟子たちの所へ行く途中であの死んだはずのイエス様が現われて、「おはよう」との挨拶をされたのでした。死からイエス様は、本当に甦られたからこそできたことです。
と同時に、女性たちにとっては、イエス様の死を見ながら、また墓に収められるのを見ていましたので、本当によみがえられたイエス様を目の前にして行なったことは、「近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。」ことでした。実に素直な信仰であり、行動であります。
それに比べますと、ルカの福音書を見ますと、こんな風に書かれております。 ルカ24:36節以下ですが・・・少し長いのですが、お聞きください。
「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 すると、イエスは言われた。 『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか。』と言われた。 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」以上です。
これでわかりますように、イエス様の甦りに対して、すぐには信じられない人もいたことが分かります。ですから、あなたがすぐには信じられないという事は、分かります。あの12弟子のひとりであったトマスという人でさえ、ヨハネ20:25で、こう言っているからです。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。」とであります。 イエス様は、そういう人たちに対して、決して怒ることなく、魚を食べて見せたり、肉があり、手と脇腹に傷があることを見せたりして、イエス様は確かに甦ったことを示されました。
ということは、マリヤたちのように素直にイエス様を甦りの主として信じることが素直な信仰であると言えましょう。そして、弱さを持つ身体でありますが、主が用いて下さるなら、主の御用ができる者にしてくださる、その事を信じてお従いさせていただきたいと願い出ることが大切であると教えられます。
まだ自分は、弱くて何もできない。賢くないから何もできない。そのように逃げるのではなく、主が用いて下さるよう願い求めていくことだと言えましょう。
キリスト者にしてくださいと願い出ることが決して高慢な願いではなく、むしろ罪ある人間が、イエス様の身代わりの死によって新しくされ、主の器として用いられることの方が、どれだけ主が喜んで下さることでしょうか。
まだ救われていない人は、主があなたのそばにおられますので、心静かに、キリストに従う者と変えて下さいと願い出てはいかがでしょうか。
イエス様は、ガリラヤで待っていてくださいます。 そこに弟子たちは行き、変えられるのであります。 あなたも是非、変えられてイエス様に従う人になっていただきたいものです。
あなたにとってガリラヤとはどこでしょうか。 それは、主とお会いする所、今お会いしている所と言えるでしょう。 ならば、その主とお会いしてはどうでしょうか。
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