2015年3月1日(日) 「復活の主を信じる」 マタイ28:11-17 竹口牧師
イエス様は、ピリポ・カイザリヤにおいて弟子たちに、人々はイエス様のことを誰だと言っていますかと聞かれ、そのあとで、では「あなたがたは、私を誰だと言いますか」という質問をされました。
ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えたという経緯がありました。その時のことですが、イエス様は、ご自分が、キリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。 そして「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とそのようにマタイは書いておりました。
イエス様は、ご自分が、苦しみを受けられる事、殺されること、そして三日目に甦ることを話しておられたにもかかわらず、実際に甦られた頃には、誰一人、その事を期待し、本当にその通りになるだろうと、一分一秒見張っている者は、一人としていませんでした。むしろ、弟子たちはエルサレム当局に捕えられることを恐れ、身を隠していましたし、女たちは、遺体をきれいに埋葬しなおそうと墓に向いました。
一方、祭司長たちや民の長老たちは、イエスは甦ることはないけれども、もし弟子たちが、遺体を盗んで、甦られたと言ったなら、それは困るので、その対処として、総督ピラトに願い、墓を兵士に見張らせ、入り口は大きい石でふたをし、更には封印し、開けられることのないようにしたのでした。
このようにして考えてみますと、イエス様の甦りは、誰一人として信じる者も、期待している者もいなかった、ということができます。
ところが実際はどうであったでしょうか。 イエス様の体は無くなっておりました。つまり、甦っておられたのでありました。 誰一人、イエス様の言われていた甦りということがどういうことか、現実の事として考える事もなく、また、それを待ち望んでもいませんでした。
そして、現代でもイエス様の甦りを話しますと、一笑に付されるのが関の山であります。あるいはまた、最初から聞く耳を持たない、というのがこの世の人であります。 実際の所、私自身も最初はそうでありましたので、信じない人、聞いてくれない人を悪くいう事はできません。
とはいえ、この実際に起こったことを、キリスト者であるならば、事実として伝えなければならない使命があるのであります。なぜなら、信仰者にとっては、希望でもあるからであります。
ところで、先ほども言いましたように、イエス様が甦られても、誰一人イエス様の言葉を信じて期待し、その事実に触れても、すぐに喜ぶ人はいませんでした。 少し時間を置いて、そういえば、以前そう言われていたという事を思い出した、という具合でした。つまり、イエス様を信じて従っていた人達でさえも、実際に甦りが起こったことを知って、少し間をおいて、やっと怖れと喜びとを持ったのでありました。
一方、逆に、イエス様に対して敵対している人たちは、すぐに理解し、慌てたのでありました。まさか、本当にそんなことが起ころうとは・・・でした。従って、そのままぐずぐずと放置はできないととっさに考え、次の手を打つことになったのであります。何とかその事実をもみ消さなくてはと知恵を凝らす事になります。 それが、今日の所であります。
今日の聖書箇所を読みますと、今の時代となんら変わらないことをしていることが読み取れます。本来なら、イエス様の甦りは、全ての人に希望を与えるものであります。 なぜなら、人は、本当は死で終わるのではなく、そのあとがあるからであります。 従って一つの福音を伝えるか、それとももみ消す側につくか、大きく分かれるのであります。
ここで気を付けていただきたいのは、良いことを伝えるのであって、悪いことを伝えるのではないということです。伝えたことによって、相手が気分を害するとか、怒り出すとか、そういうことではありません。むしろ、希望につながる事でありました。 従って、大きく流れは二つに分かれた訳であります。
まず一つの流れは、女性たちの行動であります。 甦りのイエス様に会った女性たちは、11節にありますように、「女たちが行き着かないうちに」とありますから、イエス様の言われた「兄弟たちにガリラヤに行くように・・」 という指示を女たちは携え、弟子達の所へ行くのであります。
16節を見ますと、「弟子たちはガリラヤに行って、指示された山に登った」とあります。ですから女性たちは、指示された通りの行動をした事になります。一方、自分たちにとって都合の悪いことは隠そうとした人たちはどうしたかと言いますと、まずは、状況報告を受けるのであります。
番兵たちは、都に行き起こった事を全部、祭司長たちに報告した、ということでありました。 さあ、恐れていたことが起こってしまった。 どうしようということになりました。 しかし、実際にこういう事が起こるなんてことがあるのだろうか。 彼らは、最初は信じられなかったでありましょう。
しかし、報告を放置することはできません。 何とかしないと、敵の思うつぼだと考えたことでしょう。 とするなら、それをもみ消すにはどうしたらよいか、彼らは早速相談するのですが、それが12-14節に書かれております。
「そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、 イエスを盗んで行った。』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」でありました。
イエスの復活は信じたくない。 自分たちにとって不都合ことは、早いうちに消してしまおう。 そのためには、甦りを否定できるような話を流布させて、 完全に、その調子に持っていこうと考え実行に移すのであります。
しかし、彼らのしたことは、実は、矛盾だらけといったほうが良かったと言っていいでしょう。その一つは、兵士たちが夜眠っている間に、弟子たちがイエスの体を盗んでいったという点です。
しかし、考えてみますと、おびえて隠れるような弟子たちが、果たして、そんな大胆な事ができるだろうかという疑問があります。もし仮にできたとしても、遺体を隠すのは大変ですし、それだけでなく、嘘のために自分のいのちをかけられるだろうか、そういう疑問がわくのです。
弟子たちのほとんどが殉教の死を遂げていることを考えれば、嘘を守り通して死んだなどは考えられません。あるいはまた、弟子たちが幻覚を見たのではないだろうか、そういう考えもあります。
しかし、それならそれで、祭司長や民の長老たちは、実際にイエス様の体を見せ、13節にあるような「眠っている間に弟子たちが盗んで行った」などという嘘を広める必要もなかったはずです。
更には、イエス様の体は仮死状態であったと言う人もいます。 そんな体の状態で、大きな石をどけて、封印を取り、逃げることが果たして可能であったでしょうか。人が死んでいるかどうか、死刑を行なっているローマは、その道のプロですから、気付くはずであります。
でも、疑う人たちは、そういう事には目を向けないようです。 しかし、それにしましても、信じないとなりますと徹底して信じないものであります。 これはもう、理屈無しかもしれません。そういう意味では、理論的に証明できたから信じるとか、出来ないから信じないという問題ではなく、それはもしかしたら、神様に選ばれた人は信じられるけれども、選ばれていない人はどう説明しても信じられないのではないか、そのように思えてくるのであります。
小さい頃教わった教育が影響しているかもしれませんし、科学で証明できない事は信じないとかそういう人もいるでしょう。理由はともかく、どんな教育課程を経ていようと、科学に詳しいか詳しくないかに関係なく、神様によって選ばれているかどうかにかかって来るのであります。そういう意味では、最終的には、先ほども言いましたように、神様の絶対的な選びが関係してくるでありましょう。
イエス様の弟子たちの中にも、なかなかイエス様の甦りを信じることのできない者もいました。それの典型的なのがトマスでした。彼は「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)と言いました。
しかし、そんなトマスにイエス様は現れて下さり、こう言われました。 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。 手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。 信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 とイエス様は言われました。(ヨハネ20:27)
結局の所、トマスはこの時、「私の主、私の神」と告白しました。 トマスも神様によって選ばれ、救われていた訳であります。 今日の17節を見ましてもなお、こう書いてあるのであります。
「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」とであります。この期に及んでまだ疑う者もいるのか。そんなのおかしいよと、ある人は思うでしょう。しかし、人の心とはそういうものであります。人の心とは、強いようで弱い。又弱いようで強い。信じ深いようで、実はそうではない。疑い深いようで、実はきちんと心に信じている。そういう人はいくらでもこの世にいます。
大切なのは、あなたはどうなのですかということです。 福音書を読んでいて気付かされるのは、何度も信じているという事であります。 例えば、少しヨハネの福音書の引用が続きますが、イエス様はガリラヤのカナの婚礼で初めて水をぶどう酒に変える奇跡を行なわれました。その時のことがこう書かれています。
「イエスはこの事を最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とであります。(ヨハネ2:11) 弟子たちはもうすでに、イエス様を信じて自分の人生をイエス様に委ねて従い始めていた筈でした。しかし、ここに於いてイエス様を信じているのです。
ヨハネの20:8では、マリヤたちからイエス様の事を聞いて、ヨハネとペテロが走りました。その時の事ですが、「そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」とあるのであります。ここでもまた、信じたとあるのであります。
こうして見ますと、信仰とは、一度信じたら、少しも疑わず、迷いもなく、失敗もせず、最初の信仰を一途に生きられるというものではなく、様々な試みの中で、信仰が練られていき、その度に、ああやっぱりイエス様は、私の救い主だと確認する者だと教えられるのであります。
そういう意味では、これから信仰に入りたいと願っている人にとって、今が不完全だから信仰に入れないとは考えないで、今イエス様が私を招いて下さっていると信じたなら、更に一歩進んでいただきたいものです。
イエス様に選ばれていない人は、頑なな心が、更に頑なになっていき、全く寄せつけない状態になって行くのであります。とはいえ、パウロのように、ユダヤ教で凝り固まっていた人が、あとでそれが役に立つように、ひっくり返してキリスト者に神様はされるという事もありますので、決して私たちが、あの人はもう救われないというように、勝手に選び分けないようにしたいものです。
神様は、どのような人を御自分の弟子とされるか、 私達には分からないというのが現実なのですから。 この世の現実は裏の社会では、金がものをいい、人の心が買われ、或いは売られ、 予想もしないような悪がうごめいております。 そしてこの世を動かしているのは正義ではなく、悪である 。 正直者ではなく、嘘を平気でいい、何の疑問も持たないで要領良く立ちまわっている。 そういう人の受けは大変良いでしょう。 最終的にそれを精算するのは、その人自身であります。 神様は、それを全て御存じであり、一つ一つ取り上げ、審判を下されるのであります。 本日登場しました数人の番兵、祭司長、民の長老たち、彼らの悪は全て白日のもとにさらされ、その悪を問われるのであります。
では、あなたはその審きに耐えられる自信がおありでしょうか。 黙示録の20:12、13にこういう言葉があります。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」とであります。 イエス・キリストが、なぜ十字架にかかって死んでくださったか。 また、なぜ、死より甦られたのか。 そして、今どこにおられるのか。
これらの一つひとつの疑問に聖書は丁寧に答えてくれます。 ですから、聖書をよく読んで、復活の主を信じる信仰に、 主に入れていただいてほしいものです。 あやふやな事に恐れないで、 確かな事、主の甦りに対しては信頼して、 与えられた人生を送っていただきたいものです。
2015年3月15日(日) 「伝えよ、教えよ」 マタイ28:18-20 竹口牧師
イエス様は、エルサレムで十字架にかけられ、殺されました。 そしてアリマタヤのヨセフとニコデモによって、その亡骸は、ヨセフの新しい墓に葬られました。そしてイエス様がかつてお話しされていたようにご自身は三日目に甦られました。
その甦られてからの姿は墓にやってきた婦人たちに見せられ、弟子たちに伝言を託されました。それは、ガリラヤに先に行っているので、そこで会おう、というものでした。
エルサレムの町は、イエス様の身体が無くなったことで祭司長や民の長老たちは右往左往しておりました。 一方、ガリラヤに集まった弟子たちは、イエス様にお会いし、イエス様を礼拝しました。と言いますのは、それまでイエス様は、人として姿を見せておられましたが、今や甦られて神としての権威と栄光に満ちておられたからでした。
しかしながら、集まった弟子たち全員が礼拝したかと言いますと、実は、そうではありませんでした。17節の終わりの方にありましたように、「ある者は疑った」、つまり信じきれない者もおりました。
なぜ、こういう事が起きるのか、不思議に思う方もおられましょう。 ある一つの説明によりますと、復活する前のイエス様は、私達と同じ人間の姿をとっておられたので、神としての栄光が完全には現われていなかったからである。 しかし今や復活して、神としての権威と栄光に満ちていたので、ある者は疑ったのであると言います。
本当の理由は分かりませんが、聖書を読んでいて感じます事は、何度も信じるというのは、決して不思議なことではありません。イエス様を救い主と信じていても、困難な場面に遭遇しますと、もう駄目ではないかと思う場合が何度もあります。 しかし、その困難を乗り越えさせて下さった時、ああ、やっぱり神様は守って下さったのだなと確信し、改めて信じ直すのであります。
そういう事が人生の中ではたびたび遭遇するものであります。 ですから、一度信じたら一生涯、信仰の深みに入って行くばかりで、 信仰が成長する以外にはないと思うのは、それは間違いでしょう。 私達は、互いに弱さをもっています。ですから主が共にいて下さり、その弱さに働いて下さる必要があるのであります。
従って、疑う者がいたことは確かでありますが、いずれにしましても、イエス様は、礼拝される対象になっていた、その事は言えると言えましょう。そのイエス様が3つの命令を弟子たちに下されました。
一つは「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」でありました。そして二つ目は、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」なさいであり、三つ目は、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」でありました。
この三つは、どれをとってもとても重要な点であります。 弟子とする事、バプテスマを授ける事、教育をする事です。 これらは全て、現在の教会がその責任を担い、私達は、その任務の遂行に当たっているのであります。そのために、教会は立てられ、教会は活動しています。
決して好きな者同士が集まって、クラブ活動的な働きをしているのではありません。 主が命じられたことを遂行しているのです。そういう意味では、今から述べます事は、教会本来の目的を確認する意味で大変大切であります。
ところで、マタイの福音書を振り返ってみますと、マタイは、この福音書の最初のところをなんとアブラハムから始まる系図で始めておりました。つまり人の名前がいっぱい出ておりました。それは、旧約聖書に登場した人物でありまして、いわば旧約と新約をしっかり繋ぐ鎖のような役目をしていました。
そしてきょう、取り上げているマタイの最後は、世界宣教への勧めで終わるのであります。他の福音書を見ますと、マルコも終わり近くに世界宣教について書いておりますが、マタイほど教会の使命について具体的には書いていません。またルカ、ヨハネは、それぞれ別の話しで終わっております。
さて、ではマタイが書きました、世界宣教のための、より具体的な事を見て行く事に致します。だがしかし、です。その3つの命令に入る前に、もう一つだけ取り上げておきたい事があります。それが18節にあります「権威」の問題です。
信仰者が行う業の一つ一つは、誰の権威によって行なうのか、これは非常に大切な点ですので、確認しておかなければなりません。イエス様のお言葉からしますと、イエス様には、「一切の権威が与えられています」とあります。つまりそのお方の命令で伝える側は、活動するという訳であります。従って、その方の権威に支えられているという事でもあります。
何か問題が起きた時、その権威のある方が前面に出て、責任を取って下さるというのであります。もし、それがなかったなら、私達はとてもではありませんが、戦う力も勇気もありません。イエス様はきょうの20節の最後の方に、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言って、今の世が終わり、新しい時代が来るまで、たとい困難な時があっても主が共にいて下さる。そして主が導いて下さる、そういうお約束をしてくださっているのであります。 このお約束があってこそ、遣わされる者は、安心して主の御命令に従えるというものでありましょう。
では第一番目の項目を観たいと思います。 それは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」でありました。 この御言葉の実現のために、多くの国は宣教師を他国に派遣し、宣教活動をしております。日本も多くの外国から宣教師が送られて来て、今日に至り、キリスト教が延びました。
でも、それは、ゼロから言いますと確かに増えましたが、日本人口のわずか1%にも満たないというのが現実です。それこそ、異端も含めてでありますから、非常に悲しい現実です。しかしそれでも、受けるより与えるほうが幸いなりとの イエス様のお言葉に従ってかどうか分かりませんが、南米や東南アジアなどなどをはじめとして世界各地に日本人宣教師が派遣されております。
ところで、カナダのある村の小さな教会での話ですが、 その教会は、牧師の給料をやっと払えるだけの経済状態でした。 そんな時、牧師が海外宣教に導かれたと宣言しました。 そして、私達の教会から宣教師を送り出さなくてはならない。そう言い始めました。
始めは、みんなそんなことができるとは信じていませんでした。 村の小さな教会で、経済的には本当に厳しい状況だったからです。 しかし、牧師の言う事に半信半疑で祈り始めました。 すると、私は、海外宣教に導かれましたと言う人が出てきました。 そこで、早速サポートのためにみんなで祈り始めました。 そして、その献身者を送り出すだけの献金が捧げられるようになりました。
宣教師は、言うまでもなく送り出されるのですから、送り出したら、もうそれでよいのではなく、その宣教師の生活の全てを支援し続けなくてはならないのであります。 しかし、送り出してみると不思議なことに、今の牧師のサラリーを支払うだけでやっとだったのが、一人の宣教師を送り出し、なおかつ継続して支援できるほどに なっていたそうです。 しかし、その教会は、そこで終わりませんでした。なんとまた一人、献身者がでたそうです。そこでますます祈りが必要になってきました。そして、やはり必要が満たされ、その人も送り出し、こうして小さな教会は、3人の宣教師が世界で活躍し、サポートし続けることができるようになった。そのような本を昔読んだことがあります。
祈る前に諦めていなたなら、決してそのようにはならなかったでしょう。 マタイの6章にこういう御言葉がありました 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」とであります。
神様がご自分の働きのためには、必要を備えて下さることを、教えられるのであります。しかも、それは、ご自分の権威によってであります。イエス様は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」というお方ですから、そのお方にお従いするなら何も心配はないと言う事になります。
イエス様が命じられる以上、それに必要なものは、イエス様が備えて下さるという信仰が私達には必要のようです。つい先日読んだ手紙ですが、宣教師がどんな仕事をしているか体験ツアーなるものの企画がなされ、その引率者なる人が書いておられましたが、
その体験ツアーに行きたいと思う人の多くは、まず、お金がないからと諦めるけれども、そうではなく、まず真剣に祈ってほしいとありました。お金の方がやはり心配になる。どうしても、そのようになりがちであるけれども順番がとても大切であると言われていました。
まず祈り、祈ってもらう。それこそが、大切なのだそうです。 これこそが、まず一番目に来なければならないと言われます。 そして体験ツアーに行くことが御心だと確信したとき、 次にお金のことを祈るのだそうです。
ある小さな教会の話をしましたが、まさか3人の宣教師を送り出すとは、最初、誰も考えていませんでした。小さな教会は相変わらず小さな教会ですが、それでも、その教会の伝道意欲、伝えたい意欲を神様に与えられ、自分が行けないので、私の代わりに行って宣べ伝えてくれとその人に御言葉を託せるようになったとその教会の人は、 言うそうです。
きょうの19節にありますように、 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」というイエス様の命令は、確かに守られ、実行されているのです。 私達の教会も、主のご命令に従って、もっともっと伝えていく教会にならせていただきたいものです。
さて、第二番目の命令は、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」であります。これは、イエス様が教会に委ねて下さった業であり、いわゆる礼典であります。 礼典は、二つあり、そのうちの一つがバプテスマであり、もう一つは、聖餐式であります。
バプテスマは、罪を悔い改め信仰告白をした者が受けるものであり、一生に一度だけ受けるものです。聖餐式は、バプテスマを受けて教会生活をきちんと行っている者がパンと杯に与ることができるものであり、回数は教会によって違います。 月に一度の所もあれば、一年に一回とか、毎週とかいろいろです。 ただ、ここで命じられていますのは、バプテスマのことであります。
第三番目に命じられていることは、20節にありますように、教育の問題であります。 「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」であります。
教会は、決して社交場の場と化してはなりません。 飲み食いするところでもありません。 クラブ活動的でもありません。 主が教えて下さったことを伝え、教えるよう命じられているのです。 礼拝で教えられることもたくさんあります。
しかし、それだけでは充分ではありません。 それゆえに、私どもの教会では、教会学校というものがありますし、訓練会というものもありますし、各年齢層に分かれた家長会、婦人会、青年会、学生会、などなどいろいろな集まりを通して、学んでいく、教育して行く。それはまさに主の命じられたことを実行していると言えましょう。
イエス様の教えは、弟子たちに伝えられました。 そして弟子たちに伝えられたことは、時を経て、時代を超えて、 現代の私達にもしっかりと伝えられているのであります。 それをまた、次の世代へ伝えられる必要があります。 多くの人に真理を示していくために、伝道はかかせません。
しかし、伝えるだけではなく、継続して教育して行くことがなければ、信仰者の信仰が御言葉によって成長していくという本当の教会成長にはなりません。そのためには、教会教育の必要は不可欠であります。
しかし、それには人材が必要です。 ところが、その人材があってもなお不足しているものがあります。 それが、主の臨在であります。主がおられることであります。 それ故に主は最後に付け加えられたのでした。 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とであります。
主が共にいて下さり、力を与え、知恵を与え、励ましを与えて下さらなければ、イエス様の命令を遂行することは難しいものであります。それだけに、主はそのことを加えて言われたのでした。権威ある主が、その権威をもって命じられています。
私たちは、一年間を通して様々な集会を持っています。 その集会の一つ一つに主の臨在とお働きがなければなりません。 「インマヌエル」訳せば、「神は私達と共におられる」であり、そのお方が私たち一人ひとりをこの世に遣わし、真理のみことばを伝えることを委ねて下さると共に、教会において、しっかりと学び訓練を受けることを求めておられます。
主に用いられる良き器とならせていただこうではありませんか。 新会堂が与えられようとしている今です。 それによって伝道、教育の環境は徐々に整えられていきます。 その恵みに感謝して、すべてを献げていきたいものです。
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