2015年4月12日(日) 「キリストの証人」 使徒1:1-9 竹口牧師
朝の説教では、マタイの福音書を読んできましたが、ついに最後まで来ましたので、その続きである使徒の働きを読むことに致しました。
その続きと言いましても、実は正確に言いますと、ルカの福音書でありましたら、ルカの著者と使徒の働きの著者とが同じですので続きと言えるのですが、今回はマタイからですから、大体内容から続きと言った方が正しいでしょう。
今、ルカの著者と使徒の働きの著者とが同じだと申し上げましたが、その理由は、こういう所から来ているのであります。
まず、ルカの福音書の書き始め(1:1-3)は、こうなっています。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたの為に、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。」とであります。
そして、そのルカの福音書の続きとなる使徒の働きの書き始めは、きょうの聖書箇所の一番最初のほうにこう書かれております。 「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き・・・」とありまして、テオピロという人にルカが続けて書いている事がわかるのであります。
そういう意味では、ルカの福音書と使徒の働きとは、確かにセットになっていると言ってもよいでしょう。そういうなかで私たちは、たまたまマタイを読み終り、使徒の働きへと入って行こうとしているのであります。マタイもルカも共観福音書と言われ、内容が大体同じですので続けて読んであまり問題は無いでしょう。
ところで、マタイの職業は、取税人でありました。またユダヤ人でありました。そして、そのマタイの書き始めは、系図から書き初め、旧約に出て来る人名がずらずらと書かれておりました。そして旧約から新約へと、がっちりとつながっていることをマタイは書き表しておりました。
そして、そのマタイの終わりは、死より甦られましたイエス様のお言葉を弟子たちに、こう書いておりました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とでありました。つまり、イエス様が弟子たちに福音を宣べ伝える様に言われたことで終わっていました。
一方、使徒の働きの最初は、これからまた少しずつ見て行くのですが、ルカの福音書全体の要約的なことが最初書かれているのであります。 まずは、1節は先ほど読みましたので重複しますが、もう一度1,2節を読みますと、 「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」とであります。
そして、十字架に架けられた後、どうなったかがその3節以下に書かれております。 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とであります。即ち、「ご自分が生きていることを・・・示された。」というのです。
イエス様の直弟子であった使徒たちは、何の問題もなくイエス様の甦りを信じるかと思ったら実はそうではなかった。数多くの確かな証拠をもって、示さなければならなかった。それほど、甦りという事は、初めての出来事であり、弟子たちは懐疑的であったということでありましょうか。
ルカの福音書によりますと、甦られた後、弟子たちが「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」というほどイエス様をイエス様と認められない状況でしたので、イエス様は急きょ、こう言われました。
ルカの福音書を引用致しますが、24:39-43節にこう書いております。 「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしに触って、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」以上です。
このように何とか信じてもらおうと努力をされたイエス様でした。 つまり、甦られてからのイエス様は、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示さ」なければならないほど変わっておられたという事かもしれません。これが、甦られてからのイエス様の状況でありました。
さて、第2番目に、見たい事は、そんな甦られたイエス様が、彼らに何をおっしゃったかであります。きょうの聖書箇所の4,5節でこう言われました。 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」とです。
ここでまず私たちが気になりますのは、「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」であります。父の約束とは何かです。イエス様は、十字架にかかる前の晩にこう言われたとヨハネは、ヨハネ14:16に書いております。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と、共におられるためにです。」
では、その助け主とはだれかという事になります。ヨハネは続きでこう書いています。ヨハネ14:26節ですが、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とであります。
ということは、どういう事かと言いますと、聖霊をお遣わしになると言う事になります。でも、ここでちょっと疑問がわいてくるのであります。では、「これまで聖霊のお働きはなかったのだろうか」であります。
いいえ、そんなことはありませんでした。 聖書をよく読んでみますと、聖霊のお働きはあったことが分かります。 なぜなら、今日の2節にも「使徒たちに聖霊によって命じてから、・・」とあるからです。聖霊によって命じられているのです。つまりイエス様の弟子となったものはみな、聖霊のお働きによって悔い改めへと導かれ、イエス様を信じる心の変化が与えられたのでありました。
では一体イエス様が5節で言われている「聖霊のバプテスマ」とは何かということになるでしょう。それは、これまでの所からでは、読み取れないのですが、2章以下の出来事を見ることによって、理解することができるのであります。
即ち、ある先生の表現の仕方を用いさせていただくとするなら「キリストの弟子たちをキリスト教会という一つの団体に結束させて、その教会をキリストのからだ。キリストの手足のごとく奉仕させる、ための聖霊の力づけ」それが、ここで約束されているのだと言われます。それが2章の所で起こる不思議な出来事なのであります。 ペンテコステのあの時に起こるのです。
この使徒の働きの書は、よくよくその内容を見ますと、使徒の働きというよりは、その中心がペテロとパウロの話が多いものですから、使徒の働きというよりもむしろ、聖霊に導かれて彼らが行動したと言う事で、「聖霊行伝」と言われて来たのは、正しい表現の仕方であるといえましょう。
キャンベル・モーガンという人は、ですから使徒の働きを次のような題にすべきだと言っているそうです。即ち「生けるキリストが、その体成る教会を通し、聖霊によって継続される行いと教えの書」というふうに、であります。しかしこれは、正しい表現かもしれませんが、あまりにも長すぎて題にするのは問題であります。
いずれにしましても、新しい時代の幕開が正に来ようとしていた、という事になるでしょう。弟子たちは、イエス様のお言葉を誤解しました。ですから6節のようなお言葉になってしまったのであります。彼らはこう言っております。「主よ。今こそ、イスラエルの為に国を再興して下さるのですか。」とです。
外国の支配下にある事は、イスラエルにとって息苦しさであり、不自由であり、何よりも主を心から礼拝出来ないもどかしさがありました。それ故に、自分たちの国をと望んでいたのでした。
それに対してイエス様は、それを否定はなさいませんでした。つまり、そういう時代がいつかは来るという事でありました。イエス様は言われました。7節「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と。
この言葉は、非常に肝に銘じておかなければなりません。というのは、この「いつ」とか「どんな時」かを巡って、様々な異端が出てきたからです。そして、多くの人を惑わし、今もそうしているからです。
何年何月何日に主は来られると宣言し、主は審きの剣をもって来られるので、それまでに悔い改めなければならないと恐怖心をあおります。しかし、でたらめでありますので当然ながら外れる訳です。それで一時期、人は離れて行くのですが、また新しい目標を立て、恐怖心をあおり、また外れる。その繰り返しを続けている異端もあるのであります。非常に恐ろしい事です。
危機意識をあおりますので、家族総出で、間違った教えを伝え歩く事になり、家庭の崩壊へつながるのであります。それ故に、主の再臨は必ず起りますが、いつであるか、またどんな時であるかは知らされていない事を覚えておいて頂きたいのです。そしてそれが、いつとか、どんな時とかがわからなくても、いつ来られてもよいように、常に備えた歩みをしていただきたいのであります。 さて、この朝見たいもう一つの点、第三番目は、私たちに働く聖霊と、その使命の確認であります。8節の言葉はとても有名であります。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」そうイエス様は言われました。
先ほども言いましたように、2節に於いて「聖霊によって命じてから」とありましたし、ヨハネの福音書からもイエス様が十字架にかかられる前の晩にお話しされた所から聖霊様のお働きをイエス様は語られました。聖霊なる神様は、いろいろな所で働かれますが、その内の一つがこの8節に書かれているのであります。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とです。そしてこの「あなたがたは力を受けます」という部分だけを強調しますと、聖霊は力なりということになり、これまた、誤った聖霊観をもつ事になるので注意が必要です。と言いますのは、聖霊は神格を持っておられるからです。ですから御霊とか、神の御霊とか、助け主とかなどなど色々な呼び方があるのです。
それはそうとして、ここで私たちが注目しなければならないのは、聖霊によって力を受けたならば、その私達は、地の果てにまでキリストの証人とならなければならないということなのです。聖霊が臨んだ。力を受けた。しかしその私たちが、これまでと全く同じで、変化なく悩み続けている。何もしない。できない。それではいけないわけです。
ユダヤとサマリヤの全土および地の果てにまでイエス・キリストの証人となって出て行かなければならないのです。主は、それを私達に望んでおられるのであります。また、そのために神様は私達一人ひとりを選んで下さったのでした。
イエス・キリストの血によって、私達の全ての罪を贖い、赦し、キリストの弟子とし、神の子という特権を与えて下さったのは、まさに、福音を宣べ伝えさせるためであったのでした。イエス様は、地上を去る時に、一番最後に、一番大切な事、つまり8節の言葉を告げて天に上られました。それだけに私たちが、この世の様々な事で思い煩う時、今自分が生き、生かされているのは、ただただこの8節の御言葉の故である事を思い出したいのであります。
神様は、皆さんに力を与え、キリストの証人としての働きをするよう求めておられます。それは決して牧師だけの仕事ではなく、あるいはまた伝道師だけのものでもありません。教会の役員だけの仕事でもありません。救われた人、全ての人がなすべき使命なのです。 ヨハネは手紙の第一、3章16節でこう書きました。 「キリストは、私達のために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私達に愛がわかったのです。ですから私達は、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とです。
永遠の命をすでに頂いている私達は、その永遠の命の事を他の人にも伝えようではありませんか。まさにその使命を私達はイエス様よりいただいているのですから。
2015年4月19日(日) 「祈りに専念」 使徒1:10-14 竹口牧師
先週から使徒の働きを読みはじめました。今回が2回目であります。 この書の著者は、ルカという人で、ルカの福音書を書き、続いてこの使徒の働きも書いた事を先回見ました。それも、テオピロという個人に当てたものでありまして、教会にあてて書いたものではありませんでした。
今私は、個人に当てたものと言い切りましたけれども、テオピロという名が「神に愛される者」という意味であるところから「クリスチャンの読者」全般を指す、そのように言う人もいるそうであります。
また「尊敬するテオピロ殿」とルカの福音書にあるところから、何か階級を表わし、何らかの地位をあらわすものか、いろいろ考えがあるようですが、あまり深く追求はしないことにします。
ところで、ルカについてですが、文体や用語からルカは相当教養のある異邦人であったと言われ、更には医学用語が用いられ、病気や病人に対する関心が示されているのでルカは医者であったであろうと言われます。
そのルカは、パウロの愛する同労者であり、医者であり、パウロの第2回伝道旅行の際は、トロアスから同行してピリピにまで行き、そこに数年滞在し、第3回伝道旅行の帰り、ピリピから再びパウロに同行してエルサレムに行き、更にそこからローマへ行き、パウロがローマの獄中にいるときにも、常に一緒にいた。そういう経路を彼は辿ることになるのであります。
今は、そのほんの出だしでありまして、まだルカは登場しません。先回は、イエス様がこの地上で教えられたことを書き、十字架にかかって苦しみに会われた後、死んで甦られ、更に40日間、数多くの確かな証拠をもってご自分が生きていることを使徒たちに示されたことを書いていました。
そして先回の最後には「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」といって、伝道の使命を与えて最後の言葉とされ、天に帰られたことを書いていました。そして先回の最後の9節では、ルカはこう書いておりました。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」とであります。ここで、私たちがまず第一に覚えたいのは、「彼らが見ている間に上げられ」た、ということであります。つまり、甦られたイエス様がいつの間にか消えられた、というのではないと言う事です。これは、私たちにとって、とても大切な点であります。
と言いますのは、私たちがいつも、朝、顔を合わせますと、まずは、「おはようございます」と一日が始まりますならば、何かが起きない限り、明日も、明後日も同じように会える事を期待しますし、また会えるのであります。
しかし、もし突然会うことができなくなった場合、どうしたのだろうと誰でもが心配することになってくるものであります。もし、その人が病気持ちであったなら、具合が悪くて休んでいるのかな?とそう思いますし、いつもの買い物の時間であったなら、買い物に行っているのかな?とそう思います。
けれども、来る日も来る日も会うことがありませんと、心配になって来るものであります。そういう意味からしますと、イエス様は、人々が見ているその前で雲に包まれて、見えなくなられた事によって、ああ、イエス様は、天に昇られたのだと見ている人はみんな納得し、イエス様を探すことはしないものであります。
旧約聖書に預言者エリヤが登場しますが、そのエリヤが竜巻に載って天にあげられた時には、エリシャの部下がエリヤを探す許可をエリシャに求めましたので、許可を出し、その結果、三日間探しましたが、結局は見つかりませんでした。(U列王2章)
一方、翻って今開いています使徒の働きでは、彼らは探すことをしていません。また、捜す必要もなかったわけであります。何しろ、天にあげられるのを見ていたのですから。9節をもう一度お読みしますが、「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」そして10節「イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た人が二人、彼らのそばに立っていた」とありまして、次に主の使いが登場するのであります。弟子たちは、確かにイエス様が天に昇られるのを見届けました。
これは先ほども言いましたように、大変大切な事実です。 それと共に次に主の使いが登場し、彼らの語りかけた内容もまた大変大切な事であります。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と言いました。
ここにあります「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」というのもまた大切なのであります。これが、きょうの第二番目に注目したい点であります。
つまり、主は天に行ったきりもう戻って来られないのではない。もう一度現れて下さる、来て下さる、と言う事であります。この再び来られる事を、再び臨むと書いて「再臨」と言います。これは、キリスト教の教えの中でも極めて大切な教えであります。
イエス様は、天に戻られた。父のもとに帰られた。しかし、もう一度来られると聖書は言うのであります。しかも最初に来られた時は、赤子の形をとり、誕生されましたが、今度来られる時には、「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で」来られるとありますように、赤ん坊ではなく、成人した大人として、更に他の聖書箇所から言いますと、審き人として来られるのであります。
従って、もう一度来て下さると言う点だけに注目するなら、私たち信仰者は、主がもう一度来て下さると言う事に対して、期待と希望が持てるのであります。
世の中がどんなに悪くなっても、主が来て下さり、世の悪を審き、信仰者の世界にしてくださる。その事の希望が持てるのであります。そういう意味で、この朝の第二の点も大切な事であります。
ところで、イエス様は、天に上られましたが、何をしに上られたのでしょうか。疑問を持たれないでしょうか。実は、ヨハネの福音書14章1−3節にはこう書かれています。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と、であります。
つまり、主は天に上られましたけれども、それは、私達の場所を用意し、整えて下さる為であると言う事です。そして、用意ができますと、主は必ず戻って来られると言われるのです。いつとかどんな時とか、それらは明確ではありません。しかし、盗人のごとくやって来られるのであります。だから、いつも備えておかなければなりません。
イエス様は、天に上られる前にこう言われました。正確に言いますと、十字架にかかる前の晩のことですが、主がいなくなるけれども、しかし、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなた方のところに戻って来るのです。」(ヨハ14:18)
そして更に「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」とです。
これは、ヨハネ14:28-29のことばですが、弟子たちは、このイエス様の言われた事が一つひとつ成就してきた事を確かめて来たのでありました。だから、イエス様の言われた又来るという事も、疑う余地のない事実として受け止めました。
では、その彼らは、次に何をしたでしょうか。 それは、イエス様のお約束を信じて、いつ来られてもよいように備えておかなければならないという事でした。
では、そのために何をするかであります。それが、今回覚えたい大切な第三番目の事であります。結論としては14節にあります「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」という祈る事が大切なのでした。
まずは12節から順に見て行きますが、そこにはこう書かれております。「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。」とであります。
安息日の道のりとは、ユダヤ人たちが安息日に歩く事が出来る距離というものが決められていまして、それが2000キュビト、約900Mでありました。それ以上歩くと彼らは働いた事になり、それはモーセの律法を破ったことになったのでした。
ですから、そうならない距離でイエス様を見送り、またエルサレムに帰って行ったのであります。実は、ユダヤ人たちは律法を破らないようにいろいろなことを事細かに決めて、それを一所懸命守っていたわけであります。そのことの表れが、ここにもあるわけです。
次に13節には「彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。」とありまして、その泊まっている屋上の間というのが、主と最後の晩餐をした所ではないかと言われております。
弟子たちが、エルサレムに集まるには、そこが一番集まりやすかったのかもしれません。それにしましても、彼らは、イエス様が捕えられた時、一時期バラバラに散りました。そしてイエス様の十字架刑のあった時には、ヨハネやペテロは遠巻きにいたかもしれませんが、殆どの弟子は、姿をくらましておりました。
しかし、その彼らにもイエス様はマグダラのマリヤに現れて、弟子たちにガリラヤに行くように伝えるよう言われたのであります。 ですから、一旦、弟子たちは、ガリラヤという自分たちの弟子としての出発地点に戻り、そこで主と会って、その後にまたエルサレムに戻って来た。そういう事ができるでしょう。
彼らは、エルサレムとガリラヤとを行ったり来たりしていたのでした。彼らは、何日くらいガリラヤにとどまっていたかは分かりませんけれども、このイエス様が天に上られた日は、甦られてから40日目でありますので、エルサレムに戻って何日間かは経っていたことでしょう。
13節には、イエス様の弟子であった11人の名前が出ています。 「彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。 この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。」とです。
数えてみていただきますと確かに11人おります。そして、イスカリオテのユダの部分一人が欠けています。そういう中で、イエス様が行かれる所は、どこにでもついて行った女性たち。それこそ、イエス様が十字架につけられた時でさえ、彼女たちは、男性たちが恐れたにもかかわらず恐れないで、イエス様を見守りましたし、墓にも行ったのでありました。
そういう意味では、女性たちの活躍は、素晴らしいものがあります。そしてその彼女たちのしていたのは、繰り返しますが、みんなで心を合わせて祈っていたと言う事でありました。聖書の通りに言いますと「祈りに専念していた」のでありました。これはとても大切な事でありますので、その「祈りに専念していた」事に関連した事をお話ししたいと思います。
かつて私は、テープ伝道を手掛けている会社に就職したことがありました。その関係で、いろいろな集会に出掛けることになりました。そして、出かけては録音し、すぐその場で、販売する。そういう事を仕事として行なっていました。有名な先生の話ですから飛ぶように売れました。まあ、売れるのは売るために行ったわけですから何も変わったことはなかったのですが、ある集会の時だけ、実は、自由時間が、全く違っておりました。それは、無駄な会話が少しもなかったことでありました。
何をもって無駄というかは別としまして、要するに、私語が無かったのであります。会場、廊下、部屋、どこにいってもシーンと静まり返っていました。多分、500人位は、参加していたと思うのですが、本当に静かでした。で、彼らは何をしていたかと言いますと、常に聖書を読んでいるか、祈っているか、黙想をしているか、であったわけでありました。
そして、講師の話になると、食い入るようにその話しに溶け込んでおりました。私は、それを見ながら、主が一人ひとりに働かれている、その事を感じたものでした。
きょうの聖書箇所には、祈りに専念していたとありますが、とても大切な点です。聖書を通して神につながり、祈っている。黙想している。というように、神様に心静かに目を向けることの大切さ、それをその集会で教えられましたし、きょうの14節の状況も、彼らは神とつながっていたと思うのです。
現代の忙しい時代であっても、神様につながる時間を、とにかく確保しなければ、キリスト者は死んだのも同然ではないかと思わされます。
忙しさを理由に、神と交わることを省略することは、大変大きな間違いを犯しているようにも思えるのです。 従って、今も時間を決めて神との交わりをもっている方もまたそうではない方も、これからはもっと神との交わりを深めて下さるようお勧めしたいのであります。
新しい時代の幕開けに人々は祈っていた。この事実は非常に大切です。現在、新会堂を建てようと一生懸命ですが、その新会堂が与えられた時、礼拝堂がすぐそのように用いられるには、今、そういう祈りに専念する状況にありませんと無理のように思います。そのために、今からもっと神に近づくように努めようではありませんか。
2015年4月26日(日) 「使徒職」 使徒1:15-26 竹口牧師
イエス様は、十字架刑による死の後、その身体は墓に葬られました。そして三日目に甦られ、その後、ガリラヤに行かれました。そのガリラヤでは、弟子たちに会われ、その時、第一コリント15:6によりますと、「500人以上の兄弟たちに同時に現れました」とありますので、随分沢山の兄弟たちが集まっていて彼らは、イエス様を見た事が分かります。
一方、きょうの最初の15節の所では、今度は、ガリラヤではなく、エルサレムでの事ですが、「120名ほどの兄弟たちが集まっていた」とありまして、やはりこれまた、多くの人が集まっていた事が分かります。 ただし、このエルサレムの時の兄弟たちの集まりは、当然ながらイエス様はもう天に戻られた後の事でありますので、ここにイエス様が登場されるわけではありません。
ところで多くの兄弟たちが集まっている中で、今、リーダーシップをとっているのは、何とペテロでありました。ペテロと言いますと、福音書の中では、失敗したイメージが強く私には残っているのでありますが、ルカ22:31-32のところで、イエス様はペテロにこう言われました。
それは最後の晩餐の時の事ですが、 「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と、そう言われたものでした。
そういう事もあってかどうかわかりませんが、ここでは今、ペテロは率先して、リーダーシップを取っているのであります。その彼のまず手始めの仕事は、使徒の補充でありました。
と言いますのは、ユダの裏切りによって一人欠けていたからであります。とはいうものの、では使徒というものは、11人ではなく12人でなくてはならなかったのか、ということになります。
実際の所、後の方では、ゼベダイの子ヤコブがヘロデに殺されても(使徒12:2)補充はしておりません。がしかし、それはともかく、ここではペテロは、12人であるべきであると考えていたようです。
勿論、パウロも後には使徒として加わる事になりますが、彼についても、後に見る条件には合わないのであります。もしかしたら、一番最初のころには、つまり、いわば出発点のような時には、ペテロは12人になるようにして出発したかったのかもしれません。それが、16,17節そしてかっこの部分をはずして21,22節とつなげて読みますと分かってきます。
ペテロは、こう言っています。 16,17節「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。」とであります。
そして21,22節へと飛んで続くのでありますが、そこに進む前に、この16,17節の所でどうしても述べておかなければならない事があります。
それは、ペテロが、旧約聖書を用いているという点です。16節「兄弟たち、イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。」と言い、そしてそれは、どこかと言いますと、20節の所にこう引用しているのであります。
「実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』」とであります。
勿論これらは、詩篇69:25、109:8節からの引用ですが、また詩篇そのものが、そう言おうとしている訳ではありません。がしかし、ペテロは、旧約聖書をイエス様の群れの中でも用いた、という事であります。
これは、他のユダヤ人たちもしていましたので、つまりはペテロたちにとっても旧約聖書は、規範性があるという事になるのであります。そしてそれは、旧約聖書が新しい時代に入っても、即ち、新約の時代に入っても、その光の中で解釈され用いられている事は私たちにとっても注目すべき点であります。
旧約時代は終わったので、もう旧約聖書は必要ない、のではないという事であります。これは、心に留めておかなければなりませんし、神のお言葉として旧約も私達は積極的に読み続け、神様からの語りかけに耳を傾けなければならないと言えましょう。
そして21、22節に入っていきますと、「ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」とペテロは言うのであります。
この部分を読みますと、二つの条件が言われています。一つは、弟子たちと共に行動した者である事。もう一つは、復活の生き証人である事であります。ただし、この時はそうであったのですが、後のパウロは、そうではありませんでしたので、つまりは先ほども言いましたように一番最初だけはきちんとスタートしたかったのかもしれません。
12人というこだわりがあったのでしょうか。それとも、後で取り上げますけれども、使徒性ということに特別な意味を持たせるためだったのでしょうか。
ところで、今回の使徒の補充は良いとして、なぜ二人の中の一人なのかという問題が起きて来ます。120名ほどの兄弟たちが集まっていますと、もっと沢山、イエス様と行動を共にした者、また、復活の主の生き証人もいたのではないか、そういう疑問がわいてくるのであります。
22節の終わりの方で、「だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」とあり、23節には、「そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。」とあり、彼らは、選ぶ人が多くいて困り、一次予選、二次予選して、だんだん減らして行ってやっと二人になったようにはここからはぜんぜん読めないのであります。
そしてこのことは、二つの条件、弟子たちと行動した者、そして復活の主の証人が何人いようとも、使徒としての働きをする人は、この人とこの人しかいないと誰でもが認める人が候補として挙げられたように思えるのです。そういう意味では、バルサバとマッテヤとは、どちらが選ばれても問題は無い人物だったと思われます。
では彼らは、二人の内、一人を決定するのにどうしたでしょうか。 まずは祈ったのでありました。 24,25節「そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』」とでありました。
まず彼らは祈りました。つまり、決定を下す時、みんなで協議をするとか、選挙をするとか、そういう方法を取りませんでした。まず何よりも優先したのは、祈る事でありました。「すべての人の心を知っておられる主よ。」と祈ったのであります。
任せる、委ねる、従う、これらは全て受身であります。 そしてこれは、多くの人が望まない方法であります。 まず、なかなかできない方法であるともいえましょう。 何か問題が起きてどうしようもなくなった時、 これはもう、祈るしかないや、そう私たちは言いがちであります。
その祈りに於いても、自分の考えを神様に押し付け、 「私はこう思いますが、どうぞ御心をなして下さい」といいつつも、 自分の考えが通ることを念頭に神様に祈るのが関の山であります。 でもここでは彼らは、そうしたようには見えません。 どちらがメンバーになっても、構わないという公平さが見えます。
では、その後彼らはどうしたでしょうか。何と「くじを引く」事をしたのでした。えっ!くじなの?とそう現代の私達はいいそうであります。くじなんて、そんな時の運、流れにまかせる。それは、どう考えても真剣に決めているとは思えない、そう思う人もおられるでありましょう。
しかし、これこそが、公平であり、何の作為的なものが入らないのであります。実は、旧約聖書箴言16:33にこういう言葉があります。「くじはひざに投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」と、であります。
しかも、旧約聖書をよく見ますと「くじ」は盛んに用いられているのであります。なんと旧約には97回でて来ます。勿論、この回数は、あまり正確ではありません。
なぜなら「意気をくじいて」というのも数えているからです。しかし、それにしてもそのような場合は、回数にして10回いくかいかないくらいで、殆どは、ひく「くじ」であります。
たとえば、こんな例があります。皆さんはどうか分かりませんが、私の場合、旧約聖書でくじで当てた場合にどんな例がありますかと聞かれたら、一番先に思いつくのは、ヨナ書に出てくるヨナの話(1:7)ですが、更に具体的に見てみますと、まずレビ記に、献げものの為にくじを引いております(16:8)。二頭の羊のうち、一つを主のために、もう一つをアザゼルのために。
また民数記を見ますと、相続地を決めるのにくじが使われています(26:55)。続いてヨシュア記を見ますと、戦いの敗因の原因は誰かをくじで引き当て、アカンが敗因の原因であることを当てているのであります。(7:14-21)
というように、旧約聖書では、くじで決めると言うのは、神様の御心を知る上で重要な手段の一つでありました。それを今、ここでも用いられているのであります。
ただ、新約に入ってくじが用いられているのは、6回出てきまして、その中の4回は、各福音書で用いられ、同じ場面ですから、それを除きますと、非常に少なくなっているといえましょう。
そして今では、やはり、御心を知るのは、くじではなく、御言葉であるということは言うまでもありません。この所を間違えないようにして頂きたいのです。
とはいっても、つい先週行ないました定期総会で、執事、書記、会計という役員を決める場合、選挙という方法、それも多数決という方法を用いましたが、ということは、使徒職の場合、特別なのかもしれません。
ところで、26節に最終結果が出ております。 「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は11人の使徒達に加えられた。」とです。
こうして使徒は12人となりまして、次に彼らは、遣わされていくのでありますが、その彼らの使徒職が今日ではどうなっているのか、それを最後に見ておきたいのであります。
最初の方でも言いましたが、22節にありましたように「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」とありました。
そして現在では、ローマ・カトリック教会やハリスト教会などでは、使徒団が今まで継承されているのが、教皇や主教(監督)達であり、従って、教会の政治も一切監督たちの手で行ない、後継者を選んで権能を譲って行く、のだそうです。
プロテスタントの中にも、あの使徒の選出方法、また働き方にあこがれ、あのようになりたい、又あのようであってほしいと考える人が大勢いるそうです。
しかし、現実はそうではありません。使徒とは本来、送られた者という意味の言葉であり、その送られる所が遠く離れている所かどうか、そういう事は関係なくユダヤ教団の命令で派遣される使節を表しました。
また送られる事よりも、権威を委ねられる方が重要でした。 人によって送られた者は、その人自身に等しいと言われます。 ですから、使徒とは、ことばと行動の全体を通して、遣わした主人を代表する者です。
従って、イエス様の使徒は、遣わした方イエス様ご自身を身をもって証し出来る力を備えなければなりません。パウロはUコリント12:12に、こう書いております。「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」とであります。
もう一つは、死人の権限を行使する事はできませんから、遣わしたイエス様が今も生きておられる事を証明できなければなりません。ですから目撃者である事が必要なのです。
また生前のイエス様のことを熟知していなければなりません。そして最後は、イエス様が夜通し祈られ、選ばれたのですから、人の発意や推薦ではなく、イエス様の明白な選びで就任した者に限る訳であります。
従って、その彼らが徐々にこの世から去って行った時、新しい時代が起きることになるのでありますが、それはともかく、今、私たちが見ようとしているのは、使徒たちの働きであります。
使徒たちの働きは,第1に説教でした。 ナザレ人イエスの苦難と十字架の死が、神の定められた計画と予知とによったこと、このイエスを神がよみがえらされたこと、神がこのイエスを主、またキリストとして立てられたことを証言して悔い改めを迫り、神への立ち返りを促すことが、使徒たちの説教の務めでありました。
これから見ることになりますペンテコステ説教を初めとし、続いて記される使徒たちの説教で際立っているのは、イエスの復活の事実の主語が神である、とする確たる証言です。
これは、神の御旨の実現の神学を展開しようとするルカの意図の表れと言うことができます(使徒2:24,32,3:15,4:10等)使徒が、使徒であるには、キリストを正しく伝えなければならないのであります。
使徒時代が終わっても、今日まで救いの福音が伝えられてきたのは、それぞれの時代に、神様が伝える人を起こし、伝えて来られたと言えるでしょう。そしてそれは、今日では、救われた私たちであると言えます。 ですから、使徒1:8節にありましたように、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」といって遣わしてくださる主に、感謝してそれに応えていきたいものであります。
救われている一人ひとりが、自分は主に遣わされてここにいるのだ、 そのように職場でも、学校でも、家庭でも、その他どんな所でも、主に遣わされているに相応しく証しをし、歩ませていただこうはありませんか。
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