2015年7月5日(日) 「信仰による祈り」 使徒4:23-31 竹口牧師
皆さんは日ごとにどのような祈りを神様に捧げておられるでしょうか。 私がクリスチャンになりたての頃の事ですが、教会に来るのに大変苦痛であった事がありました。なぜなら、どのように人の前で祈ればいいのか分からない。その事からくる不安のためでした。
そこで、祈りの本を買って読んだり、クリスチャン達が祈る祈りを真剣に聞いて真似たり、いろいろな事をしたのを今は懐かしく思うのであります。神様に祈ると言いましても、時、場所、目的をよく考え、その時に最も相応しい祈りをするという事は、現在の私にとっても、大変難しい課題であると言わざるを得ません。またそれを感じているのはどうやら私だけではない様であります。
なぜなら、キリスト教書店には具体的な場面がいろいろ想定され、祈りの例を数多く載せた本も売り出されているからです。
しかしながら、その様な本があるからと言いましても、祈りとは人が聞くものではなく、神様が聞いて下さるものですから、本をそのまま使うなら、人から借りてきた祈りとなり、それまた、自分の本心が表わされない祈りとなり、正しい祈りが出来ないという危険が生じるのであります。
気をつけないと、聖書に出てきますパリサイ人のように、人に聞かせる為の祈りとなったり、自分を神の前に義人としてしまう祈りとなったりする事も起きてくるのであります。イエス様の弟子達も、どの様に祈ったら良いのかを聞いたことがありました。するとこの様に祈りなさいと「祈り」を教えて下さいました。
私たちが、この朝の礼拝で必ず捧げます「主の祈り」がそれであります。しかし教会ではそれ以外に司会者の祈りや、献金を捧げる時の祈りや、また水曜日の祈祷会の時の祈り、更には個人的に祈る事などさまざまな状況があるのであります。
従いまして、イエス様がこの様に祈りなさいと教えて下さったその祈りの中に含まれています多くの意味、あるいは内容は同じであっても、私たちの祈る言葉は、一字一句「主の祈り」と同じと言う事はしないのであります。つまり、時、場所、目的を考えながら常に私たちは祈っているのであります。そこには、その人自身の信仰と真実が言い表され、告白されていますし、またそうでなければなりません。
礼拝に於ける司会者の祈りの場合は、会衆に代わって祈りをなすものですから、個人的な事は差し控えながら祈るという事も致します。ある人は祈りを三つに分けておられます。
その一つは公同の祈り、つまり公の祈りであります。 もう一つは、祈祷会で祈る共同の祈りであり、 そして最後は一人で祈る個人の祈りというようにあります。
ところで、今回は取り上げました聖書箇所から祈りについて見て行くのですが、先程言いましたように、祈りはその時の状況の中で祈るのでありますから、その点を考慮しながら、公の祈り、個人的な祈りの中の共通した部分を今日の聖書箇所という限られた範囲の中で見たいのであります。
まず状況から話しますと、ペテロとヨハネは、イエスの名によって病人を癒し、イエスのことを例に挙げ、死者の復活を宣べ伝えているのに困り果てた当局者は、彼らに手をかけ、一晩留置しました。その後、議会で、「今後一切、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じたのでありました。
しかもその命令を簡単に破らないようにとおどしも加えられました。恐らく普通の人なら、その命令に従うしかないような厳しい脅しだったと思われます。その後自由の身になった二人は、どこにも寄り道することなく仲間の所に真っ直ぐに行き、祭司達や長老達の言った事を残らず報告したのでありました。
二人の思いは、自分達が受けた留置や審問、おどしなど全てを今後の為に彼らに一刻も早く話しておきたかったに違いないのであります。心配していた仲間達は祈りつつ、神様の業を期待して、二人の解放を待っていたと思われます。 ペテロ達は、挨拶もそこそこにして報告を終えた時、これを聞いた人々はみな、心を一つにして神に向かい声を上げて祈ったのでした。
とは言いましても口を揃えて皆が同じ様に祈ったという訳ではありません。 仲間の誰かが祈り、皆が心を一つにして和していった、という事でありました。それはこんな言葉で始まっています。「主よ。あなたは、天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です……」とでした。
この祈りを最後まで見ますと、ペテロとヨハネが個人的に受けた迫害としてではなく、正に、天地万物を造られた方に対する迫害として捉え、祈っていることがわかるのであります。
ですからこの祈りには、無事に二人を返して下さった事を感謝しますとか、或いはこれから一体どの様にして行ったら良いのでしょうか、という自分達の将来に対する不安への導きの言葉、そのようにはなっておりません。
原文を見ますと、この祈りの最初の言葉である「主よ。」と言う呼び掛けは、29節にあります「主よ。」という言葉とは違った言葉が使われています。この最初の「主よ。」という呼び掛けは、奴隷やしもべ達がその主人に対して呼び掛ける時に使われる言葉であります。即ち「権力と所有権を持った『ご主人』という呼び掛けなのであります。
しかもその様な方はどんなお方かと言いますと「天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」と、天地万物の創造者である方だと認めて祈り始めているのです。神社仏閣に行って僅かな捧げ物をし、大きな願いを叶えて戴こうとする、半ば神が自分のしもべとなって働く、そんな人間にとって都合のいい神ではなく、自分が僕として仕えるべき主人である事をしっかりと自覚して祈り始めているのであります。
この自覚を持って祈る事は、私達が御前に出て祈る時、とても大切な事なのであります。美辞麗句を並べ立て、人に聞かせる祈りではなく、真の神様の主権を認め、心からの祈りである事が何よりもまず第一に、大切だと言えましょう。
この事は、クリスチャンになりたての方も、また長い信仰生活を送って来られている方も全く変わりがないのであります。そしてこの事は、一人の祈りに対して全員が「ア−メン・真実です」と言うことが出来るのであります。
第二番目に取り上げたいことは、御言葉に基づいた祈りの大切さであります。 今日の箇所に出ている祈りは詩篇第二篇を用いていますが、別に祈りの中に御言葉の引用がなければならないという訳ではありません。
私たちの祈りは、御言葉の約束通り実現するとそう信じて祈る事が大切であるという点にあるのです。しかも、今朝の聖書箇所では、彼等が真の神様の絶対的主権を認めつつ祈っているこの時に、実はそれに反すると思える様な事が起こっている。この点に私たちは注目しなければなりません。
正しい者が捕らえられ、裁判にかけられ、脅されるという正に悪が主権を握っているとさえ思える様なそんな時であっても、御言葉を信じて祈る事の大切さなのであります。ですから、祈りの姿勢そのものは、平和な時も、迫害の時も変わらないと言えましょう。
しかしながら、ここで疑問が湧いてくる方がおられるかも知れません。 それは、もし私たちの信じる神様が、絶対的主権者であられるのなら、なぜ弟子達が、あるいはいろいろな時代にあってクリスチャン達が迫害されたりするのかという疑問であります。
それはこういう事であります。 今ここに引用されています詩篇2篇1、2節は、神様とそのメシヤに対して世界中が共謀して反逆している場面ですが、この後に4節5節でこの様に歌われているのであります。お聞き下さるだけで結構ですが、
「天の御座に着いておられる方は笑う。 主はその者どもをあざけられる。 ここに主は、怒りを持って彼等に告げ、 燃える怒りで彼等を恐れおののかせる。」とです。
つまり、世界の主権者であられる神様は無神論者の反逆に対しても、少しも驚きあわてることなく、むしろそのことを予め預言し、それをお定めの中に入れておられるというのであります。従って、私たちがそういった迫害の中にあっても突然何かが起こったかのごとく恐れる必要はなくむしろその様な機会にも御言葉が成就されていっている事を確信しなければならないのです。
そしてこの事が当時の彼等の祈りの中に言葉として言い表されているのであります。ペテロ達の釈放を祈りつつ待っていた仲間達は、この祈りの中で詩篇を引用すると同時に、実際に自分達の身の回りに起こった事とを合わせて 27,28 節でこう彼等は祈っているのです。
27節「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒に、あなたが油注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手と御心によって、あらかじめお定めになったことを行いました。」とです。
今や彼等は、祈りの内に自分達が直面している迫害の原因を詩篇第二篇の中に見出だしたのでした。ですから彼等は、今、起っている迫害が、何か思いがけない突飛な出来事でも起こったかのごとく感じませんでした。そうではなくむしろ真の神様が世界の主権者であり、造り主であられ、その方に対して世界中が共謀して反逆した。これがすでに旧約の時代から預言されていて、いわばその頂点として、具体的な形として現れたのがあの十字架であることを彼等は悟ったのでした。
彼等は御言葉を自分達の状況と結び付けました。例えば神様に反逆し、立ち上がる「地の王達」の代表にヘロデの名をあげましたし、また「主とキリストに反抗して、一つに組んだ」指導者たちの代表としてポンテオ・ピラトを名指ししました。そして預言が「事実」となった事を確認し祈っているのであります。
神の御言葉の約束を確信して、その裏付けのもとに祈る事は大切だと言えましょう。彼等がここで詩篇を引用したのは、まさにイエスの十字架によって預言が成就したと言うことが分かったからでありますが、
翻って、私たちという現代の時代にありましても、神とキリストとに逆らって起される迫害や妨害はやはり起こっているのであります。しかもそれらは当然ながら神様はよくご存知なのであります。
従いまして、私達がその様な迫害や妨害にくじけない為には、まず、イエス様の受けられた迫害と侮辱とを覚えつつ、そこに神様の御手と御心が成就されたと言う事実に常に目を止める事はとても大切な点だと言えましょう。
イエス様はかつてこう言われました。 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなた方よりもわたしを先に憎んだ事を知っておきなさい」あるいは「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言った言葉を覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」(ヨハネ15:18,20)と。
つまりイエス様に従い、イエス様の十字架を伝えようとする者には迫害は付き物であること、また、それが神様のご計画の中に位置付けられていることを、彼等は祈りのうちに御言葉によって確信させられたということであります。それ故に私達も又その事を覚えつつ祈りたいものであります。
第三番目は、祈りは宣教の前進のためである事の大切さです。只単に、自分の生活の必要を願い祈るのみならず、宣教が押し進められるように祈る事が求められるのです。ですから、この時彼等が祈った祈りの中には「迫害をやめてください」とか「迫害に会わせないで下さい」という祈りにはならず、むしろ、29節にありますように、「あなたのしもべたちに御言葉を大胆に語らせて下さい。」という祈りをしたのであります。
サンヒドリンというユダヤの最高議会で決定した「一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない。」と厳しく命じられたにも拘らず、それに逆う様に祈ったのでした。
この事件は元々、美しの門の所で足の不自由な人を癒した、という奇跡から端を発したものでした。にも拘らず、彼等の祈りは30節にありますように、「御手を伸ばして癒しを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと、不思議なわざを行わせて下さい。」と祈ったのでありました。
つまり彼等の祈りは「大胆に語らせて下さい」だけでなく、さらにしるしと不思議なわざを行わせて下さいと求めているのであります。彼等の祈る祈りが聞かれたならば、益々迫害や脅迫が起こる事は必至なのでありました。にも拘らず、彼等はその事を願って祈ったのでした。
なぜ、それ程までに危険をも恐れない大胆な祈りを捧げたのでしょうか。 恐らくそれは、この頃、「御言葉を大胆に」語り伝えるには、必要なしるしだった様に思われるのです。(マルコ16:17 )。彼等の願うところは、自分達の身の安全がまず第一ではなく、御言葉の宣教が前進する事を第一として願っていたからです。
私たちが祈る祈りは、仕事のため、健康のため、家族のためと非常に個人的に、しかも、御利益的になりやすいことは否めません。しかしながら、彼等の祈りの姿を見るとき、私たちの祈りもまた自分の身の回りの事だけでなく、もっと大きく目を広げ、御言葉の宣教が一日も早く全世界へと伝えられる事を願うそんな祈りであり続けたならどんなにか素晴らしい事だろうかと思わされるのであります。
さて、第四番目は祈りに神様は答えて下さる事を知るのは大切であります。 31節にこの様にでております。 「彼等がこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、 一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出した。」とです。
彼等の祈りを神様が聞いて下さった事の現れとして、祈っていたその場所が震い動き出したのであります。この現象は注目すべきものですが、それ以上に大切な事は、彼等の願った通りに彼等は「神の言葉を大胆に語り出した」という点であります。
祈っても祈っても、その祈りは聞かれているのかいないのか、疑問も感じないで、確かめないで祈る祈りには、神様に対する期待、確信が薄いように思うのであります。直ぐには、私たちの希望通りにはならないかもしれない。しかし、神様は必ず聞いてくださる、そう信じて祈る祈り、これは大変大切であります。
そしてどんなに些細な祈りでも神様がそれに答えて下さったと分かったり知ったりする事はその人の信仰をさらに強める事にもなります。ペテロ達の仲間の祈り、それに神様が答えて下さるならば、彼等の命が危ないと言っても過言ではないようなそんな雰囲気でした。
にも拘らず、それを省みず祈ったのでした。そしてその答えを身を持って感じたのであります。聖霊なる神様のお働きは彼等の行動を力ある者に変えました。私たちの日々の祈りもまた、神様の主権の元にこの世が動いていることを信じて、御言葉の約束通りになると期待し、福音の宣教が益々前進するように、祈ろうではありませんか。
そして、神様がその祈りに答えて下さっている事を日々に経験させていただきたいものです。人の目を気にした祈りではなく、真実に神様に目を向けた信仰の祈りが今まで以上に捧げられるようにと願うものです。
2015年7月12日(日) 「神を欺く」 使徒4:32-5:11 竹口牧師
イエス様の昇天後しばらくの間、弟子達が心を一つにして祈りに専念していた時がありましたが、その頃、120 名程の人が集まっていました。
やがてペンテコステの日を迎えますと、聖霊降臨という出来事が起こり、聖霊に満たされたペテロは説教を行ない、信者の数は3000人程になり(2:41) 、
それからまた何日かの後に祈りの時間に宮に上って行ったペテロは、生まれつき足のきかない男の人を癒しました。その頃になりますと信者の数が何と 5000 人と膨れ上がっており(4:4 )この美しの門の所で行われた癒しと説教から端を発した迫害は、教会が初めて経験した出来事でした。
しかし、そんなことにペテロ達は屈することはありませんで、また神様に守られ、益々大胆にみ言葉を語り続けたのでした。今朝は、その様にキリスト信者の中に仲間として加えられていった彼等の信仰生活はどの様であったかを見たいと思うのであります。まずは4章32節から見て行くことに致します。
32節「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分の物と言わず、全てを共有していた。」とあります。この最後の言葉であります「共有していた」という行為はすでに2:44節に出ているのですが、今日の聖書の箇所はその事の具体例を上げて述べているのであります。
使徒達は、議会の命令と脅しとを加えられながらも主イエスの復活を非常に力強く証ししてきました。彼等の働きを祝福された神様は、信者の増加という面だけでなく、彼等の信仰生活においても霊的に、また経済的に祝福して下さいました。
その具体例を、34、35節でルカはこの様に記しています。 「彼等の中には、一人も乏しい者がなかった。 地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒達の足元に置き、そのお金は必要に従って各々に分け与えられたからである。」とであります。
彼等の中には一人も乏しい者が無かった。その理由として、持っている者が捧げ、それを必要に従って各々分け与えたからだとあります。神様の祝福は貧しい者が富む者となり、富んでいる者は更に富みを増すというのではなく、持っている者が持っていない人の必要を満たす事によって行なわれました。 そこには、同じキリストの体に繋がっている者の思いやりや愛が満ち溢れていたと言ってよいでしょう。
ところで32節、34節などをさっと読みますと、いわば共産主義的な雰囲気がするのですが、しかし実際は、それとは違うのであります。なぜなら、この箇所で言っている事は、分ち合う事が規則化されて義務付けられたり、また個人の所有は一切認めないなどという事ではない。そのように分かるからであります。それは次のような聖書の箇所から言うことが出来ます。
まず第一は、32節にあります「誰一人その持ち物を自分の物と言わず……」というのは、自分の持ち物を売り払ったと言う意味ではなく、「自分の物という」利己心が無かったという事であります。つまり「私の物はあなたの物、またみんなの物」という態度で生活をしていたと言うことであります。
第二は、34節にあります「彼等の中には一人も乏しい者がなかった」という言い方は、もし義務的に共有制度が実施されていたならば、むしろ「みんなが平等であった」と言うほうがもっと自然だと言えないでしょうか。
つまり義務的であったとするには実に不自然な言い回しなのです。従いましてここは、富める者も貧しい者もいたが、貧しい者でも生活に事欠く事は無かったということなのであります。
第三番目は、5章4節のペテロの言葉であります、 「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか」ということからも、信仰に入った者が財産全部を献金しなければならなかったというわけでは無かったことが分かるのであります。
実際のところ教会の状況は、入信の時、一度限り全財産をはたくのではなく生活に必要でない資産を教会の必要に応じてその都度売り払って、その時その時の必要に充てていたと考えられています。
では、一体彼等がこの共有生活を進んで行う事の出来た力はどこから生まれたのでしょうか。
それは第一に、主イエス・キリストにあって信じた者の群れだからこそ出来た生活と言えます。その原動力はただ信仰だけでした。決してヒューマニズムとか博愛慈善の精神とか他人の物まねや競争しようというライバル意識などからでは決してありませんでした。そのようなものからは絶対に生まれて来ないのであります。
第二は心と思いを一つにして出てきた生活です。 代金を貧しい者の為に分配するという形の共有は、この心の一致、思いの一体がなければ出来ないことでしたし、それはまた自然な表現でした。しかもその行為は、ただ財産の共有だけでなく、使徒達が非常に力強くあかししていた「主イエスの復活」の命に生かされた新しい心の共有でもありました。
第三に売られた代金は5:2によりますと「使徒達の足もとに置いた」。その上で「そのお金は必要に従って各々に分け与えられた」教会への献金でありました。決して金持ちが、個人的に直接、貧乏人に施してやるとか。貧乏人が直接物乞いするという生活ではなくて、一切のお金は神様に捧げられ、神様と教会との名によって支出されたのでありました。
ですから献金として持ってくるお金が土地建物の売り上げ代金だったにせよ、働きによって得た月給であったにせよ、今日の私たちの献金や教会会計の運用と本質的にはなんら変わりありませんでした。そこには、何の規則も法律も強制もない、ただ信仰による心の一致と感謝だけが全ての原動力としてあったのでした。
さて、このようにして信じた者の群れがその活動を活発化して行ったのですが、ルカはその時の状況を具体的な例を二つ上げ、記しています。しかもこれは、良い例と悪い例とを対比的に載せているのであります。
今ここで5章の初めに取り上げられた悪い例を見ます時に、初代教会の始まりは迫害という外部からの問題だけでなく、すでに内部にも問題が起きつつあった事が知らされるのです。まず良い例は4章36節以下に、この様に紹介されています。
「キプロス生まれのレビ人で、使徒達によってバルナバと呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒達の足元に置いた。」とであります。
ここにレビ人と出ていますが、本来、レビ人はイスラエル12部族の中では カナンの土地分配には与っていませんでした。しかし、民数記35章1-8 節を見ますと「主はモ−セを通してレビ人に住むための町々、……それに……その回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。……」と出ていますので、全く与えられなかった訳ではないことがわかるのであります。
従ってこのバルナバと言う人も、先祖から代々受け継いで来た土地があったのでしょう。その土地を売って捧げたのでありました。 バルナバという名は、訳すと「慰めの子」と出ていますし、また別の訳では、「勧めの子」とも出ています。後にこのバルナバという人はパウロと共に最初の伝道旅行をし、ユダヤ主義異端と論争したり、パウロとも激論を戦わせるほど激しい人でもありました(使徒15:35-39)。
従ってその人柄から見ましても、彼の行なった行為は、ただの同情心から出た慈善のわざというよりは、当時のエルサレム教会がその必要を求めていた事を認めて献げたといえましょう。バルナバは行ないと真実をもって、もうこの時から正しく仕えていたのでありました。
一方、それとは違った夫婦がいました。 それがアナニヤとサッピラという夫婦であります。 この二人も自分の持ち物を売り献げたのですが、彼等の結末は死をもって精算しなければならない程恐ろしい献げ方を行ないました。
それはどんな献げ方だったかと言いますと、5:3を見ますと、彼等の罪の第一は、代金をごまかした、ということでありました。売った地所の代金がどのぐらいであったのか、またどの位の比率で献げたのか、あるいは残しておいたのかそれらは一切分からないのですが、全額でないことは確かです。 そしてそれをペテロは見抜いていたのであります。 ペテロが一見すると分かるような額だったのでしょう。4章の34,35 節を見ますと物を売って代金を携えて来た人は使徒達の前に置き、その後必要に応じて分けられていました。従って、ペテロには察しがついたのであります。 ペテロはこう言いました。
「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか」とです。 さらにこうも言いました。「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないのか。……」とでありました。
アナニヤの罪は、一部を自分の為に残しておき、あたかも捧げた物が地所の代金全部であるかのようにした。このことに罪があったわけでした。全部を献げなければならないという義務があった訳ではありません。もしかしたら彼の虚栄や、見栄がそうさせたのでしょうか。
更に悪いことには、この様に偽って献げ物をすることを妻のサッピラが知っていたということであります。5章2節に「妻も承知のうえで」とある通りであります。この「承知の上で」とは聖書の欄外を見ていただきますと、「…と共謀して」とも訳されています。つまり、夫婦揃ってその事を行なっていたのでありました。
もっと悪いのは3時間経ってから来たサッピラに対してペテロが「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。」と聞いた時「はい。その値段です。」と答えたことです。ここに彼等の念のいれようを感じないわけにはいきません。
なぜなら、夫の後から来たのですから、ペテロからこのような質問をうけたなら、変だなと気付きそうなものですが、なおもそ知らぬ振りをし、自分の犯した罪を押し通そうとした。そういう傲慢ささえも感じられるからです。
何度も言うようですが、この当時、教会は規則による共有財産生活はしておりませんでした。資産を売る義務もありませんでした。
とはいえ、バルナバが教会の必要を覚え、畑を売り、その代金を全部献げたように、教会はもっともっと捧げ物を必要としていた。そういう現実がありました。そんな状況を知ってアナニヤ達も捧げようと思い立ったに違い在りません。
しかもある本によりますと彼等が捧げようと決めたその時からその地所は二人のものではなく、神様のものだったと言っています。ですから、「それはもともとあなたのもの」「売ってからも自由になった」というものではない。それは売らずに残すことは出来ない。売ってからも自由には出来ない。「主のもの」になっていたはずである。そればかりか、一度でも資産を捧げても良いと考えたほど自分の生活にゆとりのある彼等が、資産を捧げようと決意せずにいることが果たして許されるでしょうか。」とです。
さらには、「みんながせめて『乏しい者がいない』ようにと、心を砕いて切り売りしている中で……資産を握り締めて知らぬ顔をしていることは、許されたでしょうか。」そしてこの二人の罪を4章32節にあります「心と思いを一つにして」いなかった罪、彼等だけは信じた者の群れの心とは全く別の方向に二人が「心を合わせて」いた罪(5:9 )、つまり「クリスチャンの新しい命と心に生きていなかった罪」だとその著者は著していました。まさにその通りだと言えましょう。
第一ヨハネ3:17,18 にはこんな御言葉があります。 「世の富みを持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、憐れみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛が、とどまっているでしょう。子供達よ。私たちは、言葉や口先だけで愛することをせず行いと真実をもって愛そうではありませんか。」とです。
アナニヤとサッピラには丁度この言葉が必要であった様です。そして私達もまたこの事を通して神様に対する捧げ物の在り方を今一度振り返ってみる様にと教えられるのではないでしょうか。 旧約の時代、ヨシュアは神様が与えると約束して下さったカナンの地を征服するため、アイの町を攻めた事がありました。しかし、勝利が約束されていたにも拘らず一度は戦いに敗れてしまいました。
それは、アカンという人が神様の命令を守らず、聖絶すべき物、神様が滅ぼしつくしなさいとを言われた物を隠し持っていたのが原因でした。神様はこの後、アカンとその家族、財産すべてを滅ぼしつくす様にと命令されました。
そしてこの命令はこれから多くの戦いを進めていくために、当時のヨシュアをはじめ、イスラエルの人々にとって強烈な戒めとなりました。今回のアナニヤとサッピラの場合もこれから教会が伸びていく為の訓戒の実例となったのでした。
ペテロの言葉を聞いたアナニヤは5節にありますように「倒れて息が絶え…これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」とあります。 そして更に続いてサッピラも倒れて息が絶え、その遺体が運び出されました。 一組の夫婦の残したものは、11節にありますように、「教会全体とこの事を聞いた全ての人達に非常な恐れ」でありました。
マタイ16章26節にはこうあるのであります。 「人はたとい全世界を手に入れても、まことの命を損じたら、何の得がありましょう。その命を買い戻すには、人は一体何を差し出せばよいでしょう。」とです。
命は何をもってしても代えがたいものです。その命をイエス様は御自分の命をもって私たちを贖い、死から命へと買い戻して下さいました。その買い戻された私たちが、神様の為に捧げて生きていく。その生活の中に捧げるのは惜しいというものがあるだろうかと考えさせられます。
神様への捧げ物について考えるならこう言えるでしょう。 私が今捧げる捧げ物ほど、神様の恵みは小さいだろうか。 決してそんなことはない。 捧げる以上にまた豊かに下さっているではないか。 また、捧げて損をしたような事があっただろうか。 いいえ、決してそんなことは無かった。 神様は私が捧げた以上にいつも恵みを下さった、とそう告白できるのです。
私たちは、お金が全てであるかのような錯覚させるこの世に生きています。 そしてともすれば、何でも損得、プラスマイナスで考えさせます。 しかし、神様は、私たちに対して捧げることを教えて下さり、その事を通してまたいかに多くのものを私たちに下さっているかに気付かせても下さるのであります。
アナニヤにしてもサッピラにしてもまさか神様が命を取られるとは夢にも思わなかった事でしょう。しかし、まさかの罪が大変大きな罪であり、従って神様の裁きが彼等の上に臨んだのでした。パウロはUコリント9章でこの様に言っています。
「私はこう考えます。少しだけ蒔くものは少しだけ刈り取り、豊かに蒔くものは、豊かに刈り取ります。 一人一人いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます。神はあなたがたを、常に全てのことに満ち足りて、全ての良い業にあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
神様の恵みが恵みとしてわかり、それに対する応答としての捧げ物であることが何と大切なことでしょうか。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めた通り、喜んでお捧げし、用いていただこうでは在りませんか。
それは勿論、富だけに限りません。時間も体も才能も全てであります。 私達の救い主、イエス・キリストは私達のためにご自身の全てを捧げ、罪から贖い出してくださいました。その方を私達の不信仰によって欺くのではなく真実と誠を尽くしてお従いしたいものであります。
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