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2016年1月3日(日) 「祈りに導かれ」   使徒10:1-33   竹口牧師

私たち信仰者は神様にお祈りを捧げます。その祈りは、自分の為であったり、人の為であったりします。中でも特に人の為の祈りは、互いに共通の課題として取り上げて祈り合っているのであります。
が、その他に各個人で祈りに覚えて祈る事も少なからずあるのであります。
そして、その様な個人的に覚えて祈っている人の事は、その本人に対して直接、「私は、あなたの為にこういう事を祈っていますよ」 などという事はあまりしません。
心のうちに覚え、神様が最善をなして下さるようにと願って祈り続けるのであります。この様に祈りには、祈りの友が自分の為に何を祈ってくれているか分かる場合もありますが、知らない部分もあるわけです。
そして、実はそう言った隠れた祈りにも強く支えられて、今の私達がある事を感じないわけには行きません。友人、知人はともかく、まだ見た事のない人の為に、或いは世界にいるクリスチャンの為に祈る事すらありますし、また祈られてもいるのであります。そして祈られている人が、その事に気付いている、あるいは気付いていないに関係なく神様は、真実な祈りには答えて下さるのであります。

さて今朝は、コルネリオという人とペテロという人、お互いが全く知らない存在であったにも拘らず、しかも、二人はそれぞれ全く別の祈りをしていたと思われるのですが、神様はこの二人が祈っているその祈りの中で語りかけ、また会わせ、そしてコルネリオとその家族を救いへと導いて下さる部分を今回見ようとしているのであります。
この出来事は、救いがユダヤ人だけでなく異邦人へと本格的に大きく門が開かれて行くきっかけとなる箇所でありまして、この書の重要な部分の一つでもあります。この記事は、10章の最初から11章18節までと非常に長く続きます。従って今回はまず、10章33節までを見ることにしまして、後は次回に委ねる事に致します。
とは言いましても、今朝の聖書箇所も大変広い範囲ですから、まず最初に大まかな流れをお話してから、具体的な話しに入りたいと思うのであります。

第一番目の部分は、1-8 節までで、コルネリオという人の見た幻の事が出ております。また第二番目は、9-16節までで、ペテロの見た幻の事が出ています。更に第三番目は、第一番目と第二番目とを結び付ける人の事、つまり、コルネリオとペテロとを引き合わせる、即ち、コルネリオの使いの者の事が、
17-23 節までに出ております。そして第四番目は24節から最後の33節までで、ついにペテロとコルネリオとが出会い、神様の不思議な導きを確かめ会う所で終わるのであります。
まず最初は、コルネリオという人、あるいはその人が見た幻に付いて述べておきましょう。このコルネリオという人は、イタリヤ隊というユダヤの警備に派遣されたローマの歩兵隊の百人隊長でした。新約に出てくる百人隊長はみな好意的に書かれていますが、今回のコルネリオも例外ではありません。
「彼は敬虔な人で、全家族と共に神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と2節にありまして、極めて信仰深い人であった事が分かります。彼は異邦人の中で割礼こそ受けていませんでしたが、聖書の教える信仰を持っておりました。
当時のローマ帝国は、反ユダヤ的な傾向を持っていました。そうした中で、信仰を持つ事、あるいは持ち続ける事はなかなか勇気、あるいは信仰を要求された事でありましょう。

軍人に要求される事は、いつでも上官に服従する事であり、部下に対しては良き指揮者でなければなりません。そしてこの場合、それはいつもローマ帝国にとってどうかが問われていたのであります。そんな中で、彼はしっかりと信仰を持ち続けておりました。
彼は、いつも祈りをしていましたが、ある日の事、午後3時頃、幻の中で、
はっきりと神の御使いを見ました。現在は、神様のお言葉である聖書が完結していますので、神様が祈りの中で、幻を通して語るというような事はなさいませんが、この聖書の時代には、その方法を用いられたわけでありました。
神様は彼の祈りの中で、このように語り掛けられました。
4節「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上ぼって覚えられています。」とであります。コルネリオにとって、何と言う光栄な事でしょうか。

ところで、新約時代から時は400 年少々遡りますが、旧約聖書のマラキ書を読みますと、「わたしがあなた方の為に、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」と言われるほどに、ユダヤ人達の信仰は落ち込んでいた時がありました。
主に対する捧げ物は形式化し、かつ不正が行われていたのであります。しかし、イエス様がこの地上に来られ、今や昇天なさってさほど経っていないこの時代にあって、ユダヤ人ではなく異邦人が、特にコルネリオという人が、ユダヤ人に多くの施しをし、いつも神様に祈りを捧げていたとは、何と素晴らしい信仰の持ち主であったことでしょうか。
イエス様がおられた時、ユダヤ人達の行いに関して数々の間違いをイエス様は指摘なさっておられました。しかし、このコルネリオは、異邦人であったにも拘らず、真の神様に祈りを捧げ、ユダヤ人に対しては憐れみの心を持って、施しをしていたのでありました。
しかしそんな彼にも神様の前になお足らないものがあったのであります。それは、イエス・キリストによる救いでありました。そしてそれを神様は彼に与えようと働かれるのであります。
かつてパウロがクリスチャン迫害の為にエルサレムからダマスコへと目指して行った時、そこにアナニヤを神様は用意しておられました。或いは又、カンダケの高官がエジプトからエルサレムに礼拝に来て、その帰り道にピリポを向わせられたのと同様に、コルネリオの前にも神様はペテロを用意しておられました。
幻の中で神様は御使いを通してコルネリオに言われました。
「さあ今、ヨッパに人をやってシモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれます。」とです。(使徒10:5)また11章14節を見ますと更に、
「その人があなたとあなたの家にいる全ての人を救う言葉を話してくれます」と語られました。
彼は、御使いの立ち去った後すぐに、その言葉に従ってヨッパへと使いを出すのであります。神様の約束を信じて、それに素直に聞き従う人は、なんと幸いな事でしょうか。
その人は神様が約束を実現して下さるという期待と共に、喜びで満たされていた事は疑う余地はありません。不信仰な者ほど、神様の言葉に信頼せず、自分の考えに固執し、平安がないのであります。

詩篇91:15 にこういう御言葉があります。
「彼が私を呼び求めれば、私は、彼に答えよう。私は苦しみの時に彼と共にいて彼を救いに彼に誉れを与えよう。」と。また
エレミヤ33:3節にはこうあります。
「私を呼べ。そうすれば、私は、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事をあなたに告げよう。」とであります。

コルネリオは、神様に向かってどんな祈りを捧げていたのでしょうか。また、どの様な思いで、ローマの百人隊長である彼が、ユダヤ人達に施しをしていたのでしょうか。神様のみがご存じであります。
私達は、自分の信仰に自信がない時、あたかも神様のみ力をも小さく見てしまいがちです。しかし実際のところ、私たちの信仰の強さ、弱さに関係なく、神様は約束を必ず実現されるお方です。あるいはまた果たされる力強いお方なのであります。
それ故に、望み得ないようなその時でも、神様の絶対的な力を信じて、期待する。これが本当の信仰の姿ではないでしょうか。
今、この時点で、コルネリオがどの様な思いで使いをペテロの所に出したか考えてみていただきたいのです。彼は、主が自分にどんな事をして下さるのか、期待に溢れていたのではないでしょうか。

ところで、場面は変わりますが、コルネリオの使い3人が途中1泊して、いよいよ目指すヨッパの町に近くなった頃の事であります。ヨッパでは、ペテロは祈りの時間となり、屋上へと上って行くのであります。
ユダヤ人は、日に3度、朝9時、昼12時、午後3時に祈りを献げていました。丁度昼時でありましたので、ペテロは腹が減っていた様でありまして、階下に食事の用意を頼んでおいて、祈り始めたのですが、そのまま夢心地になってしまいました。

ここで余談ですが、祈りについて私の失敗談を申し上げますなら、恥ずかしい事ですがいろいろあります。中でも、祈りながらそのまま眠ってしまったという事もその一つであります。これはもしかしたら、私だけの経験ではないかもしれません。
聖書をひいて自分の失敗を正当化するわけではありませんが、かつて弟子達に対して、イエス様はゲッセマネの園において、「目を覚まして祈っていなさい。」と言われた時、彼等は疲れて祈る事ができず眠ってしまった、と言う事がありました(マタイ26:40 )。疲れた時であっても、変わらずに祈る事はなかなか大変なことであります。

ところで、今回のペテロの場合、彼の肉体的な弱さから、祈りながら、この様な夢、あるいは幻を見るに至ったのかというと、まんざらそうでもなさそうです。なぜなら、先ほど見ました様にコルネリオに神様が働き掛けられた後の事ですから、この場合、ペテロに対しても神様が働いておられた。そのように思われるからであります。
たまたま、ペテロは昼時の祈りの時間で腹が減っていたので、食べ物の夢を見てしまったというのではないのです。
ところで、彼が見たその幻はこうでありました。天が開けており、大きな敷布の様な入れ物が、四隅を吊されて地上に降りてきました。その中には、地上のあらゆる種類の4つ足の動物や這うもの、また、空の鳥がいたとあります。
空腹のペテロに「さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえ、「主よ、それは出来ません。私はまだ一度もきよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」とペテロは答えるのであります。
元来ユダヤ人には宗教的にきよい物と汚れた物とがありました。
詳しくはレビ記11章を御覧いただきたいのですが……。
今回ペテロは幻の中において、その降ろされた入れ物の中に汚れた物があるのを見て食べる事を断わりました。すると、その様なペテロに「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という言葉が返って来たのでありました。しかもこの様な事が3回もありました。
その後その入れ物はすぐに天に引き上げられたのであります。ユダヤ人達は決して汚れているとされている物を食べようとはしません。旧約時代は、律法によって規定され、彼等はそれを守っておりました。
しかし、新約時代に入ってイエス様は、「外側から人に入って、人を汚す事の出来る物は何もありません。人から出て来る物が、人を汚すものなのです(マルコ7:15)。」と言われて、元来汚れた物と言われていた物も神によって今やきよめられた物であるとされました。

しかし、それはまだまだユダヤ人の間には理解されていなかったのであります。そしてペテロも同じく汚れた物は食べてはならないと言う考えから抜け出してはいませんでした。当時のユダヤ人達は、食物だけでなく異邦人をも汚れた者としてみておりました。民族的、人種的偏見があったのであります。
そして、実は、その事に対して、救いに関して言いますなら、「ユダヤ人も異邦人も違いはない」と言う事に気付かせるのが、この幻の重要な点であったのでした。しかし、ペテロは尚も「今見た幻は一体どういうことだろう」と思い、また惑うのでありました。
私たちが現在見る夢とは、質的に全く違ったものですから、即ち、神様の意図があったのですから、ペテロが自分の見た幻にこだわり続けるのには大変意味があったと言えましょう。
ペテロは思い惑っておりました。
そこにコルネリオの使い3人が現れました。
そしてその両者をうまく結び合わせるために、聖霊が働かれ、こう言われたのであります。19節「見なさい。3人の人があなたを尋ねて来ています。さあ、下に降りて行ってためらわずに、彼等と一緒に行きなさい。彼等を遣わしたのは私です」と。
互いに知らない者同士を引き合わせ、そこに神様の不思議な導きを感じながら共に夜を過ごし、あくる日彼等はカイザリヤに向かったのであります。
一方、カイザリヤの方では、コルネリオが親族や親しい友人達を呼び集め、シモンと彼を迎えに行った者を待っていました。彼は期待に胸が膨らんでいたことでありましょう。

神様の言葉を心待ちにして待ち望む。
信仰者として何と言う素晴らしい態度でしょうか。
「主よ。お語りください。しもべは聞いております。」という積極的な受け身の態度は、私達の信仰生活の中で失ってはならない大切な態度と言えましょう。
ただ、25節に在りますように、「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足元に平伏して拝んだ。」というのは少し行き過ぎであるような気が致します。ですから、ペテロはすかさず「お立ちなさい。私も一人の人間です。」と言わざるを得なかったのであります。
礼拝すべきは、語る人ではなく、その人を用いておられる、つまりその背後におられる真の神様でなければなりません。ペテロの冷静な行動は、説教者の見本であり、コルネリオが神様の言葉を早く聞きたいと言う姿勢は、聞く側のよい見本であると言えましょう。
さて、祈りの中で導かれたコルネリオ。そしてペテロ。彼等は互いに顔と顔とを合わせて、神様の導きを確認し合うのであります。
そこには、不思議な神様のお働きがありました。
ペテロにとって今や、「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法に適わない事。」という考えは、幻によってはっきりと打ち砕かれておりました。
コルネリオは、自分の遣わした者が無事その役目を果たし、お客をお連れしたことで、神様の確かな導きを覚えているのであります。コルネリオとペテロの二人を神様は引き合わせられる事によって異邦人への救いの道が大きく広げられて行く事になり、大変重要な場面を迎えた事になります。

ところで私達はここで、私達それぞれの信仰生活を振りかえってみたいのです。それは、神様との静思の時、つまり、御言葉を読み、静かに祈る時の事であります。私は最初の方で、現在私達には神の言葉としての完結した聖書が与えられていますので、神様は私たちに「幻によって語る事はされない」と言いました。
しかし、だからといって、神様と私達とを密接に繋げる静思の時をおろそかにしてはいけないと思うのであります。幻は与えられない。けれども、神様は御言葉を通して語りかけ、静かに神様の前に祈りを捧げるその祈りの中で、神様ご自身が一人一人に語りかけてくださり、御言葉の確かさと、安心して信じて善いと言う確信とまた、私たちの不信仰とを悔い改めさせて下さるからです。
今の時代は大変忙しい時代です。
何か行動しないと、あるいは目に見える形にしないと非生産的と見られたり、あるいは、時間の浪費と考えられやすいものです。じっとして静かに祈る祈りの姿は、見方によっては、何もしていないように取られがちです。
しかし、実際はそうではありません。
大切な働きの一つなのです。ある人は、「祈りは世界を変える」と言います。
或いは「祈りには力がある」とも言います。祈る事は信仰者として大切な事、決して欠かしてはならない部分と言えましょう。
ですから、神様の前に今までよりも10分でも20分でも多く、否それ以上、時間の取れる人は何時間でも、神様の前に静に祈る事のできる時間を取られる事をお勧めしたいのであります。
時間が多ければ良いと言うものではありませんが、しかし、皆さんの今の祈りの時間、静思の時間を考えて見て下さい。それで果たして十分なのでしょうか。
ここにおられる皆さんが、神様の事を第一として考え、コルネリオの様に、あるいはペテロの様に神様の前に祈る祈りの生活を今以上に確立する事が出来ましたなら、ユダヤ人だけの救いから、大きく異邦人へと開かれて行ったこの画期的な出来事以上に、素晴らしい事を、この今の私たちの時代にも、またこの教会にも神様は行なって下さると私は確信するのであります。
コルネリオは招いたペテロに言っております。
33節途中から読みますが「よくおいで下さいました。今、私たちは、主があなたにお命じになった全ての事を伺おうとして、みな神の御前に出ております。」とです。
そしてやがて、彼の家全体に救いがもたらされるのです。これは、皆さんの家庭も不可能ではありません。ですから祈りましょう。神様の導きを求めましょう。その祈りは「私が語りますから、主よ、聞き給え。」ではなく、「主よ。お語りください。しもべは、聞いております。」そういう神様と自分だけの時間が、今の私たちにもっと必要だといえましょう。
心静かに、祈りの中で、主のみ声に耳を傾けたいものです。
そして、主の正しい導きに、喜んでお従いする者とさせていただこうではありませんか。幸いにして今年の4月には新会堂が完成します。
中でも礼拝堂は、静けさを保つように出来ています。
私は、新会堂の入口に、詩篇46:10の文語訳「汝ら静まりて我の神たるを知れ」を掲げたかったのですが、意匠上無理でしたのでしませんでしたが、気持ちは、あの礼拝堂は、祈りの家、主との対面の場所、神様と語り合う場としたいと考えております。

そこで、時間を気にすることなく、祈ろうではありませんか。
皆さんにとって今年は、祈りに専念する年でありますように、そう願っています。
2016/1/3      使徒10:1-33  祈りに導かれ
私たち信仰者は神様にお祈りを捧げます。その祈りは、自分の為であったり、人の為であったりします。中でも特に人の為の祈りは、互いに共通の課題として取り上げて祈り合っているのであります。
が、その他に各個人で祈りに覚えて祈る事も少なからずあるのであります。
そして、その様な個人的に覚えて祈っている人の事は、その本人に対して直接、「私は、あなたの為にこういう事を祈っていますよ」 などという事はあまりしません。
心のうちに覚え、神様が最善をなして下さるようにと願って祈り続けるのであります。この様に祈りには、祈りの友が自分の為に何を祈ってくれているか分かる場合もありますが、知らない部分もあるわけです。
そして、実はそう言った隠れた祈りにも強く支えられて、今の私達がある事を感じないわけには行きません。友人、知人はともかく、まだ見た事のない人の為に、或いは世界にいるクリスチャンの為に祈る事すらありますし、また祈られてもいるのであります。そして祈られている人が、その事に気付いている、あるいは気付いていないに関係なく神様は、真実な祈りには答えて下さるのであります。

さて今朝は、コルネリオという人とペテロという人、お互いが全く知らない存在であったにも拘らず、しかも、二人はそれぞれ全く別の祈りをしていたと思われるのですが、神様はこの二人が祈っているその祈りの中で語りかけ、また会わせ、そしてコルネリオとその家族を救いへと導いて下さる部分を今回見ようとしているのであります。
この出来事は、救いがユダヤ人だけでなく異邦人へと本格的に大きく門が開かれて行くきっかけとなる箇所でありまして、この書の重要な部分の一つでもあります。この記事は、10章の最初から11章18節までと非常に長く続きます。従って今回はまず、10章33節までを見ることにしまして、後は次回に委ねる事に致します。
とは言いましても、今朝の聖書箇所も大変広い範囲ですから、まず最初に大まかな流れをお話してから、具体的な話しに入りたいと思うのであります。

第一番目の部分は、1-8 節までで、コルネリオという人の見た幻の事が出ております。また第二番目は、9-16節までで、ペテロの見た幻の事が出ています。更に第三番目は、第一番目と第二番目とを結び付ける人の事、つまり、コルネリオとペテロとを引き合わせる、即ち、コルネリオの使いの者の事が、
17-23 節までに出ております。そして第四番目は24節から最後の33節までで、ついにペテロとコルネリオとが出会い、神様の不思議な導きを確かめ会う所で終わるのであります。
まず最初は、コルネリオという人、あるいはその人が見た幻に付いて述べておきましょう。このコルネリオという人は、イタリヤ隊というユダヤの警備に派遣されたローマの歩兵隊の百人隊長でした。新約に出てくる百人隊長はみな好意的に書かれていますが、今回のコルネリオも例外ではありません。
「彼は敬虔な人で、全家族と共に神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と2節にありまして、極めて信仰深い人であった事が分かります。彼は異邦人の中で割礼こそ受けていませんでしたが、聖書の教える信仰を持っておりました。
当時のローマ帝国は、反ユダヤ的な傾向を持っていました。そうした中で、信仰を持つ事、あるいは持ち続ける事はなかなか勇気、あるいは信仰を要求された事でありましょう。

軍人に要求される事は、いつでも上官に服従する事であり、部下に対しては良き指揮者でなければなりません。そしてこの場合、それはいつもローマ帝国にとってどうかが問われていたのであります。そんな中で、彼はしっかりと信仰を持ち続けておりました。
彼は、いつも祈りをしていましたが、ある日の事、午後3時頃、幻の中で、
はっきりと神の御使いを見ました。現在は、神様のお言葉である聖書が完結していますので、神様が祈りの中で、幻を通して語るというような事はなさいませんが、この聖書の時代には、その方法を用いられたわけでありました。
神様は彼の祈りの中で、このように語り掛けられました。
4節「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上ぼって覚えられています。」とであります。コルネリオにとって、何と言う光栄な事でしょうか。

ところで、新約時代から時は400 年少々遡りますが、旧約聖書のマラキ書を読みますと、「わたしがあなた方の為に、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」と言われるほどに、ユダヤ人達の信仰は落ち込んでいた時がありました。
主に対する捧げ物は形式化し、かつ不正が行われていたのであります。しかし、イエス様がこの地上に来られ、今や昇天なさってさほど経っていないこの時代にあって、ユダヤ人ではなく異邦人が、特にコルネリオという人が、ユダヤ人に多くの施しをし、いつも神様に祈りを捧げていたとは、何と素晴らしい信仰の持ち主であったことでしょうか。
イエス様がおられた時、ユダヤ人達の行いに関して数々の間違いをイエス様は指摘なさっておられました。しかし、このコルネリオは、異邦人であったにも拘らず、真の神様に祈りを捧げ、ユダヤ人に対しては憐れみの心を持って、施しをしていたのでありました。
しかしそんな彼にも神様の前になお足らないものがあったのであります。それは、イエス・キリストによる救いでありました。そしてそれを神様は彼に与えようと働かれるのであります。
かつてパウロがクリスチャン迫害の為にエルサレムからダマスコへと目指して行った時、そこにアナニヤを神様は用意しておられました。或いは又、カンダケの高官がエジプトからエルサレムに礼拝に来て、その帰り道にピリポを向わせられたのと同様に、コルネリオの前にも神様はペテロを用意しておられました。
幻の中で神様は御使いを通してコルネリオに言われました。
「さあ今、ヨッパに人をやってシモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれます。」とです。(使徒10:5)また11章14節を見ますと更に、
「その人があなたとあなたの家にいる全ての人を救う言葉を話してくれます」と語られました。
彼は、御使いの立ち去った後すぐに、その言葉に従ってヨッパへと使いを出すのであります。神様の約束を信じて、それに素直に聞き従う人は、なんと幸いな事でしょうか。
その人は神様が約束を実現して下さるという期待と共に、喜びで満たされていた事は疑う余地はありません。不信仰な者ほど、神様の言葉に信頼せず、自分の考えに固執し、平安がないのであります。

詩篇91:15 にこういう御言葉があります。
「彼が私を呼び求めれば、私は、彼に答えよう。私は苦しみの時に彼と共にいて彼を救いに彼に誉れを与えよう。」と。また
エレミヤ33:3節にはこうあります。
「私を呼べ。そうすれば、私は、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事をあなたに告げよう。」とであります。

コルネリオは、神様に向かってどんな祈りを捧げていたのでしょうか。また、どの様な思いで、ローマの百人隊長である彼が、ユダヤ人達に施しをしていたのでしょうか。神様のみがご存じであります。
私達は、自分の信仰に自信がない時、あたかも神様のみ力をも小さく見てしまいがちです。しかし実際のところ、私たちの信仰の強さ、弱さに関係なく、神様は約束を必ず実現されるお方です。あるいはまた果たされる力強いお方なのであります。
それ故に、望み得ないようなその時でも、神様の絶対的な力を信じて、期待する。これが本当の信仰の姿ではないでしょうか。
今、この時点で、コルネリオがどの様な思いで使いをペテロの所に出したか考えてみていただきたいのです。彼は、主が自分にどんな事をして下さるのか、期待に溢れていたのではないでしょうか。

ところで、場面は変わりますが、コルネリオの使い3人が途中1泊して、いよいよ目指すヨッパの町に近くなった頃の事であります。ヨッパでは、ペテロは祈りの時間となり、屋上へと上って行くのであります。
ユダヤ人は、日に3度、朝9時、昼12時、午後3時に祈りを献げていました。丁度昼時でありましたので、ペテロは腹が減っていた様でありまして、階下に食事の用意を頼んでおいて、祈り始めたのですが、そのまま夢心地になってしまいました。

ここで余談ですが、祈りについて私の失敗談を申し上げますなら、恥ずかしい事ですがいろいろあります。中でも、祈りながらそのまま眠ってしまったという事もその一つであります。これはもしかしたら、私だけの経験ではないかもしれません。
聖書をひいて自分の失敗を正当化するわけではありませんが、かつて弟子達に対して、イエス様はゲッセマネの園において、「目を覚まして祈っていなさい。」と言われた時、彼等は疲れて祈る事ができず眠ってしまった、と言う事がありました(マタイ26:40 )。疲れた時であっても、変わらずに祈る事はなかなか大変なことであります。

ところで、今回のペテロの場合、彼の肉体的な弱さから、祈りながら、この様な夢、あるいは幻を見るに至ったのかというと、まんざらそうでもなさそうです。なぜなら、先ほど見ました様にコルネリオに神様が働き掛けられた後の事ですから、この場合、ペテロに対しても神様が働いておられた。そのように思われるからであります。
たまたま、ペテロは昼時の祈りの時間で腹が減っていたので、食べ物の夢を見てしまったというのではないのです。
ところで、彼が見たその幻はこうでありました。天が開けており、大きな敷布の様な入れ物が、四隅を吊されて地上に降りてきました。その中には、地上のあらゆる種類の4つ足の動物や這うもの、また、空の鳥がいたとあります。
空腹のペテロに「さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえ、「主よ、それは出来ません。私はまだ一度もきよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」とペテロは答えるのであります。
元来ユダヤ人には宗教的にきよい物と汚れた物とがありました。
詳しくはレビ記11章を御覧いただきたいのですが……。
今回ペテロは幻の中において、その降ろされた入れ物の中に汚れた物があるのを見て食べる事を断わりました。すると、その様なペテロに「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という言葉が返って来たのでありました。しかもこの様な事が3回もありました。
その後その入れ物はすぐに天に引き上げられたのであります。ユダヤ人達は決して汚れているとされている物を食べようとはしません。旧約時代は、律法によって規定され、彼等はそれを守っておりました。
しかし、新約時代に入ってイエス様は、「外側から人に入って、人を汚す事の出来る物は何もありません。人から出て来る物が、人を汚すものなのです(マルコ7:15)。」と言われて、元来汚れた物と言われていた物も神によって今やきよめられた物であるとされました。

しかし、それはまだまだユダヤ人の間には理解されていなかったのであります。そしてペテロも同じく汚れた物は食べてはならないと言う考えから抜け出してはいませんでした。当時のユダヤ人達は、食物だけでなく異邦人をも汚れた者としてみておりました。民族的、人種的偏見があったのであります。
そして、実は、その事に対して、救いに関して言いますなら、「ユダヤ人も異邦人も違いはない」と言う事に気付かせるのが、この幻の重要な点であったのでした。しかし、ペテロは尚も「今見た幻は一体どういうことだろう」と思い、また惑うのでありました。
私たちが現在見る夢とは、質的に全く違ったものですから、即ち、神様の意図があったのですから、ペテロが自分の見た幻にこだわり続けるのには大変意味があったと言えましょう。
ペテロは思い惑っておりました。
そこにコルネリオの使い3人が現れました。
そしてその両者をうまく結び合わせるために、聖霊が働かれ、こう言われたのであります。19節「見なさい。3人の人があなたを尋ねて来ています。さあ、下に降りて行ってためらわずに、彼等と一緒に行きなさい。彼等を遣わしたのは私です」と。
互いに知らない者同士を引き合わせ、そこに神様の不思議な導きを感じながら共に夜を過ごし、あくる日彼等はカイザリヤに向かったのであります。
一方、カイザリヤの方では、コルネリオが親族や親しい友人達を呼び集め、シモンと彼を迎えに行った者を待っていました。彼は期待に胸が膨らんでいたことでありましょう。

神様の言葉を心待ちにして待ち望む。
信仰者として何と言う素晴らしい態度でしょうか。
「主よ。お語りください。しもべは聞いております。」という積極的な受け身の態度は、私達の信仰生活の中で失ってはならない大切な態度と言えましょう。
ただ、25節に在りますように、「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足元に平伏して拝んだ。」というのは少し行き過ぎであるような気が致します。ですから、ペテロはすかさず「お立ちなさい。私も一人の人間です。」と言わざるを得なかったのであります。
礼拝すべきは、語る人ではなく、その人を用いておられる、つまりその背後におられる真の神様でなければなりません。ペテロの冷静な行動は、説教者の見本であり、コルネリオが神様の言葉を早く聞きたいと言う姿勢は、聞く側のよい見本であると言えましょう。
さて、祈りの中で導かれたコルネリオ。そしてペテロ。彼等は互いに顔と顔とを合わせて、神様の導きを確認し合うのであります。
そこには、不思議な神様のお働きがありました。
ペテロにとって今や、「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法に適わない事。」という考えは、幻によってはっきりと打ち砕かれておりました。
コルネリオは、自分の遣わした者が無事その役目を果たし、お客をお連れしたことで、神様の確かな導きを覚えているのであります。コルネリオとペテロの二人を神様は引き合わせられる事によって異邦人への救いの道が大きく広げられて行く事になり、大変重要な場面を迎えた事になります。

ところで私達はここで、私達それぞれの信仰生活を振りかえってみたいのです。それは、神様との静思の時、つまり、御言葉を読み、静かに祈る時の事であります。私は最初の方で、現在私達には神の言葉としての完結した聖書が与えられていますので、神様は私たちに「幻によって語る事はされない」と言いました。
しかし、だからといって、神様と私達とを密接に繋げる静思の時をおろそかにしてはいけないと思うのであります。幻は与えられない。けれども、神様は御言葉を通して語りかけ、静かに神様の前に祈りを捧げるその祈りの中で、神様ご自身が一人一人に語りかけてくださり、御言葉の確かさと、安心して信じて善いと言う確信とまた、私たちの不信仰とを悔い改めさせて下さるからです。
今の時代は大変忙しい時代です。
何か行動しないと、あるいは目に見える形にしないと非生産的と見られたり、あるいは、時間の浪費と考えられやすいものです。じっとして静かに祈る祈りの姿は、見方によっては、何もしていないように取られがちです。
しかし、実際はそうではありません。
大切な働きの一つなのです。ある人は、「祈りは世界を変える」と言います。
或いは「祈りには力がある」とも言います。祈る事は信仰者として大切な事、決して欠かしてはならない部分と言えましょう。
ですから、神様の前に今までよりも10分でも20分でも多く、否それ以上、時間の取れる人は何時間でも、神様の前に静に祈る事のできる時間を取られる事をお勧めしたいのであります。
時間が多ければ良いと言うものではありませんが、しかし、皆さんの今の祈りの時間、静思の時間を考えて見て下さい。それで果たして十分なのでしょうか。
ここにおられる皆さんが、神様の事を第一として考え、コルネリオの様に、あるいはペテロの様に神様の前に祈る祈りの生活を今以上に確立する事が出来ましたなら、ユダヤ人だけの救いから、大きく異邦人へと開かれて行ったこの画期的な出来事以上に、素晴らしい事を、この今の私たちの時代にも、またこの教会にも神様は行なって下さると私は確信するのであります。
コルネリオは招いたペテロに言っております。
33節途中から読みますが「よくおいで下さいました。今、私たちは、主があなたにお命じになった全ての事を伺おうとして、みな神の御前に出ております。」とです。
そしてやがて、彼の家全体に救いがもたらされるのです。これは、皆さんの家庭も不可能ではありません。ですから祈りましょう。神様の導きを求めましょう。その祈りは「私が語りますから、主よ、聞き給え。」ではなく、「主よ。お語りください。しもべは、聞いております。」そういう神様と自分だけの時間が、今の私たちにもっと必要だといえましょう。
心静かに、祈りの中で、主のみ声に耳を傾けたいものです。
そして、主の正しい導きに、喜んでお従いする者とさせていただこうではありませんか。幸いにして今年の4月には新会堂が完成します。
中でも礼拝堂は、静けさを保つように出来ています。
私は、新会堂の入口に、詩篇46:10の文語訳「汝ら静まりて我の神たるを知れ」を掲げたかったのですが、意匠上無理でしたのでしませんでしたが、気持ちは、あの礼拝堂は、祈りの家、主との対面の場所、神様と語り合う場としたいと考えております。

そこで、時間を気にすることなく、祈ろうではありませんか。
皆さんにとって今年は、祈りに専念する年でありますように、そう願っています。

2016年1月10日(日) 「偏りのない神」   使徒10:34-48    竹口牧師

ある先生がこの様な事を言われたのを覚えています。
「人は皆、神の前に罪人であると言う事に於いて平等である。また、人はみな、イエス・キリストを信じたら救われると言う事に於いても平等である。」とであります。
言われてみますと確かにそうであります。すべての人は神の前に罪人であり、イエス・キリストによってのみ人は救われるのです。この事実を私達クリスチャンは、当然の事として受け取っています。

しかし時を遡ること千九百数十年前、ヨッパの町で祈りをする為に、屋上へと上っていたペテロにとっては、すぐには理解出来ないことでありました。
と言いますのも、ユダヤ人たちは長い間自分達だけが神様に受け入れられ、祝福を受ける資格をいただいているのだと信じていたからです。
ですから、彼等は同胞以外の人々に対しては差別し、異邦人の家に入ったり、食事を共にしたりするという事は汚れる、として避けておりました。ペテロも、その例外ではありませんでした。
しかしその彼も神様のお働きによって徐々に変えられて行くのでありました。ペテロはまず祈っている途中でこんな幻を見ました。これは先回見たのですが10章11-15 節の出来事であります。
ユダヤ人達にとって、「きよい物、きよくない物」と昔から言われている物がありましたが、それらが大きな敷布に一緒に入れられて天から吊り下ろされてきまして、神様がそれを食べなさいとペテロに言われました。すると彼は「主よ。それは出来ません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べた事がありません。」と言って断わったのでありました。
すると、その彼に神様は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言ってペテロを戒められました。彼は、最初その幻が何を意味しているのか分からず、戸惑っておりました。
が、聖霊なる神様のお働きがありまして、そのご命令と導きによって、まだ会ったこともないコルネリオという人に会うために、彼の遣わした使いに招かれてカイザリヤへとペテロは足を運んだのでした。
やがてペテロは、自分を招いてくれたコルネリオというローマから派遣されたイタリヤ隊という部隊の百人隊長に会うことになります。そこで初めて、神様が自分に見せて下さった幻の意図が明確になったのでありました。
そのような状況の中で、今回の34節の言葉へと繋がって行くのであります。
34節にはまずこのようにあります。「そこでペテロは、口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はかたよった事をなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。……』」とであります。つまり、自分が今まで取ってきた行動から一歩踏み出した事を確信したのでありました。

ところで、私の経験談で恐縮ですが、私がまだ学生だった頃のことであります。私は、あらゆる人に平等でありたい。そう思う時期がありました。政治に於いても、宗教においても、であります。人との争いを嫌ったからでありました。
しかし、それは不可能であることにだんだん気付いていきました。なぜなら、多くの人と付き合えば付き合うほど、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、という場面に何度か出くわしたからです。
世の中狭いというのでしょうか。世間知らずだったとでもいうのでしょうか。右と左では想像も付かない程、離れている事にその当時の私はやっと気付かされたのでありました。そして結局のところ、人はどちらかの立場に立たされる事をその時初めて知りました。
そして、クリスチャンになる事は、即ち、他の宗教を否定する事になるということに気が付きました。そこでこれは、私の生き方に反するとして、クリスチャンになるのをためらった時がありました。

もっとも、聞くところによりますと、全ての宗教は良いものであるとして
自分の家の中にそれらを持ち込み、さまざまな神々を祭っている人がいるそうでありますから世の中これまた不思議であります。しかし、私にとって、真理を知ったとき、真の神様と偶像とを一緒にする事の無意味さ、また、一緒にしたり、同じ様に考えたりすること自体、真の神様を冒涜している以外の何ものでもない事を悟ったのでありました。
そして、冒頭の言葉の通り、全ての人は神様の前に罪人である、という事において平等であり、(これは勿論、全ての人は、罪人のゆえに例外なく裁かれるという事を指しているのですが)、それとともに、また神との和解なくして、人との和解も有り得ないという事がだんだんに分かってきたのでありました。
真の神様の愛を十分にいただいた者こそ、どんな人をも分け隔て無く愛し、受け入れられる様になって行くと、そう分かったのであります。真の神様の前に、すべての人が自分の罪を認め、悔い改めるならば、そこにはもはや中立である必要がないのであります。

コロサイ書にはこういう御言葉があります。
3:14に「愛は結びの帯びとして完全なものです。」と。
まさに、聖書の言う通りであります。

さて、ペテロは言っております。
「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫に御言葉をお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」と。そしてペテロはその確信に立って、初めて異邦人にも公に、罪からの救いという素晴らしい福音を語り始めたのでありました。それが38節から43節までに出ております。ここにおられます皆さんにとって、イエス・キリストとはどんなお方でしょうか。
ということで、ペテロが異邦人に対して確信を持って語っているこの福音のエキスをコルネリオと共に聞くことにいたします。
ペテロは、こういう事を言っております。
まず第一番目は、ナザレのイエスと当時呼ばれていた救い主イエス様は、神様が共にいてくださいましたので、あらゆる所を巡り歩いて良い業を成し、また悪魔に制せられている全ての者を癒された、当時の病める者に癒しを与えられたお方であったとであります。
皆さんの中にも悩み、苦しみをお持の方がおられるでしょう。イエス様は現代でも、そういう方の解決者であられます。ペテロは39節で「私達は、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われた全ての事の証人です。」と言って、イエス様のなされた尊い働きを証ししております。そのイエス様は、昔も今も変わる事のないお方であります。

さて次にペテロの言っている第二番目の事は、人々はその方を木に架けて殺したと言っています。木に架けられ殺されるとは、当時のユダヤ人達にとりまして、真に厳しい罰であり、神様の前に呪われた者である事を指しておりました。
イエス様が十字架に架けられた時、多くの群衆は、時の指導者に煽動されたとはいえ、その殆どは、十字架に掛ける事に反対する事もなく、同調したのでありました。罪の無い方を彼等は十字架に架けたのです。
皆さんが、その場所に居合わせたとしたら、果たして間違った判断をしなかったでしょうか。罪ある私達人間は恐らく正しい判断をする事は不可能であったと思われます。

さてその次に取り上げたいのは第三番目40節41節にあるのですが、「しかし、神はこのイエスを三日目に甦らせ現われさせて下さいました。」と言っている点です。つまり多くの人々の前に現れて下さった。その甦りは、単なる姿を現されたと言うだけではありませんで、弟子達と一緒に食事をされたと言う事実でありました。
食べたり飲んだりしたというこの証言は、イエス様は確かに甦られた、という事をペテロは自分の身をもって体験し、証ししているのであります。本来ならユダヤ人という同胞にしかこの福音を語らないペテロが、今や神様の導かれるままに異邦人であるこのコルネリオとその家族、また、彼の友人達に
堂々とその福音を明らかにしたのでありました。
この福音は、ペテロの確信でもありましたし、また現在の私達クリスチャンにとっても確信であります。ペテロは42節でこう言っています。
「イエスは、私たちに命じて、このイエスこそ、生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方である事を人々に宣べ伝え、その証しをするように、言われたのです。」とです。

死んでもう終りではありません。
この世を楽に苦労もなく終わればそれが一番最高であり、全てであると思われがちですが、しかしそうではありません。最後には必ず裁きがあるのです。
そして永遠と言う時の中を生きなければなりません。
イエス様こそ正に、生きている者だけでなく、死んだ者をも裁く裁き主なのです。そしてその裁きを必ず実行なさる方なのです。私たちはどの程度、この事を実感しているでしょうか。

世の中には、常に新しい物が生み出され、絶えずその新しい物に目を向けさせられています。更には、その新しい物であたかも十分に楽しんでいるかのように見えます。
しかし新しい物を次から次へと見せられるものですから、そこには満足感と言うものはありません。ある一つの事が満たされた時、更にそれを越えた新しいものがまた次に出現するのです。
ですから、満足するはずもありませんし、いつまでもこの豊かさが続くとは考えられません。必ずや、今の繁栄の裏返しが来ることも事実でありましょう。その時、皆さんはどうされるのでしょうか。
この世の終りが確実に近付いています。私たちの死も同じように迫っています。生きている者も、死んだ者も分け隔て無く、裁く方がおられ、やがてその方が来ようとしておられるのであります。
私たち皆が、いつでも、どの様な時でも、裁き主の前に恐れる事なく立つことができるのでしょうか。そのことのできる備えというものがあるのでしょうか。その備えは大丈夫なのでしょうか。

ペテロは、43節で続けて言います。
「イエスについては、預言者達もみな、この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」とであります。
「私ペテロが言うだけでなく、昔の預言者達もみな言っている事なのだ。」
そして、「この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられるのです」とペテロはいうのです。

パウロは、ローマ10:12-13でこう言っています。
「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、全ての人の主であり、主を呼び求める全ての人に対して恵み深くあられるからです。」とです。

ユダヤ人とはペテロ達を指しますし、ギリシャ人とはユダヤ人以外の人々、つまり彼等から見れば私たちも異邦人の一人なのです。その私たちをも救いについて言えば、何の差別もないというのです。国籍、人種、なんら差別はありません。ペテロの内にあった選民意識はこうしてだんだんに変えられつつありました。
さて、ペテロは神様に導かれて、コルネリオなどを前にして福音を語っているうちに、回りの人々が驚く様な事が起こりました。それは福音を聞いた者が異言を話し、神様を賛美する様にされた事でした。
これは、割礼を受けている信者にとっては理解できない事でした。異邦人も自分達と同じ恵みに預かるのだとペテロは話し、その事は割礼を受けている信者達も受け入れているはずでした。
ところが、45節の出来事が実際に起った時、彼等は驚いたのでありました。「異邦人にも聖霊の賜物が与えられるとは、一体どういう事だろう。」とであります。この光景は、かつてのペンテコステの日に起った事と同じようでありました。
ペテロが34節で「これで私は、はっきり分かりました。神は偏った事をなさらず、どの国の人であっても神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」と言いましたが、この目に見える形で起った事によって、彼は更に確信を与えられたのでありましょう。
異邦人にも、目に見える形での聖霊の賜物が下るのを見たという事実は、ペテロの説教の具体化であり、また神様のユダヤ人に対する実物教育であった。そういうことができるでしょう。
ペテロは言いました。47節、「この人達は、私達と同じ様に、聖霊を受けたのですから、一体、誰が、水を差し止めて、この人達にバプテスマを受けさせないようにする事ができましょうか。」と。そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼等に命じたのでした。
実に神様はペテロとコルネリオの両者の祈りの中で幻を通して語りかけ、二人を引き合わせ、救いはユダヤ人だけのものではなく、全ての人に及ぶことを示されたのでした。

私達は、この開かれた恵みをどの様に生かしているのでしょうか。
私達は、この偏りのない神様をどこか誤解している点はないでしょうか。
救いが全ての人に開かれている事と、全ての人が救われる事とはまた別である事に私たちは注目しなければなりません。
偏りのない方という事は、救い主イエス・キリストを信じる人と信じない人との間には何の差別も、条件もないと言う事であります。神様が用意してくださった救い主を信じる様にという共通の事実があるだけであります。
そして裁きにおいては、公平に両者を裁かれるのです。
ユダヤ人から見れば私達日本人は、異邦人ですが、ユダヤ人と救いにおいて全く区別されない事は素晴らしい神様の恵みであります。そしてその恵みに預かっているか、いないかは大変重要な点であります。
どんなに開かれた門であっても、それに入れていただかなければ、それは、
神様が開いておられる救いの門が、その人にとって何の意味も持たないからであります。
ペテロは、イエス・キリストの福音を手短に要約して語りました。
それは恐らく、初めて会ったコルネリオとは言え、彼はローマから派遣され、
百人隊長としての任務を果たしている人でしたから、ユダヤで起った事など全て把握していると取っていたからでありましょう。

では、現在の私たちはどうでしょうか。私たちは、神様の前にどういう存在なのでしょうか。イエス・キリストという方が、私たちにとってどういう方か、聖書を通して知っているのでしょうか。よく知っている筈なのであります。
ペテロの言葉を聞いている人々に聖霊が下られたように、罪の赦しの必要を正しく認めている人々に聖霊がお働きになって、イエス様を救い主として信じる事が私たちにとって具体的な応答と言えましょう。
ペテロはコルネリオ達に、聖霊の働きを受けた者はバプテスマを受けるようにと命じました。イエス・キリストを信じ、神を賛美する者に、もはやバプテスマを授ける事を妨げる理由などありませんでした。

偏りのない神様が開いて下さっている恵みの中に、彼等は入れていただいたのであります。同じように皆さんの中で恵みに与かっておられない方は、神様の導かれるままに恵みの中に入って頂きたいものです。
生きている者と死んだ者との裁き主であられるイエス・キリストを救い主として受け入れていただきたいものです。死んでからでは遅いからです。
一方、すでにその恵みに預かっている私達クリスチャンは、かつてイエス様がペテロに対して人々に宣べ伝え、証しする様にと命じられましたように、私達にも、この偏りのない神様の事を伝えるようにと命じておられるといえましょう。

数々の特権が与えられている私たちですが、それを本当に生かし、主に用いて頂こうではありませんか。

2016年1月31日(日) 「神のなさること」   使徒11:1-18    竹口牧師

神様のなさる事は、私達の理解や思いを越えていて、大変素晴らしいものであります。救いについて考えて見ましても、どの様な人が救われるのか、私達で決める事は出来ませんし、分かりません。
例えば、イエス様が十字架に掛けられた時に、丁度時を同じくして十字架に掛けられた二人の強盗がおりましたが、彼等の内の一人は救われ、一人は救われませんでした。
また、時をもっと遡り、出エジプトの時代のことですが、エジプトを出たイスラエルの人達は大勢おりましたが、結局、約束の地に入る事の出来たのは、ヨシュアとカレブだけでありまして、他は、荒野で生まれ育った人たちがあのヨルダン川を渡りました。
更にはイエス様がご自分の弟子として12人選ばれた人達の中には、金持ちで親切で有名な人というよりはむしろ、貧しい漁師であったり、人々から嫌われていた取税人であったりしました。
この様に、神様はどの様な人を選び、どの様に用いられるのか、私達には分りません。しかし、私達は神様が最善を成して下さると信じて御名を褒めたたえるのであります。

神様はなぜ、救いの初穂としてイスラエルの人を選ばれたのか誰も知りません。イスラエルの人達は自分達がアブラハムの子孫だから、とそう考えてでしょう。自分達が救われるのはさも当然の事としておりました。又そんな彼等でしたからユダヤ人だけでなく、異邦人にも救いが与えられますと、今回の聖書箇所の最後の18節で「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、命に至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』と言って神をほめたたえた。」のでありました。
この様に、彼等にとって驚きでしたが、私達にとっても神様のなさる事は、よく分からない部分がありまして驚かされるのであります。取り分け、私達の人生の中で最大の驚きといえば、私たちが罪人であり、何の功もない者であるにもかかわらず、神様の恵みによって、イエス・キリストが身代わりの死を遂げて下さった事によって「救われた」という事ではないでしょうか。
世界には多くの人々がいます。それなのになぜ、イスラエルの人が選ばれたのか。また、異邦人である私達が選ばれ、救われたのか。これは言わば他人事ではなく、自分自身に直接結び付いた事柄ゆえに喜びもまたひとしおであり、また驚きなのであります。
これは、救われた者しか味わう事の出来ないものであります。そして、そういう私達がまだ救われていない人々を見る時に、人々の前に高慢になる事なく、謙遜でいる事は勿論ですが、神様の前にも従順でありたいものであります。

さて、今回の聖書箇所は、すでに救われた人達が、後から救われた人達の事で、ペテロに対して詰問する場面であります。それは、次のような状況の中で起ったのであります。
地中海に面した重要な港町カイザリヤに、イタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリオという人がおりました。彼は熱心に真の神様に祈りをささげ、ユダヤ人に多くの施しをしておりました。
ある日の事、いつものように彼が祈っていますと、そこに幻の中で、神様は「ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい」と語られたのであります。主の言葉に忠実だった彼は、使いを早速出しました。
一方、ヨッパの方ではシモン・ペテロが祈りのために屋上に上っていました。そして、その祈りの中で不思議な幻を見る事になります。その幻の模様は、今朝の聖書箇所の5-10節にも記されております。そしてまもなく神様の導きによりまして、ペテロと百人隊長コルネリオとは出会い、ペテロは福音を語ったのでした。
するとどうでしょうか。彼等に聖霊が下られ、イエス・キリストよる救いの恵みに与ったのでありました。そんな彼等を見たペテロは、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるようにと命じました。そしてこの一連の状況はいち早く、使徒達やユダヤにいる兄弟達の所へと伝わって行くのでありました。

ところがです。
この事実に、ある人達は問題を感じるのであります。
それは、キリスト者の中でも割礼を受けた者達でありました。
もっとも、割礼を受けた者達と言いましましても、ペテロも割礼を受けていましたし、彼と共にヨッパからカイザリヤに行った兄弟達も割礼を受けていましたので、「割礼を受けた者全部」という訳では決してありません。
つまり、同じ割礼を受ながらも、特に気持ちの上で、その割礼を「重んじる」あるいはまた「大切にしたい」という思いのクリスチャン達であった訳でありました。
その人達は、ペテロがエルサレムに上ってくるのを今か今かと手ぐすねを引いて待っていたのであります。そしてそのペテロがエルサレムに着きますと、待ってましたとばかりに、まずこう言って非難をしたのでありました。
3節「『あなたは割礼のない人々の所へ行って彼等と一緒に食事をした。』」とであります。この彼等の言葉だけを見ますと、一緒に食事をした事が問題になっている様に見えます。

2節の終りの部分を見ますと、「割礼を受けた者達は、彼を非難して……」とありますから、もっと強く直接的に言っても良さそうでありました。例えば、何故ユダヤ人にではなく異邦人に御言葉を語ったのかとか、
なぜ異邦人にバプテスマを受ける様に、と言ったのか、とか、
であります。
そうしますと、自分達は、神様に選ばれた特別な民として、異邦人とは違うのだという思いがはっきりしてくる様な気が致します。しかし彼等割礼を受けた者達は、何かとても婉曲的にとも思える仕方で非難をしているのであります。という事は、そこには何か深い問題が横たわっていた事を指しているのであります。
では一体、彼等にとってペテロのした事の何が問題だったのでしょうか。
もう一度3節を読みますと「あなたは割礼のない人々の所に行って、彼等と一緒に食事をした」とあります。
これは即ち、こういう事であります。
カイザリヤで起った良き知らせはよくよくその経緯を聞いて見ると、異邦人の方が会堂へ来て求道したのではなく、ペテロの方からわざわざ彼等の所に出掛けて行ったという事、しかもその家に入り、更には彼等と共に食事をし、そして福音を語ったと言う点でありました。
この事実に対しては確かに、10章28節で、ペテロ自身が言っています様に「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法に適わないこと」で避けるべきであった、と告白しています。
なぜなら、ペテロはその時まで、他の厳格なユダヤ人達と同じ様に、異邦人の家に入っても汚れる、とそう考えていたからです。しかも入るだけでなく、食べることについても言いますと、律法できよい獣と汚れた獣との区別が定められていまして、汚れた獣の肉や偶像に供えたお下がりの肉や、あるいは血の残っている肉などを食べる事は硬く禁じられていたからです。
ペテロ達が自分から異邦人の所へ行き、家に入り、しかも彼等の作った料理を食べる事など非常に危険極まりない事をしたとして、問いただした訳でありました。従いまして、ペテロはこの点について、事細かに説明し、理解してもらわなければならなかったのでありました。
ペテロの行為は、エルサレムの人々を驚かさずにはおれませんでした。これまでは、ステパノやギリシャ語を使うユダヤ人達が民衆の敵意を招いたとしても、使徒達はみんなから相当な好感をよせられていました。
しかし今回の出来事は、使徒仲間の指導者自身が異邦人と親しく交わり始めたという知らせによりまして、その好感も吹き飛んだのでありました。事実、ペテロがエルサレムに上った時は、とても歓迎された事でありましょう。
そんな風だったのかも知れません。
従って、ペテロは真剣に自分のとった行動について皆に同意を得なければならなかったのであります。
しかしまた、この説明は、神様のなさった働きの数々を明らかにする事にもなって行くのでありまして、決して自分の単なる体験談では終わらないのであります。

ではそのペテロが話した事とは何だったでしょうか?
私はそれを3つに要約して見ました。
第一番目には、彼自身も考えていました様に、汚れた物は食べてはならないという今までの考えの変更でありました。
神様は言われました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」とでありました。これは勿論、宗教的に食べてよい、食べてはいけないという区別が無くなったという点もさることながら、ユダヤ人と異邦人との間にも、救いについての区別が無くなった事を指していました。しかし、この時点ではまだその事に彼は気付いていませんでした。
ですから第二番目は、自分は異邦人に招かれていたのですが、相手が異邦人だけにためらいを覚えたのでありました。しかし、ここで、御霊なる神様がお働きになり、一緒に行く様にと命じられたという事でありました。
第三番目には、着いた先では、ペテロが福音を話してくれるという神様のお言葉があったというので、ペテロが彼等に話していますと、丁度あのペンテコステの時に起ったと同じような事が起きたのであります。即ち、聖霊が彼等の上に下ったのでした。
この3つの出来事のどれ一つを取って見ましても、真の神さまの働き以外に何があるだろうとペテロは話します。そして彼は死から甦られたイエス様がかつて言われた言葉を思い出しました。
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。」とであります。これは早くも五旬節の日に成就していました。
しかし、ペテロはコルネリオの家で起った事を見て、異邦人達が異言を語り、神を賛美するのを聞いているうちに、このキリストの言葉が新たに思い起こされ、今、それがもう一度改めて成就した事を感じ取ったのでした。
ペテロは自分のとった行動の結論として最後にこう締め括りました。「こういう訳ですから、私達が主イエス・キリストを信じた時、神が私達に下さったのと同じ賜物を、彼等にお授けになったのなら、どうして私などが神のなさる事を妨げることができましょう。」と。
異邦人でも、ユダヤ人との区別なく、御心に適う人を神様は救って下さった。これは、彼等にとって素晴らしい恵みでありました。神様のなさること、それを私たちは全部を理解する事はできない、と最初の方で言いました。それ故に、神のなさる事に従順であるようにとも言いました。
勿論、全知全能の神様は、私達がどうこうしたからといって、ご自分の計画を変更される様なお方ではない事はご承知の通りです。今や、神の選民であるユダヤ人から、全世界の人々へとイエス・キリストの救いの福音の輪がまさに一歩踏み出したのでありました。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」という天からの声があった時、ペテロは驚きましたし、選民と言う特権意識から抜け切れないでいるユダヤ人にとっても、自分達に与えられた祝福が同じ様に異邦人にも及ぶという事は、およそ考えも付かなかったことでありましょう。
「割礼のない人の所に行って、彼等と一緒に食事をした」という非難をした彼等は、単なる食事の問題あるいは人種差別、或いはその偏見という次元の事ではなく、割礼は彼等にとって、宗教的な死活問題に関わっていたのでした。
それゆえに、彼等はペテロを非難しましたし、ペテロの説明を聞いた時は驚きまた変えられて御名を讃える者とされたのでした。しかし、正直に言いますと、この問題は、今後も大きな問題として議論されて行くのであります。

勿論ペテロが異邦人に伝道したとか、異邦人が救われたとかという点ではありません。人は信仰によってのみ救われるのか、
それとも信仰と共に律法を守る必要があるのか、という点であります。
しかし、今回は何はともあれ、割礼を受けていない異邦人達が、かつてペンテコステの時に与えられたと同じ聖霊を受けたという出来事によって、救いは割礼のある無しが問題ではない事を証明したのでありました。
ペテロは言いました。
「私達が主イエス・キリスト信じた時、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのならどうして私などが神のなさる事を妨げる事が出来ましょう。」とであります。
人間の先入観とか伝統であるとか、また生活感情とかを越えて、私達の考えもつかない次元において神様は、ご自身の計画を進めておられたのであります。従って18節において、人々はペテロの言葉を聞いて沈黙し、「それでは、神は命に至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って神様をほめたたえるに至るのであります。

疑問、誤解の解けた時の解放感、なんという素晴らしい事でしょうか。
二つのものが一つになる。主の御名をみんなで心からほめたたえる。
これは主によって皆の心が一つにされた事から受ける喜びであります。
時の流れの中で、神様はご計画を着々と進められておられます。その中で、知恵の浅い私達は、一つの出来事を捉えてああでもない、こうでもないと考え議論します。場合によっては分裂さえしかねません。
ペテロと言う当時の指導的な立場にあった彼にでさえ、面と向かって言える状況にあったことは、当時の教会がどんなに開かれていたと言えるでしょうか。
使徒ペテロは決して当時の教会内で、「誤り無き教皇」のような絶対的権威の座を占めてはいなかったのであります。
「ペテロ」も非難されました。それも使徒仲間ではなく、ただ「割礼を重んじる者たち」一般からさえ、非難されたのでした。教会がいつでも真理に立ち続けるには、これは大切な一つのプロセスであり、これがないと間違った方向に暴走しかねないものです。
色々と議論した後で、或いはその中で神のなさった事実に触れた時、決して自分達が非難した事の面子を気にする事なく、神を褒め称える事へと変えられて行くのは素晴らしい事であります。真理に気付いた時、素直にその事実を認める事は大切だからであります。
願わくは、神様のなさる新しい事に、御言葉に照らし合わせて導かれたいものです。
ペテロは言いました。
「神が私達に下さったのと同じ賜物を彼等にもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさる事を妨げる事ができましょう。」とです。
ペテロに与えられた賜物、それをコルネリオ達が受けました。
その賜物は罪を悔い改めた時、イエス様が罪を赦して下さっただけでなく、御霊によるバプテスマを授けて下さったという事、聖霊が信じた者の内に宿って下さるという事であります。それが現在の私達にも与えられているのです。
ですから、当時のコルネリオ達が異言を語ったと言う、外に示された現象が賜物と言っているのではありません。聖霊が信じた者の内に宿って下さる。この素晴らしい賜物を、キリスト信者は豊かに与えられているのであります。これは神様のなさることです。
あの人に与えられて、私には与えられない。そういうことはありません。
神様は求める者、信じる者に、豊かに与えて下さるのであります。
ですから、私達は神様のなさることを、肯定的に感謝して受入れ、前向きに進んで行きたいものです。これから益々予測のつかない不確実な混乱した時代へと突入していく私達です。異端との戦い、違った教えや間違った教えが教会に入り込みそうになる危険は、昔も今も変わりません。それ故に神様のなさる事は何かを真剣に求め続けて行く事は大切だと言えましょう。またそれは、問われ続けていくのであります。

世界に目を向けながら、信仰の目をもって「神様のなさること」をしっかりと正しく捕えて主の御心だけを行なっていく者としていただきましょう。










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