7月20日 ヨハネの福音書13:31-38「互いに愛し合いなさい」

導入

イエス様と十二弟子の最後の晩餐の場面に入り、13章の最後に来ました。前回の箇所ではユダが裏切り、夜の時が訪れるところまで見てきました。この裏切りによって、イエス様の逮捕、裁判、そして処刑への準備が進められることになります。しかしイエス様は、来るべき十字架の時を恐れるのではなく、弟子たちに対してご自身の栄光と絶えることのない愛を教えています。イエス様が進まれる道は、十字架によって終わりを迎えるのではなく、父なる神様と同じ栄光を受ける道へと繋がり、絶望ではなく希望を与えます。そして、イエス様は弟子たちに愛し合うことを教えます。十字架を前にして、イエス様はご自身が愛の模範となり、それを互いに行うよう導かれます。イエス様の語る栄光と愛が具体的にどのようなものであるか、そして、その教えを受けた私たちがどのように行うべきなのか、聖書を追いながら共に見ていきましょう。

本論

1.栄光

裏切りをイエス様に指摘され、イエス様の愛の招きを拒んだイスカリオテのユダは、闇夜の中へと飛び出していきました。迫りくる夜の時を迎えたイエス様は、その時を受け止め、十字架による栄光へと目を向けます。ユダが出ていき、十字架の計画が実行されたときに、今栄光を受けたとイエス様は宣言されました。かつて父なる神様とともにあったイエス様の栄光は、この十字架の苦しみと恥辱の中で最も輝くのです。イエス様が31節でご自身のことを「人の子」と表現されています。人の子という称号は、ダニエル書にて主権と栄光と国を与えられるお方として描かれているように、栄光と関連づけられていますが、一方で福音書においては、この称号は苦難と関連付けられて描かれてもいます。人の子はこの世で拒絶され、枕をする所もない苦難を受ける者として人間的権威と対立する描写がされています。栄光と苦難、ヨハネの福音書においてこの二つが結びつけられ、人の子という言葉の中に、イエス様の十字架の真理を表しています。イエス様は、世を救うために十字架の死にご自身を委ねるという完全な従順をお示しになります。そして十字架という完全なる従順さによって、父なる神様に栄光が返されることになります。そして、神様が子なるイエス様によって栄光を受けるのならば、イエス様が父なる神様によって栄光を受けることも同じように真実です。父なる神様と子なるイエス様の栄光は、分けられることのないつながりがあります。それはつまり、十字架の栄光と復活の栄光のつながりをも意味しています。イエス様は、身近に迫る十字架を通して、父なる神様の栄光をお示しになるだけでなく、十字架からの復活と昇天によってご自身も栄光を与えられます。栄光は自分自身の手によって得られるのでなく、このような父と子のつながりのうちに明らかにされていくのです。イエス様は、人となってこの世に来られましたが、世界が創造される前から父とともに持っていた栄光を、十字架によって再び与えられます。

2.愛し合う

 イエス様はご自身がこれから辿る道とその先の栄光を語った後、その視線を弟子たちに向けます。イエス様は33節で「子どもたちよ」と呼びかけていますが、これは原文のギリシャ語ではteknionとなり、イエス様や使徒、教師が、弟子たちや霊的な子どもたちに対して親しみと愛情を込めて語り掛ける時に使われる言葉です。福音書の中で唯一この箇所でのみ用いられている言葉であり、イエス様が弟子たちと離れる前に、愛をもって33節からの言葉を残していることが分かります。

 イエス様がまず語ったのは、イエス様が天に上げられるということです。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることが出来ない」という言葉は、ヨハネの前の箇所で、イエス様と敵対するユダヤ人や指導者たちに向けても語られていました。しかし、イエス様はユダヤ人たちに対しては「見つからないでしょう」と語られたのに対し、弟子たちにはそのように語りませんでした。今はまだイエス様を見出せなくとも、イエス様の用意した場所へと迎え入れられる時が訪れます。弟子たちがこの言葉の意味と、十字架の意味を正しく理解するのはまだ先になりますが、イエス様はご自身がおられない間に彼らが守るべき戒めをここで新しく語ります。

ヨハネ 13:34  わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ 13:35  互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 イエス様が語ったのは、とてもシンプルな教えでした。この戒めが新しいのは、今までにこのような教えがなかったということではありません。愛についてはモーセの律法にも次のように記されています。

レビ 19:18  あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしはである。

 またイエス様ご自身も、主を愛することと、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという二つの戒めが大切であり、すべての律法がこの命令に集約されていると教えておられました。この戒めは、わたしがあなたを愛したように互いに愛し合うことに新しさがあります。晩餐の前に率先して身を低くして、弟子たちの足を洗った愛、そして人の姿となって十字架にかけられ、死によって罪を贖った愛、イエス様という模範を通して示されたこの愛を、今度は互いに行うようにと教えておられます。この新しい戒めによって、これまでの戒めが意味をなさないわけではありません。自分のように隣人を愛するところから超えて、私たちのために命を捨てて下さったイエス様の愛をもって、私たちが人を愛することにつながっていくのです。また、イエス様が示された愛が模範となるだけでなく、父なる神様と子なるイエス様の間に存在する愛が、イエス様を通してこの地上にある私たちの間に反映されるのです。父と子の間にある深いつながりと愛は、両者の間で終わるのではなく、イエス様と私たちの間にも広がり、決して切り離すことのできない結びつきを与えます。神様は、イエス様をお与えになったほどに世を愛されました。私たちは、この愛を受けるだけではなく、またお互いに愛を与えることが出来るのです。そして、この愛が互いの間にあるならば、この世は、私たちがイエス様とともにいることを認めるようになります。イエス様の愛はさらに広がり、この地上に愛が示され、イエス様を知らない人々をイエス様へと導き、そうでないすべての人々にもイエス様を表すことになるのです。兄弟姉妹の間で示された愛が、この世界に対して真の神を宣べ伝えていきます。イエス様は、ご自身が離れた後に残される弟子たちに、この愛を守るように命じました。

3.ペテロ

 イエス様の愛の教えを受けた後、ペテロは先ほどのイエス様の言葉に引っかかり、その答えをはっきりと求めました。

ヨハネ 13:36  シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

ヨハネ 13:37  ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」

 ペテロもまた、かつてのユダヤ人たちと同じように、また他の弟子たちと同じように、イエス様が行くところについてまだ理解していませんでした。イエス様はその問いかけに答えませんでした。神の子羊として、世のすべての罪を背負い、贖うことが出来るのはイエス様だけです。イエス様だけが神様の栄光を完全に世に表し、世界が創造される前から持っていた栄光を回復することが出来ます。イエス様はペテロが後について来ることを語りますが、ペテロはその時を待つことを拒み、素朴に、躊躇なく、今ついて行けないことへの不満をぶつけます。ペテロの言葉から、いのちを捨てるまでの覚悟があるように見えますが、イエス様はペテロ自身も知らない心の脆さと、これから歩む道筋を最後までご存じでした。

ヨハネ 13:38  イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 ペテロの表面的な覚悟は、後の箇所で砕かれることが分かります。ペテロの言葉は、イエス様とその犠牲が絶対的に唯一である事を知らなかっただけでなく、いのちを捨てようとされるイエス様に対する高慢さを含まれています。十字架の死によって目的を成し遂げようとされるイエス様への理解が及ばないペテロですが、イエス様はペテロが失敗から立ち直ることそして羊の群れを牧する務めを委ねられ、最後には、イエス様について来ることになることを知っておられました。ペテロは今、イエス様の十字架の道について来ることは出来ません。彼が自分の思いと力でイエス様を守り、その命を捨ててまでついて行こうとしても、人の思いは簡単に崩れてしまいます。しかし、そのような弱さを知っておられるイエス様にとどまり、心から信頼し、導かれることで、本当の意味でイエス様について行くことが出来ます。ペテロを含めた弟子たちは今、その信仰を持っていませんが、後にイエス様の真の弟子へと変えられていきます。

適用

 13章に入り、十字架の前の最後の晩餐へと場面が移り、ここまでイエス様と弟子たちの間の大きなやり取りを見てきました。ここからさらにイエス様から弟子たちへの教えが広がっていきます。その導入としてイエス様は、弟子たちや私たちに愛を示されました。13章の始めには、イエス様が世にいるご自分の者たちを最後まで愛しておられたことが記されています。そして食卓についてイエス様は、奴隷の仕事であった足を洗う行為を弟子たちに行い、愛の模範を示されました。十字架の時がはっきりと決まったユダの裏切りの場面においても、パン切れを浸して与え、愛の招きを示されました。そして今回、互いに愛し合うことを新しい戒めとして与えました。イエス様が十字架の前にここまで愛を示されたのは、弟子たちが優秀だったからではありません。ユダは裏切り、弟子たちは逃げ出し、ペテロはイエス様を三度も否定することになります。彼らの弱さと、これから訪れる苦難を誰よりも知った上で、イエス様はその身を低くして彼らを愛して下さいました。そしてその愛をもって、今度は私たちが互いに愛し合うように招かれます。

 イエス様が愛したように、私たちも愛し合いなさいと命じられるとその基準の高さに驚くこともあります。地上での日々を送ると、愛することが難しい人と出会うこともあります。イエス様は、裏切り者や否定する者を愛されましたが、私たちも同じように出来るかと言われると難しさを覚えることがあります。しかし、この愛の新しい戒めは、ただ私たちに無理難題を押し付けているのではなく、私たちを父と子の愛の交わりへと招いて下さっています。決して失われることのない、父なる神様と子なるイエス様の間にある完全なる愛が、私たちにも広がり、その中へと導いて下さるのです。それは人間が抱える自己中心的な愛ではなく、他者に向かって注がれる真実の愛です。自己を犠牲にし、誰よりも低くへりくだり、自分の命を捨ててまで私たちを救って下さった愛です。私たちは、自分たちの中から愛を生み出すのではなく、すでに神様から十分に愛を注がれていて、今も神様の豊かな愛の交わりへと加えられています。この真実の愛に満たされる時、神様と私たちの間にあった愛が、兄弟姉妹へと広がっていきます。そして兄弟姉妹へと広がった愛の交わりの中に、すべての人がイエス様の弟子であることを認めるように導かれます。この世にはない、神様による真実の愛、それが人々に神様を証し、そして人々をイエス様の御許へと導く道筋となります。

結論

イエス様が私たちに示された愛が、私たちのうちに満たされることを願います。肉的な思いや自己中心的でない、神様の真実の愛の中で兄弟姉妹が愛し合えますように。そして、この愛の交わりがさらに広がっていくことを願います。世の中に目を向けると、神様の真実の愛が必要なところが多くあります。また、本当の愛を求めている人も多くおられます。私たちのうちにある愛が、神様の栄光が多くの人に注がれますように、神様の導きを求めてまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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