11/9 ヨハネの福音書16:1-15「助け主があなたのところに」

ヨハネの福音書でイエス様は、弟子たちとのやり取りの中で様々なことを教えました。イエス様との別れの時が近づく中で、弟子たちは何度もイエス様に「どこに行かれるのですか」と問い続けました。そしてイエス様は、不安を覚える弟子たちに何度も、これからのことと、ご自身がどのようなお方であるのかを教え、残される弟子たちを導くために御言葉を残しました。イエス様は今回の箇所で、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる」と語ります。十二弟子たちだけでなく、今を生きる私たちにも、信じるすべての人のもとに与えられる助け主がおられます。イエス様が天に昇られてから2000年経った今、イエス様はこの地上におられませんが、この助け主なる聖霊が、主として私たちとともにいて下さるのです。この聖霊が来られたことにどのような意味があるのか、そして、私たちがこのお方によってどのような恵みに与ることが出来るのか、共に教えられたいと思います。

本論

前回の箇所では、世の迫害や憎しみについて見てきました。世のものでなく、イエス様のものとして選び出された使徒を始めとするクリスチャンは、罪に満ちた世においてイエス様の証し人として立つことが出来ます。真理の御霊である聖霊とともに、イエス様が証しされていくことで、世からイエス様というぶどうの木にとどまる人が起こされるのです。

イエス様が十字架にかけられる前に、世の迫害や憎しみを語ったのは、イエス様が離れた後に弟子たちが試練に立ち向かい、つまづくことがないようにするためでした。つまづくという言葉は、信仰から離れるという意味で、罠という意味もその中に含まれています。これからは世における迫害によって、弟子たちがイエス様から離れるように仕向けられるようになります。この時にはすでに、パリサイ人たちがイエス様をキリストだと告白する者は会堂から追放するように決めていました。そしてイエス様が天に昇られた後も、弟子たちはユダヤ人たちによって激しい攻撃を受けながら、福音を各地に広めていました。中にはステパノのように、殉教した使徒もいます。また、多くの迫害を受けながら働きを続けた使徒パウロも、回心する前は宗教的な動機によって教会を迫害し、人々を牢に入れました。弟子たちに襲い掛かった迫害は、ユダヤ人たちによる宗教的な動機によるものでした。

信仰に熱心な彼らがなぜ御子なるイエス様と、その弟子を迫害するのか、それは彼らが父もイエス様も知らないからだとイエス様は断言します。イエス様を信じず、神様の奉仕のためにイエス様も弟子たちも迫害するユダヤ人たちは、実は父なる神様を本当の意味で知らなかったのです。神様を知るということは、イエス様を遣わされた方として受け入れ、信じることなのです。イエス様を拒んだこの世は、イエス様だけでなく使徒たちや後のクリスチャンたちに敵意を向けます。しかし、そのような時にイエス様が語られた御言葉は、残された使徒たちを力づけるのです。イエス様は、世が弟子たちを憎む時に、その心が備えることが出来るように、そして御言葉を思い出すことが出来るように、警告の言葉を残されました。そして、イエス様によって遣わされる助け主が、迫害の中で使徒たちの証しが弱められることがないように助けて下さるようになります。助け主もまたイエス様を証し、使徒たちとともにイエス様を伝える働きに立って下さることをイエス様は約束してくださいました。

イエス様がこの試練の時の話を弟子たちにしたのは、十字架の死と栄光を受ける時がすぐそこに近づいていたからでした。イエス様が弟子たちと共にいる時は、イエス様ご自身が世の憎しみを一身に受けておられました。しかし、イエス様が彼らと共にいる時は過ぎ去り、彼らを残して遣わされた方のところに行こうとします。5節を見ると、弟子たちが「だれも、『どこに行くのですか』と尋ねません」とあります。何度もイエス様に対して「どこに行くのですか」と尋ねた弟子たちは今、長い沈黙の中でイエス様の言葉に耳を傾け、その心に悲しみを抱いていました。イエス様が自分たちのもとから離れること、そして離れた後に世からの迫害が来ること、彼らにとってこれから訪れる時は望ましくないようにしか見えません。

イエス様は悲しみに満ちた弟子たちに対して、警告と同時に慰めを与えます。

John 16:7  しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

イエス様は再び助け主を遣わすことを約束されました。ご自身が去ることは悲しみに終わらず、むしろ私たちにとって喜びとなり、益となり、罪によって歪んだ世において必要なことだと強調されています。イエス様が去ることは、助け主である聖霊が私たちのところに来ることになります。これは単純に、イエス様が聖霊に立場を譲って引き継ぐ辞任のような意味でなく、イエス様が十字架で死に、復活し、天に昇り、父なる神様の右の御座につくときに、より偉大なことを可能にする積極的な出来事なのです。イエス様と弟子たちに迫害が向けられるこの世において、イエス様の祝福がもたらされる確かな約束が与えられ、残される弟子たちへの慰めとなります。

イエス様がここで再び聖霊を遣わす約束を語られたのは、この世における聖霊の働きと、世との関係を教えるためでした。

John 16:8  その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

John 16:9  罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

John 16:10  義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

John 16:11  さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

聖霊を指し示す「助け主」という言葉は、paraklētosというギリシャ語から日本語に訳されたものです。このparaklētosとは文字通り直訳すると「傍らに呼ぶ」となり、そこから「助け手」「執り成し手」という意味を表したり、法的な意味合いで「弁護人」や「証人として他者を助ける者」という意味を持つ言葉です。しかしそれだけでなく、ここでは法的な意味合いをさらに広げて、罪を告発する検察官としての役割を担っていることが分かります。この聖霊が世において働きかけるのは、世の過ちを明らかにすることです。この「明らかにする」という言葉は、厳密に言うと「罪を告発する」「暴露する」「誰か、または何かが恥ずべきものであることを明らかにする」といったように、より否定的な意味合いを含みます。ただ証拠を並べて有罪とするだけでなく、その罪を明らかにし、世を非難し、罪を自覚させるように聖霊が働くことを表しています。イエス様は、世の光として来られたことで、世の行いが悪であることを示し、イエス様を受け入れる者と拒む者とで二つに分け、光と闇を明らかにしました。そのイエス様の業を、聖霊も世に対して働きかけるのです。

聖霊が世を告発し、過ちを明らかにするものとして、ここでは罪、義、裁きの三つが上げられています。

一つ目の罪について、9節では「彼らがイエス様を信じない」からだと記されています。世が罪ありとされるのは、イエス様とその御言葉を受け入れるかどうかによるのです。人々が自己を中心として歩み、イエス様から離れて拒むところに罪の根源があります。世に属することを選び、まことのぶどうの木であるイエス様から離れることは、永遠のいのちの道から離れるということです。罪は、私たちと神様との関係、そしていのちの道を断絶することであり、聖霊はこの世において罪の現実をはっきり示されます。

二つ目に聖霊が責めるのは義についてです。義について誤りを明らかにするというのは一見すると矛盾しているように見えるかも知れません。ここでの義というのは、罪や裁きと並べて同じ位置に置かれていることから、神様の義とは異なる、世の人々が持つ義を指していることが分かります。そして人の持つ義は神の義と区別され、その義は不十分であることが聖書で度々語られています。

Rom. 10:2  私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。

Rom. 10:3  彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。

Phil. 3:9b  私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

世における義は、イエス様を攻撃し、クリスチャンを迫害しました。しかしイエス様は十字架にかけられた後、復活し弟子あっちの目に見えない父なる神様のもとに帰り、栄光を受けたことでご自身の義を証明されました。

最後に三つ目はさばきについて語られています。ここに登場するこの世を支配する者というのは、世の背景にいるサタンを指しています。イエス様がピラトの法廷で死刑判決を言い渡された時、イエス様がさばかれ、死によって敗北したと考えました。しかし、この十字架はイエス様でなく、サタンがさばかれる場所であり、イエス様は復活することによって勝利し、そのことを証明しました。ここでイエス様は世を支配する者が「さばかれた」と完了形で語ることで、サタンに対するさばきがすでに成し遂げられ、確実なことであることを教えます。

イエス様はこれらの三つの言葉を、それぞれイエス様との関係において定義しています。罪とはイエス様を拒むこと、義とは神様がイエス様のためになされ、神様が定めること、そしてさばきとはイエス様の十字架によって成し遂げられたことです。

そしてこれらはイエス様の公生涯の間だけでなく、聖霊が来られることによって世における過ちが明らかにされていくのです。聖霊はイエス様を証し、聖霊が住んでいるすべての弟子たちを通して世の中に福音を広げていきます。イエス様が地上を離れた後も、聖霊は世に対して働き続け、世に対して罪を確信させるのです。

イエス様は世における聖霊の働きを語りました。しかしイエス様は、語ろうとしていることがまだたくさんあるにも関わらず、弟子たちにすべてを伝えようとはしませんでした。弟子たちは悲しみのうちにいるだけでなく、イエス様の死とその理由をまだ悟ることが出来ずにいました。彼らがまだイエス様の言葉に耐えられないことを知ったイエス様は、ご自身の口から語るのではなく、聖霊の導きに委ねます。

John 16:13  しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

聖霊が私たちを導くのは真理であり、イエス様ご自身のことです。イエス様がどのようなお方かということ、イエス様の御言葉と行動、そしてその出来事のうちにある御心が、聖霊を通して私たちに教えられるのです。弟子たちはやがて、イエス様が父から遣わされた御子である事、罪を贖った救い主であることを完全に理解するようになります。それは、イエス様が天に上げられた後、聖霊が降ったことによって、真理の御霊に導かれて教えられたためであり、そこから使徒としての働きが始まりました。

さらにイエス様は、御霊は自分の言葉でなく、聞いたことをすべて語るお方であることを語ります。イエス様もまた同じです。イエス様は、自分の独断や意志によって語ったり、行動したりせず、父の御心に従順に語り、行ってきました。イエス様は父なる神様の啓示そのものであり、この世で神様との完全な一体性を表しました。御霊もまた、神様に対して完全に従順であり、一体性を持っているのです。神様への完全な従順による一体性を持つ聖霊が、イエス様の栄光を現わし、イエス様の御言葉と行いの真理を明らかにします。父なる神様と御子なるイエス様、そして真理の御霊である聖霊の結びつきと完全な一体性によって、私たちはその御心とイエス様のうちにあった神様の栄光を見ることが出来ます。これから起こるイエス様の十字架の死と復活、天に昇られた出来ついて、弟子たちは聖霊に導かれて正しく理解し、そして聖霊と共にイエス様を証しする福音の働きに仕えることになります。イエス様が語る益は、まさに聖霊を通して与えられるこれらの助けと導きに他ならないのです。

適用

聖書の時代から2000年以上経った今、私たちの住む地上にはイエス様も使徒たちもおりません。聖書を読んでいると、イエス様が今の時代にこの場にいたなら、私もイエス様のいた時代に生まれていたら、そのような思いが起こるかも知れません。しかしイエス様は、ご自身が地上から離れ去ったことで、私たちの益となったと語ります。私たちのところに聖霊が来られた今が、より良いとされました。イエス様の地上の生涯は、一度に一つの場所に限定されていました。しかし今、聖霊を通して全世界のすべての信じる人のうちに主が生き、大きく広がり続けています。聖霊は教会の歴史の中で、イエス様の働きをより深く導き、福音をさらに多くの人と場所に届けました。

そしてイエス様を憎み、迫害するこの世において、聖霊は助け主としてイエス様を証し、イエス様へと人々が立ち返るように働きかけます。私たちは助け主と共にイエス様を証しする者として立つことで、イエス様がなさったように世の罪を明らかにします。助け主が私たちを通して、この世においてイエス様を現わし、その光のもとに人々を招いて下さるのです。

助け主であり真理の御霊なる聖霊と共に、世の歩みを進めてまいりたいと思います。父なる神様と、御子なるイエス様と、真理の御霊である聖霊が、ひとつとなって私たち一人一人のうちに生きて働いて下さいます。世において試練の中歩む私たちを助け、イエス様とその御言葉を伝え、導いて下さる聖霊が、いつも私たちとともにいます。光を感じられない世の中で、イエス様の栄光を現わす真理の御霊が、確かに遣わされ、私たちを祝福に満たして下さいます。父と子から遣わされた助け主に信頼し、心を合わせ、共にその恵みに与りましょう。                 

About the author: 東御キリスト教会

Leave a Reply

Your email address will not be published.