導入
今日のエジプトから、荒野へと脱出する場面で、イスラエルの民は本当に神様を必要と感じました。神様どこにおられるのですか。助けてくださいと叫んだことでしょう。まさにこれがイスラエルがおかれた状況でした。何のために、ファラオの残酷な支配から解放されたのか。紅海と、頑なになり、憎しみに狂ったファラオに率いられた、地上最強のエジプト軍との間に挟まれて、身動きが取れませんでした。
「神様、なぜこんなことを許されるのですか?」「エジプトに留まっていたほうが良かった」
と言う民の心をモーセは、主に向けさせました。神様がこの状況を完全に支配しておられ、偉大なこと、驚くべきことを用意しておられることをモーセは知っていたのです。
神様はイスラエルの民を御自身の歴史上最も偉大なみわざの目撃者とするおつもりだったのです。そのお力は、あらゆる試練、あらゆる状況から私たちを救い出すことのできる偉大なお力でした。
本題
では、読み進めてまいりましょう。
神様はモーセに、雲と火の柱に導かれて進んでいたイスラエルの民の進む方向を変え、引き返して紅海のほとりに宿営するよう奇妙な指示を命じました。そこは、ナイル川河口の東にあるバアル・ツェフォン の手前で、またピ・ハヒロスに面したところで、ミグドルと海の間でした。奇妙ですが細かい指示でした。イスラエルの民はすでに荒野の端に達しており、ホレブ、つまりシナイ山へ向けての行軍を開始する準備ができていました。そこで人々は神様を礼拝し、その後約束の地カナンへと向かう予定でした。しかしここで神様は人々に方向転換し、海辺に宿営するよう命じたのです。なぜ神様はイスラエルの民に後戻りさせ、海辺に宿営させようとなさったのでしょうか?それには目的がありました。
神様は、イスラエルの民が海と荒野の間で迷って閉じ込められたとファラオに勘違いさせたかったのです。なぜなら神様は、イスラエルの民が海辺に陣を敷いていると、ファラオが偵察隊からの報告を聞き、すぐに彼らをそこに挟み込めると言うにちがいないと確信します。そして、無防備で無力な状態だから、捕まえて、エジプトへ連れ戻し、イスラエル人がエジプト脱出時に持ち去った莫大な富とただで使える労働力を取り戻せると考えると分かっていたからです。
神様は、エジプト人の偶像崇拝という恐るべき悪と、神の民を奴隷として使い、虐待したファラオとその軍隊に裁きを下そうとしていました。
それにより神様は、彼らが礼拝し従っている神々、人の手で作られた偽りの神々はファラオとその軍隊を救い出すことができず、さらに、主がエジプト人を裁くのを止めることも神々にはできないことを分からせたいと願ったのです。そして、ファラオと全軍勢を全滅させることによって主が栄光を現わされ、御自身が主であり、唯一の真の救い主であり、生きておられるまことの神であることをエジプト人にわからせようとされたのです。
民が去ったことが告げられると、ファラオとその家臣たちは後悔し、神の民を解放するという考えを変えました。エジプトの経済は、神様がファラオとその民に裁きを下すために多くの災いを起こされたことによって、大きな打撃を受けていましたので、エジプトは国を再建する必要がありました。そのうえ、労働力と富を失った穴埋めをしなければならなりませんでした。イスラエル人男性だけで60万人以上いましたので、家族も含めれば、200万人以上の奴隷の労働力を失ってしまったことは大きな損失でした。
そのようにして神様はファラオとエジプト人の心を頑なにされました。
その結果ファラオは、選り抜きの戦車600台に加え、エジプトの全戦車を動員し、全ての戦車を指揮する補佐官を配置しました。それに加え、騎兵隊とその支援部隊も動員し、神の民に対する大規模な軍事作戦でイスラエル人を追跡し、彼らが海辺に宿営していた場所に追いつきました。
ファラオの軍勢はイスラエルの人々に襲いかかるような恐ろしい勢いで迫っていましたから、さぞ恐ろしかったことでしょう。怖気づくことなく、神様の御手に支えられてエジプトから出て行ったイスラエルの民でしたが、地平線のかなたに迫り来る世界最強の軍隊を見たとき、何の防備もない民は恐怖で震え上がり、主に向かって助けてくださいと叫びました。そして民は、神様の指導者モーセを非難して、不平を言い、神様に背きました。モーセを責めて、エジプト軍に殺されるために荒野へ導いたのかと訴えました。エジプトにいたときモーセに「われわれのことにはかまわないでくれ」と頼んだではないかと、非難し、「荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかった」と言い放ちました。
神の民は絶望感に襲われ、肩を落とし、あきらめムードになっていました。女性や子供もいました。無防備な民が、地上最強の軍隊に今にも襲われようとしていました。救いの出口は見えず、暗い絶望だけでした。そこで彼らは神の指導者モーセを責め、非難したのです。少し前に確信した、神の救いと解放の力強い御腕の希望を忘れてしまったのです。
しかしモーセは心の平静を保ちつつ、神の民に三つの激励をして挑戦させる言葉を叫びました。
恐れてはならない。しかし神の民の前には荒れ狂う海、後ろには猛烈に攻めて来る軍勢が迫ります。数えきれないほどの兵士や騎兵や戦車が彼らに向かって来て、逃げ場がありません。取り囲まれていました。どうして恐れないでいられましょう。このような絶望的な状況です。恐怖に駆られるのは当然です。しかし神の使者は「恐れてはならない!」と叫びます。
神の民に対する第二の激励と挑戦は、最も困難なことでした。それは、「しっかり立って、主の救いを見なさい」でした。立っている神の民の目の前には、迫って来る世界最強の軍隊です。自然な反応だったら、どこへでも走って逃げ出します。しかし神の指導者は叫びました。「静まり、立ち止まって、主の救いを見なさい」。そしてモーセは神の約束の驚くべき真理を宣言しました。それは敵であるエジプト人が滅ぼされること。また主ご自身があなたがたのために戦われること。だから、ただ静かに立ち止まり、しっかり立って見ていなさいと言ったのです。
結論
絶体絶命の時でも脱出の道はあります。ファラオが追ってきても、イスラエルの民は神様が望まれる場所にいたのです。ですから神様は必ず民を救い出されます。危機に瀕していたのは単なる命ではなく、神様の栄光でした。ですから神様はどんなことをしてもそれを守られます。ですからイスラエル人がすべきだったのは、人々に仕えておられる神様の本質を思い起こすことでした。それは神様は常に最善の道を知っておられ、民を助けるために常に忠実であり、導くために常に共にいてくださるということでした。それよりもまして、神様の目的を思い起こす必要がありました。それは栄光あるご計画に従い、すべてのことを必ず成し遂げられるということでした。
モーセはこれらすべてをしっかりと確信していました。だからこそ、民が荒野と海に挟まれた時、何をすべきかを正確に知っていたのです。それによって「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。【主】があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」という言葉が出てきたのです。この「恐れてはならない。しっかり立って、ただ黙っていなさい」という命令の「恐れてはならない」という言い方は、「してはならない」という最も強い言い方でした。ですからモーセがイスラエルの民に「恐れてはならない」と言った時、彼は慰めていたのではなく、「しっかりしろ、おそれるな」と、叱る調子で励ましていたのです。彼らが恐れる理由などないのだから、恐れるなどとんでもないことだと告げていたのです。彼らに必要だったのは、ただその場に立って、神様が何をなさるか静かに信頼して待つことだけでした。
多くの一般的な戦いの状況ではこの助言は適切ではありませんが、ここで効果があったのは、イスラエル人のために戦ってくださるお方がいたからでした。主なる神様が彼らと共にいて救ってくださるのです。主こそが彼らを守る戦士であり、彼らに必要なのはただ立ち止まり、救ってくださるのを見るだけでした。この戦いにおいて彼らは戦う兵士ではなく、単に見守る人々でいればよかったのです。
この原則は、罪から私たちが救われる時にも当てはまります。逃げたり、自分で何かしようとするのではなく、ただ立ち止まり、神様が私たちを救ってくださるのを見て、信頼し待っているだけでよいのです。神様が教えてくださっているのは、私たちの行いにより、何ができるかではなく、十字架と空になったお墓の出来事を通してキリストがなされたみわざ、つまり救いの恵みです。イエス・キリストは私たちが救われるために必要なすべてを成し遂げられました。そして罪を贖ってくださり、神様の怒りを除いてくださり、私たちの信仰への賜物として完全な義、つまり神様からご覧になって完全に正しい状態を与えてくださり、復活するいのちへの道を開かれたお方です。「救われるためには何をすべきか」と問われるなら、答えは「何もする必要はない」です。イエス様が成し遂げてくださるのです!私たちはただイエス様を信じて救いをイエス様に求めるだけでよいのです。
イエス様を信じたら、私たちは信仰を保ち続ける必要があります。私たちは霊的な戦い、信仰の戦いの只中にあり、その戦いにおいて使徒パウロはエペソ6章13節で「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」と語り、「信仰の大盾と、救いのかぶとと、御霊の与える剣」で神様が救ってくださることを信じて堅く立つように、励ましています。悪の力との戦いにおいて、私たちはイエス様に助けていただいて、神様が困難から救い出してくださるのを待つ必要があります。
じっと待つことは非常に簡単なことだと思うでしょうが、それを身につけるには、時間がかかります。待つことは、私たちが困難から救われる時には最も難しいことのようです。苦難の只中で主の平安に立つことは、長い経験を経なければできにくいことかもしれませんが、待つことによって大きな祝福をいただくことができるのです。
神様の救いを待ち望むときに静かな心を保つのは難しいので、この出エジプトの場面のように、私たちは逃げ出したり、恐怖に襲われて叫んだり、自分で解決しようかと誘惑されることも起こるでしょう。しかし神様は私たちにそこに立ち続けるよう命じられます。神様は私たちを救い出そうと望んでおられます。ですから私たちは堅く立ち、諦めず、屈服することなく、逃げ出さないようにしなければなりません。私たちは不動でいなければならないのです。立ち止まり、神様の力強い御腕が私たちを救い、解放してくださるのを待ち望むのです。恐れてはならない。状況がどれほど厳しく、問題がどれほど恐ろしく、状況がどれほど絶望的で自分が無力に見えても、私たちは決して恐れや不信仰に打ち負かされてはなりません。神様こそ私たちを守ってくださるお方、守護者です。これが真理であり、ここで強く教えてくれています。荒野と海の間に追い詰められても、ただ静かに神の救いを待つだけでよいのです。
アブラムは、主が告げられたとおりに、ハランの地を出て行きました。そこには神様への信頼と素直な信仰がありました。神様を信頼する時、悩んでいる時の荒波が収まり、心が静かになるのを経験します。私たちの人生には様々な困難や、節目となる時がありますが、神様を信頼し、全てを委ねて、歩んでまいりましょう。

