序
イエス様が十字架から復活されたことをお祝いするイースターから2週間が経ちました。前回は、イエス様の復活の場面と、そこに立ち会ったマリアの姿をともに見てきました。イエス様の復活は、ただこの地上にいる人たちの間にその姿をお見せするだけで終わるのではなく、天に上られて栄光に満たされることによってそのみわざが完了します。私たちはイエス様の十字架の死、復活、そして昇天によって完全に神様と和解される道が開かれていき、喜びに満たされます。イエス様の復活は、他ならない私たちのために示された神様からの希望と恵みなのです。
今回の箇所では弟子たちの前にイエス様が姿を現します。彼らもまたイエス様の復活に喜びますが、イエス様はただ復活されたご自身の姿を現すだけではなく、彼らにこれからの道を示されました。イエス様がマリアに出会った時とはまた違った、弟子たちの地上の歩みのために御言葉を残され、そして今を生きる私たちにも語りかけています。復活されたイエス様が示された道がどのようなものなのか、ともに見ていきたいと思います。
本論
マリアから知らせを受けたその日の夕方、弟子たちはイエス様を十字架に付けたユダヤ人たちや祭司長たちを恐れていました。戸に鍵をかけて、依然として困惑しながら弟子たちは閉じこもっていました。マリアの報告を受けたとはいえ、彼らの心はまだイエス様による希望や平安が与えられてなく、むしろ、イエス様の遺体が持ち去られたという噂が流されたことによって祭司長たちを含めるユダヤ人からの目を恐れていました。困惑と恐れ、それぞれがそのような感情を抱えて閉じこもっていた空間の中にイエス様が現れます。それも扉から入ってきたのでなく、真ん中に立って現れたのです。イエス様は墓から出られた際にも、体に巻き付いていた亜麻布や頭の布をそのままにしていました。復活されたイエス様の体は、十字架にかけられる前の体とは違って霊のからだであり、物理的な空間にさえぎられることなく、自由に動くことができました。復活されたからだがどのようなものなのか、私たちはイエス様を通して教えられます。
締め切った扉や壁をまったくものともせずに弟子たちの真ん中に立ったイエス様は、「平安があなたがたの上にありますように」という言葉をもって彼らに語りかけました。これはユダヤ人にとっては挨拶として交わされることばでした。しかしここでは挨拶以上に深い意味をもって弟子たちに語られました。不安と困惑、恐れに満たされていた弟子たちの心に対して、イエス様から与えられた慰めと励ましの御言葉です。彼らはイエス様が十字架にかけられる前、どこまでもイエス様に従ってついて行く覚悟を示しました。しかし、大勢のローマ兵と祭司長たちの下役たちの姿を見て、イエス様を残して逃げてしまいました。そして十字架の場面ではほとんどの弟子が隠れており、そして今も人々を恐れて閉じこもっています。イエス様はそのような弟子たちを見て、彼らを責めることなく、彼らの心にイエス様からの平安を注がれました。
そうしてイエス様は、ご自身が刺された手と脇腹を示されます。イエス様が突然、奇跡的に彼らの間に現れたため、弟子たちは「幽霊を見たかと思い、驚き、恐れました」イエス様は触れることができる肉体を含めて、ご自身が今現実に彼らと共にいることを確信させました。十字架の釘の跡が残る手の傷は、十字架にかけられた者としての証拠を示します。そしてそれだけでなく脇腹に残された傷は、イエス様ご本人であることを証明します。イエス様の復活のからだを見た弟子たちは、悲しみから喜びへと変えられ、イエス様の復活を心に受け止めることができました。イエス様が十字架にかかられる前に語られた「しばらく」の間は過ぎ去り、苦しみを終えて、約束されたようにイエス様は贖い主として、救い主としてのその姿をはっきりと示されたのです。
主の姿と傷跡を見て心から喜んだ弟子たちを見たイエス様は再び御言葉をもって語りかけます。
John 20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
ユダヤ人たちを恐れていた弟子たちに対して、イエス様は死に打ち勝ち、救い主としてその御姿を示されました。そして今度は弟子たちが出て行って、与えられた使命を果たすようにと命じます。イエス様が遣わすときに、父がわたしを遣わしたようにという言葉を付け加えます。父なる神様の御子イエス様が、人々を救う救い主としてこの地上に遣わされ、天からこの世に来られたように、弟子たちもまた同じように遣わされていくのです。ここで父が私を遣わされたようにという言葉には、ただイエス様の代わりに弟子たちがなるのではなく、そのイエス様の使命は継続し、そして彼らの奉仕において実を結ぶようになるのです。全く新しい働きを始めるというのではなく、継続性をもってイエス様の使命を続けていくのです。聖書を読んでいる今も、その使命は続けられ、そして信じる弟子たちを通して実を結び続けています。
彼らを遣わすことを明らかに語ったイエス様は、その時に彼らに息を吹きかけてこういわれました。
John 20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
John 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
イエス様の復活のいのちによって罪人がきよめられる力が与えられるのは、この聖霊の賜物によってです。「彼らに息を吹きかける」という行動は、最初に人が創造された時のことを私たちに思い起こさせます。
Gen. 2:7 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
ここで最初にアダムが創られた時と、今弟子たちに語られた御言葉との違いについて、「聖霊を受ける」という命令が語られています。パウロもこのことについてこのように語ります。
1Cor. 15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
1Cor. 15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
恐れおののき、死んだようになっていた弟子たち、かつて良いとされた人の形から歪んでしまい死ぬものとされた人間に対して、イエス様は新しいいのちの息を吹き入れ、聖霊を受けることによって新しく生きる者となるように私たちを再び造り上げてくださったのです。聖霊が実際に降臨するのは、イエス様が受難と復活の道を通って父なる神様の御許に上られた後です。ここではその象徴として、そしてこれから起こる大きな出来事の前触れとして、イエス様は彼らに「聖霊を受けなさい」と命じられました。そしてこの御霊が与えられることによって、彼らはイエス様の使徒として遣わされるようになり、そして、イエス様が神様から授かった和解の務めと使命を、引き継ぐことになるのです。弟子たちはもはや人々の目を恐れて閉じこもる者ではなく、神様と人との和解がなされたという福音を宣教する務めにあたり、聖霊とともに、この働きに従事することになります。使徒たちが聖霊の御力によって宣べ伝える福音は、必然的に、それを聞いて信じる人々に罪の赦しを得させ、聞き従わないものたちはそのまま残されることになっていきます。このようにして、イエス様がこの地上において光として示され、その光の御許に人々を招き続けるのです。
適用
イエス様が弟子たちの前に現れた際、まだ弟子たちは確信が持てず、依然として恐れていました。復活の知らせを受けた時も同じでした。しかし、イエス様の受けた傷跡を見て、イエス様の復活を確かに信じるようになったのです。その傷跡は、犠牲的な死においてその御手を十字架に釘付けにされた証し、罪の贖いときよめを象徴する血と水が流れ出た証しでした。私たちはただイエス様の復活された姿を見るだけでなく、その傷を見て確信を得ることができるのです。聖書ではこの箇所でやっとイエス様を主とお呼びしています。私たちのために罪を背負い、十字架にかけられた贖い主、そして、その苦しみと死によって、私たちと神様の和解を実現し、救いへと導かれた救い主、私たちはこのイエス様の姿を通してイエス様を主と告白するのです。
私たちはこのお方によって、恐れることなく信仰の歩みを持つことができます。私たちの上に立って、その傷によって示された主としてのお姿をもって、私たちは救いを確信し、神様との和解の道が開かれ、希望と喜びに満たされるのです。そして私たちはイエス様だけでなく、聖霊によってこの歩みが共に進められていることにも励ましを受けます。私たちは、私たちだけが平安を受けて終わるのではなく、今度はイエス様によって遣わされていくのです。それは使徒たちだけでなく、今を生きるクリスチャンである私たちも同じようにイエス様のなされた使命、福音宣教の務めに与ることができます。
結
今私たちは、この地上においてそれぞれ信仰生活を歩んでいます。あるいは、その道をこれから歩もうとしている人もおられます。イエス様の十字架の受難、そして復活の御姿を見た私たちに、イエス様は「平安があなたがたの上にあるように」と呼びかけています。私たちはこのお方の姿を見て、この御言葉を受けて、この現実世界において本当の平安を受けることができるのです。そして、イエス様から与えられたこの恵みが、すべての人々に注がれることも神様は願っています。それは私たちを遣わすことによってなされるのです。聖霊を受けて、私たちは神様とともにそれぞれの場所に遣わされていきます。私たちのうちに平安を与えてくださったイエス様がそのように導いて下さるのです。今、復活されたイエス様をともに覚えながら、主にある平安のうちに新しく生きていきましょう。



