序
イエス様は神様のご計画によって立てられた罪の贖いの道に最後まで従順でした。そして前回の箇所で、イエス様は「完了した」と宣言して、霊を父なる神様にお渡ししました。そこにおられたのは、十字架に苦しむ犯罪者の姿ではなく、罪人として木にかけられながらも、主権をもって自ら命を捨てられる羊飼い、神様のご計画に従ってすべての預言とみわざを成し遂げられた救い主、そして、罪の結果である死に対して勝利されたお方の姿でした。父と子として神様との密接の関係をもっておられ、そのことを人々に教え続けたイエス様は、十字架の上でその関係を断絶させられたことによって、私たちに神様との和解の道を開かれました。
イエス様の大きなみわざは成し遂げられましたが、イエス様の死を目の当たりにした人々はまだそのことを理解できていない様子でした。そして今回の箇所において、死に打ち勝ったイエス様がこの地上に救いの喜びを広げます。イエス様の復活、それはただ死んだ人がよみがえったという喜びに終わりません。歴史の出来事の一つに終わるのでなく、私たち一人ひとりに永遠の喜びと希望を与えるものでした。イエス様の復活が示す意味とはなにか、その意味を共に教わりましょう。
本論
イエス様が十字架によって死を迎え、墓に収められた後、三日目になった週の初めの日、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に向かいます。ここでも女性のマリアの名だけが登場し、弟子たちや他の人たちよりも先に空になった墓を目撃した重要人物であることが語られます。イエス様が十字架にかけられ、墓に収められてからは安息日の規定によってすぐに香油を塗りにいくことはできませんでした。夜明けを待ちかねるようにして墓にたどり着いたマリアは、墓から石が取り除けてあるのを目撃します。彼女はシモン・ペテロとイエス様が愛されたもう一人の弟子にその事を報告します。イエス様を十字架で失った悲しみに追い打ちをかけるように、彼女は空になった墓を見てイエス様が盗まれたと考えます。当時祭司長たちが、イエス様の弟子たちがイエス様を墓から持ち出す可能性を考えたほどには、墓を荒らす犯罪が起こりえた状況であったため、マリアは「誰かが主を取って行った」と判断したのです。しかし、墓の入り口にある石が転がされていたのは、墓荒らしによるものでもなく、イエス様が外に出られるようにするためでもなく、墓に集まったマリアや弟子たちが中に入って、イエス様がいないことを確認できるようにするためでした。
報告を聞いたペテロやもう一人の弟子も墓の中を確認しましたが、そこに残されていたのはイエス様がまとっておられた亜麻布のみでした。誰かがイエス様の遺体を動かしたのであれば、亜麻布だけが残されることも、頭を包む布が別の場所で丸められておくような手間のかかることはしません。また、ラザロのように生き返っただけであれば、亜麻布や頭の布を巻いたまま出て来たことでしょう。没薬などが混ぜ合わされたものがイエス様の体に塗られていましたから、わざわざはがすにしても手間がかかります。しかしイエス様の場合は、まるで体だけがその場からなくなったように布たちが置かれていたのです。この状況を、まずはペテロが中に入って見て、そして後からもう一人の弟子も入ってきて、そして見て、信じました。ペテロたちがイエス様の復活を信じたのはさらに後の箇所になりますが、この空の墓がイエス様の復活において重要なポイントであることを思わされます。イエス様を処刑に定めた祭司長やピラトたちによってイエス様を縛ることは出来ず、そしてその復活された体には釘の跡があったように、イエス様の体は生前から変化しながらも連続性をもって復活されたことを表しているのです。この出来事を見たもうひとりの弟子は、イエス様の復活を信じました。9節ではまだ、イエス様の復活についての聖書の記述を理解するまでに至らなかったことが書かれていますが、まず目の前に起こって出来事を否定せず、疑わず、受け入れました。それから、イエス様の復活を預言するすべての聖書のことばを後にはっきりと悟るようになります。
空になった墓を見た弟子たちはその場を離れて自分たちのところへと帰りますが、その後にマリアは再び墓に来てその場でたたずみ、悲しみにくれます。まだイエス様の復活を知ることが出来ていない彼女でしたが、そのようなマリアが最も早くイエス様の復活を目の当たりにします。彼女はまず白い衣を来た二人の御使いに出会います。御使いたちの「なぜ泣いているのですか」という言葉は、穏やかな戒めのことばです。彼らの問いかけに対してマリアはまだ、イエス様の遺体が誰かに持ち去られたと誤解し、悲しみ続けます。そしてその後に後ろに立っておられるイエス様の姿を見ます。しかし最初に彼女は気づかず、イエス様を園の管理人だと勘違いをします。イエス様の問いは、御使いたちと同じように「なぜ泣いているのか」というものでした。人の心を見抜かれるイエス様は涙の理由を知っていましたが、イエス様が復活された今、マリアは泣くべきでなくむしろ喜ぶべき時であったため、イエス様はそのように尋ねました。そして続けて「誰を捜しているのですか」と問いかけます。勝利された主でなくイエス様の遺体を捜していた彼女でしたが、イエス様は「何を」でなく「誰を」捜しているのか尋ね、彼女の狭くなった視野を広げます。
マリアは目を上げて、声の主を目にしますがまだイエス様だと気づきません。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください」。イエス様の復活を受け入れられていない彼女に対してイエス様はその名前を呼びかけます。良い羊飼いが、自分の羊を名指して呼ぶような語り掛けに、羊が自分の主の声を聞いて彼に従うように、その目は開かれ、「ラボニ」つまり「先生」を知りました。彼女の、この地上の、苦悩と絶望は、一瞬にして喜びへと変えられ、その心を満たしました。良い牧者が羊のために捨てた命は今、死に打ち勝って復活され、羊たちをその御許に呼び寄せます。
復活のイエス様と会えたマリアでしたが、イエス様はしがみつこうとするマリアを止めます。イエス様が十字架の苦しみを受け入れ、死に打ち勝って今この地上におられるのは、マリアや弟子たちとともに活動を再開するためではなく、父なる神様の御許に上り、完了した贖いのわざのために、イエス様を通して救いへと与る人々のためにとりなすためでした。イエス様は復活されたことでみわざが完了したのではなく、父なる神様のみもとに上るまではまだ道半ばであることを考えておられました。マリアの願いの通り、ずっとそばにいてしがみついてしまうならば、十字架と復活の目的は果たされなくなります。神様のみもとにこれから行こうとされることは、マリア達にとって大きな喜びであり、今この場でマリアと再開することが最終目的ではないからです。イエス様はこの後も、弟子たちの前に何度も姿を現しますが、十字架にかけられる前のように、常に彼らとともにいるわけではありません。復活と昇天は深く結びついており、そしてイエス様だけでなく私たちも同じように導かれていくのです。復活されたイエス様を見たマリアは、ただイエス様との再会を喜ぶだけで終わるのでなく、大切な務めを授けられます。イエス様が復活され、そして天に上ることによってイエス様が勝利の冠を受けることを伝えるという役割です。イエス様はそれを、キリストによって贖われた新しい「わたしの兄弟たち」に語るようにマリアを遣わします。イエス様はここで、「わたしの父」というだけでなく、「あなたがたの父」そして「あなたがたの神である方」と呼ばれます。イスラエルの民にとって自分たちの父は肉親やイスラエルのような地上における祖先のことを指していました。今イエス様によって、地上においてイエス様を信じるすべての人々が、神様を父と呼ぶことが出来、神の子としての身分を受けるようになったのです。マリアはイエス様に言われた通りに人々に伝え「私は主を見ました」と喜びをもって語りました。
イエス様が復活される出来事は、聖書において預言されており、イエス様ご自身も弟子たちの前で幾度も教えてこられました。しかし、イエス様の復活とその意味を真に理解することが出来ずにいました。イエス様は死に打ち勝った勝利者として、またよみがえられた者の初穂として私たちの前に現れます。私たちを縛り、苦しめる罪と死、それをすべてイエス様は担われました。犠牲となって命を捨てたイエス様は罪と死に敗北してよみにくだったのではなく、栄光の御姿をもってこの地上に再びよみがえられたのです。アダムから始まった人類の歴史の中で、そのような勝利者となられたのはイエス様のみです。本来私たちが背負わなければならなかった十字架を代わりに背負われたこのお方は今、栄光の中で復活されたのです。そして、イエス様は初穂として私たちに先立ってよみがえり、私たちも同じ希望を抱くことが出来るのです。
1Cor. 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
1Cor. 15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
1Cor. 15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
信じる者は、イエス様によって新しくされます。死に向かって恐れるのでなく、栄光とともによみがえられたイエス様にあって私たちは生きるものとされたのです。
この復活の祝福を最初に受け取ったのは弟子たちでなくマリアでした。そして彼女は喜びに満ち溢れて人々に福音を宣べ伝えます。空になった墓を見て、イエス様に名を呼ばれて、マリアの失望と悲しみは打ち砕かれました。私達もまた、復活された主を見て、同じように希望と喜びに満たされていきます。マリアが体験したような具体的な形ではなくとも、私たちは御言葉を通して、信仰によって、マリアとともに喜ぶことが出来るのです。今も生きておられるイエス様が、私たち一人ひとりの名を呼んで、その御姿を示し、その御許に招いておられます。
結
イエス様の招きにともに答えていきたいと思います。イエス様は十字架、復活、昇天によってその働きを成し遂げられ、そして私たちのためにとりなし、共におられます。すべてを超えて、勝利者となり、神様の栄光に満ちたイエス様が、いのちの道を私たちに示してくださいます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」そのように語られるイエス様を見て、その祝福と恵み溢れる歩みを共に持ちましょう。


