初代教会の宣教の歴史:聖霊に満たされた人々のシリ−ズ(2007年1月28日)
「願いは聞かれたと信じて祈る」(使徒12:1-17)
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、 神に熱心に祈り続けていた」 (使徒12:5) |
先週の木曜日に、前任牧師の田辺先生の83歳の誕生日を祝うために、大津に訪ね、料亭で食事し楽しい時間を過ごしました。ご夫妻そろってお元気で、教会のためにいつも祈りに覚えていただいていることは感謝です。教会の働きが多くの信仰の家族によって祈られ支えられていることは本当に心強いことです。
アンテオケ教会が大きく成長する一方、エルサレム教会を取り囲む雰囲気はますます悪化してきました。ユダヤを治めていたヘロデ王はユダヤ民衆の人気をつなぎとめるためにいつも苦心していました。すでにエルサレムではキリスト教会はユダヤ教から見れば異端とみなされており、ステパノが石打の刑で殺害されるという事件も起きました。ヘロデ王は教会を弾圧すればユダヤ民衆の支持を得る好材料になるとしたたかに判断し、手始めにヨハネの兄弟ヤコブを逮捕し、剣で切り殺しました。ヤコブは12弟子の中の最初の殉教者となりました。ヘロデ王は次に、エルサレム教会の指導者であるペテロに狙いを定め、逮捕し、投獄しました。しかも政治的な演出効果を狙い、過ぎ越しの祭りの日に群衆の前に引き出し公開裁判で処刑にしようともくろんだでした。
1 ともに集まり熱心に祈った教会
この危機的状況にあって教会はその時、どう対処したのでしょう。教会ではペテロのために熱心な祈りがささげられました(5)。マルコの母の家にも多くの人々が集まり徹夜で祈りました(12)。教会においても家庭においても熱心な祈りの炎が燃え上がりました。ここには嵐の中で「祈る教会」の姿があります。ペテロの処刑はもはや決定的なものでしたが、教会はひたすら祈りつづけました。
処刑が翌朝には確実に執行される最後の夜、天から御使いが使わされ牢獄をまばゆい光で照り出しました。兵士に両脇を固められ2重3重に鎖につながれていたペテロでしたが、御使いに促されて起き上がると不思議なことに鎖はほどけ落ちました。厳重なはずの3つの見張り所もス−とすり抜けることができ、野外に脱出できたのです。一体何が起きているのかペテロにはまったく理解できませんでした。われに返った時、ペテロは「今、確かにわかった。主が私を災いから救い出してくださったのだ」(11)と言いました。
こうして教会でささげられた祈りは確かに聞かれたのです。ペテロの奇蹟的な救出は、教会の祈りに神が答えてくださった恵みの証しでした。
祈りは教会の力です。教会は祈ることしかできないのではなく、祈ることからはじめることができるのです。祈りは決して無力なものではなく、教会とクリスチャンの最大の力の源泉です。週報に説教の要約を書く時に無意識に「この危機の中で教会は祈るしかありませんでした」と書き出してしまいましたが、そうではないことに気がつきました。
祈るしかない・・それは神のみ心にかなう表現ではありません。時々「何もできないので祈ることしかできません」というクリスチャンがいます。祈るしかない・・これは失礼な言い方です。祈りは最後の手段ではなく最初の手段のはずです。私たちの教会では「祈るしかない」という消極的な言い方はもうやめましょう。むしろ、「祈ることから真剣に始めましょう。全てはここから始まりここに帰結するのですから」と、祈りの力に信頼することばを積極的に語りましょう。
もう一つ何気なく使っている表現にも気をつけたいと思います。時々「一生懸命祈っています。でも、厳しいですね」という「肯定 BUT 否定」という前文否定パターンの表現を私たちは使いがちです。持ち上げて落とすというパタ−ンを私たちは日常生活において無意識で用いがちです。「テストで80点取ったの、えらいわね。でも、弟の太郎は85点よ」とお母さんが子供に接すれば、ほめたことばのすべてが台無しになってしまいます。 「太郎君は85点。あなたも80点、がんばったわね」と語ればほめことばが生きてきます。先ほどの表現ならば「たいへん厳しいですね。でも、それでも祈り続けましょう」と肯定パターンで結べば、信仰の語り合いになります。 最後を信仰のことばで結ばないで、この世的な現実論のことばしか語らなければ、信仰の徳が満ちることはありません。なにげないちょっとした言葉使いの中に、一人一人の信仰や祈りの姿勢が見え隠れします。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(1ヨハネ5:14)
願い求めることがあるなら、祈り願いなさい。神に必要を申し上げなさい。供に集まって熱心に祈りなさい。ますます霊に燃え祈りなさい。これらが聖書の約束なのですから。
2 信じられないほどの祈りの答え
さて、解放されたペテロがマルコの家を訪ね、無事であることを告げようとしたとき、女中のロダはペテロの声を聞いて大喜びで弟子たちのところへ駆け込み「ペテロが門口に立っている」と知らせました。ところが弟子たちは「あなたはおかしい」「それはペテロじゃなくてペテロの天使だろう」と取り合おうとしませんでした。半信半疑ながらロドに案内されて門を開くとそこには間違いなくペテロが立っており、一同は驚き喜び合いました。
たいへん面白い出来事です。ペテロを助けてくださいと熱心に祈りながら、とうのペテロが救出されると「そんなことがあるはずない」と疑ってしまうのですから。弟子たちは徹夜までして一体何を祈っていたんだろうか、はたして信じて祈っていたんだろうかという疑問もわいてきます。
私も以前は「なんて不信仰な弟子たちだろう」と思ってこの箇所を読んでいました。せっかくの素晴らしい奇跡物語が弟子たちの不信仰によって水をさされた感じを受けていました。ところが今、私はそのような否定的な読み方を修正しています。むしろ、神様が教会の祈りに答えてくださるときは、このように「予想外」のことをしてくださる、祈ったこと以上のことをしてくださる、祈った本人たちがついていけないほど、信じられないほどのすばらしいことをしてくださるのだと、神の恵みの大きさに焦点をあてて読んでいます。
信じられないような祈りの答え、それが祈る者への神様のお答えなのです。信じられなくて当たり前なほど、神様の恵みは大きいのです。祈りが聞かれて右往左往している様子をごらんになって神様がむしろおもしろがっている、そんなユーモラスさえ覚えます。
「うそー、信じられない」と若い人がよく使いますが、これは信じられないほどすばらしいことが起こっているという感動のことばであり、最大級の喜びの表現であると思います。
「信じられない」ほどの祈りの答え、それが「求めなさい、そうすれば与えられます」と約束された主の恵みではないでしょうか。
神様は祈る教会、祈る信徒に対して、信じられないような大きな答え、予想外の答え、期待以上の答えをご用意してくださいます。私たちは、祈りが聞かれることを信じるのではありません。私たちの祈りを聞き、私たちの思いを超えてすばらしいことを行ってくださる神様を信じるのです。
3 祈り始めたときからすでに神は力強く働いておられる
御使いを通して神が働かれ牢獄から救出してくださる時、ペテロは夢心地でした。何がおきているのかわからなかったのです。神の業が終わってから「われに帰り」神の真実がわかったと神を褒めたたえました。ペテロをつないでいた「2重の鎖」も解かれました。敵の兵士たちに囲まれていながら、兵士たちが目に入らなくなります。「牢獄の扉が次々と開いてゆきます」。これが神のわざです。重い鎖をたとえ何重に巻かれていようと簡単に解かれてゆきます。あなたを束縛して自由を奪ている鎖がありませんか、あなたを何重にも縛りつけ身動きを取れなくさせている鎖はなんでしょう。あなたを閉じ込めてしまっている牢獄の名はなんでしょうか。鎖も牢獄の扉も祈りのなかで解かれてゆきます。
何がなんだか分からないままでいいのです。あとになってわかるのですから。それがイエス様にとらえられる人生なのです。ですから信じて信頼して祈ることが大事です。
「イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたには
わからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)
今日、私たちは「祈りの力」を学びました。「祈り」は祈ることによってわかります。
祈りの座を生活の中に備えましょう。神が私たちの祈りに、圧倒的な恵みを持って答えてくださることを経験させていただきましょう。
祈り
主よ、私たちもさらに祈るものとしてください。祈る中で祈りの恵みをいよいよ知り、
あなたを崇めるものと導いてください。
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