■2010年12月 「いづこの家にも」
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
(ルカ福音書 2:10~11)
天使が去ったとき、羊飼いたちは動きだしました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」御言葉に背を押され、キリストを探し出すために野原を出発します。救い主のしるしは”飼い葉桶の中に寝ている幼子”。ベツレヘムの町に馬小屋は幾つあったのでしょう。十や二十とは思えません。羊飼いたちは尋ねました。一つ一つ扉を開いては世に来た救い主を探した。彼らは、尋ね歩いたのです。
私たちにも、冬の夜空にたたずむ現実があります。挫折、失敗、行き詰り、弱る体、愛する者を失った悲しみ、通じぬ心。そして私たちはこの中で聴くのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。重要なのは、出発することです。伝えられた御言葉と出会うために、冬の野原からキリストに向かって、出発することです。御子のいる馬小屋の扉は、私たちが手を伸ばして開けるのを待っているのです。
”いずこの家にも めでたき音ずれ
伝うるためとて 天よりくだりぬ”
〔讃美歌 第1編101番〕
ルターが作った讃美歌です。まるで家々にともった灯りを見つめているようです。灯火の下には人の営みがあるでしょう。喜びがあり、嘆きがあり、懸命な生きる努力がある。一つ一つを慈しんでいるように聴こえます。
ルターはアウグスティヌス隠修修道会の司祭でした。神学博士となり、大学で聖書を教えていました。やがて信じるところを唱えたとき、母なる教会から破門された。命を狙われ、追われる身となりました。キリストを両手に頂いたルターは、持っていたすべてのものを失ったのかもしれません。しかしこの貧しさの中でキリストと言う恵みの光は、力強く輝いたのです。ルターもまた羊飼いたちと同様、馬小屋の扉を開けた人です。
求める心でキリストを尋ね、馬小屋の扉を開ける。それは、聖書の言葉を聴き、祈り、自分自身をささげることです。世の片隅で生まれ、十字架の上で死んだお方を生涯の主とすることです。このようにして馬小屋の扉を開ける。貧しい現実はあります。しかしキリストが私たちを照らしてくださいます。いずこの家にも救いの灯りをともすために、主は来てくださいました。扉に手を伸ばしましょう。共々に、救いの灯りに照らされましょう。
■2010年11月 「待つこと」
彼らの一人が言った。 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまたきますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
サラはひそかに笑った。
(創世記 18:10~12)
教会暦は11月28日(日)からアドベントに入ります。クリスマスに先立つ四つの主日を主の降誕を待つ備えの時期として過ごします。
「信仰は待つこと」このように語ったのはルターでした。しかし私たちはなかなか待つことができません。子どもに「早くしなさい」と言います。宅配便の伝票には時間指定の欄があります。時間を細かく切り分けて使う時代です。上手に待つことができません。
アブラハムは待っていました。約束の子が与えられる日を。ところが、約束は一向に果たされません。いつの間にか夫婦は歳をとりました。このようなある日、神が旅人に姿を変えてアブラハムの許を訪れます。彼は主の到来を悟り、ただちにもてなしの用意を始めます。パン菓子や子牛の料理、ご馳走を整えました。彼は待っていたのです。その身はすでに年老いても、神の約束が果たされる日を待っていた。そこで主の到来をただちに悟り、最上のもてなしをすることができたのです。
旅人は告げました。「来年の今ごろ、妻サラに男の子が生まれている」。ところが、これを聞いたサラは笑います。語られる言葉が愚かなことに思えて笑い出してしまう。彼女は、神さまの約束を待ってはいなかったのです。
私たちも待っています。慰めが与えられる日。苦しみから解放される日。願いが叶って大きな賛美を与えられる日。それは明日かもしれません。十年後かもしれない。人である私たちには分かりません。しかし待つ。努力を続け信仰と不信仰な心を併せ持ちながら。
アブラハムは希望の火を絶やすことがありませんでした。彼はどこからその力を得たのでしょう。源泉は礼拝だと思います。アブラハムの人生をたどると、礼拝から礼拝へと歩んでいます。神の約束を待つことは、神さまとの交わりを欠いては不可能なのです。聖書から御言葉を聞く。聖餐によって主を頂く。私たちは礼拝の席でキリストと出会います。ここで、待つことができるのです。主と共に希望をもって持つことができる。やがて約束は果たされます。神さまが私たちの不信仰な笑いを吹き飛ばす。神さまが起こす、大いなる救いの当事者になって行くのです。
■2010年10月 「受洗のすすめ」
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
(ローマの信徒への手紙 10:9~10)
教会の暦は、10月24日(日)から「降誕前節」に入ります。この日から数えて八週間後に降誕祭礼拝。やや気が早いようですが、遠くからクリスマスの足音が聞こえてきます。教会学校の生徒、求道中のお一人お一人、自分自身のこととして、洗礼を受けることを考えてください。毎日祈り続けて、主の御心を尋ねましょう。信仰の決断をしていただきたいと思います。
パウロは、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と語っています。相手は神さま。信じる心で結ばれます。主を信じて義(あなたはそれでよい)と認められる。心で信じる信仰が求められます。「口で公に言い表して救われる」。〃私は信じています〃これだけだと、信仰が内面的な心の問題で終わってしまいます。下手をすれば、神さまを信じることが自分本位の気持ちの問題になってしまうでしょう。そこで、公に言い表すことが必要になります。信じたところを言い表して、信仰は生きた形を取ります。これは男女の仲にたとえることができるでしょう。互いに心を通わせ合います。いつか思いを告白する。二つの心が一つになって形を現します。ここから新しい人生が生まれます。心の中で思っているだけではダメ。同じことです。
重要なことを申します。あなたがキリストを愛したのではありません。主キリストがあなたを愛しています。主が導く人生を生きるようにと招いている。心の中でこれを受け止めることが出来て、「主を信じ、従って生きてみよう」決心することが出来たら、ためらわずに洗礼を受けてください。「私はまだ信仰が浅いのです」「お墓はどこに入るのだろう」「見かけほど真面目ではありませんから」等々、考えることはたくさんあるでしょう。しかし洗礼は考えた末に受けるものではありません。受洗は信仰のゴールではなくスタート。ちょうどマラソンの出発のようなものです。問題を片づけてから出発するのではありません。それぞれの所から出発します。大事なのはゴールまでの過程。主に導かれてどのように走るかが大事です。抱えている問題は、走り続ける中で不思議と解決して行きます。
牧師に声をかけてください。お気持ちを伺った後、準備会をいたします。主イエス・キリストを信じて、後悔することはありません。
■2010年9月 「ヒロシマ」
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネによる福音書 1:14)
初めて原爆ドームを目の当たりにしました。建物のレンガが、白く粉を吹いたように劣化しています。強い火に焼かれていることが分かります。妙なことを思い出しました。代々幡の火葬場。昔の火葬場は炉の内部がレンガで出来ていました。炉を塞いでいる鉄の扉を開けると、白く劣化したレンガが暗い口を開けていました。妙な連想ではないでしょう。65年前、この町で、生きながら何万もの人々が焼き殺されていったのです。
爆心地より半径2キロが廃墟になったと言います。梅ヶ丘教会を爆心地として考えると、東は東北沢、西は経堂、北は下高井戸、南は三軒茶屋、およそ以上を囲む地域が一瞬にしてなくなったことになります。
かつてこの空で原子爆弾がさく裂したのかと思うと、とても辛い気持ちになりました。そして、人が神さまを信じるとはどういうことなのだろう、と考えていました。信仰は下手をすると、人間の営みをひと息で相対化してしまいます。「殺す方も殺される方も罪人。そのために主は十字架についてくださったのだ」善いも悪いもひとまとめ。これでは、生きる意味が分からなくなります。十字架の前に、人間の努力や使命も失われてしまうでしょう。正しい信仰の姿勢ではありません。
ヨハネの福音書は、子なる神がひとりの人間になったことを伝えています。天の高きにいる神が、人を救うために世に降りました。喜びや悲しみを味わい、嘆きや苦しみを知るひとりの人間となった。この世の現実を知り、私たちを救うためです。
あの日の広島に、主キリストはいました。今日を生きる私たちの傍らにも、主は共におられるのです。そうであれば、信頼を新しくして御心に添う歩みを求めたいと思います。主は、「互いに愛し合いなさい」と命じました。難しいことではありません。家族や隣人、教会の友人たち。身近なところから愛することを始めましょう。痛みがあることを知ってもらうだけで、人は安らぎを覚えます。そしてそこに祈りを通わせましょう。主にささげる祈りは、私たちに生きる希望を与えます。
平和公園に池があります。蓮の花が咲いていました。小さなカエルが頭を出していた。ドームを見た帰りだったので、ホッとした気持ちになりましが。命を生み出すのは主。このお方が、私たちとこの世を愛しています。
■2010年8月 「ドラえもんとオバQ」
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
(コリントの信徒への手紙二 12:9)
ドラえもんは、未来からやって来たネコ型ロボット。何でもできます。のび太くんが困っていると、お腹のポケットから便利な道具を出します。あらゆる条件に対応可能。頼りにされます。一方のオバQ。彼は、お化けなのですが、化けることができません。できることは、空を飛ぶことと姿を消すこと。大食漢です。けれども居候の身の上なので、いつも遠慮しています。控えめで妙に律儀な性分。それでいて、サービス精神は旺盛です。
私はオバQが好きです。人情味を感じるのです。できないところがある。痛みを知っている。すばらしいことではないでしょうか。ダメなところ、辛いところがあるから、人は人間になることができるのだと思うのです。
パウロは生まれ育ちの良い人でした。優れた才能に恵まれ、特別な教育を受けました。復活のキリストに出会ってからは全力をあげて福音を伝道した。そしてこのパウロには、大きな痛みがありました。病気を持っていたのです。発作を伴う病のようで、周りにいる人々が唖然とするほどのものでした。パウロは祈りました。「病気が治ればもっと伝道できる」この心で祈ったのです。そして主イエスは、パウロに告げました。
わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。
”弱いままでよい。弱さの中にこそ、わたしの力は現れる”と。
病はいやされ、強い一方のパウロになったらどうでしょう。伝道はそれまでにも増して前進し、救われる人々の数も増えて行く。たくさん教会ができたでしょう。大きな幸い。そして彼は、主キリストを失ったと思います。処刑場というこの世のどん底に立ち、私たちの罪と絶望、痛みと嘆きを負ってくださった主キリストを、見失ったことでしょう。
できないことの嘆き、心と体に襲う痛みの数々。私たちはいやと言うほど知っています。痛み自体が幸いなのではありません。しかしそれがあるから、キリストをわが主と仰ぐことができる。少しは、他人に優しい気持ちを向けることもできるのではないかと思います。
オバQは、人を背負って空を飛ぶのです。楽しそうに。弱さの中に、限られた可能性の中に、私たちを生かす主の恵みが通います。
■2010年7月 「揺るぎない平安」
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは、万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
(ルカ 2:28 ~32)
五月に私たちは、三人の姉妹を天国へお送り致しました。鈴木幸さん、赤井千枝子さん、鈴木喜三子さん。三人とも百歳に近づく姉妹方でした。長寿は神さまからいただく幸いです。けれども同時に、老いの身を生きることは厳しいことです。それは、本人にとっても家族にとっても、忍耐が求められることでしょう。幸いと共に、それぞれに過ごした険しい日々があったと思います。肉の体は日々衰えて行きます。しかし不思議にも、そこには優しい平安が宿っていました。肉の身が弱くなるとき、私たちを生かしている主の恵みがいよいよ顕わになるのかもしれません。
冒頭の聖書は、シメオンが幼子イエスを腕に抱き、感謝の祈りをささげているところです。彼は年を取っていたので〃老シメオン〃と呼びます。正しい人で、信仰があつく、メシアに会うまでは決して死ぬことはないと、お告げを受けていました。人間的に考えれば、メシアに会うまでは死んでも死にきれない思いでいたのでしょう。そして神さまは、この心をくみ取ってくださいました。幼子イエスを抱いたとき、彼は喜びにあふれて言います。
主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
神の子イエスを抱くことによってシメオンは、神さまの大きな御手の中に抱かれています。ここに、揺るぎない平安がありました。
誰しもが限りある人生を生きています。いつ、どこで、どのような最期を迎えるのか、私たちには分かりません。人生は大いなる祝福です。同時に厳しい闘いの連続。そしてこの現実の中に、キリストは来てくださいました。それは、私たちが抱くことができるほどに、小さな者となって来てくださったのです。このお方を信じる心の手で抱くところに、救いがあります。キリストを抱くとき人は、神さまに抱かれるからです。いつ果てるのか分かりません。定めがたい人生を生きています。しかしこの中に、揺るぎない平安が隠されています。先達の姉妹たちの歩みを通して、主の平安に生きる者の幸いを教えられるのです。
■2010年6月 「六月の柿の実」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
(マルコ 13:28~31)
六月を迎えます。私はこの季節になると、少しの楽しみがあります。柿の木を眺めるのです。葉の下を探します。そうすると、梅の実くらいに育った柿の実を見つけることが出来ます。蔕(へた)が不釣り合いに大きいのですが、しっかりとした柿の形をしています。変に思われるかもしれません。小さな柿の実を見るとホッとした気持ちになります。元気が出てくるのです。柿の収穫は九月。夏を迎える前の今、既に秋の準備が始まっている。小さな柿の実に秋を見ることが出来ます。現在の歩みが、確実に将来へつながっていることを見る思いになるのです。
冒頭に掲げた御言葉は、主イエスが終末について語っているところです。戦争や天変地異を徴として、これらのことが起こるのを見たら、終末が近いことを悟りなさい。聖書が語る終末は、単純な”終わり”のことではありません。むしろ”完成”を意味するものです。歴史はやがて終わりを迎える。そしてこの後、神の救いが完成する。主イエスは、時の徴を見極めなさいと言います。
六月の柿の実も時の徴と言えるかもしれません。やがて到来する秋を指し示しています。そして私たちの教会にも、小さな柿の実がいくつもあります。教会学校の子どもたち。礼拝の席へ歩み続ける求道者の一人一人。いいえ、それだけではありません。神さまの目から見れば、先に洗礼を受けた私たちも小さな柿の実でしょう。これから救いに向かって大きく成長していく者たちです。教会は、ある日ドカーンと大きな幸いを与えられるところではありません。小さな実が、地味な毎日を繰り返してだんだんと大きくなるように、長い時間をかけて成長を与えられていくところです。小さな者たち、若い人たちが教会へ来ていること、何人もの人が福音を尋ねていること、そしてこの私に信じる思いが与えられていること。これらの一つ一つが、神さまから与えられる救いを指し示すものです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。滅びることのない主の御言葉を聴いて、ともに成長していきましょう。救いの実は、大いなる完成の日に向かっています。
■2010年5月 「主の霊に燃え」
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録 2:1 ~4)
右にあげたのは聖霊降臨の出来事を伝えているところです。十字架の死から復活した主イエスは、四十日間にわたって弟子たちに姿を現しました。この後、「約束されたものを待ちなさい」御言葉を残して天に昇った。この日から十日を経て、弟子たちの上に聖霊が降りました。
聖書は、降った聖霊を「風」「炎」「舌」三つの象徴的な言葉によって表現しています。「風」は捕らえることが出来ません。しかし実態はあります。この世界を自由に吹きぬけていく。「炎」とは清めを意味します。不純物を火によって精錬するように、人を罪や汚れから清めていく。「舌」は言葉を意味します。聖霊が降る時、神さまの愛と赦しを知って、人の心は開かれます。新しい言葉を語り始める。そこで聖霊を「舌」に例えて表現します。
捕らえることはできない。しかし実態はある。私たちを罪から清め、神の愛を注ぐ。それゆえに私たちは新しい言葉を語り始める。これが聖霊です。この聖霊が降ったとき弟子たちの集まりは、”教会”となりました。
聖霊の働きを考えるとき、私の頭には炭火が思い出されます。ご承知のとおり炭は、それ一つに火をつけても燃えません。しかし二つ、三つと炭を重ねて火をつけると、互いの火力に煽られるように勢い良く燃えていきます。信仰生活も同じでしょう。自分ひとり心の中で信じていても、信仰の炎は燃えません。いつの間にか消えてしまう。しかし反対に、二人、三人と集まると、互いに励まされて信仰は力を増します。教会は燃える炭火のようなものかもしれません。私の内に宿っている信仰の炎は小さい。しかしそれが集まると、聖霊の大きな炎となります。私たちのただ中にひとりのキリストがお立ちになるのです。
使徒パウロは、「〃霊〃の火を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19)と語りました。 ”ひとりぼっち”になってはいけません。枝が幹に支えられて生きるように、私たちの信仰は教会に結ばれてこそ生かされます。炭は、熾る炭火の中に置かれてこそ燃えることが出来るのです。主イエスによってひとつに結ばれ、霊に燃える教会でありましょう。
■2010年4月 「主の霊に燃え」
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。石は非常に大きかったのである。
(マルコ 16:2 ~4)
戦前の昔。小学五年生の男の子です。風邪をひいて寝ていました。六畳ほどの座敷には、火鉢があり、五徳の上には薬缶がかけてありました。蒸気をあげるために薬缶の蓋は、ずらしてありました。少年は熱に浮かされながら目を覚まします。開いている薬缶の蓋が気になりました。起きあがって、蓋をきちんと閉めました。安心したのか少年は眠ります。眠っている間に母親が入ってきました。蓋が閉まっているのでずらしておきます。部屋を出て行きました。少年は目を覚まします。薬缶の蓋がまた開いている。少年はもう一度蓋を閉めようとしました。手を伸ばしたそのとき、ふすまが開いて母親が顔を出しました。「そのままでいいのよ」。少年はこのとき、聖書が伝える〃復活〃の意味が分かったと言います。
十字架の御姿であれば分かり易いのかも知れません。「神の子が、人間の罪と苦悩を負って十字架についている」と。ところが、復活は捉え難いものがあります。私たちの前に示されているのは空虚な墓穴。「復活はどのようにして起こったのだろう」「復活が示すものは何か」。考えた末に分かるものではないでしょう。神さまが神秘の中で行いました。死者を葬る墓穴の蓋を開けてしまわれたのです。
復活は、人間の力で証明したり、解明できることではありません。信仰によってしか捉えることはできないのです。そこで”信仰の飛躍”が必要になります。理性の此岸(しがん)から、福音の彼岸へと、ジャンプすることが求められています。
訪れた婦人たちは何をしたのでしょう。彼女たちは、復活を信じて墓に来たわけではありません。主に従う暮らしの中で、当然のこととして来たのです。すると、閉ざされていた石の蓋は開いていました。この蓋は、〃死の重さ〃を示し、人間には動かし得ないものです。しかし開けられていた。信仰の飛躍は理性を黙らせることではありません。”福音の言葉を聴く。主に従って生きてみる”弟子として生きる中で出来事が起こるのです。私には開けられない石の蓋が、目の前に開かれている。恵みの不思議を経験するでしょう。続けて行く教会生活の中で私たちは、主の復活を学んでいきます。墓は開かれ、主イエスは生きている。この事実を学んでいくのです。