今月の一言(2011年)

■2011年12月 「悲しみの底」

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデは不安を抱いた。エルサレムの人々も同様であった。 
(マタイ2:1~3) 

 ヘロデが抱いた不安。メシアの到来によって、王位が脅かされることです。人々が抱いた不安。ヘロデが不安を抱いているので、恐ろしいことが起きるのではないかと言うこと。不安は現実のものとなります。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 (2:16)
 聞くだけでも辛くなります。なぜ、救い主が世に来て子どもたちが殺されなければならないのでしょう。しかし、ここにも意味があります。ヘロデによって殺された命。小さな者たち。キリストは、このような小さな者たちの一人となって世に来たのです。

 私たちは特別な思いをもって今年のクリスマスを迎えています。大震災と原発事故。多くの人々が亡くなりました。被災した人々の心の痛手は計りしれません。復興の道のりはまだ見えていない。そして、これだけではありません。毎年三万人を超える人たちが、自ら命を絶ってしまいます。そこには、家族がおり、友がいたでしょう。尊い愛があったはずです。受けたいじめが原因で、性格が変わってしまった子供がいます。無口です。現実の辛さに耐えて生きています。振り返れば、私たちの誰もが、心の中に小さな地獄を抱えて生きています。
 神の子は小さな者になりました。殺されるほど、小さな命のひとつになった。そしてこのお方は、ゴルゴダの丘へ向かいます。私たちの現実を全身に引き受けて、これに打ち勝つためです。主キリストは十字架について復活を遂げるために世に来たのです。

 心の地獄があります。誰にも知られない嘆きがある。私たちは、悲しみの底でキリストと出会うのです。あなたのために、どん底に降った救い主と出会う。ひとりで信じていたのではいけません。くすぶる灯心のような信仰を集めるのです。小さな灯りを集めて互いに照らし合う。キリストが大きくなります。このお方に結ばれて、救いの灯りを世に輝かせ、皆で生きるのです。


■2011年11月 「祈りを失うな」

イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」
(マルコ11:15~17)

 先日、東京カテドラル大聖堂へ行きました。曜日が悪かった。土曜日です。大聖堂は結婚式の予定でいっぱい。祈ることができません。地下に小聖堂がありますが、どうしたわけか立ち入り禁止。境内にルルドの洞窟を模した祈りの場があります。ベンチに腰を降ろして祈る。すると、結婚式が終わった人たちが数人ドタバタと祈りの場へ。化粧臭い女の子たちです。結局、落ち着いて祈ることができませんでした。
 帰りのバスの中で思い出したのは、韓国のミョンドン大聖堂でした。訪ねたのは週日の夕方。午後六時から始まるミサに、大聖堂は信者で埋め尽くされていました。

 祈ることが大事。神さまの前に手を合わせて祈ることがなくて、何の信仰でしょう。
 「祈りが聴かれた」「聴かれなかった」と言います。確かに、願いを抱いて祈ることは重要です。しかしこれに勝って、祈ることによって抱く願い、祈ることによって開かれる明日があります。祈りは神さまの愛の中に身を置くことです。たとえてみれば、故郷の実家へ帰るようなものでしょう。そこには命の原点があります。私が私として存在することが、喜びをもって受け入れられるところです。
 この愛の中で神さまに聴くのです。「あなたは何を望むのか」「私はどのように生きれば良いのか」と。天から声が聞こえてくるわけではありません。ただちにインスピレーションが与えられるわけでもない。しかし、聴きつつ、歩みつつするうちに、「私はこれでいい」「このように生きて行こう」確信が与えられたり、道を示されたりします。神さまを愛し、畏れ敬い、心を込めて祈る。必ず応えられます。
 さらに祈る中で私たちは、隣人とつながることができるのです。神を仰ぐと、神さまの眼差しを知ることになります。私を愛している神さまは、彼をも愛している。隣人のために祈り、不十分であっても、その人に対する言葉が出るようになるでしょう。

 教会は祈りの家です。心を静めて熱心に祈りましょう。主が、応えてくださいます。


■2011年10月 「伝道」

イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ28:17~20)

 ”伝道”とは、”御言葉を宣べ伝え、信仰共同体(教会)を形づくること”です。結婚して所帯を持てば、多くの人が「温かい家庭を作りたい」と思うでしょう。同様です。主キリストが力強く働き、つながる一人一人が豊かに生かされる信仰共同体を形づくって行く。これが伝道することです。 パウロは、教会をキリストの体と述べて次のように説き明かしています。
 奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 (コリントⅠ 12:13)

 洗礼によってキリストに結ばれます。教会と言う御体の一部となる。体に血が通っているように、それぞれの肢体には聖霊が通い、体の各部分を一つにしています。私たちは、主にあって一つと言うわけです。  共同体の形成にとって大切なのは、信仰によってキリストに結ばれることです。そして体が一つであるように、互いにかけがえのない者として、愛し合い、赦し合い、生かし合うことです。これが出来ていると、教会には不思議な力が湧いて来ます。温かく、爽やかな霊の風が流れ始める。明るく積極的になるのです。これとは反対に共同体を壊すものがあります。愚痴、悪口、自慢、噂話、他人との比較、わがまま等々。これらが出てくると教会は濁ります。感情的な対立が生じ、自由にものが言えなくなるでしょう。人間臭くなるのです。
 具体的に重要なこと。沈黙を大切にしましょう。礼拝堂に入ったら主の前に静まります。特に何かを祈るのではありません。黙るのです。心を黙らせるとき、神の言葉を聴くことが出来ます。牧師の説教を聴くのではありません。その奥から語られてくる、神の言葉を聴くのです。

 人は、追いかければ逃げます。教会が信仰共同体として充実していれば、人の方から近づいて来ます。私たちが、どのような心と言葉と行いで教会生活をして行くか、これが問われています。梅ヶ丘教会と言う信仰共同体に主は共におられます。このお方に、いつも心を合わせて行きましょう。


■2011年9月 「系図の救い」
  
これはアダムの系図の書である。
神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名づけられた。
アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、字、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
(創世記5:1~5)

 実家の墓の前に立ちます。そこには、父母をはじめ、祖父母、曾祖父母、葬られた歴代の人々の名が戒名によって刻まれています。昔は嫌でした。「なんとか信士」などと刻まれているのが嫌。そして何よりも、暗かったのです。祖母は三十代で夫を亡くしました。父はひとり息子。この二人が不仲。子どもの頃の私は、父の実家に行くのが嫌いでした。気まずい雰囲気の中で緊張を強いられるからです。しかし、いつのころからか、墓の前に立つのが嫌でなくなりました。私にとっては”怖いお祖母さん”だったのですが、どうも、そうではないことに気づきました。期待をかける母親と、それに応えない息子。父と祖母の間には、よじれた愛情がありました。これに気がついたとき、すでに亡くなっているのですが、父親に対しても祖母に対してもいたわりを覚えるようになった。そのころから、墓の前に立つのが嫌でなくなりました。
 墓石に刻まれた名を指でたどります。この人たちの命を受け継いで生きている。人間の暮らしです。真面目な努力があり、喜びがあり、ドロドロとした情念もあります。そしてこの末に、主イエスの救いを頂きました。神さまは、私の系図も覚えていてくださると、信じることが出来るのです。
 聖書には「神に似せて」とあります。これは、「神さまの呼びかけに応え得る者」という意味です。神の似姿はアダムからセトへ継承されて行きます。つまり、すべての人が神さまから呼ばれ、応え得る力を与えられていると言うのです。罪はアダムから始まりました。そして罪ある系図の中にこそ、主キリストはお生まれになりました。  逝った人を振り返って、「洗礼を受けていないから救われないのではないか」こう考えることはやめましょう。むしろ、受け継いだ命と頂いた福音を感謝し、前途に向かって伝道して行きましょう。神さまは私たちを覚え、いつも呼びかけておられます。


■2011年8月 「人、弱いもの」

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
(創世記1:27)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった。
(創世記2:7)

 神さまは、人を御自分にかたどって創造されました。頭があって、目があって、鼻があって、こういうことではありません。神さまが愛情を注ぎ言葉を与えます。人は、これに応え得る者として造られたという意味です。

 神さまは手を動かします。土の塵を集めて人を造ります。出来上がった人の鼻に命の息を吹き込みました。すると人は、生きる者となった。「土の塵」とは値のないものです。つまり人は、弱くはかないものだと言うのです。
 神の心に応え得る者。そして、弱くはかない者。これが創世記の示す人の姿です。

 斎場へ行って、棺を炉に入れる前に、最後の祈りをささげます。祈祷文の一節に次の言葉があります。
 「兄弟(姉妹)のなきがらを今み手にゆだねて、土を土に、灰を灰に、塵を塵にかえします」。初めて聞いたのは父親の棺の前でした。私は戸惑いました。「俺の親父は塵なのか?」一瞬憤りました。しかし次の瞬間思いました。「そうだ。塵だ」。神の前に弱くはかないのです。そして同時に、そのような私たちを神さまは愛してくださっている。人が人であることを離れてはいけないのです。

 創世記をたどれば、アダムとエバは神さまに背きます。自ら善悪の知識(全能)を手に入れることを願い、神さまの心を裏切ります。二人はもはやエデンの園にとどまることはできません。楽園を去らせるとき、神さまは裸の二人に服を着せてやります。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)

 罪を犯し、裸の惨めさでいるアダムとエバ。後ろから、そっと覆ってやった。
 私たちが住む世界は楽園ではありません。生身の体を持ち、汗を流して働き、うめくような人間関係を克服し、たくさんの努力を繰り返して生きて行かなければなりません。そして神さまは、この私たちにキリストという救いの衣を与えてくださったのです。裸の惨めさを覆い、弱さを支え、世の馳せ場を、共に生きてくださるためです。

 弱い私たち。しかし、神さまに愛されています。キリストは共にいてくださいます。


■2011年7月 「希望のありか」

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが、
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
(イザヤ40:6~8)

 被災地に行った牧師から話を聞きました。「ある地点から風景が一変する。緑はなく、茶色い土さえない。ヘドロに埋まった瓦礫が一面を覆っている。津波が運んで来ヘドロ。魚が腐ったように生臭い。この中を一台のショベルカーが動いていた。高台を作って、上から作業を見ている人がいた。ショベルカーが掘り起こした先に、遺体がないかどうかを目視でチェックする人だった・・・。」

 被災地の牧師が一番困っているのは、見舞客の対応だそうです。被災している教会員の問安と復興作業。この中で絶えない見舞客に同じことを話し続ける。幸い、牧師の謝儀については支給されているようです。教区規模での対応があること、たまそれぞれの教会の貯えを切り崩しても賄っていると聞きました。

 先般の教区総会でも、教団・教区レベルでの明確な復興支援計画は示されませんでした。教団・教区が後手になっていると言うよりも、被災地自身が、まだ具体的な復興支援を求めるまでに至っていないと言う印象を受けました。「募金」を行い、「情報交換」する。これが現状だと思います。私たちの教会もこの中にいます。実施する夏期献金では、総額の一割を教団の復興支援募金にささげることにしています。みんなで協力して行きましょう。

 冒頭に掲げたのは捕囚期に語られたものです。神の言葉を託された天使がイザヤに語りかけます。「呼びかけよ」と。しかしイザヤは無気力になって答えます。「何と呼びかけたらよいのか」。民が捕囚されてから五十年近くが過ぎようとしています。あまりに長かった。多くの人々が故国の土を踏むことなく世を去りました。しかし天使は言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。人は弱くはかない。世は定めなく変転を繰り返す。しかし、神の言葉は立つ。とこしえに立つ神言葉。私たちはここに、主キリストを認めます。十字架のどん底に降った神の子が、今の私たちを支え、生かしてくださる。ここに信頼をとどめて、この世の現実を歩んでいきます。これが私たちキリスト者です。共に、歩み続けていきましょう。


■2011年6月 「教会と祈り」

彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
(使徒言行録1:14)

 主イエスは、神さまの許から聖霊が降ることを約束して天に昇りました。復活を遂げてから四十日目のことです。この後、弟子たちは祈りました。婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて熱心に祈りました。やがて十日を数えます。主イエスが復活してから五十日目のことです。祈る弟子たちに聖霊が降りました。この時から弟子たちの集まりは、聖霊を宿す”教会”になりました。弱かった弟子たちです。霊の力を頂いて、新しく立ちあがります。彼らは出て行って、全世界に福音を伝え始めます。

 教会の誕生と伝道の開始。主イエスの約束と、弟子たちの祈りによって生み出されたのです。昔の話ではありません。今もそうです。私たちは聖書の言葉を聞きます。主イエスを信じて祈ります。そしてここに聖霊は働き、教会は力を与えられます。私たちの現実を変えていく救いの出来事が始まって行きます。

 求道中のときでした。祈ろうと思いました。けれども、祈ることが出来ません。教会へ初めて来た私には、何をどう祈ったら良いのか分かりませんでした。そのようなとき冊子をもらいました。三浦綾子さんが書いた教会案内です。この中に「聖霊を求める祈りは必ず聞かれる」と書いてありました。この言葉を頼りに、「聖霊を与えてください。神さまのことが、分かるようにしてください」、見えざる神さまに向かって、一所懸命に祈りました。やがて、洗礼を決心しました。いつの間にか隣人を覚えて祈るようになりました。私自身が、多くの教会の仲間たちから、祈られていることに気がつきました。

 聖書では神殿を「祈りの家」と呼びます(イザヤ56:7)。神殿は神の住まいではありません。祈りによって、神と人が出会うところです。教会も同じです。ペンテコステのあの日のように、私たちが集まって、御言葉を聞いて、信じて祈るとき、救いの出来事が始まります。それは、十字架の前に挫折した弟子たちが、殉教の死に至るまで伝道する者に変わる。神を知らなかった者が、神さまを喜びとする者に変わる。絶望していた人が、命を感謝できる人へと変えられていくのです。

 一緒に祈りましょう!主イエスが祈ることを求めています。そしてこのお方が、私たちの祈りを聞き上げてくださるのです。御言葉に励まされ、小さな祈りを集めましょう。教会に力強く、救いの灯りをともしましょう。


■2011年5月 「あの方は復活した」

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
(マルコ16:7)

 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメ。三人の婦人たちが道を急ぎます。早朝の墓参り。わが主は既に遺体となってしまいました。失意の中です。けれども彼女たちの心には、安心があったかもしれません。嵐のような出来事は終わりました。もはや誰も、わが主に襲いかかる者はいない。心おきなく悲しむことが出来るのです。
 墓は、丸く切った大きな石で蓋がしてあります。”女手三人で動かせるだろうか”これだけが気がかりでした。しかし墓に着いてみると、どうしたわけか石は脇に転がしてあった。三人は中へ入ります。すると、白い長い衣を着た若者がイエスの復活を告げます。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。
 暗く口を開けている墓穴。象徴的ではないでしょうか。人が心の奥に抱えている、絶望、嘆き、悲しみ、不安、空しさを暗示しているように思います。何でもない日常生活の中で、ふと思うことがあります。”生きることが怖い”と。果たさなければならない責任があります。出来る力は限られている。明日を覗けば何が起こるか分かりません。生きることが怖くて、辛くなる時があります。私たちの心の中にある小さな墓穴でしょう。そして天使は”キリストはそこにいない”と告げている。

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
(マルコ16:8)
 
 主の復活を告げられた婦人たちは震え上がりました。喜んだのではありません。人知を超える神の業に触れて、正気を失ったのです。
 キリストを信じる。暗い心の中に主をお迎えすることでしょうか。私の空しさを埋めていただくことでしょうか。いいえ、それ以上のことです。神の業に触れて、存在の土台が入れ替わります。”私あってのキリスト”から、”キリストあっての私”に変わって行く。   
 天使はイエスがガリラヤで待っていることを告げます。この道を歩みましょう。墓穴の中にキリストを捜すのではなく、私たちを待っている主キリストに向かって前進して行く。ここから、新しい人生の歩みが始まります。


■2011年4月 [悔改めと勇気」

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
(ヨハネ16:33)

 東日本大震災。これに伴う原発事故。震災による死者は一万人を超える見通しであり、避難している人々は六十三万人を超えています。首都圏でも計画停電によって連日の大混乱が生じているとおりです。次の言葉が思い出されました。

また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
(ルカ12:4~5)

 事故があって塔が倒れた。十八人の人々が亡くなりました。主イエスは、事故と罪の因果関係を認めません。惨事をとおして人間全体の生きる姿勢を問うのです。
 私たちの国に未曾有の大惨事が起きています。私は、救いを祈ると共に、深く悔い改めることが求められていると思います。世の中には、自ら死を選ぶ人たちが後を絶ちません。無縁社会という言葉が造り出されました。震災前の紙面には、携帯電話を用いたカンニング事件、熊本で起きた女児殺害事件が大きく報じられていました。十九歳、二十歳の青年が行った犯罪です。私たちの社会は、充分に人と向き合ってこなかったのではないでしょうか。日常生活の中にあるエゴと強いストレスが、権利主張と匿名性を武器にして他者を攻撃します。柔らかい心で、弱さと尊さをもつ自分自身を認め、隣人を大切にすることが出来なかった。この世は辛い現実のあるところです。だからこそ、厳しさと優しさをもって助け合って生きていく。このことが顧みられてこなかったように思えるのです。

 聖書で言う悔い改めは、神さまに立ち帰ることです。いたずらに自分を責めることではありません。神さまの愛の心を知ること。このとき、反省と共に新しく行くべき道が見出される。これが悔い改めです。

 今、日本全体が苦しんでいます。もう一度、十字架の主キリストに立ち帰りましょう。神さまにとって、あなたも私も、尊い者たちです。ここに立つとき、愛する努力、現実に立ち向かって生きていく勇気をもつことができます。主イエスはどん底に降り復活を遂げました。既に世に勝っているお方です。主に心を合わせ、勇気と希望をもって、現実に立ち向かっていきましょう。
 私たちの教会も間もなく総会を行います。教会を形づくっているのは、洗礼によって主に結ばれた一人一人。「私がいなくてもよい」と言うことはありません。「あなたがいないから議案が決議できなかった」ということは起こらないでしょう。しかし、あなたがいないことは主の前に欠けていることです。教会に欠けを作ってはいけません。
 そして、教会の中心が”福音”にあることを覚えましょう。祈りと御言葉の奉仕が豊かに行われて、教会全体が豊かになります。見方を変えれば、祈りと御言葉が豊かになるために教会を整えて行く。教会総会は、このために行うのです。


■2011年3月 [教会の生き方」

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
(使徒言行録6:2~4)

 場所はエルサレム教会。ギリシア語を話すユダヤ人が、ヘブライ語を話すユダヤ人に、クレームを付けました。「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられている」。”やもめ”身寄り頼りのない老婦人のことです。”日々の分配”とは、給食のことです。場所はエルサレムですから、本国育ちのユダヤ人に比べて外国育ちのやもめたちの方が、不公平を受けてしまったわけです。
 十二使徒は弟子たちをすべて呼び集めました。教会総会を招集したのです。彼らはこの席で提案しました。「教会の管理運営を託せる七人を選ぶこと」「使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念すること」以上の二つです。一同はこの提案に賛成しました。以後、ステファノを初めとする七人が立てられ、教会の中間的なリーダーとして働くことになります。
 問題は思いのほか深刻です。言葉が違うとは文化が違うこと。日々の分配は生活に直結することです。下手をすれば、民族間の差別や、文字通りの死活問題に発展するところです。そして使徒たちが出した提案は、教会を治める者を立てることと、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念するというものでした。
 使徒たちは福音のために立てられた人々です。彼らが祈りと御言葉の奉仕に専念しないと、教会が教会ではなくなってしまいます。たとえて言えば、灯りをともさない灯台になってしまうのです。彼らは自らの使命をしっかりと守ったうえで、不公平に対する解決策を提案しました。筋が通っています。

 私たちの教会も間もなく総会を行います。教会を形づくっているのは、洗礼によって主に結ばれた一人一人。「私がいなくてもよい」と言うことはありません。「あなたがいないから議案が決議できなかった」ということは起こらないでしょう。しかし、あなたがいないことは主の前に欠けていることです。教会に欠けを作ってはいけません。そして、教会の中心が”福音”にあることを覚えましょう。祈りと御言葉の奉仕が豊かに行われて、教会全体が豊かになります。見方を変えれば、祈りと御言葉が豊かになるために教会を整えて行く。教会総会は、このために行うのです。


■2011年2月 [どこを見るのか」

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
(マルコ10: 13~16)

 イエスが村へやって来た。親たちは駆け寄ります。何としても、我が子を祝福していただきたかった。誰しもが長生きをしません。栄養、衛生、医療、安全。すべてが劣悪。この中で子供たちは、常に死の危険にさらされていました。親たちにとってイエスは異能者。祝福と言う仕方で、霊的なパワーを注いでほしかったのです。機会を逃すことはできません。我が子を連れ、あさましいほどの勢いで押しかけて来た。これを見た弟子たちは叱ります。するとイエスは憤った。「子供たちをわたしのところに来させなさい」と言う。
 弟子たちは親を見ています。押しかけて来る親たちを見て叱った。彼らは、子供たちを見てはいません。一方イエスは、子供たちを見ているのです。小さな出来事ですが、弟子たちとイエスの視点は、まったく別です。

 新年度の準備が始まっています。教会学校の中高科は、四月から通常出席している生徒だけでも十名になります。幼小科、ひよこぐみの子供たちも育っています。幸いです。そして同時にこのことは、主イエスから教会に与えられた問いかけだと思います。「あなたがたはどこを見、子供たちにこれから何をしようとしているのか」と。
 キリスト教主義の学校であれば、週に何度か、あるいは毎日礼拝をささげます。この中で日曜日に教会へ来ることはよほどの動機付けが必要。大きなお導きがあると言えるでしょう。会員の子供たちであれば、ここまで育ったのです。登場した弟子たちのようであってはいけません。一人一人の心を見る目が必要です。そして対応は具体的であること。乳幼児に個室が必要なように、高齢者に手すりやエレベーターが必要なように、子供たちや中高生の教会生活に何が必要かを見出し、用意することが求められています。これまでの形にこだわらない柔軟な姿勢が必要でしょう。先頭に立つのは教師。そして理解と祈り、協力をもって教会全体で支えて行きます。 子供たちや中高生の嬉々とした声の真ん中に、教会の頭なる主キリストがおられます。


■2011年1月 「信仰による救い」

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
(ロマ書 1:16)

 クリスマスに二人の方が受洗を志願しました。ここに至るまでには、神さまの大きなお導きがあります。そしてひとりの人として、余人には知れない心の旅路があったことでしょう。主の恵みと人の決心が重なって受洗の幸いになります。このことは、本人にとってはもとより、迎える教会全体にとっても大きな喜びです。先に召された私たちは洗礼を受けています。また、これから洗礼を受ける方々も大勢おられます。そこで考えたいのです。「キリストを信じて救われる」とはどう言うことかと。
 「わたしは福音を恥としない。」当時の世の中で、十字架につけられた者を信じるなどは愚かなことでした。十字架の死はユダヤ人にとっては罪の報い。ギリシア人にとっては人生の敗北を意味します。そしてパウロはこの常識に抗して”わたしは福音を恥としない”と語る。それどころか、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」こうまで言い切ります。注意しましょう。主語は「福音」なのです。”福音”は、私たちに救いをもたらす、”神の力”。最初にあるのは神の力である福音。パウロはこれを信じている。

 日本の教会は信仰によって立つ教会です。欧米のような伝統も、整えられた制度もありません。教会は常に少数派。そこで、個人の信仰に力点が置かれます。「千人が否を言うとも、我信じ奉らん」このような姿勢になるでしょう。ここで誤解が生じます。強い信仰、立派なキリスト者像が求められるのです。しかし信仰による救いは、このようなものではありません。私の中に救いはないのです。たとえどれほど熱心に信じても。救われ難い私を、ただキリストが救ってくださいます。私の力ではありません。救ってくださるキリストを受け入れるから、私は救われるのです。これがパウロの言う信仰による救いです。
 そしてここが、キリスト者の出発点です。十字架の死をもってこの私を神さまの許に贖い取ってくださったのが主キリスト。このお方によって愛され、救われています。そうであるなら私たちは、このお方に誠を尽くします。信じたように生きて行く弟子の歩みが始まるのです。パウロは誰よりもよく働きました。恵みが彼を押し出したのです。救ってくださるキリストが私たちを生かしてくださる。恵みに応えて生涯を主キリストと共に歩む。ここに私たちの祝福された歩みがあります。