■2012年12月 「アドベント」
すべてを証しする方が、言われる。
「然り、わたしはすぐに来る。」
アーメン、主イエスよ、来てください。
(ヨハネの黙示録22章20節)
降誕日に先立つ4つの主日を「アドベント」と言います。言葉の意味は「到来」。現在はクリスマスの準備期間のように考えられていますが、本来は「主の再臨に対して備えをする期間」です。天に昇ったキリストは、再び地に降ります。最後の審判が開かれ、この後、救いが完成する。アドベントは、再臨の主をお迎えするための信仰の備えをするときです。
礼拝堂には4本のローソクが立ちます。それぞれにはテーマが込められています。
第1のローソク・再臨
主の再臨に思いを集めます。裁きの日があること。完全な救いが成就すること。限りある命を生きていること。これらを思う。
第2のローソク・洗礼者ヨハネ
ヨハネは厳しく悔い改めを告げました。自分自身を振り返り、新しく主を仰ぎます。
第3のローソク・よろこべ、主は近い
再臨は主イエスと再び出会う日。救いが完成する日です。この幸いに心を向けます。
第4のローソク・主の道筋を直くせよ
主がいつ来てもよいように、自分の心と暮らしに信仰の道筋を真っ直ぐに通す。
アドベントのシンボルカラーは悔い改めを表わす紫です。そこでローソクの色も紫になります。しかしこの中で3本目の色はバラ色 (ピンク)を用います。「よろこべ、主は近い」というテーマに従って、祝いの色に変わるわけです。右のような意味を込めてアドベントを過ごすのが教会の伝統的なスタイルです。
今年から、わたしたちの教会もこれに倣いたいと思います。紫、紫、バラ色、紫。この順番でアドベントの第4主日までローソクを立てます。クリスマスはイブから始まります。そこでイブの賛美礼拝と降誕節第1主日(アドベント第4主日の次の主日)は白色のローソクを1本立てます。これは、キリストの降誕を示すものです。このようにして、再臨の意味を受けとめると共に、クリスマスの祝いをしたいと考えています。
事柄としては、教会の暦に従って、ローソクのいろや本数が変わるだけです。これだけなら意味はない。ローソクの色や数を通して、聖書が示すメッセージを受け止めましょう。「わたしはすぐに来る」約束してくださる方がいるのです。このお方を仰いで、アドベントを過ごし、皆でクリスマスを迎えましょう。
■2012年11月 「聖徒の日」
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走りぬ
こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
(ヘブライ人への手紙12章1~2節)
日本キリスト教団では、11月の第1日曜日を「聖徒の日」としています。先に召された人々を記念する日です。由来は古く、2世紀にまでさかのぼります。迫害の時代です。殉教者がたくさん出ました。殉教者を記念して礼拝をささげたのが始まり。趣意書のような文書が残っています。
”すでに闘いを終えた人々を想起し、今後なお同じ闘いに直面する人々の訓練と励ましのために”
教会は右の趣旨に従って記念の礼拝をささげました。そして注目したいのは、この礼拝は喜びの礼拝であったことです。信仰を全うして世を去りました。神の御許に受け入れられています。それゆえに喜びの礼拝であった。
今年も召天者記念礼拝をささげます。教会の先達者たちを覚えます。亡くなった方々を偲んで、慰霊、追悼をするのではありません。与えられた救いの恵みを感謝し、共に交わった日々を思い出し、信仰の励ましをいただきます。喜びをもって礼拝をささげるのです。
心に残ることをひとつ。青年時代でした。土曜日の午後、週報印刷をしていました。一人の役員が仕事を終えてやってきます。私を見ると言いました。「やぁ、ご苦労さん」。そして上着を脱いで会堂掃除を始める。夏はランニングシャツの姿でした。掃除機をかけて一時間程度。終われば帰ります。”礼拝の司式から会堂掃除まで。役員とはこのようなものなのか”教えられたことを覚えています。
「絡みつく罪をかなぐり捨てて」罪とは、神さまを忘れること、侮ること、我欲を通すこと、神と人への愛を失うことです。どうしてこれをかなぐり捨てられるのでしょう。「イエスを見つめる」とき、捨てられると言います。先人たちを思い出すとき、伝わって来るのは”生き方”です。一人一人が主キリストを仰いでいました。本気で教会を大事にしていた。そしてそこには、愛がありました。
迫害はないのかもしれません。しかし、険しい世の闘いはあります。先人たちを想起し、主キリストを仰ぎましょう。私たちが人生をかけて福音を指し示し、主の愛を宿すのです。
■2012年10月 「子供たちの祝福」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。」
(マルコによる福音書10章13~14節)
「七・五・三」の季節。ふと思い出しました。娘が七歳になるときです。幼稚園の”ママ友”が妻へしきりに勧めます。「うちの子の晴れ着がある。貸してあげるから、写真だけでも撮りなさいよ」。七五三のお祝いはしないようだけれど、せめて記念写真ぐらい撮ったらどうだ。とても熱心に勧めてくれたのです。「ありがたい」という気持ちと、「何もそこまで・・」と思う気持ちが共にありました。
子供の成長を祝う気持ちは当然。晴れ着を着せ、写真を撮って家族の記念とする。幸せをかみしめる時です。私たちの教会にはたくさんの子供たちがおります。「七五三のお祝いをしたいけれど、どうしたものか」と考える方もいるのではないでしょうか。ためらわず、教会で祝福式をしましょう。日曜日の礼拝の席でも出来ますし、家族の行事として個別に行うこともできます。七五三でなくても、誕生日や新入学が機会になります。主に感謝をささげ祝福を賜る。善い時間になるでしょう。
聖書のメッセージ。親たちは、必死の思いでイエスの許に駆け寄りました。弟子たちはその有様を見て叱った。栄養、衛生、医療、すべてが貧しい時代です。多くの子供が命を失いました。親たちにとってイエスは異能者です。神からのパワーをもらって、子供の無事を守りたかった。そして主イエスは弟子たちを叱ります。主イエスの眼差しと、弟子たちの眼差しは、全く別のものです。弟子たちは駆け寄る親たちを見ています。子供たちのことは見ていません。一方主イエスは子供たちを見ています。心の視野に子供たちを入れて、「わたしのところに来させなさい」と言う。
子育ては、喜びと不安、期待と緊張を常に併せ持っています。心配は絶えません。そして主イエスは、親の心を知っています。小さい者たちを御許に招きます。日本の習慣に先立って、子供を祝福する主の招きがあるのです。「わたしのところに来させなさい」この招きに応えて、御許に近づきましょう。
それぞれに、事情や願いがあるところです。個別的な事柄については牧師にお尋ねください。主の祝福が子供たちと家庭に注がれるよう、協力させていただきます。シャローム!
■2012年9月 「金や銀はないが」
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
きたる9月4日に私たちの教会は、創立69周年を迎えます。役員会では、来年の70周年に向けて記念事業の準備を始めたところです。お祝いだけでは十分ではないでしょう。節目の時です。この機会に教会と向き合って、理解を深め、主と教会に仕える献身の心を新しくして行きたいと思います。
”私たちの教会は、どのような教会”なのでしょう。青年時代に聞いたエピソードを思い出します。
植松英雄牧師は福井県で開拓伝道。困難を極め、物質的にも試練の連続だったと言います。一握りの米もなくなったころ、一人の物乞いがやって来ました。あげる物は何もありません。物乞いが帰ろうとした時、「ちょっと待て」牧師は声をかけ、彼の頭に手を置いて祈りました。「金銀は我になし、ただ我にあるものを汝に与う。イエス・キリストの名によって立ち歩め!」。午後に再び来客。物乞いの親方がやって来ました。「うちの若い者がお世話になりました。人様から祈っていただいたことなどありません。誠にありがとうございます。」親方は感謝の気持ちとして、袋に一杯詰まったあんパンを置いて行きました。
愉快な出来事です。けれども、単に良い話と言うことではありません。現在に至るまで続く、梅ケ丘教会の行き方を示すものだと思います。神様の前に人を分け隔てしません。特別なものはないのです。しかし、何もない中にキリストがおられます。この方を信じて、力とし、誇りとし、希望として生きて行く。
教会は、主キリストによって形づくられます。すなわち、福音と、これに応える人々の信仰と愛によって作られて行きます。信仰を曲げれば、教会は曲がります。愛がなければ、教会に人は集まりません。十字架の血とそれに生涯をかけて応える人々の献身の努力によって教会は作られて行くのです。
私は、福音一本やりで歩みたいと願っています。この人生をかけて神と隣人を愛したい。傲慢、我がまま、無関心、欲得打算、神を侮るニヒリズム。教会は、私たちの中になお巣食うこれらの罪と闘って前進して行きます。究極的には、神を取るかこの世を取るか、どちらかです。梅ケ丘教会の先人たちと共に福音を取り、主のものとして歩みたいのです。
■2012年8月 「わたしに従いなさい」
ペトロは彼を見て、「主よこの人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。
あなたはわたしに従いなさい。」
(ヨハネもよる福音書21章21~22節)
恵泉女学園の創立者、河井道は、よく生徒たちに次のように語っていたそうです。
「他人を見てはいけない。他人を見たらつまずくよ。まっすぐ上を仰ぎなさい。」 この言葉は、生徒たちへのメッセージであると同時に、河井の信じる所でした。
「他人を見てはいけない」このことは十分わかります。自己と他者を比較して優劣を競うなら、心は奢りに酔うか劣等感にさいなまれるでしょう。私たちは良く知っています。そしてこのことを知りつつも、心の目を己自身から放すことが出来ません。出来る自分を称賛し、出来ない自分を責める。重要なのは、「まっすぐ上を仰ぐ」ことでしょう。自らに評価の目を向けて一喜一憂するのではなく、キリストを仰ぎ、この方の眼差しの中で生きることです。
主イエスを否んだペトロ。わが主の死を前にくずおれました。最後まで従うことができなかったのです。しかし復活の主がペトロの許に現れ、彼を引き起こしました。この後でペトロは、振り返ったのです。「この人はどうなるのでしょう」仲間のヨハネ。行く末が気になりました。ペトロは他人を見たのです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ペトロは、紀元64年ごろローマで逆さ磔にかかり殉教の死を遂げたと言います。一方のヨハネは、晩年をエフェソの教会で過ごし、長寿を全うしたと伝えられています。対照的な人生を歩む二人です。そして主イエスは、ペトロを見つめただひと言いいます。「あなたは、わたしに従いなさい」。
主キリストを仰ぐ。そこにあるものは愛の眼差しです。ありのままの私たちを愛し、最期に至るまで生かしてくださる方の慈しみ。そしてこれを知るとき、私たちは引き出されるのです。自分自身に評価を与え、時に奢り、時に卑下し、妬みや恨みを晴らそうとする心の檻から引き出される。主の愛の力に押し出されて歩む、新しい人生が始まるのです。
「わたしに従いなさい」上を仰ぎましょう。主イエスの招きに、応えて行きたいのです。
■2012年7月 「ひとつの土台」
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピ書2章6~8)
25年余りも昔のことです。青年会で「夏期伝道キャラバン」と称し、他教会へ伝道応援に行きました。第1回目は千葉支区・東総分区の教会へ行きました。出発するその週の日曜日、礼拝後に派遣式がありました。ひとりの役員が次のように祈ってくれました。
「受けるばかりで、与える事の出来なかった教会ですが、他の教会にささげられるまでにしてくださいました・・・」。
言葉が詰まりました。泣いていたのです。
梅ヶ丘教会は、植松英雄牧師夫妻の開拓伝道によってはじめられています。貧しい時代には、夏期の特別謝儀をお渡しできなかった。ベレー帽ひとつを贈って感謝の気持ちを表したと聞いています。旧会堂は線路に寝そべるように建っていました。うるさいのです。牧師館と教会はドア一つで隔てられていました。トイレも共用でした。私は教会に仕えて来た先人たちの祈りと努力、牧師とその家族の信仰と忍耐を忘れません。
六月の役員会で、千厩教会への支援が決まりました。私たちはこの活動を”伝道協力”という視点で行って行きたいと考えています。東京の比較的規模の大きな教会が、困っている被災教会を支えるのではありません。キリストを主とする教会として、共に祈り、支え合い、恵みを分け合い、協力していくのです。
ひとつの教会には、その教会ならではの恵みがあります。福音を糧として、使命に応える尊い営みがあります。これを重んじて、兄弟の交わりを求めて行きたいと思うのです。
私たちは経常予算の外に、「隠退教師を支える運動」「東神大を支えるからし種献金」を行っています。これに加えての募金活動。易しい事ではありません。そして覚えましょう。今日の梅ヶ丘教会の背後には、先人たちの数えきれない祈りと努力があります。これを支えてくれた諸教会の協力があります。さらにたどれば、十字架の主が土台となって、私たちの教会を創立時代から今に至るまで支え続けてくださっているのです。過去を覚えつつ、キリストというひとつ土台に立ちましょう。千厩教会もこの土台の上に立っています。主にあって共に立ち、前進して行きたいのです。
■2012年6月 「新しい霊、新しい心」
主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。
霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生きる。」
わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは行き帰って自分の足で立った。
彼らは非常に大きな集団となった。
(エゼキエル書 37章9~10節)
前597年、第一回捕囚。エゼキエルはこの中におりました。前587年、エルサレム陥落。翌年、第二回捕囚の実施。この時点で祖国復興の希望は、絶たれました。
エゼキエルは、バビロン捕囚を神の裁きとして捉えます。民の神に対する反逆、すなわち、異教礼拝、無分別な外交政策、社会不正の報いとして捉える。彼はもはや、民の自浄能力を信じることはできませんでした。”人間が再創造される、新しい霊が与えられなければならない。そうでなければ、人は罪の中から立ち上がることはできない”このように考えた。そして彼は語り始めます。枯れた骨のような民の中に、新しく霊が注がれる救いの日を語りはじめる。
注目したいのは、主の霊が注がれるとき、「彼らは生き返って自分の足で立つ」と語られているところです。神の霊の働きは、人を自らの足で立ち上がらせる働きなのです。
ペトロは、大祭司の屋敷の中庭で、我が主を否みました。十字架の許に男の弟子たちの姿はありません。しかし、復活の主イエスと出会い、聖霊を注がれた後、彼らは立ち上がります。「イエス以外に救いはない」と公言し、全世界に福音を宣べ伝える者たちになります。
神の霊を受けて人は自分の足で立ち上がる。心の中に軸ができるのです。神さまに愛され、罪を赦されている。現実は不条理であっても、自己評価は低いとしても、神さまは私を尊い者としている。心の中に神の愛が宿ります。生けるキリストが住むのです。この軸が力となって、人をもう一度立ち上がらせます。
エゼキエルは、「彼らは非常に大きな集団となった」と語っています。私たちもまた、うずくまる現実の中から引き起こされました。ペトロたちが、隣人を愛し、福音を宣べ伝え、教会を形づくって行ったように、私たちも前進しい行きましょう。新しい霊をいただき、新しい心で、神さまの愛と主キリストの救いを伝えたい。教会が一つとなってこの世に、主イエスの福音を宣べ伝えて行きたいのです。
■2012年5月 「不在の十日間」
彼らは都に入ると、泊っていた家の上の部屋に上がった。
それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
(使徒言行録1章13~14)
復活してから四十日目。主イエスは弟子たちに約束を告げます。
「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」そしてこの言葉を残すと雲に包まれ、天に昇りました。
弟子たちに聖霊が降るのは主イエスが天に昇ってから十日目のことです。わが主は、既に地上にはおりません。聖霊はまだ降っていない。言わば、”神不在の十日間”です。この間、弟子たちはどのように過ごしていたのでしょう?
聖書は伝えています。
「彼らは皆、心を合わせて熱心に祈っていた」弟子たちは不在の十日間を祈って過ごしたのです。
主イエスが十字架についたとき、男の弟子たちは姿を隠していました。後に残ったのは婦人の弟子たちのみ。彼女たちも信仰深いわけではありません。主が語った、復活を約束する言葉を忘れていました。集まった弟子たちはいずれも欠けの多い弟子たちです。そして彼らが、小さな信仰を集めて祈っていました。わが主の約束を糧とし、不安と闘い、希望を持って、熱心に祈っていたのです。
日本の世の中でキリスト者は少数派です。勢力が小さいと言うよりも、心が通じ合えない淋しさを感じます。目の前にいるつれあいや子どもたちに、自分が大切にしている福音が届きません。一緒に教会へ行くことができないのです。自分自身を顧みれば、毎日の忙しさに心を奪われます。時には、わけのわからないむなしさに襲われることもある。そしてこの中で、私たちは祈っているでしょうか。
信じることは、祈ることです。教会が信仰共同体であるのなら、教会はイコール、祈りの共同体です。弟子たちは立派ではありませんでした。十字架の前から姿を隠し、語られた救いの言葉を忘れてしまう。このような者たちが集まって祈っていたのです。たがいを認め、赦し合い、励まし合って、共に生きた。
私たちも祈りましょう。小さな信仰です。そして、主からいただいた尊い信仰です。この一つ一つを集めて祈る。祈りは聴かれます。共に祈る今日が、主キリストに力強く生かされる、恵みの明日につながって行くのです。
■2012年4月 「我らの心は燃える」
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカ福音書 24章30~32)
「もう少し」「もうちょっと・・・」時に、折れそうになる心を励まして、ここまで来たように思います・・・。まだ、道半ばですが。
私は、クリスマスよりもイースターの方が好きです。救い主の誕生は喜びであっても、安らかに眠る御子がやがて十字架におかかりになることを思えば、やはり辛くなります。夜通し野原で羊の群れの番をする羊飼いたち。星に導かれて旅をする東の国の学者たち。クリスマスは夜の出来事です。それは、この世という闇の中に輝く、光の到来を示すものです。これに対してイースターは朝の出来事。マグダラのマリアをはじめとして、婦人たちは夜の明けきらない早朝から動き出します。静かな春の朝、石で出来た墓の蓋は空しく転がっています。クリスマスが夜の聖祭であれば、イースターは朝の聖祭。クリスマスが救いの始まりを告げるものであれば、イースターは救いの成就を告げるものです。
冒頭に掲げたのは、エマオへ向かう弟子たちの心の目が開かれた瞬間です。二人は挫折していました。救い主と信じていたお方は、敵たちに捕らえられ、無力にも十字架につけられて死んでしまいました。希望も、願いも、ささげた献身も、実を結ぶことはなかった。二人はエマオへ向かいます。そして道々、復活した主イエスが見知らぬ旅人となって伴います。信仰熱心なので伴うのではありません。挫折して、信仰を捨てた二人にこそ伴うのです。やがて食事の席に着いたとき、見知らぬ旅人はパンを裂きました。二人の弟子はこの瞬間、心の目が開かれます。目の前にいるお方こそ、わが主イエスであることに気が付く。
目を伏せて、望みを失った道を歩くことがあります。「もう少し」「もうちょっと」己を励まして、今日を明日につなぐ日がある。そして聖書は、そこにこそ、主キリストが伴っていると告げます。すでに暗い夜は終わり、救いの朝が始まっていると告げるのです。
主キリストは、心の中にいるのではありません。あなたの隣にいるのです。あなたを愛し、人生を導き、用いようとしておられます。この事実を知るとき、私たちの心は燃える。静かに輝く朝の光の中で、復活の主キリストのゆえに、心は信仰に熱く燃え上がるのです。
■2012年3月 「希望に向かって」
家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
(エレミヤ書 29章5~7)
3・11より、一周年を迎えます。大津波が町になだれ込みます。止まらぬ勢いで滑走路や畑をなめ尽して行く。繰り返される映像を落ち着いて受けとめることができません。「大変だ!大変だ!」。災難に遭遇したり、急に家族の亡くなる場合があります。その場は耐えられるものです。しかし、失われた痛みは、ゆっくりと長い時間をかけて押し寄せて来ます。被災した人々の闘いは、これから始まるものと思います。そうであれば、復興、協力、共生も、これからが本番でしょう。私たちのすべきことはたくさんあります。
教会にとって何が重要かを考えました。祈りと献金がすべてではないでしょう。様々な支援の可能性を見つけ、応えて行きたいです。そして最も重要なことは、主の日ごとの、通常の礼拝をきちんとささげることです。教会がこれを失えば、世の中にいくら有益なことをしても、根のない切り花のようになります。実を結ぶには至りません。
冒頭に掲げたのは預言者エレミヤの言葉です。彼は捕囚の地にいる同胞に告げています。”時間をかけて果樹を育てなさい。家族を養いなさい。敵国のために祈りをささげよう。この日々こそが、救いの明日につながるのだ”と。
ここにあるものは、現実から逃げない生き方です。辛い現実に留まって、なお神さまに希望を置いて堅実に歩む、信仰のある生き方です。私たちも同じです。不安があります。混乱があります。自分の無力さを嫌と言うほど味わう。そしてこの現実を抱えて、神さまの前に出るのです。礼拝をささげます。礼拝の席で神さまは、私たちにキリストを与えてくださいます。御言葉と聖霊によって、聖餐によって、主キリストを与えてくださる。主を頂くことによって私たちは、神さまのものになります。これが救いです。これを大事にしたい。与えられる恵みを生きる力として、不安な今日から希望の明日へと、立ち向かって行きたいのです。
この闘いは長くかかるでしょう。簡単に癒えるものではありません。主の前に集まって、信仰の心を合わせることが求められています。
■2012年2月 「ひつじ会」
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ15: 11~12)
伝道委員会を中心に「ひつじ会」を立ち上げようとしています。改めて趣旨を説明いたします。
教会には、高齢や病床、その他の理由で、教会に来たくても来ることのできない人たちがいます。顔を合わせて、聖書の言葉を聴いて、共に祈る。ここに私たちキリスト者の慰めがあります。現在のところ訪問は、個人の間や牧師が行っています。クリスマスの時には、役員や教会員が牧師と共に訪問し、礼拝をささげています。「ひつじ会」の趣旨は、このような訪問をより充実させていくことです。
「○○さん、どうしているかしら?」思うことはないでしょうか。「訪ねて良いものか、悪いものか、ご迷惑になってはいけないし」思いつつ、時間ばかりが過ぎてしまう。このようなことはないでしょうか。牧師も充分に訪問出来ているわけではありません。そこで訪問を担当するグループを作って、福音を分かち合う機会を増やしたいと考えたのです。
注意すべき点がいつくかあります。本人や家族に負担感を与えないこと。プライバシーと守秘義務を守ること。訪ねる方も無理をしないこと。等々です。ひと言で要約すれば、人にしてもらいたいと思うことを人にもするし、人からしてほしくないことは、人にもしないこと
です。親切の押し売りになってはいけません。それぞれの気持ちと事情があります。これを踏まえた上で、福音を分かち合いましょう。
これからの予定を申します。 3月までメンバーの募集をいたします。4月にオリエンテーションと訪問に関する学びをします。以後、具体的な計画を立てます。多くの方々が個人的に訪ねてくださっています。この会ができたからと言って、個人の訪問を制約するものではありません。むしろ、互いに連絡を良くして、喜んでもらえる訪問のスタイルを求めていきたいと思います。
思い出話を一つ。私の母が亡くなったとき仏式で葬儀を行いました。この席に植松英二牧師と教会学校の教師たちが来てくれました。私の心には、教会の仲間たちが天から遣わされた人々のように見えました。多く親戚たちをよそに、やっと身内が来たと思いました。難しいことをするのではありません。信仰の仲間を訪ねて共に祈るのです。言わばそれだけ。会への参加とご協力をお願い致します。
■2012年1月 「主の食卓」
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。
わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。
皆が一つのパンを分けて食べるからです。
(Ⅰコリント10:16~17)
食卓があります。テーブルマスターは復活のキリスト。このお方が食卓に着いて御言葉を語り始めます。目の前でパン裂いて「取りなさい。これはわたしの体である」と言う。私たちはこの食卓に招かれている者たちです。主の食卓に座って御言葉を聴き、手を伸ばしてパンを取る。このようにして、主キリストご自身をいただくのです。
西暦325年にニカイア公会議が開かれています。この会議でキリスト教はローマ帝国の国教になりました。方々から司教たちが招集されます。そして集まった席には、耳のない人、鼻を削がれた人、手や足の不自由な人が大勢いたと言います。迫害に耐えました。生き残ったリーダーたちが集まって来たのです。迫害の中にいた教会は地下に潜伏しました。礼拝は、文字通り地下にあるカタコンベと呼ばれる墓地の中で行った。テーブルは棺桶です。迫害の末に亡くなった信仰の兄弟の棺をテーブルにして、彼らは聖書の言葉を聴きました。キリストへの感謝をささげ、救いを求めて祈ったでしょう。そして希望をもって、主のパンを裂いて分かち合ったのです。
信仰を持つ、キリスト信徒である、とは、主の食卓に座り続けることです。ここで聖書の言葉を聴き、聖餐のパンを食べる。皆でキリストをいただき続けるのです。これがキリスト信徒です。この食卓の集まりを教会と呼ぶのです。
過去を振り返れば、神も救いも知らない者でした。しかしこのような私たちが、主キリストから呼ばれました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」主キリストをいただいて生きるためです。神さまの愛の中で、一人一人がかけがえのない者として、生かされて生きるためです。
教会のすべきことはたくさんあります。人間のいるところに教会の出番は必ずあります。そして中心はひとつ。御言葉を聴きパンを分け合うこと。主の食卓が教会の命です。礼拝を大切にしましょう。私たちは心の中で主と出会うのではありません。礼拝の席で復活のキリストと出会うのです。主と出会って主をいただいて、このお方と共に生きる。ここに喜びがあります。人を救う神の力があります。