今月の一言(2014年)

■2014年12月 『大きな喜び』

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香1沈薬を贈り物として献げた。
(マタイによる福音書 2章10~11節)

 東の国の学者たち。彼らは、天文学、薬学に詳しく、占いや夢解きを行って、人の運命や世の動きに教えを与える人々でした。何日の道のりを歩んだのでしょう。星に導かれ、ついにベツレヘムにやって来ました。星が止まった家へ入ります。そこには、母マリアと共に幼子キリストがいた。黄金、乳香1沈薬、持参した宝を献げて御子を拝みます。そしてそこに、彼らの大きな喜びがありました。

 学者たちが拝んでいるのは幼子です。奇妙なことではないでしょうか。幼子は無力。知恵もなければ立場もありません。世に力を持つ賢者たちが、幼子を拝んで喜びとしているのです。
 神学生時代、ひとりの教授が説教壇から次のように語りました。
 「私は、学問はしてきました。しかし、それで救われるわけではありません。」
 当時七十年配。歴史神学の分野では高名な研究者です。「学問はしてきました」言えることがすごいと思いました。そして自らの努力と成果を主の前に相対化した。当たり前なのかもしれません。しかし、私にとっては忘れられない言葉になりました。
 努力をして生きる私たちです。少しは人に誇れるものもあります。しかし、それで救われるわけではありません。学者たちは旅をしました。救い主を求めて人生の旅をした。私たちも同じです。この世を生きる私たちには、癒され難い孤独があります。わけのわからない寂しさがある。不安な心があるのです。そして歓喜の予感を抱きながら、私たちはキリストを求めて旅をする。

 導きの星が止まったその家に御子はおられました。私はこの家を〃教会〃と考えたいと思います。私たちがキリストと出会い、礼拝をささげる救いの家です。
 聖書の言葉に導かれ、教会で主キリストを拝む。それは小さな出会いです。そしてここに大きな喜びがあります。裸の姿で私たちに近づく、神と出会う喜びです。この出会いを繰り返しましょう。世の旅を続ける私たちに、天の力が豊かにそそがれます。


■2014年11月 『キリストによって救われる』

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙 1章16~17節)

 10月31日は宗教改革記念日。1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に「95箇条の提題」を掲げました。この日が、宗教改革の始まりとされています。

 ルターには大きな苦悩がありました。苦行を重ね、善行に積み、勉強を続けても、救いの確信を得ることができなかったのです。ある日のことです。大学の図書館でローマの信徒への手紙を学んでいました。このとき天からの啓示を受けました。聖書に書いてある「神の義」の意味が分かったのです。ルターはこれ以前、神の義とは、悪しき者を罰する神の力と考えていました。そこで、正しくなり得ない自分は救われないと考えたのです。しかし、啓示によって心の目が開かれました。神の義とは、救われない者を救う神の力であることを悟ったのです。すなわち、すべての人がただキリストを信じる信仰によって救われることに開眼しました。宗教改革に先立つ4年前の出来事です。

 当時のカトリック教会は、神人協働によって救われると教えていました。これに対してルターは、人を救うのは神であり、救い主キリストを信じることによってのみ、人は救われると確信しました。日本キリスト教団は、この信仰を受け継ぐものです。

 現代は様々なところで「多様化」が語られています。それぞれの個性や考え方、生き方が重んじられます。確かにそうです。実際、聖書自身が多様です。新約だけを考えても、マルコとヨハネとでは、メッセージは全く違います。
多様性を重んじることは重要。同時に、一致を考えなければ多様性は単なる「それぞれの違い」に終わるでしょう。教会に繋がる私たちは多様です。そしてそれぞれを一つに結ぶ帯は、主イエス・キリストに対する信仰です。

 ”このお方によってのみ救われる。他に救いなし”
聖書が示す福音を堅持します。この一つに立って教会を形作り、力を合わせて伝道して行きたいのです。


■2014年10月 『あなたはまねかれています』

あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのだ。
(ヨハネによる福音書 15章16節)

  ”ぶどうの食べ方”をご存じでしょうか。ぶどうは、房の下から上に行くほど糖度が高くなるそうです。そこで、下から食べる。下から順番に食べると段々糖度が高くなるので、最後まで「甘いぶどうだった」と言うことになる。信仰の世界も似ています。”福音の信じ方”があるのです。

①規則性を作る
「教会には行けるときに行こう」これはダメ。一般の時間と教会へ行く時間を並列にすると、教会は必ず遠くなります。十戒には「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20章8節)とあります。聖別とは神様のために取り分けることです。「この日は必ず教会へ行く」日を取り分け、実行することから具体的な信仰生活が始まります。

②自分で聖書を読む
聖書は66巻の書物が集まって出来ています。拾い読みではなく、ひとつの書物を通読することを勧めます。たとえばマルコの福音書を通読する。そこから聖書の世界に入ることができます。読む時のポイントは二つ。祈る心(「神さま、キリストを教えてください」の心)で読むこと。読んでいくうちに、必ず心に引っ掛かる箇所と出会います。そこは自分に関係のあるところです。聖書に印をつけ、心の中で温めましょう。気づきや発見が与えられます。

③祈る
朝でも晩でも、毎日祈ることが重要。短くて良いのです。感謝をささげ、主に問い、願います。自分や家族、教会のために祈りましょう。祈りが成長すると、多くの隣人や世の中のためにも祈れるようになります。祈りは独り言ではありません。受け止めてくださる主は生きています。続けていく中で、祈りが聞かれる不思議を経験します。

④牧師に絡む
信仰は他者を必要とします。日常生活の中でも、誰かと対話することで気持ちの整理されることがあります。分からないところが分かるようになります。同様に、信じる心や疑問点を話してみることが大切。対話を通して、信仰が形を現して行きます。
ひとりひとりが、主キリストによって救いへと招かれています。時は移り変わります。”今この時”を生かして行きましょう。


■2014年9月 『教会創立71年目』

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。
(コリントの信徒への手紙一 13章13節)

  夏の計画ひとつひとつが、豊かに守られました。大きな恵みです。感謝します。
青年会・修養会に出席しました。参加者は総勢12人。メンバーの顔ぶれを見れば、社会人、大学院生、大学生、高校生。年齢、日常生活、関心、目標、それぞれに違います。そして、一人一人が真剣に信仰の思いを語り、祈り合いました。互いの心を理解して、素の心がかみ合っているのです。
 話し合いの輪の中に身を置くうち、自分が青年であった頃を思い出していました。30年前の記憶です。ボンヤリとした思いから我に返って顔をあげれば、そこには青年時代の仲間の子供たちが、青年となって主の恵みを語っています。着任したときには小学生であった子が高校生になっているのです。参加している一人一人が大きな成長を遂げていました。彼らは主と隣人を心の視野に置き、自らを問いつつ、自分の道を見出す努力を続けています。私はその席にいて、名状しがたい畏れを抱きました。世代を通して人に働く主の恵みを、現実のものとして見せていただいたからです。
 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」パウロの言葉です。文脈をたどるとこの言葉は、教会とは何かを説き明かした、結論として語られています。教会とはキリストの体。あなたがたはその肢体。全体を一つにする要は、信仰と希望と愛。そして最も大いなるものは愛である、と。
 教会は、来る9月4日に創立71周年を迎えます。創立牧師植松英雄先生から数えれば、青年たちはひ孫の代です。世代を貫いてひとりの主が私たちを生かしています。
 求められているものは何でしょう。単純なことです。真面目に礼拝をささげ、主キリストを頂戴することです。聖書の言葉と聖餐によって主キリストを頂く。このとき私たちは変わります。信じられなかった者が信じられる者になり、愛せなかった者が愛せる人に変えられていく。
 堅実な教会生活を積み重ねて行きましょう。主に対して忠実、隣人に対しては誠実にありたいです。この営みの中でキリストが大きくなります。皆が成長して行きます。


■2014年8月 『キリストを着る』

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
(ガラテヤの信徒への手紙 4章26~27節)

 〃ありのままの 姿見せるのよ
  ありのままの 自分になるの〃
 『アナと雪の女王』主題歌のサビの部分です。歌詞の最後は次のように結ばれています。
 〃これでいいの 自分信じて
  光あびながら 歩き出そう
  少しも寒くないわ〃
 他者との比較による劣等感。低い自己評価。極端なほどの自信のなさ。ここから解放されて、ありのままの自分を信じて生きて行くと言うことなのでしょう。十代の心の扉を開く「鍵」のような言葉です。
 
 昔「本音」と「本心」は違うと言った牧師がいました。本音は醜悪なもので、欲望、妬み、憎しみ、後悔、絶望、無気力。人の汚い思いが詰まっている。これに対して本心は、本音を克服して真実な思いを貫いて行く心である・・・と。
 そうだと思います。ありのままの自分を表すことが単なる自己肯定であれば、〃自分大事の居直り〃と大して変わらなくなるでしょう。ありのままに自らの本心を見せ、貫いて行くことが大事だと思うのです。

 パウロは「あなたがたは皆、キリストを着ている」と言います。裸の私がいます。暗く重い本音を抱えるように、道の途中でうずくまっているのです。そして神さまが、裸の私にキリストと言う救いの衣を着せてくださいました。孤独、貧しさ、惨めさ、寒さと不安から身を守る天来の装い。この衣を着ているので、私たちは立ち上がることができます。暗い本音を克服して、本心を生かす勇気と忍耐を与えられるのです。そして問われるのは「本心とは何か」です。案外、自分の本心は分からないものです。

 祈ることが大切です。祈ってください。自分のこと、家族のこと、仕事や隣人のこと、教会に関すること。主に心を尽くして祈る祈りがあれば、それがあなたの本心です。人は、真剣な祈りの中で自分の本心と出会うことができます。そして本心に出会ったら、これを大事にして生かして行く。

 ありのままのあなたが、キリストという命の衣に包まれて、光り輝くでしょう。


■2014年7月 『キリストに生かされて』

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章8~10節)

 私が19歳のとき、祖父が亡くなりました。1980年7月30日のことです。祖父は1902年の生まれです。赤ん坊のころに母親が亡くなり、お祖母さんに育てられたと聞きました。貧しい家です。腕一本、気力と体力だけが財産でした。妻と三人の子供を残して日中戦争へ行きました。応召する前夜、爪を切って妻に託したそうです。戦死した場合、骨は帰らないので、墓に収めるためのものです。六人の子供を育て、世田谷に小さな家を建てました。律義で明るい人でした。母の父親です。一緒にいるだけで、安心できました。

 その日はすでに意識も朦朧としていました。兄が見舞いに来ました。すると祖父は目を開け呂律の回らない舌で言いました。
 「兄貴か?・・・。俺はもうダメだ・・・」。
「・・・。ダメだって言ったって、おめえ、ダメだ、ダメたって言いながら、ここまで来ちゃたじゃねぇかよ・・・」。
 兄80歳。弟78歳。今生で交わす最後の言葉でした。

 人は、希望に燃え、自信にあふれて生きるのでしょうか。私はそうではありません。「あと少し、あともう少し」挫けそうになる心を励ましながら、何とか生きています。いいえ。普通の意味で努力はするのですが、やはり、大きなお方によって、生かされて生きていることを感じます。

 パウロが伝道者として働いたのは、およそ三十年足らずです。決して快刀乱麻の伝道ではありません。迫害、逮捕、投獄、鞭打ち、飢え渇きに裏切り。体には病がありました。この中で立ち上げた教会からは幾度も背かれます。そしてパウロは語るのです。〃四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望することはない〃と。
 
 ダメだ、ダメだと言いながら、人は長い人生を歩むのでしょう。そして私たちをダメにすることなく、生かしてくださる方がいる。主に対して忠実でありたいと願います。このお方に生かされて、万民の救い主をはっきりと、指し示して行きたいのです。


■2014年6月 『信仰の献げもの』

一人の貧しいやもめ来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
(マルコによる福音書12章42~44節)

 一クァドランス。150円程度です。パンと牛乳を買って、食事にするのでしょうか。片方には大勢の金持ちが多額の献金をしています。しかし、イエスはやもめの献げものを見て言いました。「だれよりもたくさん入れた」と。価値を計っているのではありません。今日の生活に必要なすべてを献げた、やもめの心を見ているのです。

 〃お金〃の事を言えば、私たちの教会は100パーセント献金によって運営されています。付帯事業も、資産運用もしていません。この点で信仰と共に、教会員一人一人が教会の責任当事者です。「『月定献金』はいくらすればいいのだろう?」考えることがあるでしょう。隣近所を見て決めることではありません。神さまの前に責任をもって「私はこれでよし」、決めたところを献げればよいのです。

 教会には外部支援の献金があります。「隠退教師を支える運動」「東神大を支えるからし種」「千厩教会支援」。負担感を覚える方がいるかもしれません。祈りを込めて自分に出来るところを献げましょう。私の献げものは一粒の水滴かもしれません。しかし集まれば、コップを満たす一杯の水になります。それは人の渇きをいやす力を持つものです。

 大切なのは信仰の心と行いです。心と行いが一つになって信仰は人生の中に形を表します。献金は口に出しにくいものです。しかし大切なこと。信仰において、大切なものを大切にしていきたいです。

 貧しいやもめは、なぜすべてを献げたのでしょう。彼女は、持ち物をすべて献げることによって自分自身を献げたのです。そしてここに、彼女の平安がありました。

 献金、奉仕、祈り。献げ物の形は様々です。主キリストを頂いている私たちです。一つ一つを通して自分自身を献げましょう。そこにあるものは、主に結ばれた平安です。


■2014年5月 『石は転がされた』

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、
マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って
近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
(マタイによる福音書28章1~2節)。

 主イエスが息を引き取ったのは金曜日の午後3時。あと3時間足らずで日が暮れます。ユダヤの暦は日没とともに日付が変わります。
金曜日の日が沈むと土曜日が始まります。土曜日は安息日。律法の掟に従って、働くことが禁じられる日です。
このとき、アリマタヤのヨセフが立ち上がりました。イエスの遺体を引き取ります。何とか、日没までに遺体を墓の中へ納めたのです。

 そして、日曜日の朝。マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を訪ねました。突然大地震が起こります。
天使が降臨して墓を塞ぐ石を転がし、そのうえに座ったのです。

 当時の墓は、山の斜面に横穴を掘って作りました。出入口を一つ設けます。短い通路があり、奥が広間になっています。そこに段々ベッドのような棚を設けて遺体を安置しました。出入口には、大きな石を円盤の形に加工して転がしておきます。述べられている「石」は、生ける者と死んだ者とを隔てるものです。人間には動かすことができない「死」を象徴するものです。

 人は死という限界の中で生きています。そしてそれが、いつ、どのような形で来るのか、誰にも分りません。
愛する者を失えば絶望の淵へ投げ込まれます。平凡な日常生活の中で私たちは、死と絶望の危機に脅かされていると言えるでしょう。

そして、聖書は告げます。”石は転がされた”

 天使が石の上に座りました。死を尻の下に敷いているのです。主イエスが復活したとは、このようなことだと言うのです。

 重要なのは、この福音をどのようにして自分のものにするかです。
私たちに天使は見えません。復活のキリストは、目で見ることも触って確かめることもできないのです。
そして、天は開かれています。動かないと見える現実の中で天は開かれている。だから私たちは、聖書の言葉を聴き、祈ります。熱心に礼拝をささげるのです。このようにして天を仰ぎ、見えないキリストに結ばれます。主イエスを信じて現実が変わるのか変わらないのか、信じるあなた自身が、福音の確かさを知ることになります。


■2014年4月 『洗足木曜日』

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
(ヨハネによる福音書13章3~5節)

  十字架にかかる前日のことです。主イエスはたらいに水をくみ、手ぬぐいを腰にまとって、弟子たちの足を洗い始めました。ペトロの番になると彼は言います。
「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
主イエスが洗う洗足は、十字架の意味を解き明かすものです。

”わたしは、人々の罪の泥足を洗うために十字架につくのだ” このことを身をもって教えるのです。

 素足にサンダルを履いています。弟子たちの足は、とても汚かったはずです。
主イエスは、真似事のように洗ったとは思えません。弟子の足一つ一つを手に取って、ゴシゴシと、本気になって洗ったでしょう。

 子どものころ、足を洗ってもらいました。夏休みのことです。祖父と二人で銭湯へ行きました。私の足は真っ黒。ゴム草履の鼻緒の跡が白くなっています。祖父は投げ出した私の足を脇腹のところまで持っていき、石鹸をつけて指の股まで洗ってくれました。
 私たちはかつて、誰かから足を洗ってもらいました。そして、その人は、”あなた”を深く愛してくれた人です。

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(13章8節)

 主イエスが私たちに求めていることは、足を差し出すことです。罪、嘆き、恨み、妬み、絶望・・・。私の足の泥足が自分自身と隣人を苦しめます。この足を差し出す。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 これと同時に、ささげることを学びましょう。私の最も辛く汚いところを主にささげるのです。覆いようのない現実を主の前に差し出しましょう。罪の泥足を拭って頂くとき、私たちは本当のところで主キリストの弟子になるのです。


■2014年3月 『教会総会とは』

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
(使徒言行録2章41~42節)

 代々の教会は、重要なことを決定するときに会議を開いてきました。第1回の公会議はニケア会議(325年)。イエスの神聖(子なる神)を否定するアリウス派が退けられます。しかしアリウスを支持する人々は多く、教会は不安定な状況でした。そこで第2回の公会議が開かれます。コンスタンティノープル公会議(381年)です。この席でアリウス派は完全に退けられ、今日の「三位一体」の教理が確定します。
このように教会は、会議によって重要な事柄を決定し、歩むべき道を見出していきました。議題を提出し、議論し、決定するのは人間です。しかし会議に神さまが働いて御心を表してくださることを信じます。そこでいつの時代でも教会の会議は、聖書の言葉を開き、祈ることから始めるのです。
 3月16日(日)に梅ヶ丘教会は定期総会を開催します。教会会議を開くのです。神さまの心を求めて新年度の計画を立てます。役員を選び、予算を決定します。使徒言行録は次のように伝えています。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
礼拝を中心とした教会の営みです。この営みに支障をきたすことなく、教会が福音の恵みに満たされ、伝道の奉仕をささげ、信じる者たちが豊かに増し加わるために、教会は信仰をもって会議を開くのです。
 私たちが最初にすべきことは、祈ることです。きたる総会で神さまの御心が成ることを願って祈りましょう。次に重要なのは出席することです。教会は、洗礼を受けてキリストに結ばれた者たちの集まりです。一人一人が集まって梅ヶ丘教会を形作っています。「私ひとりいなくても・・・」もしこのように考えるのなら、どうでしょう。責任ある態度ではありません。寂しい教会になってしまうでしょう。反対に「皆で出席しよう」このように考えたらどうでしょう。豊かで力強い教会になります。主キリストに従うとは、こういうことです。
 祈って、準備して、会議に出席する。そして、決めた事を実行していきましょう。新年度。共に福音にあずかりたいのです。