■2015年12月 『あなたは尊い』
恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
(ルカによる福音書 2章 10~11節)
救い主の誕生を最初に知らされたのは、野にいる羊飼いたちでした。臨時雇用の身の上。仕事を求めて旅から旅を続けます。彼らに家庭はありません。親の顔さえ満足には知らなかったかもしれません。氏素性の知れない流れ者。このような彼らであればこそ、野宿をして、夜通し羊の群れの番をしたのです。夢はありません。朝になれば交代がやって来ます。ひと口の酒を飲んで寝るだけ。これ以外には何もありませんでした。そして、神がこの現実を破ります。〃今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。〃
かつて、ひとりの恵泉生と出会いました。高校3年生です。彼女は舞台を作るクラブに所属していました。演じるのではありません。ピアノが得意と言うことで、伴奏の担当をしていました。彼女はステージの袖に隠されたピアノを弾きます。舞台の進行を見ながら、各々役を演じる友達の歌声に合わせてピアノを弾きました。間違えてはいけないし、目立ってはいけない。本当は舞台に立ちたかったのです。けれどもピアノを弾く人がいないので、彼女は中高生の5年間、伴奏を続けました。
高校3年生になって引退したとき、クラブにはピアノを弾く人がいませんでした。方々から人を集めて何とか舞台を作った。このとき彼女は思いました。「自分も役に立っていたのかもしれない」と。そして卒業間際の小論に、次のように書きました。
「浴びる光の量は違えども、恵泉の生徒一人一人が存在すること自体が美しい。」
彼女は、一人一人を見つめる神さまの眼差しを悟ったのかもしれません。
生きることが辛く思える日があります。膨大な努力に何の意味があったのかと思う。浴びる光の量は違うのです。けれども、無駄な努力はありません。意味のない人生はない。神は野にいる羊飼いに御子を与えました。神にとって彼らは尊い者たちだからです。そして、主キリストが与えられます。このお方を受け取るとき人生は輝きます。あなたは、神の前に尊い者として輝く。神の愛によって、豊かに輝きはじめるのです。
■2015年11月 『恵みは弱さの中に発揮され』
この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
(コリントの信徒への手紙 二 12章 8~9節)
パウロには持病がありました。発作を伴う病のようです。一度それが起きると傍にいる人々は、同情を抱くよりも異様に思えてしまうものでした。パウロは主に癒しを求めます。「苦痛から解放されたい。病が癒されればもっと伝道できる。」思ったことでしょう。そして何よりも、人につまずきを与えたくありませんでした。再三再四主に祈り求めました。そして頂いた答えは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」この御言葉です。
私たちは子供のときから力を養います。体力、知力、適応能力。養うべき力を数え上げればきりがありません。実社会に出てからも同じです。学校での学びは基礎で、実社会に出てからの日々こそ、本当の学びと言えるものでしょう。そして力を蓄えたはずの自分が、ある日つまずきます。最も辛いのは、愛する者を失ったときです。
父と二人で母の遺品を片付けていました。父にとっては妻の遺品です。前後の会話は忘れたのですが、ひと言、ポツリと言いました。「お前には分からない・・・。」父の心を受け止めたわけではありません。ただ、黙って言葉を聞いていました。
たくさんの試練があります。私たちはそう弱くはありません。力はあるのです。ところが、愛する者を失うと、何をよすがに頑張ればよいのか分からなくなってしまう。
パウロは焦っていたのかもしれません。伝道をすれば迫害が起こります。教会が形づくられるとトラブルが起きる。異邦人教会をまとめ、エルサレム教会との一致を構築しなければならない。更に伝道の志は遠くスペインにまで及んでいます。肉体の回復と共に、人生の癒しを求めたように見えます。病が治り行く道を開いてほしい、と。そして主からメッセージをいただきました。〃あなたは弱くて良い。わたしの力は弱さの中でこそ発揮される〃こう語られた。
神の救いはここから始まります。「もう、ダメだ」思ったそのところから、主の力から働く。不思議にも、ダメな私をダメにしない、主キリストの力が豊かに働くのです。
■2015年10月 『ともし火を消すな』
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
(マタイによる福音書 25章 3~4節)
婚礼は日が暮れてから行われました。まず、花婿の家、花嫁の家、双方で宴が開かれます。やがて花婿は行列を仕立てて花嫁の家へ向かいます。花嫁を迎えに行くわけです。この際、ともし火を掲げて花婿一行を迎えるのが乙女たちのすることでした。つぎ足す油を用意している乙女たちがいます。一方の乙女たちは、用意をしていませんでした。花婿は不意に現れました。用意をしていた乙女たちは花婿を迎えることが出来ます。しかし用意のない乙女たちは、迎えることが出来ませんでした。
たとえ話の要点は、再臨のキリストをいつでも迎えることが出来るよう〃信仰の油を絶やすな〃と言う警告です。
信仰が油であれば、燈芯の先にともされる灯りは祈りと言うことが出来るでしょう。キリストを照らし出し、私たちの現実に光を与える恵み灯りです。信仰生活にとって祈りは欠くことができません。しかし、「祈らなければならない」と考えることはやめましょう。主イエスは言いました。
わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(ルカ 22章32節)
私たちは祈られています。主キリストの愛を知り、このお方の祈りを土台にして祈るのです。温かい心と希望を持って祈ります。祈りは、主の愛に対する応答なのです。
あなたの一週間の中に祈りがありますか。家庭の中で、幼い子どもと一緒に手を合わせて祈っているでしょうか。
祈りのともし火は弱く小さなものです。思い煩い多い日常生活の風に、すぐ吹き消されてしまいます。しかし、弱く小さな灯りは闇の力よりも強いのです。私たちは祈ることによってキリストに繋がります。険しい現実の中で主の臨在を知ることが出来るのです。教会に来て、聖書を学んで、それで満足していたのではいけません。現に祈ることによって、あなたの人生にキリストが伴っていることを知ってください。そして、このお方と一緒に生きてください。
信仰の油を満たしたランプに祈りの灯りがともる。主キリストがあなたを照らします。ここから、現実が変わって行きます。
■2015年9月 『わたしたちの力の源』
今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
(ネヘミヤ記、8章10節)
会堂の補修工事を行いました。屋上、2階、3階テラスの防水工事、エレベーター機械室の換気工事、3階トイレの修繕、洗面台交換等。築後18年を経た建物です。メンテナンスが必要なのは当然です。それだけではありません。私たちの会堂は様々な問題を持っています。雨漏りの心配が完全になくなったわけではありません。地震や体には感じない揺れによって、建物の随所に亀裂が生じています。一つ一つを丁寧に検証して、手当てを続けなければなりません。気骨が折れ、お金がかかります。ため息をつきたくなります。しかし私は、これは神さまからの問いかけであると思います。建物の問題を「ため息の種」にするのか、「恵みの種」にするのか、私たちに問われていると思うのです。
快適であれば何も起こりません。しかし問題があれば、話し合いの席が設けられ知恵を集めます。そこには、様々な意見があり、対立や葛藤も生じるでしょう。そして、山坂を越えるようにして相応しい結論に達します。お金はすぐには集まりません。計画を立て、一人一人の信仰と努力が集まって、ようやく必要が満たされていきます。私たちは、困難を真正面から受け止めることによって、成長を与えられるのだと思います。ごく普通のことを、信仰をもってしっかりと行っていくとき、実は、教会という霊的な共同体が力強く作られて行きます。
冒頭に掲げたのは民に告げるネヘミヤの言葉です。48年に及ぶバビロン捕囚から帰って来ました。幾多の困難を乗り越えて神殿を再建した。この後ネヘミヤは、人々に律法を教えて神の民の再建を行っていきます。彼の心の中にあるものは、神を喜びとする信仰でしょう。〃神の愛を喜び、礼拝をささげて祝うことが、イスラエルの力である〃ネヘミヤはここに立っています。
主キリストの愛を知っているから、小さくはあっても労苦をささげることができます。私たちの信仰と様々な努力が集まって教会は豊かになります。さらに多くの人々を招いて、主を喜びとし、力とする教会に成長していきます。ひとりの主を仰いで前進していきましょう。今は恵みの時です。
■2015年8月 『ライフノート』
わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
(フィリピの信徒への手紙、4章2~3節)
『デスノート』をご存知でしょうか。現在テレビドラマとして放映中。原作は漫画です。デスノートと称する死神が使うノートがあります。ページに人物の顔を思い出し、氏名と死亡時刻を書くとその通りに死んでしまう。〃死のノート〃というわけです。このノートを夜神月(ヤガミ・ライト)という青年が所有します。凶悪犯たちの名を書き込んで行きます。次々と悪人たちが死んでいく。彼は〃キラ〃と呼ばれます。キラは正義の味方が殺人鬼か。物語はここから展開していきます。面白いです。
聖書の世界には、「命の書」と言う言葉があります。救われるべき人として、神さまに覚えられている人物を意味します。「私の名前はあるだろうか?」「連れ合いの名はどうか?」このようなことを考えるところではありません。私たちは、「あなたの名前も、私の名前も、命の書に記されている」このように信じます。このように信じて祈りをささげ、伝道をして行くのです。
エボディアとシンティケは熱心な教会の奉仕者です。しかし互いに対立してしまいました。そこでパウロは、「真実の協力者」と呼ぶ人に仲介を依頼し、二人の婦人を支えてくれるように頼みます。命の書に名を記されている者同士、互いに補い、生かし合って行こうとするわけです。
私たちは「デスノート」でなく、神さまから「ライフノート」を与えられています。それは、誰かのために真剣に祈ること、互いに生かし合う労苦をささげることです。
皆さんは祈っているでしょうか。誰かの救いを願い、顔を思い出し、名を挙げて、祈っているでしょうか。既に祈っているなら、根気よく続けましょう。まだ祈っていないのであれば、今日から心にある一人一人の名前を出して祈りましょう。私たちのささげる祈りと労苦は決して空しく終わりません。他者を生かし、自分自身が生かされる、恵みの不思議が起ります。ライフノートは、あなたの心の中に託されています。
■2015年7月 『あなたを見守る神』
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
(詩編121、3~6節)
121編は「巡礼歌集」と呼ばれるものの中の一つです。冒頭は次の言葉で始まっています。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を作られた主のもとから。
礼拝が終わりました。巡礼者はエルサレム神殿を出発します。山々を越えて旅をしなければならない。危険に向って踏み出すのです。このとき彼は問いました。「わたしの助けはどこから来るのか」と。答えが響きます。祭司が告げる祝福の言葉です。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
「神があなたを助けてくださる。神はまどろむことも眠ることもない。あなたの右にいて、常に守ってくださる」このように宣言される。
私たちも同じです。日曜日に教会に帰って来ます。礼拝をささげて一週間の暮らしへと遣わされて行く。このとき思うのです。「誰がこの一週間を守ってくれるのか・・」と。激しい職務があります。よじれた人間関係、病める家族、いつまでも痛む体。日常に戻ることが、怖くなるときがあります。しかし、私たちは聴くのです。牧師を通して告げられる神の祝福の言葉を聴きます。「主イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の親しい交わりが、遣わされて行くあなたがたと一同と共に、今も後も豊かにあらんことを」この言葉を聴く。
人は神さまを捨てることがあります。忘れるのです。しかし神は、人を捨てることがありません。キリストが十字架についたとはそういうことでしょう。そしてこの主キリストが、人生に伴ってくださいます。礼拝から礼拝までの一週間を守り、あなたの行く道を、確かに導いてくださるのです。
■2015年6月 『神の言葉に生かされる』
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
(コリントの信徒への手紙一12章27節)
パウロは教会を人間の体にたとえます。ある人は足、ある人は耳、また別の人は目。異なる部分が合わさって一つの体であるように、教会も様々な人が主に召され、一つの信仰共同体を作っていると言うのです。
新年度が始まって二か月が過ぎようとしています。当たり前なことが当たり前に進んでいます。この背後には、教会員一人一人の信仰と努力があります。たとえば礼拝です。当日に先立って、司式者、奏楽者の準備があります。当日になれば受付や献金の奉仕者が立ちます。前の日にはお花を活ける人がいる。礼拝が終われば、財務担当者は会計事務をいたします。それだけではありません。一週間を通して、教会員がそれぞれのところで礼拝の幸いを願って祈るのです。このように、信仰と努力が集まって教会の営みが作られて行きます。その末に、当たり前なことが当たり前に動いて行きます。それは尊く、幸いなことです。
私たちはある日教会に来ました。導かれたのです。やがて、信じる心が与えられ、洗礼を受けて教会のメンバーになりました。異なる私たちです。一人一人を捉え一つに結んでいるのは主キリストです。では、私たちを生かしているものは何でしょう。信じる心を育て、信仰の努力へと押し出すものは何か。それは、〃神の言葉〃です。教会がキリストの体であり、一人一人が部分であれば、血液のように体中を巡って生かすものがあります。私たちにとってそれは神の言葉です。聖書から語られる福音のメッセージが、私たち一人一人を生かし、教会全体を生かして行くのです。
聖書の言葉が語られるとき聖霊が働きます。復活のキリストをはっきりと指示し、人に信じる心を与えます。既に信仰を得ている人には豊かな養いを与えます。そして、注意しましょう。このような神の言葉は、外から来るのです。樹木が注がれる雨によって潤されるように、福音の言葉は外からやって来る。私たちの狭い心を乗り越えて神の言葉が到来します。新しくキリストを指示して、力強く人を生かすのです。
福音の言葉を聴き、キリストに結ばれ、信仰と努力をささげる。教会が作られます。ここに、主と共に生きる幸いがあります。
■2015年5月 『腰を据えた伝道』
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町に平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」
(エレミヤ書 29章4~7節)
ユダの民は、捕囚はすぐにでも終わると考えていました。いいえ。そのように考えたかったのです。しかし、エレミヤははっきりと告げます。「妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。」捕囚は三世代の長きにわたって行われるのです。これを受け止めて、家を建て住み、園には果樹を植えて育てる。捕囚の地で、腰を据えて生きて行けと告げるのです。
この世の現実は厳しいものです。教会も例外ではありません。主の恵みと共に、それに応える信仰と努力がなければ、教会の営みを維持発展させることはできません。聖書の言葉を聴き、祈る。礼拝への集中が求められます。教会に何が必要かを洞察し、実行しなければなりません。そしてすべての営みに愛がなければ、教会は枯れてしまいます。
今年度の課題の一つは、会堂保守に関することです。現在、会堂維持委員会を中心に新しい会堂保守計画を作成しているところです。これに従って順次補修工事をしていくことになるでしょう。ふさわしい計画と資金が求められます。また外に対しては、「東京神学大学を支えるからし種献金」と「隠退教師を支える運動」を行っています。東神大の方は若い人々を育てるため。隠退教師の方は、年を取った牧師たちを支えるため。二つの献金運動は、信仰の視点で捉えれば一対のことです。
礼拝を大切にし、会堂を維持し、対外支援に協力していく。地味な営みです。それは園に果樹を植え、世話をして実りを待つ営みでしょう。そしてこの一つ一つを確実に行っていくところに、教会の明日があるのです。
〃腰を据えた伝道〃神の言葉に照らされ、キリストを信頼し、目の前の現実一つ一つをクリアーして行くことです。そのために、私たちが信仰と努力を共にしていくことです。
■2015年4月 『力づけてやりなさい』
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(ルカによる福音書 22章31~32節)
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」ペトロが言いました。嘘ではありません。本当のことを言ったのです。そしてこのペトロが、大祭司の中庭で叫びます。「わたしはあの人を知らない!」。信じる心が本当なら、我が主を捨てる弱さも本当のもの。
主イエスは十字架の上で死にました。しかし三日目に死の中から復活を遂げます。甦りの主はペトロに御姿を現して問いました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。
主イエスの十字架の死は、私たちの罪を赦し弱さを覆うものです。このキリストがペトロに近づき、彼を立ち直らせてくださいました。主は、罪を赦して真心を引き出すのです。このキリストに出会うとき人は、罪と弱さを克服してもう一度生きることが出来ます。愛と信仰を取り戻すことが出来る。そしてこの人々が、福音を宣べ伝え、教会の造り手となったのです。
長崎を訪ねたときです。ひとりの神父が言いました。「転んだ人たちがいるから、福音は私たちの所に伝わったのだよ」。すべての人が殉教したら、福音は後世に届きません。転んではまた立ち上がった人たちがいたのです。
教会は、立派な人たちの集まりではありません。神さまに対して裏切ったり背いたり。人間的な悲しみや後悔、たくさんの心の傷を抱えた人たちの集まりです。十字架についた主イエスを前にするとき、自分自身の罪が暴かれます。弱さと嘆きに光が注がれるでしょう。そしてキリストの御手の中で一つ一つの罪が赦され、弱さは覆われていきます。ここで人は、もう一度立ち上がることが出来るのです。自分から逃げずに、現実に立ち向かうことが出来ます。
主イエスは言いました。「兄弟たちを力づけてやりなさい」。主に立ち直らせていただいた私たちです。愛と信仰をもって互いに祈り合い、励まし合います。福音を宣べ伝え、私たちが教会を造って行くのです。
■2015年3月 『キリストの眼差し!』
しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指しておられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。
(ルカによる福音書 9章53~55節)
ある幼稚園。朝の礼拝が終わりました。
・男の子「先生、あの子お祈りのとき、目開けてたよ。いけないんだよね」
・先 生「・・・・。あなたどうしていたの?」
弟子たちがしたことも同じです。主イエスは決然としてエルサレムを目指します。そこにあるものは十字架の死。旅の途中でサマリア人の村へ入ります。しかし村人は一行を受け入れてくれませんでした。そこで腹を立てたヤコブとヨハネは天からの裁きを求めた。彼らには見えていません。自分の罪が見えていない。自分の罪が見えていないとき私たちは、キリストを見失います。十字架を負う我が主の御姿を見失ってしまうのです。
私たちは、日常生活の中でどれほど罪を自覚して生きているでしょう。日頃を振り返れば、善に過ぎないように、悪に過ぎないように、バランス感覚を働かせて生きているのかもしれません。ところが、あるとき平凡な日常生活が中断します。重い病を得たり、災難に遭ったり、愛する者と別れたり、手ひどい挫折を経験したり・・・。このようなとき私たちは、心の深淵を覗くことになるでしょう。自分自身の生き方が問われるのです。そして必ずしも、自分が思っていたほど善い人間ではなかったことを知らされます。ペトロがそうでした。本気で信じていたのです。一生をささげる気持ちでいました。しかし大祭司の中庭で問われたとき、彼は大声で叫びました。「わたしはあの人を知らない」と。
主イエスは振り返ります。ヤコブとヨハネを見つめます。二人の弟子を咎めるのではありません。死んでほしくないのです。罪の中で滅びてほしくないのです。十字架を負って歩む我が姿を、見失わないでほしい。心に深く刻み付けてほしいのです。
キリストの眼差しはあなたに注がれています。主を仰ぎましょう。この中で自らの罪を覚えましょう。そして主キリストが私たちを罪と死から救うために十字架についたことを、繰り返して思い出したいのです。
■2015年2月 『大丈夫です!』
ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
(サムエル記上 1章15~17節)
「コーヒーにミルクはお使いですか?」
「大丈夫です。」
最近では必要のないことを「大丈夫です」と言います。「ノー・サンキュー」に近い言葉のようです。私も使ってみました。
「プリンにスプーンをお付けしますか?」
「大丈夫です!」スプーンは付いてきませんでした。
キリスト者もこの言葉を使います。家族を失って悲しんでいる人に「大丈夫よ」と言います。場合によっては無責任な言葉になるでしょう。しかし、いい加減なことを言っているわけではない。キリストは死から復活しました。私たちの死を死に復活を遂げました。人の死を打ち破って今、私たちと共にいてくださいます。だから「大丈夫」なのです。私たちの語る「大丈夫」は、主キリストの臨在を告げる言葉です。
ハンナは子供が与えられることを願っていました。しかし、なかなか与えられません。この現実はハンナに強いストレスをもたらしました。彼女は混乱する思いを抱えて神殿でひとり祈ります。心の中で祈るハンナは、唇だけが動いていました。祭司のエリはこれを見て、酒に酔っていると思います。酒に酔っているのではありません。ハンナはエリに、苦しい心の内を語ります。そして、これを聞いてエリが告げるのです。「安心して帰りなさい」。
礼拝で福音の言葉を聞きます。祈りをささげます。賛美を歌います。そして私たちも聞きます。主キリスト御自身から聞くのです。「安心して帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と。
罪と死、絶望。世の現実に打ち勝ったキリストがあなたと共におられます。だから私たちは「大丈夫」です。何があっても、主が共にいてくださるので、大丈夫です!
■2015年1月 『新しい道』
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
(マタイによる福音書 2章10~12節)
長い旅の目的は果たされました。御子に礼拝をささげた学者たちは、自分たちの国へ帰ります。これに先立って彼らはヘロデ王から次のように言われました。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」
拝みたいのではありません。殺してしまいたいのです。ヘロデはメシアを恐れています。将来自分の支配を覆すかもしれない。そうであれば、危険の芽は摘んでしまおう。学者たちは何も知りません。ヘロデに事の次第を話してから国へ帰ろうとしています。そして、その夜のことです。「ヘロデのところへ帰るな」夢でお告げを受けました。学者たちは、この言葉を信じて、別の道を通って東の国へ帰って行きます。
福音書は、単に学者たちの帰り道が変わったことを知らせているのではありません。御子を拝んだとき、私たちの人生の道が変わることを告げているのです。大祭司の中庭で我が主を否んだペトロは、復活の主と出会ったときに変えられます。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」このように述べて、殉教の死に至るまで伝道する者に変えられました。パウロも同じです。迫害者のパウロは主に出会って使徒となり、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」このように証しする者になったのです。
主を礼拝するとは、キリストを我が身に頂くことです。主と結ばれることです。心を通わす友が出来れば人生は変わります。伴侶と共に生きて人生は変わる。主に礼拝をささげるとき、私たちはキリストと結ばれます。尽きることのない神の慈しみが通い始めます。私たちの人生はここで変わるのです。神に背くヘロデの道ではありません。キリストを我が主と仰ぎ、神さまの慈しみの内を歩む者になります。あなたの人生に神さまの恵みが刻まれていくのです。礼拝の席で、主と出会うことができます。出会い続けましょう。そして、ここから始まる新しい道を共々に歩んで行きましょう。