今月の一言(2018年)

■2018年12月 『クリスマス 救いの到来』

  都に上る歌。
 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
  天地を造られた主のもとから。
  (詩 編 121 1~2節)

 詩121編は「巡礼歌集」と呼ばれるもの中の一つです。神殿のあるエルサレムは山々に囲まれていました。巡礼の旅人は都の方角に目をやり、山々を仰ぎます。高くそびえ立つ山々は、世の厳しさを思わせるものであったでしょう。そして彼は確信を込めて心の内で語ります。

 わたしの助けは来る 
  天地を造られた主のもとから。
 
 クリスマスはキリストの誕生日を祝うものではありません。神の許から救い主が来てくださったことを祝う日です。
 ひとりの高校生がおりました。 目尻が下がっています。普通にしていてもニヤニヤしているように見えてしまいます。「自分はいじられキャラだ」と言っていました。友達から軽く見られて、ちょっかいを出されるのです。彼女は泣いていました。表情とは裏腹に、繊細で思慮深い子でした。理解されず、侮られることが悲しいのです。
 彼女は讃美歌を歌うことが好きでした。「教会で賛美を歌っているとき、心がスーッとする」と言いました。ありのままの自分が受け入れられています。そこに安心がありました。彼女にとっては教会が、自分の居場所でした。

 神の許から、救い主が世に来たのです。そうであれば、キリストは私たちに何をもたらしてくれるのでしょう。ひと言で言えば、「居場所」です。キリストは私たちにこの世での居場所を与えてくださいます。
 理解されないことがあります。不本意なこれまでを生きてしまったのかもしれません。誰にも言えない罪を独りで抱えていることさえあります。キリストはこのようなあなたの傍らに立つために世に来たのです。十字架について罪を赦します。ご自身をパンとして与えます。それほどにあなたを愛して生かすために主は世に来たのです。
 私たちにとってキリストが居場所です。居場所はシェルターのことではありません。生きる場所のことです。キリストの愛と赦しを生きる場所にするのです。ここからもう一度、自分の努力を始めることが出来ます。このために主は来てくださったのです。


■2018年11月 『礼拝と伝道』  

 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。(コリントの信徒への手紙一 14章 24~25節)

 教会の使命は二つ。礼拝をささげることと伝道することです。この二つは、吸う息と吐く息のように一つのものです。礼拝をささげて伝道へと押し出されて行きます。伝道は人々を礼拝へと向かわせます。二つは別々にあるのではありません。礼拝と伝道は一対のもの。この二つが健全に働いて、教会全体が生きたものになります。
 9月は大野寿子さんを招いて特別講演会を行いました。10月はからし種シアターによる公演。11月はバザーと「おはなしのせかい」。そしてクリスマス。伝道のプログラムが続きます。計画の一つ一つに、祈りと、話し合いと、準備があります。伝道に対する熱い心と冷めた頭をもって、私たちの努力を続けて行きましょう。そして重要なのは、礼拝の充実です。

 パウロはコリント教会に対して預言を語ることを勧めています。預言とは神さまのメッセージを語ること。人を造り上げる言葉を語ることです。信仰をもって一人一人が預言を語るなら、未信者の人は自分の隠していた罪を突かれ、ひれ伏しては「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表す。つまり、充実した礼拝が神さまの臨在を示し、人々を救いに導くというのです。

 礼拝は、招かれた一人一人が信仰の心を主に集めて、皆で造り上げて行くものです。
 一週間を通して礼拝のために祈ります。礼拝の席で見えざるキリストに出会うこと、福音のメッセージが与えられること、救いが隣人の中に広がって行くことを願う。漫然と恵みを待つのではありません。自ら求めるのです。一人一人の真摯な信仰が礼拝に力を与えます。私たちの内にある信仰のともし火が集まって大きな炎になります。そして生ける主キリストを照らし出す。
 礼拝の充実が伝道の力です。皆さん、祈りの備えをもって礼拝に出席してください。あらかじめ、説き明かされる聖書箇所を読んでください。充実した礼拝が伝道に力を与え、私たちの中から福音は隣人へと伝えられます。


■2018年10月 『忍耐と希望』

 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。(テモテへの手紙二 4章 2節)

 大坂なおみ選手。インタビューで問われました。
 「全米制覇の要因は?」
 「すごく我慢と集中!」
 今更ながら、「そうだよな・・・」と思いました。まるで主が、私に語りかけている言葉のように聞こえて来ました。

 私たちの教会はごく普通の営みを続けています。主の日毎の礼拝に支障をきたしたことはありません。この背後には健全に機能している役員会があります。奉仕を担う人々がおり、秩序をもって役割を果たしています。教会に繋がる一人一人が、それぞれの現実の中で信仰とささげものをもって教会を維持しています。ここに、神さまからの大きな恵みがあります。
 同時に試練となる現実もあります。二〇一三年度をピークに礼拝出席者は毎年減少しています。一三年度の出席平均は八四人。一七年度は六六人。現在、教会学校は生徒のいない日が珍しくなくなりました。人数を問えば、教会は毎年小さくなっています。当然、財政も厳しくなっていきます。このままでいけば、これまでは出来ていたことが、段々と出来なくなっていきます。
 厳しい現実は私たちの教会に限ったことではありません。日本の多くの教会が伝道不振の中にいます。存立の危機を迎えている教会は少なくないのです。梅ヶ丘教会がより充実して、他の教会に仕えるまでになりたいと本気で願っています。

 〃我慢〃とは、信仰の言葉で言えば〃忍耐〃のことです。我慢と忍耐はどこが違うのか。忍耐は、キリストの約束を信じて困難な現実を忍び、努力を続けることです。
 大坂選手のラケットは、市販の物だそうです。実を重んじてなすべき練習を徹底的にしてきた人のように思えます。
 
教会の営みに工夫は必要です。時代も人間も変化していきます。対応しなければなりません。そして私たちに求められている根本は、特別なことではない。福音を宣べ伝えることです。折が良くても悪くても、忍耐強く伝道に励むことです。主キリストに集中して、皆で伝道していくことです。


■2018年9月 『傍らに立つ神』

 ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 (創世記 28章11~13節)

 咎のない兄と、年をとって盲目となっている父親を騙しました。ヤコブは逃げています。犯した罪から逃げ、家族から逃げ、これまでの人生から逃げている。
 日が暮れました。石を枕に野に宿ります。するとヤコブは夢を見ました。天から地上に向かって階段が伸びています。そこを御使いが行き来している。彼は神の言葉を聴きます。
 地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。(創世記 28章14~15節)
神の与える祝福の言葉。これを聴きました。妙な話です。親兄弟を絶望の淵に蹴落としたのがヤコブ。その彼が、神さまから守られ全ての民の祝福の基になるのです。
 〝恵み〟とは、このようなものでしょう。良い人だから愛されるのではありません。善人だから救われるのでもない。人知を超えた神の愛が天から降って来て、弱く、罪ある人間を救うのです。

 天から伸びる階段を降りて地上に立った神の愛がキリストです。このお方は、家畜小屋で生まれ、処刑場で死にました。世のどん底に身を置いて生きました。どん底にいる一人一人を救うためです。
 ヤコブは孤独です。親兄弟さえも敵に変えてしまいました。そして彼自身、なぜこのようになったのか、分からなかったでしょう。人生の道に迷う日があります。うずくまるように倒れてしまうときがあります。懸命に生きてきたはずなのですが・・・。しかし、その傍らにキリストがお立ちになります。あなたを愛する神がお立ちになるのです。

 私たちは主の日の礼拝で天から伸ばされた階段の前に出ます。傍らに立つキリストと出会うのです。語り尽せない恵みの神秘が人を生かします。
 伝道の秋、祈りの秋を迎えます。私たち教会のすべきことは、愛と信仰の一致をもってこの主キリストを指し示すことです。


■2018年8月 『恵みの時』

 何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレトの言葉 3章1節)

 7月8日に和田さんが病床洗礼を受けました。「イエスさまを信じますか?」、牧師の問いかけに明確にうなずかれました。そこには、神さまが与えた大きな平安がありました。御年90歳。恵みの出来事です。
 7月10日には海野さんが天に召されました。3年余りの闘病生活。厳しい現実の中で信仰を得ました。最期は、自宅で家族に看取られて天国へ行きました。67歳。神さまの恵みの中で、最晩年の日々を精一杯に生きておられました。

 受洗と召天。それぞれの人生です。そしてそこには、神さまが備えた「時」がありました。
 詩編の1編には次の言葉があります。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 巡り来たる時は、漫然とやって来るものではありません。夏の日照りや冬の寒さに耐え、耕す日々があって実を結ぶ時が来るのだと思います。和田さんも海野さんも、背後には家族の熱心な祈りがありました。余人には知れない人生の山坂を歩み、福音を自分のものとして受け入れました。自らの生きる努力、愛する者たちの祈り、そして神さまのお導きがひとつとなってふさわしい「時」が巡り来るのだと思います。

 聖書のメッセージは単純です。神と隣人を愛しなさいと言います。自分で働いて糧を得ること、連れ合いを大事にすること、年寄りをいたわり子どもを育てること、他者に礼を失しないこと、不正をしないこと、弱い立場の人たちを思いやること。そして、主キリストの愛と赦しの中に自分自身が置かれていることを覚えること。これが聖書の伝えるところです。
 パウロは「今や、恵みの時」(二コリント6章2節)と伝えています。主キリストによって神の愛と救いが現れた今です。そうであれば、この恵みの時を生かしましょう。私たちに必要なのは、福音を信じて真面目に生きることです。神さまは生きています。主キリストは復活しました。主を信じて真面目に生きて、この先にそれぞれの人生にとってふさわしい恵みの時が必ず訪れます。


■2018年7月 『愛のこころ』

 婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。(マルコによる福音書 15章40節)

 当教会の会員である島田宗洋さんを講師にお迎えして講演会を開催致しました。テーマは『緩和医療の専門家に聞く―どうやって最期を迎えたらいいですか?』。来会者は90人を越えました。関心の高さを示しています。
 「リビングウィル」を中心にお話をしていただきました。人間の最期に必要なものは、「本人の意思が通ること」「囲む人々の心が重んじられること」「支える医療が適切に行われること」。すなわち、人の心が通い合うことなのだと思います。そしてこれを社会の中で形にするものが、日本にはまだない「リビングウィル法」なのでしょう。専門性の高い分野です。一般の人々に分かり易く教えていただきました。誰にとっても重要な課題を共有した貴重な時間になったところです。
 
 冒頭に掲げたのは、主イエスが十字架の上で息を引き取った直後の弟子たちの様子です。男の弟子たちはおりませんでした。登場するのは女性の弟子たちのみ。彼女たちは十字架の許を離れることができなかったのでしょう。我が主の最期を看取ることになった・・・。
 痛みや苦しみは辛いものです。我慢できるものではありません。しかし、それ以上に辛いのは孤独なのではないでしょうか。体の痛みは緩和できます。しかし孤独は、薬では緩和できません。
 主イエスが産まれたとき、マリアの傍らにはヨセフがいました。幼子を取り上げた人もいるはずです。亡くなるときも独りではありません。看取る女性の弟子たちがいました。共に喜び、共に苦しみ、人生を支え合う人々がいたのです。小さな集団です。しかしかけがえのない集団。そして彼女たちの心を受継ぐのが、今日の教会です。

 教会は信仰共同体です。子どもが誕生すれば祝います。労苦の中にある時は励まし、仲間が最期を迎えるときには祈りをもって看取ります。十字架の死から復活した主キリストと共に歩むのです。
 最期はいつ来るのか分からない。しかし私たちは孤独ではありません。主に結ばれて神の国に着く日まで、共に歩むのです。


■2018年6月 『苦労は無駄にならない』

 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(コリントの信徒への手紙一 15章58節)

 コリント伝道は恐れと不安の中で始まりました。
 「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」 (コリント一2章3節)
 第二回伝道旅行の真っただ中。福音を宣べ伝えれば信じる者たちが起こります。同時に厳しい迫害も起きる。暴動、逮捕、監禁、鞭打ち。パウロはいく度も試練に遭いました。そしてコリントに着いたとき、ついに緊張の糸が切れたのです。心は病み、恐れと不安が襲いました。伝道者が、福音の言葉を語ることが出来なくなってしまったのです。そしてこの時です。主が、幻の中でパウロに現れ懇ろに語りかけます。
 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 (使徒言行録 18章9~10節)
パウロはこの言葉に励まされて伝道を始めます。さらにパウロはローマの信徒への手紙で次のように語っています。
 「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ロマ4章3~5節)
 
「苦労は無駄にならない」。苦労に応じて成果が出るということではないでしょう。伝道の苦労をささげます。努力と忍耐を続け、希望と葛藤の中で祈るのです。私たちは出来ることと出来ないことを知ります。時に惨めなまでに、自分自身の無力さを知るでしょう。しかし、それでだけでは終わりません。弱く小さな私たちを愛しているキリストを知るのです。この方が共にいて、導いてくださっていることを確かに知る。
 苦労の中で知るものは主のご臨在です。主に励まされて、一歩一歩の歩みを進めます。この中で苦労が無駄にならないことを知る。私たちも、伝道の前進を見るのです。


■2018年5月 『イースターからペンテコステへ』

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録 2章41~42節)

 カトリック教会に立ち寄りました。聖堂には私ひとり。祭壇の中央には長方形の聖餐卓があります。パッと見ると、棺が安置されているように見えます。伝統的な形です。迫害時代にキリスト者たちはカタコンベで礼拝をささげました。殉教した仲間の棺桶をテーブルにして、聖餐にあずかったと言われています。教会はこの事を覚えて聖餐卓を棺の形にしてきました。聖餐卓の上方には壁画が描かれています。丸いフレームの中に、人を迎えるように両手を広げたイエスの姿があります。復活の朝の出来事を描いたものです。
 棺の形をした聖餐卓とその上に見える復活のイエスの姿。私には、主イエスが棺の中から起き上がって人々を迎えているように見えました。

 この教会に用があったわけではありません。祈る心があって、道すがら立ち寄った迄です。そして聖餐卓と復活したイエスの絵画を見たとき、大きな感動に捉えられました。「主は死から復活した。この聖餐卓に今も主として臨んでいる。」それは、魂を貫く大きな歓喜でした。
 聖卓に集まって福音の言葉を聴きひとつのパンを分かち合う。これがキリスト信仰です。教会が、二千年の歴史を貫いて行ってきたことです。

 教会に来てホッとします。御言葉を聴いて教えられ、聖餐を頂いて深い慰めが与えられる。自分がキリストのものであることを確認することが出来るのです。私たちにとっては日常的なことかもしれません。しかし、当たり前ではない。福音を喜ぶことが出来るなら、そこには聖霊の働きがあります。神の霊が働いて私たちは、主キリストを喜びとし、自らがキリスト者であることを感謝することが出来るのです。
「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」私たちもここに集中しましょう。主は復活しました。神の霊は働いています。礼拝に集中する時、主は私たちの中にお立ちになります。このお方に触れて人は変えられます。信じられない人が、福音を喜ぶ者に変えられて行くのです。


■2018年4月 『もうすぐ教会総会です』

 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
  (コリントの信徒への手紙一 12章27~28節)

 パウロは教会の秩序と多様性を示しています。「第一に使徒」「第二に預言者」。これは教会を治める秩序です。同時にそれぞれが持つ賜物は多様でひととおりではありません。そして次に愛を語って行きます。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙一 13章4~7節)
 教会の枠組みが秩序です。中身が多様性。そして教会を一つのものとして生かすのが、愛です。愛があるとき、多様な一人一人が互いに生かし合い、教会はキリストの体として豊かに成長して行くと言うのです。

 教会総会が終わりました。十人の役員を選出しました。新年度の宣教方針を立て、予算を決定しました。総会で決めたことは神さまに対する約束です。履行しなければなりません。教会員は役員を重んじてください。彼らは主に立てられた教会のリーダーたちです。同時に役員は、主から与えられた使命の重さを引き受けてください。梅ヶ丘教会を守るのは、牧師と役員です。そして、牧師も役員も教会員も、そこに愛がなければすべては無に等しいのです。
 パウロが語る愛は、「甘さ」や「ゆるさ」のことではありません。主キリストに対してどれだけ忠実であることが出来るのか、教会の仲間たちをどれだけ大切にすることが出来るかです。私たちに求められているのは、この愛です。

 伝道が困難な時代です。マンパワーも経済状況も厳しい。しかし、教会とはシンプルなものです。感謝と畏れをもって礼拝をささげます。主によって結ばれた隣人を大切にします。そしてすべてのことに愛を通わせましょう。平凡な一つ一つに心を込めるのです。このとき主は、私たちの歩みに働いてくださいます。恵みは必ず現れます。


■2018年3月 『もうすぐ教会総会です』

 自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。(ローマの信徒への手紙 12章3~5節)

 三月十八日(日)が教会総会。新年度の宣教方針と予算を決めます。そして今年は、二年に一度の役員選挙を行います。
 役員定数は十人。現在最も年齢の若い人は五十歳です。役員会では、若い世代からも役員に入ってほしいと話し合っています。年配者がいて、壮年がいて、この中に若い人も入ってほしいと考えています。
 役員は牧師と共に役員会を形づくり、教会の全てに対して責任を持ちます。礼拝を整え、教会員や求道者の魂に配慮します。教会の営みが福音に適って前進するよう心を砕きます。お金が足りなければ献金を呼び掛け、雨漏りがすれば手当てを考えます。主から、役員として教会に仕えるよう召し出されたのです。重い務めです。そしてこの務めは、ひとりで行うものではありません。皆で協力して行うのです。

 冒頭に掲げたのは教会生活に関する教えです。パウロは、「自分を過大評価することなく、慎み深く評価すべき」と語ります。教会は信仰共同体です。多様な一人一人が、互いに助け合い、補い合い、生かし合っていくところです。そこで、生かされている自分であることを覚えて、慎みを持とういうわけです。
 
 私は二十代の時に役員に選出されました。そこには、四十代の人がおり、五十代、七十代、八十代の人がおりました。最も緊張したのが礼拝の司式。同時に最も喜びがありました。役員会に出席する中で、どのように議論を深め、合意形成をするのか学びました。判断をしかねることや感情的な対立もありました。そして不思議にも、違和感を覚えたことは一度もありません。牧師をはじめ役員たちが、受け入れてくれました。交わりの中で生かされていたのです。
 若い人たちが育ってほしいと願っています。信仰において一致し、皆で力を合せて新年度に向かいましょう。信仰の決心を新しくする、教会総会でありたいと思います。


■2018年2月 『遅れて届いたクリスマス・カード』 

 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。(ローマの信徒への手紙 16章3~5節)

 一ヵ月遅れでクリスマス・カードが届きました。送り主の住所はテキサス州ダラス。カードをくれた彼は梅ヶ丘の教会員でした。信仰に導かれ、勤務のために転会をし、以後、様々な試練に遭いました。やがて結婚をして子供に恵まれました。彼の辛かった時代を少し知っています。疲れと混乱の中で、人生の中心点を見失っている印象を受けました。寄る辺ない幼子のようにさえ見えました。その中でも彼は教会につながっていました。
 送られて来たカードには写真が添えられています。グランドキャニオンのような峡谷を背景にした、親子四人の家族写真。彼は胸を張っています。そこにあるものは、愛情と自信に満ちた幸せな姿でした。

 冒頭に掲げた言葉は、ロマ書の最後に書かれている「個人的な挨拶」と呼ばれる個所の一節です。これ以後も、「誰々によろしく。誰々によろしく。」と挨拶が続いて行きます。ロマ書は、パウロがまだ訪ねたことのない教会に向けて書かれたものです。あまりにも多くの知人がいることは不自然でしょう。そこでこの部分は、別の手紙の挨拶文が付加されたのではないかと考えられています。しかし、いずれにしてもパウロは、多くの人々との交わりの中にいました。沢山の人を助け、沢山の人から助けられ、生かされてきました。それぞれの安否を気遣い、感謝を表さずにはいられない、人々とのつながりがあったのです。

 皆で相談して、問題に取り組むときがあります。ひとりで忍耐して、現実に立ち向かわなければならないときがあります。そして私たちは孤独ではありません。ひとりのキリストを主と信じる大きな交わりの中にいます。それは、人生の時間を貫き、世界のどこにいても続いて行く交わりです。
 遅れ馳せのカードは慰めに満ちていました。私たちが主に生かされ、互いに生かし合うものであることを教えてくれました。


■2018年1月 『ウルトラマンはクリスチャン』

 わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙二 12章10節)

 二十世紀に少年時代を過ごした人を〝二十世紀少年〟と呼びます。私もその一人。二十世紀少年にとって最大のヒーローは、ウルトラマン。
 ふと思うことがあります。「聖書のメッセージよりも、ウルトラマンの方が役に立っているではないか・・・」と。何年も福音を伝えて、受け入れられないことがあります。祈り続けた人が教会から去って行くことがあります。福音が、無力に、取り残されて行くように思えるのです。一方、ウルトラマンはどうでしょう。多くの人にとって福音よりも身近なものだと思います。少なくとも二十世紀少年たちには、心に刻印された力強い人生の励まし手なのです。
 ところが、最近ある方から聞きました。ウルトラマンの産みの親である円谷英二氏はカトリック信徒。ウルトラマンが手刀を十字にしてシュペシュウム光線を出す姿は、祈りの所作から来ている。胸のカラータイマーは〝聖体ランプ〟(聖堂に聖別されたパンが置かれていることを示す赤いランプ)からヒントを得ている、と。
 初代のウルトラマンは強くありませんでした。怪獣に殴られ蹴られ、尻尾で叩かれ、胸のカラータイマーが点滅してから、手を十字にしてシュペシューム光線を出します。確かにこのとき彼は、跪いていました。

 ウルトラマンはクリスチャン。このことを知った時、妙に高揚した気持ちになりました。「彼は私たちの仲間だったのだ」このことを知ってとても嬉しかったのです。
 私たちも闘っています。圧倒的に強いこの世の現実。どこに合意を見いだしたらよいのか分からない多様化された社会。他人に対する無関心、強すぎる自己愛。そして行き場を失った人の心。私たちはこの現実の中で一人一人に福音を伝えています。それは文字通り心血を注ぐ福音伝道の闘いです。私たちに何が与えられているのでしょう。与えられているものは、神の言葉と聖霊です。そしてそこに、復活のキリストが共におられます。
 弱くてもいい。十字架を掲げて祈りつつ立ち向かいましょう。ウルトラマンの主も、私たちの主もキリストです。シュワッチ!