今月の一言(2019年)

■2019年12月 『受洗者を迎える』

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」 (マルコによる福音書10章13~14節)

 来たるクリスマス礼拝で清川雅彦さんが洗礼を受けることを予定しています。役員会は申し出を受け、承知しました。彼は清川絵里さんのご長男です。初めて教会に来てから、既に十年余りが経とうとしています。雅彦さんは教会が大好きです。週日でも「教会、行くよ。教会、行くよ」と言うそうです。教会に着くと、はしゃぐように喜んでいます。そして彼は、礼拝をきちんとささげています。説教や祈りの時には声を発しません。祈りが終わると「アーメン」と大きな声で言います。主の祈りも共に祈っています。一時間余りの礼拝です。喜びを抱き努力をして、彼は会衆の一人として礼拝をささげています。
 受洗の願いが伝えられたとき役員会は喜びました。言葉によって信仰を言い表すことは出来ません。しかし、主に対する信頼と喜びがあります。礼拝への姿勢があります。これらを彼の信仰告白と受け止めました。
 洗礼式は彼に対応する形で行います。具体的には、述べたとおりこれまで過ごしてきた教会生活と、主に対する信頼と喜びを信仰告白として受け止めます。牧師が以上を宣明します。この後、式文にある様々な問いと答えは割愛して洗礼を授けます。このような次第になります。あらかじめご承知ください。

 聖書に注目しましょう。イエスの許に親たちが子供を連れて来ました。弟子たちは親を叱ります。しかしイエスは、弟子たちの態度に憤って子供たちを自分の所へ来させるよう命じます。重要なのは、弟子たちは何を見、イエスは何を見ていたかです。弟子たちは親を見ています。子供は視野に入っていません。しかしイエスは親と子を共に見て、「わたしのところに来させなさい」と招くのです。
 この度の洗礼の背後には、母親である絵里さんの祈りがあります。雅彦さんの主キリストに対する信頼と喜びがあります。絵里さんも雅彦さんも私たちも、主の眼差しの中にいます。御許に来るようにと、福音の招きを受けている者たちです。信仰は独りポツンと信じるものではありません。祈り合い、教え合い、励まし合って共に信じるものです。主の招きに応えるのが洗礼を受けることです。幸いな洗礼式となるように、皆で祈りましょう。


■2019年11月 『あなたがたは一つ』

 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 (ガラテヤの信徒への手紙 3章28節)

 ラグビーを観戦しています。ルールもよく分からないのですが、面白い。大男たちがスクラムを組んでぶつかります。まるで闘牛のようです。そうかと思うと、スマートで足の速い選手がボールを受け取ってトライを決める。力と頭脳プレーが噛み合って、観る者を引き付けます。
驚くのは選手の国籍です。日本のチームですが、国籍は多様です。外国籍でも日本に三年以上居住を続けている人や、両親、祖父母の中に一人でも日本人がいれば代表チームに入れるそうです。「何人だか分からない人たちが集まって一つのチームを作って戦っている」私はここに感動します。国家のアイデンティティや文化の違いは大切だと思いますが、ラグビーの試合を見ていると、国や人種の違いを越えて、力を合わせて戦っているので、これが人間本来の姿のように思えるのです。

 パウロは、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、」と述べています。ユダヤ人はユダヤ人だし、ギリシア人はギリシア人です。奴隷と自由人とでは正反対です。しかし、ひとりの主を信じることによって、互いの違いを乗り越えています。ラグビーの選手であれば、ラグビーが互いの心を結ぶ共通言語になるのでしょう。教会であれば、キリストが共通言語になります。私は主を信じているし、あなたも主を信じている。ひとりの主が互いの心を結ぶ共通の言葉になるのです。そしてキリストが人生の主ですから、互いの交わりは厚く深いものになります。

 間もなくアドベントを迎えます。マタイの福音書では最初に東の国の学者たちが登場します。待ち続けたメシアを一番に礼拝するのは異邦人です。そしてマタイは、福音書の最後で主の言葉を次のように伝えています。
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 (マタイ28章19節)
教会はインターナショナルです。国や人種、地域の隔てを越えます。ひとりの主が私たちの主です。そこでは、主に結ばれて互いの間にある隔てを越え、相互に生かし合う交わりが生まれます。そしてこの交わりは伝道へと向かいます。キリストに対する信仰の一致に立ってすべての人に福音を宣べ伝えます。多様な人々と共に福音の喜びを分け合うのです。


■2019年10月 『人にしてもらいたいこと』

 あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。 (マタイによる福音書 7章11~12節)

 中学一年生の時でした。身内の法事があってお寺さんへ。会食の席です。私の前には、三歳になる男の子が座っていました。従兄です。「のどがかわいた」と言いました。テーブルの上にはコップがあります。ジュースを注いであげました。するとその子は、困ったような、迷惑そうな顔をしました。コップに手を伸ばしません。「オレンジジュースは嫌いなの?」と思ったのですが、どうも、そうではないようです。隣にいた私の母が笑いながら言いました。「小さい子はね、少しでいいのよ。」母は別のコップに三分の一くらいジュースを注ぎました。男の子は両手で受けとると、安心したようにゴクゴクと飲みました。
 当時の私にしてみると、「人にしてもらいたいことを人にした」のです。中学生の私にとってコップ三分の一のジュースはあり得ません。たっぷりと注いだわけです。しかし三歳の男の子にすれば誠に迷惑な話で、飲む以前にコップを手に取ることも出来ません。つまり、自分がしてほしいことと、目の前にいる人がしてほしいことは、違うのです。

 「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
 この御言葉は易しいものではありません。人のことが分かっていないと、見当違いなことが起ります。主イエスが私たちに求めているものは、他者に対する深い理解でしょう。
 はやり言葉のように「見た目がすべて」と言います。しかし、見た目ほどあてにならないものはありません。多様な時間を共に過ごし、心の声を聴く。この中で少しだけ他者を理解することができるのでしょう。すべてを理解することはできません。必要なのは理解しようとする心です。言葉を換えれば、愛する努力をすることです。ここで「わたし」と「あなた」の出会いが起こるのだと思います。

 「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、」
 「だから」が重要です。主イエスは、私たちが誰かを理解するのに先立って「神さまがあなたのことを知っている。あなたを愛している。」と言います。この事実を柱として他者にとって必要なことをしなさいと言う。隣人と心の通う、豊かな出会いを作って行こうと語るのです。「わたし」と「あなた」が心から分かり合えたら、素晴らしいことです!


■2019年9月 『福音の言葉を求めて』

 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブの手紙 1章22節)

 私が六歳の頃でした。土曜日になると思い出したように祖父が自転車に乗ってやって来ます。母が用意してくれた〞お泊りセット〞をリュクサックの中に詰め込んで、私は自転車の後ろにまたがります。祖父の背中を前にして腰のベルトに掴まります。家に向かう小さな時間が、何よりも好きでした。
 祖父がガンになったのは私が十七歳のときでした。重篤になったとき祖父の兄が見舞いに来ました。祖父は、固くつぶっていた目を開いて、既に言葉はおぼつかなくなっていたのですが、次のように言いました。
 「兄貴か?俺は、もうダメだ。」
 二、三秒の時間を置いて兄が応えました。
 「ダメだって言ったっておめえ、ダメだ、ダメだって言いながら、ここまで来ちゃったじゃねえかよお・・・。」
 兄八十歳、弟七十八歳。病床で交わした最期の言葉です。

 礼拝が終って牧師室でガウンを脱ぎます。このとき、悔いる気持ちに襲われることがあります。福音の言葉が魚のように泳いで、正体を見せずに消えてしまった気持ちになるのです。説教者の力量で救いがもたらされるわけではありません。私は、本当の言葉が欲しいのです。説教者も会衆もただ一言、「アーメン」と言える本当の言葉が欲しいのです。
 臨終に際して祖父は、「俺は、もうダメだ」と言いました。これを受取って祖父の兄は、「ダメだ、ダメだと言いながら、ここまで生きて来たではないか」と言った。これは本当の言葉です。厳しい人生の馳せ場を、呟くことも、恨むこともなく、努力と小さな楽しみを繰り返して正面から生きた人の言葉。私を愛してくれた人の命がけの言葉です。
 私たちは福音を聴きます。心に受け入れて信じます。しかし、それだけで終わるのなら不十分です。福音のメッセージを生きなければ救いは満たされません。復活のキリストを仰いで生きて行く。肉の体である私たちが、本気になって神と隣人を愛して生きて行くのです。そこで起きる幸いな出来事があるでしょう。失敗や挫折、憤りがあるでしょう。その一つ一つが積もって本当の言葉が生まれるのだと思います。本当の言葉は、福音を生きていく日常生活の中から生み出されるものでしょう。これが出来ているなら、何でもない言葉の中にも主キリストの臨在が響くように思うのです。まだ成し得ない、私の課題です。


■2019年8月 『これからの教会』

 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(テモテへの手紙二 1章7節)

 役員会では各種委員会のあり方を検討しています。教会の『創立五十周年記念誌』を見ると一九七二年七月に、「各種委員会(伝道・財務・社会・総務・教育)発足」と記されています。以後、各委員会は様々な働きを担い、現在の教会を形づくってきました。そして五十年近くが経とうとする今、現状に見合わない部分も出てきています。ライフスタイルの多様化と高齢化は、過去と現在の違いを代表するものでしょう。加えて、社会一般の宗教に対する意識が大きく変化しています。私が青年時代、教会学校には山崎小学校の子供たちがあふれていました。今では考えられないことです。
 この中で役員会は、どのような委員会のあり方が最も良いかを検討しています。同時にこの検討課題は、単に委員会を再編し、形を変えてよしとするものではありません。現在と将来に対して私たちの教会は、「何を大事にしてどのように進むか」を考えるものです。この点で、梅ヶ丘教会そのものを検討し、これからの行くべき道を見いだしていこうとする作業です。
  
 第二テモテは紀元百年前後に書かれました。当時の教会は、異端信仰が広まり混乱していました。パウロの遺訓という形を取って、先輩の伝道者が、若い伝道者に対して教えと励ましを与えるのが本書です。
 その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(1・5)
 まず右のように述べて、「神は、おくびょうの霊ではなく」と続いていきます。視点になっているのは信仰の継承と神さまの恵みです。信仰は、伝えられた福音を受取って、また伝えて行くものです。ここに主の恵みが注がれるとき、信仰も伝道も生きてきます。
 
 先人たちの信仰と努力、そして忍耐があって教会は今日を迎えています。これを大切にしたいと思います。この日々を土台として、今日と将来に対して福音が豊かな力を現す教会を形づくりたいと思うのです。
 まず、聖霊の働きを祈り求めましょう。委員会の席で意見を出してください。思うところを牧師や役員に伝えましょう。皆で、明日の教会を形づくっていきたいのです。


■2019年7月 『こころに届く福音』

 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(マルコによる福音書 4章3~4節)

 キリスト教学校で聖書を教えています。聖書科の授業と、定期的に回って来る礼拝説教を担当しています。中高生の特徴。聖書の話をすると、段々と静かになります。そして眠り始めます。当然しょう。人は自分に関係のない話や関心のない話は聞きません。慢性的な睡眠不足の彼らにとって聖書の話しは、猛烈な眠気を誘うものになるのだと思います。
 冒頭に掲げたのは「種まく人」のたとえです。御言葉の種が道端に落ちます。地面は固くて種は地中にもぐることが出来ません。私たちは伝道の前進を願っています。福音を届けたいのです。けれども行っていることは、固い地面に種を蒔くことなのかもしれません。固い地面。それは、福音に対して閉ざされた人の心です。これを開かなければ、いくら種を蒔いてもはじかれてしまうでしょう。

 教会に親しみを持っている生徒がいます。「教会の幼稚園に通っていた」「おばあちゃんがクリスチャン」このような生徒と良く出会います。彼らが聖書の言葉を知っているわけではありません。けれども、キリスト信仰に対して柔らかい気持ちを持っています。そこに共通しているのは、笑顔と優しさです。「幼稚園の先生は優しかった」「小さいとき、クリスマスにおばあちゃんと教会へ行ってとても楽しかった」。自分を愛してくれる人がいました。その人は神さまを信じていました。だから、直接聖書の言葉は知らなくても、教会やキリスト信仰に対して心は柔らかくなります。
 
 人の心を重んじることなしに伝道は出来ません。最も大切なのは愛です。欲も得もない愛情が人の心を柔らかくします。無関心に閉ざされた心の扉を開かせます。愛情と福音のメッセージが一つになった時、御言葉の種は隣人の心に届くのでしょう。たとえの結びは次のようになっています。
 また、他の種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
 福音の言葉が心に受け入れられたとき、不思議な出来事が始まります。その人の中でキリストが大きくなるのです。私たちが知っている、恵みの出来事が始まります。


■2019年6月 『その人は知らない』

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種が芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコによる福音書 4章26~29節)

 六月になると柿の木に実を見いだすことが出来ます。大きさは、人差し指と親指の先端を結んで輪にしたくらいのものです。しかしはっきりと〞柿〟の形をしています。私はこれを見るのが好きです。実はそれ自体青々として美しいのですが、それにも勝ってホッとした気持ちになります。大げさなようですが「生きていていい」と思えるのです。夏が来る前に秋の準備が始まっています。それは、私の手の及ばないところで実りの準備が進んでいるのです。だから私が、何が出来ても出来なくても、「生きていていい」このように思えるのです。
 結果を出して評価されるのが一般社会でしょう。絶えず能力が問われます。この現実の中で、自分の能力や努力を超えたところで私は生かされている。六月の柿の実を見るとき、このことを思うのです。

 聖書で言う信仰は神さまに対する信頼と忠実さを意味します。具体的に言えば、心で信じたところを実践していくことです。これ自体大切なことです。しかし主イエスは、それを上回ることを語っています。
 当時の種蒔きは、畑に向かって種をばらまきました。時がたつと畑一面に麦の芽が出ます。芽は育って茎になります。やがて茎の先に穂を付け実が成ります。現代のように農業の知識はありません。良く丹精することもなかったのでしょう。しかし麦は芽を出し育って実を結びます。そして主イエスはこの有様を例に取って、神の国はこのようなものであると言います。それぞれの信仰熱心さに応じて救われるのではありません。神さまが、この現実に生きる私たちに救いを成し遂げてくださるのです。

 青く小さな柿の実が赤く大きな〞柿〟になる日は必ず来ます。何が出来る、出来ないに関わらず、神さまはあなたを愛しています。自分の頑張りに上回って、神さまに生かされていることを覚えましょう。救いを成し遂げてくださる主イエスを信頼して、それぞれの今日を生きて行きたいのです。


■2019年5月 『イエスを見つめながら』

 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ人への手紙 12章1~2節)

 日本時間の4月16日未明、ノートルダム大聖堂が炎上しました。十字架の立った尖塔が二つに折れて焼け落ちて行きました。紙面の写真には、燃え上る大聖堂の上を、まるで心が引き裂かれるかのように三羽の鳥が旋回していました。
 あの大聖堂でどれほどの人々が祈りをささげたのでしょう。どれほどの人々が神さまを仰いだのでしょう。文化遺産としての価値は特別に高いわけですが、それ以上に、慰めを求める人々の心が傷つけられているので辛くなります。同時に、主イエスが弟子たちに語った言葉を思い出しました。
 これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。 (マルコ 13章2節)
 これは、イエスが神殿崩壊を予告した言葉です。事実エルサレム神殿は、70年に対ローマとの戦争によって焼失しました。人間が造ったものは、どれほど立派であっても限りあるものなのでしょう。

 私たちにも教会堂があります。手当てをし続けなければならない建物です。しかしこの教会堂が建つまでには、先人たちの数えきれない祈りと労苦があります。やはり、数えきれない人々がここで主キリストと出会い、祈りをささげ、生きる力を頂いてきました。建物を適切に維持し、用いて行かなければなりません。そしてこのような教会堂を尊くしているものは中身です。毎週日曜日、梅ヶ丘教会が始まって以来、絶えることなく礼拝をささげています。ここで救いの出来事が起こり、私たちは互いに心を通わせ合う者になりました。教会が行っている信仰の営みが中身です。礼拝をささげ、神と人を愛し、世に福音を伝えて行くことが教会の中身です。これを大切にしましょう。この中身を失ってしまえば、教会堂はただの建物になってしまいます。
 ヘブライ書は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と語ります。信仰は私たちが始めたのではありません。私たちが完成させるものでもありません。主イエスが私たちの心から信仰を引き起こし、完成へと導いてくださるのです。大切な会堂であり、教会の営みです。このお方を見つめながら、皆で一歩一歩前へ進んで行きましょう。


■2019年4月 『赦しを与えるキリスト』

 イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8章11節)

 姦淫の現場で女が捕えられました。イエスの前に引き出されます。人々は問いました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか。」イエスが「そうしなさい」と答えれば、日頃説いている愛の教えに反します。「赦しなさい」と答えれば、モーセの律法に背くことになる。人々は、イエスを言葉の罠にかけたのです。
 イエスは下を向いています。何も言いません。一同はしつこく問い続けました。主は顔を上げ、ひと言言いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉を聞いた人々は、年長者から始まって一人去り二人去りして、とうとう誰もいなくなってしまいました。

 罪を犯した女性は、どのような人であったのでしょう。幸福であったとは思えません。傷む心、満たされない現実があったのでしょう。ここには、相手の男の姿は見えません。姦淫の結果は、自分で自分を傷つけるだけでした。告発した人々にとって女はただの罪人です。正義の側に身を置いて、彼女を人間扱いにしていません。そして主イエスは、この現実の中で語るのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」人々は罪を自覚して女の前を去りました。他人を罪に定めることが出来なかったのです。しかしイエスは違います。このお方は、女の罪を赦したのです。十字架について罪を贖うキリストが、女の罪を赦したのです。

 キリストに赦されるとは、ありのままの私が神さまに認められることです。人から傷つけられれば人を傷つけます。人を傷つければ、自分自身が傷つくのです。誰にも見せることはありません。しかし、人生に対する後悔と無念さを抱いて独りうずくまる自分がいます。神さまは、そのあなたを赦すのです。あなたを愛して「決して見捨てない」と言うのです。
 主イエスは「もう罪を犯してはならない」と言って女を送り出しました。主の赦しに留まるとき、私たちには新しい歩みが始まります。罪責に苦しみ自分を責め、あるいは誰かを恨むのではなく、神さまと隣人を愛する新しい歩みが始まって行くのです。


■2019年3月 『どん底での出会い』

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 (イザヤ書53章3節)

 バビロン捕囚が始まってから五十年が経とうとしていました。そのころ、世界の覇権争いにペルシアの王キュロスが立ち上がります。イザヤは次のように預言しました。

 主が油を注がれた人キュロスについて
 主はこう言われる。
 わたしは彼の右の手を固く取り
 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
 (イザヤ書45章1節)

 キュロスこそ神が世に遣わすメシア。彼によってユダヤの民は解放される、と・・・。しかしこの預言は大きな転換して行きます。それが52章13節から始まる「苦難の僕」と呼ばれる預言です。
登場するのはひとりの僕。彼は人々に軽蔑されていました。理由は辛い病を抱えていたからです。人々から忌み嫌われ、馬鹿にされていました。しかし彼は誰も呪うことなく、黙々と自らの痛みを負いました。やがて彼は捕らえられ、裁きを受けて処刑されてしまいます。そして人々は気付きます。僕の痛みと苦しみは、私たちの罪を負うためのものだった。彼の死によって、私たちの罪は赦されるのだと。
力ある王によって救われるのではありません。弱く貧しく、しかし愛と従順を貫く僕によって救いは実現する。これが預言者イザヤのたどり着いた救いの洞察でした。

 述べられている苦難の僕が誰であるのか、具体的なことは分かりません。しかし教会は、この僕にキリストの御姿を見ます。
力によって救われるのではありません。弱さの極みに身を置きます。罵り、裏切る者たちを赦す。私の現実を自ら血を流して背負い切るキリストによって、私たちは救われます。ひとり子を十字架にわたす神の愛によって、私たちは救われるのです。

 “低きに降る神”このように語った神学者がおりました。私たちはどこを見ているのでしょう。天を仰ぐのか、人を見るのか、己の足りなさを嘆くのか。キリストは、あなたが今立っている現実の底を割ったどん底に来られたのです。ゴルゴダの丘で裸になり、あなたの罪を負って磔になりました。私たちはここでキリストと出会います。ここで、見えない神の愛と出会うのです。


■2019年2月 『福音の奉仕者たち』

彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。
(使徒言行録17章1~5節)

 舞台はテサロニケの町。パウロとシラスが福音を宣べ伝えます。伝道は前進しました。ユダヤ人をはじめ、ギリシア人や有力な婦人たちもキリスト信徒になります。ところが、一部のユダヤ人たちがそれを妬みした。暴動を起こして町を混乱させます。扇動する者たちはパウロとシラスを捜してヤソンの家を襲いました。この後ヤソンは当局者に逮捕されてしまいます。そしてパウロとシラスは、他の信徒たちの手引きによって、夜の内にテサロニケの町を脱出するのです。
 ヤソンは矢面に立ちました。家を襲われ、その身は逮捕される。パウロとシラスを、身を賭して守りました。パウロはどのような気持であったでしょう。彼は伝道者です。信徒を守る立場です。信徒が犠牲になって我が身が守られるなら、身を裂かれるほどに辛かったでしょう。力になったのはヤソンだけではありません。騒ぎが起こっている隙に、二人を逃がした人たちがいます。
 テサロニケの信徒たちは、単にパウロとシラスを助けたのではありません。彼らは福音を守ったのです。二人の使徒を守ることによって、彼らは福音伝道の歩みを守り、主キリストに仕えたのです。

 新年度の準備が始まっています。過ぎた一年の歩みを思い出しています。迫害や暴動があるわけではありません。しかし、ヤソンをはじめとするテサロニケの信徒たちの歩みは、私たちの教会にもあります。福音伝道の歩みを通すための祈りと、有形無形の数えきれない奉仕があって、教会は成り立っています。信徒と伝道者の犠牲のないところに伝道の前進はありません。そして主キリストに結ばれた信仰の労苦は、お互いを高め、豊かに生かし合って行くものです。
 私たちに特別なものは必要ありません。キリストを生涯の主と定めましょう。このお方の許に集まって、神さまの愛の中に身を置くのです。これが出来るように祈り、手を動かして、教会を整えて行きましょう。


■2019年1月 『キリストに出会う』

 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」 (ルカによる福音書 2章28~32節)

 登場するのはシメオン。彼は信仰があつく、イスラエルが慰められるのを待ち望み、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないとのお告げを受けていました。そしてこの日シメオンは、幼子イエスと出会います。このお方を腕に抱き「今こそ、僕を安らかに去らせてくださいます」と賛美する。老いの身に、思い残すことは何ひとつないと言うのです。

 私が二十二歳の時でした。千葉県にある教会へ奉仕に行きました。牧師は次のように祈りました。
 「人生の暮れ近くになって、大した仕事もせず、あなたはここにひとりの兄弟を遣わしてくださいました。」
 海沿いの町にある小さな教会です。当時牧師は七十代の半ばでした。病のために半身が不自由です。杖を突いていました。大した仕事をしなかった人ではありません。教区長を務め、社会的な働きもしました。この方の働きによって助けられ、支えられてきた人は決して少なくありません。
 過去を振り返った時、私たちには何が見えてくるのでしょう。自分の過去を優しく受けとめることが出来るでしょうか。喜びと苦悩が同時にあって、すぐには言葉を与えられない思いになります。感謝と恨みが一緒に出てくるでしょう。そしてシメオンは受けとめ切れません。メシアを見るまでは、死んでも死に切れなかったのです。

 シメオンはキリストと出会います。幼子を抱くことによってシメオンは、神に抱かれています。どれほど破れが多くても、理不尽であったとしても、それは神さまの御手の中にある人生の日々。主と出会ってシメオンは、人生を受け入れることが出来る。明日に希望を持つことが出来たのです。
 主と出会った場所は神殿です。礼拝の中で私たちは、来てくださるキリストに出会うことが出来ます。悩み多い人生を受け入れて、明日に希望を持つ者になるのです。