■2020年12月 『礼拝を守る』
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。(出エジプト記
20章8~10節)
このたび役員会で『在宅礼拝の手引き』を作ることにしました。感染症は拡大しています。専門家からは、冬の到来と共に深刻さを増す危険が指摘されています。今後、教会へ来ることが出来ない方が増えていく可能性があります。役員会の願いは〝主の日はどこにいても、共に礼拝をささげたい〟というものです。現在、教会のホームページから説教を聞くことが出来ます。しかし、礼拝の席で録音したものをアップデートしているため、その日のうちに当日の説教を聞くことはできません。主の日に同じ礼拝にあずかることが出来ないわけです。そこで次のようにすることにしました。
・土曜日に説教録音を行う。
・録音した説教は土曜日中に編集し、日曜日の朝までにホームページ上にあげる。
・一か月間の礼拝順序と各主の日にささげる祈りなどを記した『在宅礼拝の手引き』を作成する。
以上によって、主の日に教会へ来ることが出来なくても、『在宅礼拝の手引き』を開き、ホームページにアクセスすることによって、主の日ごとに、同じ聖書個所を読み、同じ説教を聞いて礼拝をささげることが出来ます。実務作業は礼拝委員会とハートクロスが中心となって行います。『在宅礼拝の手引き』を配布する期間は、十二月から来年の三月までの「冬季」といたしました。
旧約において安息日は、すべての仕事を休んで礼拝をささげる日でした。特に「子供」や「奴隷」「寄留者」が視野に入っています。弱い立場にいる人々です。主人が横暴な場合、彼らは仕事をさせられる恐れがあったからです。つまり安息日は、神さまの前にすべての人が平らになって礼拝をささげる日なのです。神さまご自身がすべての人に「信仰と安息」を保障してくださっていると言えるでしょう。
新約時代の今日、旧約の安息日(土曜日)は、キリストの復活を記念する主の日(日曜日)に変わりました。しかし、礼拝の意義は変わりません。この日、すべての主の民は礼拝をささげます。私たちは礼拝の席で新しく、繰り返して、主キリストと出会います。感染症の時代であればこそ礼拝を大事にしたいのです。
■2020年11月 『一つの霊によって』
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリントの信徒への手紙一
12章13節)
十月から讃美歌一曲の一節のみを歌うようになりました。同時に、「主の祈り」を全員で声に出して祈ることを再開しました。判断材料のひとつは、私が講師をしている学校のありようです。これを参考にしながら、役員会で情報と知恵を集め、私たちの教会に見合ったスタイルを考えています。感染症はまだ収まってはいません。「三密」回避に努めながら、可能な行動を見つけていきたいと思います。引き続き、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします。
まもなくクリスマスが来ます。教会学校は、ページェント(降誕劇)を人形劇で行っています。今年はこれを録画して、インターネッㇳで視聴できるようにします。言葉で言えばひと言ですが、この人形劇はすべてが手作りです。人形、台本、舞台に背景、小道具、歌の作詞作曲。ネット配信をする場合、著作権の問題があるので、讃美歌といえども不用意に用いることはできません。当然、動画の編集作業も行います。たくさんの根気と努力が必要です。けれども考えてみれば、私たちの教会は全部が手作りです。誰かが何かをしてくれるのではありません。私たちが、時間をかけ、知恵を絞り、祈りをささげては、一つ一つを作っていきます。
パウロは、キリスト者である私たちにとっては、ユダヤ人とギリシア人あるいは、奴隷と自由人の隔てはないと言います。一人一人が洗礼によってキリストに結ばれ、教会と言う一つの体を作っている。そして体に血が流れているように、私たちには一つの霊が通っていると言います。
忍耐の必要な日々です。教会の地味な歩みが続いています。そして私たちは、つながっているのです。私は、誰かから力をもらって働くことが出来ます。私の働きは誰かの益となるでしょう。誰かは別の人を支えます。このようにして、互いが生かし合っているのです。感染症の中、教会に出席できる人がいます。できない人もいます。互いに覚え合いましょう。このとき教会は、恵みの力を増し加えます。私たちの間に通う霊は、より豊かに働きます。主に結ばれている恵みを基として、互いに励まし合い、前進して行きましょう。
■2020年10月 『何を見ていますか』
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて恐くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったか」と言われた。
(マタイによる福音書 14章29~31節)
逆風が吹いていました。弟子たちは一晩中風に逆らって舟を漕いでいました。夜が明けるころ、向こうから一人の人が水の上を歩いてやって来ます。弟子たちは幽霊だと思って悲鳴を上げます。するとその人は言いました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」主イエスが不思議を現わして弟子たちのもとにやって来たのです。ペトロが言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」そしてペトロは、水の上を歩き始めます。
水の上を歩くペトロ。荒唐無稽と言うよりも、白けた気持ちになるかもしれません。しかし、ここに重要なメッセージがあります。
マタイの福音書は、ユダヤ教との激しい対立の中で書かれました。教会は迫害にさらされ、殉教者が出たと考えられています。ペトロは、イエスを見つめているときは水の上を歩くことが出来ました。けれども吹いて来る強い風を見たとき、溺れかけてしまいます。
試練の中にある教会でした。「主イエスを見ているとき、水の上さえ歩くことが出来る。すなわち、迫害の現実を踏破することが出来る。しかし、試練の強い風に心を奪われるなら、たちまち溺れてしまうだろう。」このことを伝えているのです。
コロナ禍にいる現在です。政府や東京都は、感染拡大防止と共に経済の再生を講じています。相反する二つのものを共存させようということでしょう。厳しい事柄です。
ストレスフルな今です。この中で私たちは、落ち着いた心で主を仰ぎたいと思います。主を仰ぐとは、礼拝をささげることであり、祈ることです。落ち着くとは、日常生活の中で礼拝や祈りの時間を取り分けておくことです。主に対する信仰は隣人への関心に向かいます。コミュニケーションを取ることが難しい時ですが、他者と心を通わせたいです。主を仰いで、隣人と心を通わせる。私たちに求められていることであり、出来ることです。そして聖書は、これをするとき、弟子たちは水の上さえ歩くことが出来ると伝えています。険しい現実を踏破していく力が与えられるのです。
■2020年09月 『平和に過ごしなさい』
人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(マルコによる福音書
9章49~50節)
感染症の収束は見通しが立ちません。諸説はあるようですが、三年はかかるとも言われています。生活上のストレスがあります。職を失った人がいます。感染症対策のために、過剰労働を強いられている人たちがいます。十分に面会することもかなわず、愛する人を天に送る場合もありました。私たちの心と暮らしに鈍痛のような辛さの加わる日々です。
主イエスは、「火で塩味を付けられる」と語ります。聖書でいう火にはいくつかの象徴的な意味があります。代表的なものは、「試練」と「清め」です。金属は火で精錬されることによって不純物が除かれ、純粋なものになります。試練自体は幸いなものではありません。けれどもそれを経ることによって罪や無関心という不純物が除かれ、人は神の前に清められる。一般的な言い方をすれば、苦労を経験し、惨めな思いを味わってこそ、人の気持ちも分かるようになる。火という試練を経て、その人の内に他人を生かす塩を持つようになる、と言うことでしょう。
主イエスは貧しい家に育ちました。父親は早く死に、兄弟も多かった。他人から侮られることがあったでしょう。また、助けてくれる人もいたと思います。おそらく子供のころから、人間の持つ優しさと酷さを同時に知っていたのだと思います。そして酷さではなく、互いの内に塩を持って平和に過ごせと言う。
人は自分の人生を生きていきます。教えたり、励ましたり、協力することはできます。しかし、その人の人生を代わりに生きることはできません。自分自身から逃れることはできず、向き合い続けなければならない。この点で孤独です。このような私たちにとって「塩」とは、何を意味するのでしょう。主イエスは大きなことを求めてはいないと思います。優しさであったり、労わりであったり。言わば〞その場限りの温かい心〞なのではないでしょうか。誰かと目が合ったときにニッコリ微笑まれたら人はそれだけで力をもらうものです。それぞれに厳しい現実を生きています。必ずしも共有できるわけではありません。これを承知して温かい心を送ることが出来たら、そこに平和が訪れます。主を信じて生きるとは、このようなことだと思うのです。
■2020年08月 『命の息』
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記 2章7節)
わずか三行たらずの短い文章です。しかし、ここに聖書が示す人間理解があります。
「土の塵」とは土塊のこと。人は値なく弱いものであることを示しています。けれどもこのような人に「命の息」が吹き込まれました。述べられている「息」は、「魂」や「欲望(求め)」を意味する「ネフェシュ」という言葉が用いられています。少しごちゃごちゃしますが、人は、自分の必要を自分の力で満たすことが出来ないのです。絶えず神に求めなければならない。このようなものとして創られたというのです。
宇宙空間に半年間滞在できる人間が、虫歯一本で動けなくなります。同時にその人間は、神に祈り、生涯をかけて救いを求めるでしょう。ここに人間の持つ尊さがあります。
感染症の拡大。長雨。各地で発生している豪雨災害。そして先の見えない現実。世の中全体が不安定です。七月の末を迎えていますが、暦の感覚がおかしくなって夏の実感を持つことが出来ません。混乱と不安の中で、何をどうしたら良いのか分からない。自分の立ち位置さえ見失うような今です。
創世記が示すのは〞人は神との関わりの中で生きるもの〟ということです。現実に対しては対応しなければなりません。しかしそれのみに終始すれば、変化を続ける現実に振り回されることになるでしょう。私たちには変わることのない立ちどころが必要です。使徒パウロは言いました。
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (ローマ書
5章8節)
これが福音です。キリストによって示された神の愛こそ私たちの立ちどころ。この愛の中にとどまることが、神と関わることです。
重要なのは福音の言葉を聴くことです。礼拝に出席できる人もいれば、できない人もいます。それぞれの状況を大事にしてください。そして主の日には、心配する心や働く手をしばし中断して、福音の言葉を聴きましょう。祈りつつ御言葉を聴く中で、あなたのところに来てくださる主キリストを受け取るのです。ここで私たちは新しく生かされた者たちになります。神さまから、生きる力を頂くのです。
■2020年07月 『一つの霊によって』
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリントの信徒への手紙一12章12~13節)
礼拝堂でささげる礼拝を中止したのは三月二十九日。再開したのは五月三十一日です。この間、九回の主の日がありました。
近隣の教会の対応は様々です。二月から礼拝を中止する教会がありました。また、一度も中止をすることなく今日に至っている教会もあります。私たちの教会は、土曜日に礼拝を録音し、日曜日の十時半までにホームページ上にアップロードしました。献金については、振込用紙を送付して、郵便口座に振り込んでいただきました。役員会はEメールのやり取りで行ったところです。主の日に集まることはできなかったのですが、教会の営みが停止していたわけではありません。それぞれが責任を担って奉仕をささげ、教会全体で協力しつつ、二か月間を忍耐して過ごしました。
再開を迎えた五月三十一日は、ごく自然でした。集まることが出来なかった二か月間の日々を感じさせません。いつもと同じです。信仰共同体としての教会が、変わることなく生きていたからです。
パウロは教会を人体にたとえて説き明かします。耳、目、鼻、口、手、足、それぞれ部分があり、働きは異なっています。しかし各部分はバラバラなのではありません。それぞれが集まって一つの体を形作っている。教会もこれと同じだと言います。そして、それぞれの部分を一つに結ぶものが聖霊の働きです。「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」洗礼によって教会の一員となります。キリストの体の部分になるわけです。この私たちに一つの霊が通い、私たちを一つにしている。
共に集まることが出来ない日々は辛いものでした。しかし、集まれない日々がかえって、私たちが主にあって一つであることを教えてくれたように思います。パウロは第一テサロニケの5章で「〝霊〟の火を消してはいけません」と語ります。感染症は続いています。霊の火を燃やし、信仰を一つにしましょう。互いにキリストを示し合い、愛をもって協力し、困難な日々を共に歩んで行きたいのです。
■2020年06月 『新しい言葉を語ろう』
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録
2章1~4節)
聖霊が弟子たちに降りました。一同は霊の恵みに押し出されて、知らないはずのほかの国々の言葉で話し始めます。
創世記の十一章には、バベルの塔の物語が記されています。人々は言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。天まで届くとは、神さまと肩を並べること。全地に人々の増え広がることが神の与える祝福なので、散らされることのないようにとは、神さまの心に背くことを意味します。人々は集まりましたが、もくろみは挫折します。神のごとくになろうとしたとき、言葉は通じなくなりました。互いのエゴがぶつかって、心が通わなくなったのです。
ペンテコステの出来事はバベルの塔に対する救いの答えです。主キリストの十字架の死によって人間の罪は赦されました。この後、聖霊が注がれることによって人間は新しいものになります。すなわち、自らのエゴを克服して、他者と通じる新しい言葉を語り始めるものになるというのです。
喪失、嘆き、憎しみ、絶望・・・。むごい現実の中で心が閉ざされるとき、私たちは言葉を失います。心は硬直したように固くなって、他者との関係を失うでしょう。しかし、心に愛があるとき、小さくても希望があるとき、心は動き始めます。
弟子たちに与えられた聖霊降臨の出来事は、今日の弟子である私たちの中で繰り返されています。他者との間に言葉が通じないとき、私たちは相手の気持ちを考えます。通じる言葉を探すでしょう。そこにあるのは思いやりであり、小さな愛です。何年も変わらない現実を前にして、希望を見失うことがあります。けれども、「もう一度、祈ってみよう」「もう少し、努力を続けてみよう」こう思えたら、そこには信仰による希望があります。
聖霊の働きは私たちの中にあります。神さまが与えてくださった信仰と希望と愛が、私たちの中に宿っている。それは小さいものかもしれません。しかし闇を照らす救いの光です。霊の灯りに照らされて歩みましょう。私たちが、世に向けて新しい言葉を語るのです。
■2020年05月 『救いの手は伸ばされている』
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(マルコ
1章40~43節)
一か月前、世の中の大問題はオリンピック開催の有無でした。現在の大問題は医療崩壊の危機です。そして一か月後に何が起こっているのか、私たちには分かりません。ただ明らかになって来たのは「この闘いは長く続く」ということでしょう。感染症の脅威があります。同時に感染症が終息した後、世界はどのように変わるのか。私たちの日常にどのような変化が生じるのか・・・。この闘いは長く続き、行く先はまだ誰にも分からないのです。
旧新約聖書をとおして、重い皮膚病は汚れた病として人々から忌み嫌われていました。患者が人中に出ることは律法によって禁じられています。イエスに癒しを願い出た人は、文字通り、命がけで救いの嘆願をしたのです。そしてイエスは、救いの手を伸ばしました。
注目したいことが二つあります。一つは、イエスが自らの手を伸ばしたことです。汚れた人に触れることは許されません。そして神の救いは、救われない人にこそ伸ばされるのです。もう一つは、病気が癒されたことです。主イエスの与える救いは、病を癒し、人間の現実を変えていくものです。
緊急事態宣言、医療崩壊、自粛、倒産。いつまでたっても買えないマスク。身近な人たちが罹患していることもあるでしょう。そして、他者との当たり前な接触が出来ません。普通に話をすることが出来ないのです。誰もが大きなストレスを抱えています。
心が固くなります。誰かに怒りをぶつけたくなります。しかし、私たちはキリスト信徒です。主イエスの手が伸ばされて、それぞれのうずくまっていた現実から、神さまの愛の中へ引き起こされた者たちです。そうであれば、主の御手を信頼して、助けを求めて祈りましよう。毎日の暮らしの中で、家族や出会う人々に、思いやりの心を向けましょう。
感染症は、医学の問題であり、政治の問題です。そして人間の問題です。人間がどのように生きるかの問題です。不安の中でエゴを通そうとするのか、他者に愛を注ごうとするのか、ここで生き方が分かれます。分からない明日は、私たちが創り出していくものです。
■2020年04月 『弱さと尊さ』
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記 2章7節)
人間は土の塵から作られました。土塊とは価のないものです。人はあるとき生まれ、いつか死んで行きます。必ずしも生涯の日々を納得できるわけではありません。多くの人が不条理を抱え、ある日中断されてしまう人生を生きています。この点で人間は弱くはかないものです。「土の塵で形づくられた」と語られるゆえんです。しかし土塊から出来た人間には、神の息が吹き込まれました。森羅万象が造られる中で、神の息が吹き込まれたのは人間だけです。ここに人間の持つ尊さがあります。〃人間は弱くはかない〃しかし、〃神の霊によって生かされた尊いものである〃これが創世記の示す人間理解です。
WHOは、新型コロナウイルスの感染に対してパンデミックを宣言しました。東京オリンピック、パラリンピックの開催も危ぶまれています。このような中で、東日本大震災・福島原子力発電所の事故より九年目を迎えました。点と点が繋がっていく思いがします。点と点が繋がって表す線は、利益優先と人間性の軽視です。3・11の大惨事があっても、日本の国では原子力発電所が稼働しています。感染症でオリンピック、パラリンピックの開催が危ぶまれれば、まず経済的な損失が計算されます。経済の安定と発展は重要です。同時に、利益が優先されれば人の心は塞がれ、世の中は病むとおりです。
私たちは何のために命を頂いたのでしょう。幸せになるためなのでしょうか。もとより幸福を否定するわけではありません。幸福を求め、努力することは人間の自然な姿です。しかし、幸福になることが人生の目的とは思えません。中学生のときに僧侶から教えてもらいました。「娑婆は魂を研く道場なり」。妙に納得したことを思い出します。一般的な言葉で言えば「学び」です。私たちは生涯の日々をとおして、隣人を知り、自分自身を知り、神さまを知ります。生きる意味と愛を学んでいくのでしょう。互いに励まし合って、この世では終わらない学びを続けて行くのが人生であると思うのです。
感染症が襲えば罹患します。休校や集会自粛のために、多くの人々が悲しみや苦境の中に立っています。人間は弱いのです。そして神さまの前に、全ての人間が尊いのです。このメッセージを心の軸にしていきたいのです。
■2020年03月 『命を祝う日』
行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である。
(ネヘミヤ記 8章10節)
来たる二月二六日(灰の水曜日)から受難節に入ります。期間は四十日間。イースターの前日まで続きます。受難節は、主キリストの御苦しみを覚えて、克己、修養、悔い改めの時として過ごすものです。具体的な過ごし方としては、次のようなことが考えられます。福音書の受難物語を読んで黙想する。心に悔いることや赦し難い気持ちを紙に書いてみる(書いたものは、主の前に祈ってからシュレッダーにかけます)。日ごろは当たり前に食べている好物を控える。何かしら行動することで、この季節を意味深く過ごすことが出来ます。
そして注目したいことがあります。受難節の期間に日曜日はカウントされないのです。日曜日、すなわち主の日は、主キリストが復活した喜びの日です。そこで受難節には数えないわけです。
冒頭に掲げた言葉はネヘミヤ記の一節です。ユダの民はバビロン捕囚からエルサレムへ帰還しました。神殿を新しく造り、五十年前に破壊された町の城壁を再建します。この後ネヘミヤは、民にモーセの律法を読み聞かせ、信仰の教育を授けます。安息日の意味を説明し、この日が神と共に祝う喜びの日であることを教えるのです。
娘が一歳の誕生日を迎えた日、私は一番小さなホールのケーキを買いました。ローソクを一本立てました。娘は手を叩いて喜んでいました。そして親である私たちは、神さまへ感謝をささげ、娘がいることを心の底から祝いました。
神さまは、私たちを生かすために御子を十字架に渡し、人間の罪を御自身の上に引き受けました。そして御子を復活させ、私たちに罪の赦しと永遠の命の約束を与えました。主の日は、人間の側が復活の出来事を祝うわけですが、私はそれだけではないと思います。むしろ神が、私たちの命を喜び祝う日と言えるでしょう。この日、私たちの救いは成就しました。神さまの前に私たち一人一人が、かけがえのない喜びそのものなのです。
悔い改めをもって受難節を過ごしましょう。そして主の日を喜び祝いましょう。礼拝をささげ神の喜びの中に身を置くのです。神さまと共に私の命、あなたの命を喜び祝うのです。
■2020年02月 『豊かに実を結ぶように』
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
(ヨハネによる福音書 15章1~2節)
『ぶどうの木』の創刊は二〇〇〇年六月。二十年の時を経て二〇〇号の発刊を迎えました。小さな月報ですが、背後には教会の営みがあります。そこに神さまの恵みと人々の信仰の歩みがあります。重ねられた日々を覚えて、主に感謝をささげます。
植物のぶどうの木を育てる上では〃剪定〃が重要になるそうです。余分な枝や葉を剪定することで風通しが良くなります。それぞれの葉に日が良くあたる。さらに過剰に実が成ることを防ぐので樹に負担のかかることがなく、寿命を長く保てるそうです。このような選定作業は、十一月から二月までに行う〃冬の仕事〃ということでした。
ぶどう園の農夫たちは根気のいる仕事を続けていたのでしょう。主イエスはその有様に私たちに対する神さまの働きを重ねています。そして主が私たちに求めているものはただ一つ。実を結ぶことです。
述べられている実とは、互いに愛し合うことです。キリストに留まり、このお方に生かされて互いに愛し合うことが実り。主イエスが私たちに求めておられるところです。
ひとつが問われます。愛の中身はどのようなものなのでしょう。主イエスは、冒頭で掲げた言葉の後で次のように述べています。
「わたしの語った言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(15章4節)
キリストに留まるとは、主の言葉を聴き、聴いた言葉に従うことです。求められている愛の内容が見えて来ます。具体的な内容は、人の言葉を聴くこと。それは、心の声を聴くことと言えるでしょう。心の声を聴くことなしに相手を理解することは出来ません。愛のはじめであり内容は、目の前にいる他者の言葉を聴くこと。相手の心の声を聴き続けることです。
過ぎた二十年間を振り返れば、教会にとっても個人にとっても、様々な出来事がありました。そのたびに私たちは祈りました。そして主は、私たちの声を聴き続けてくれたはずです。根気よく手入れをしてくださいました。これを糧にして愛し合いましょう。他者を重んじて、心の声を聴き続けたい。教会と言うぶどうの木に、なお豊かに実が成るように。
■2020年01月 『お母さんよかったね!』
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書
1章14節)
高校で聖書を教えています。校門のすぐ近くに大きなモミの木があります。毎年アドベントが始まると、この木に電飾を施してツリーの点灯式をします。宗教部員が聖書を朗読して祈りをささげます。聖歌隊が讃美歌を歌います。カウントダウンと共に校長先生がスイッチを入れる。ツリーの電飾が輝きます。明るい気持ちになるものです。この後、参加者たちには暖かいココアが振る舞われます。
この日は帰りが遅くなりました。夕方の六時を過ぎていて、辺りは夜の気配でした。にぎやかだった生徒たちは一人もいません。冬の空にツリーだけが輝いていました。そこへひと組の親子が通りかかります。五歳ぐらいの女の子です。お母さんと手を繋いでいました。彼女は足を止めて大きな声で言います。
「ワッ、クリスマスが始まった。お母さんよかったね!」
夜空に輝く大きなツリーを見上げて感動したのでしょう。弾む声です。女の子の心にはクリスマスの楽しい思い出があるのでしょう。そしてこの思い出は自分一人のものではありません。親子で分かち合う中で作られて行ったものでしょう。今年も楽しい出来事があって、お母さんと一緒に善い思い出が重ねられるのだと思います。だから彼女は、「お母さんよかったね」と言った。
見ず知らずの子どもです。しかし、幸いなクリスマスを迎えてほしいと願いました。
ルターが作詞した讃美歌を思い出します。
いずこの家にも めでたき音ずれ
伝うるためとて 天よりくだりぬ。
讃美歌第一編の一〇一番です。私たちが求めたのではありません。主キリストが、私たちを救うために、私たちのところに来てくださったのです。
子どものようにワクワクする思いは、もうないのかもしれません。代わりに切れ目のない悩みはあります。衰える体を庇いながら、最善を探す毎日です。若いからいいわけではありません。若いゆえに、見えない明日に向かって手さぐりで生きている現実があります。そして主は、このような私たちのところに来てくださいました。述べられている「恵みと真理」とは、神さまの愛と真心のことです。礼拝をささげて主キリストに近づきましょう。主が豊かに、あなたを照らしてくださいます。