■2022年12月 『キリストを待ち望む』
そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意はしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(マタイによる福音書 25章1~4節)
クリスマスに先立つ四回の主の日を「アドベント・待降節」と呼びます。この期間はクリスマスの準備をするとともに、再臨のキリストを待つ意味があります。
皆さんは、待ち合わせをすることがあるでしょう。現代では時間に遅れても苛立つことは少なくなりました。スマホでやり取りができるからです。昔は、待ち合わせの時間に相手が遅れると、とても気をもみました。「何をしているのだろう?」「何かあったのか?」「自分が時間を間違えた?」不安と苛立ちを募らせながら待ちます。そして相手がやって来る。不安な気持ちは解かれて笑顔になります。楽しいものでした。
私たちは色々なところで待ちます。産み月、ディズニーランドの順番、合格発表、手術室の外で待つこともあります。私たちが待つのは、大事なことや大切な人のために待つのだと思います。待つこと自体に生産性はありません。しかし無為に見える待ち時間の中で私たちは、これまでの歩みを再確認するのではないでしょうか。改めて自分自身の心と向き合い、大切な一つ一つに対してしてきたこと、出来なかったことと向き合う・・・。
イスラエルの婚礼では、花婿が花嫁の家に迎えに行くことがならわしでした。ともし火を照らして一行を迎えるのがおとめたちの役割です。愚かなおとめたちは継ぎ足す油を用意していませんでした。買いに行っている間に花婿の到着となります。キリストは思いがけないときに来る。だから、いつも用意をしておきなさい。これを教えるたとえ話です。
アドベントは、信仰と言う油を継ぎ足す時間なのかもしれません。主を待ちつつ自分自身と向き合います。そこには努力の数々があります。数えきれない弱さと失敗があるでしょう。そして自分自身の意志や力に上回る、主の恵みを見いだすのです。
あなたがキリストを待つのであれば、主はあなたにとって大切な方です。これまでの恵みの積み重ねがあって、主を待つ者になったのです。そして主は、応えてくださいます。待つ私たちに御身を現してくださる方です。
■2022年11月 『聖徒の日』
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙 3章13~14節)
教会では十一月の第一日曜日を「聖徒の日」と呼びます。天に召された人々を記念する大切な日です。
人生をマラソンにたとえることがあります。長い道のりをゴールに向かって走って行く。けれども私は〝駅伝〟を思い浮かべます。マラソンは個人競技。駅伝は団体競技です。共に長距離を走るわけですが、内容は別のものではないかと思います。箱根駅伝は十区間を走ります。一区は大手町から鶴見まで、街中を走ります。五区は小田原から箱根まで、上り坂が続きます。選手はそれぞれの区間を走りタスキをつないでいきます。その有様が、人生に似ているようで・・・。
平坦な道を行く人がいます。険しい道ばかりを行く人がいる。走ることは同じなのですが、行く道は全く違います。しかしランナーは孤独ではありません。応援する人の列は続きます。中には母校の旗を振り、幟を立てて応援する人たちもいます。そして選手の後ろには監督車が付いている。要所要所で声を掛けます。タスキを渡したとき多くのランナーは倒れ込みます。その姿は、力が尽きたというよりも、自分の分を精一杯果たしたという印象を受けます。そして最終ランナーは大手町を目指す。そこには仲間たちが待っています。先に走った選手、陰で支えてくれた裏方たち。ひとつのレースに挑んだ仲間たちが、ゴールで帰りを待っているのです。
人生は孤独なレースではありません。タスキをつなぐ仲間たちがいます。応援してくれる人垣は絶えません。走る私に寄り添って言葉をかけ続けてくれる方がいる。心に聖書の言葉を示す聖霊の働きです。そしてゴールに入るとき、大勢の仲間たちが待っています。タスキを託してくれた先達者。見えないところで助けてくれた人々。一緒に世を生きた人生の仲間たちです。そしてこの真ん中には主イエスがいる。両手を広げて、ゴールに入る私をしっかりと受けとめてくれるのです。
家族や恩人、信仰の先達者たち。皆が待っています。あなたのゴールを待っている。そしてこの真ん中にいるのは主キリストです。だから目標を目指して、元気に走りましょう。
■2022年10月 『洗礼への招き』
道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。(使徒言行録 8章36~38節)
エチオピアの女王カンダケに仕える高官がおります。彼は宦官でした。エルサレムで礼拝をささげ馬車に乗って国へ帰る途中です。そこは寂しい道でした。彼は馬車の中で聖書を読んでいます。しかし意味を理解することが出来ません。外から声を掛ける者がいました。「読んでいることがお分かりになりますか」「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。声を掛けた人物は伝道者フィリポ。早速馬車に乗って聖書の説き明かしを始めます。読んでいたのはイザヤ書53章。「苦難の僕」と呼ばれるところです。フィリポはこの箇所からイエスの福音を説き明かします。馬車はオアシスに着きました。宦官はフィリポに願い出ます。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」妨げのあるはずがありません。二人は水場に入りフィリポは宦官に洗礼を授けました。
フィリポと宦官は何時間馬車の中にいたのでしょう。長い時間とは思えません。馬車の中で行われたのは聖書の説き明かし。フィリポが聖書から福音を伝え、宦官はこれを聴いて信じただけです。
洗礼を受けることは人生の重大事です。年齢を重ねるにしたがって、その重さは増していくものでしょう。しかし、受洗が人生の重大事になるのは、その後の生き方にかかっていると思います。洗礼を受けるだけでその後に信仰生活が伴わなければ、洗礼の意味は十分には現れないでしょう。反対に、受洗の日よりキリストを生涯の主として歩むのなら、洗礼を受けたことはきわめて尊く、大切な出来事になります。
私たちすべての者に主からの招きがあります。十字架上で成し遂げられたキリストの赦しを受け取り、神さまの愛の中で生きる救いへの招きです。これを受け取ることが洗礼を受けることです。洗礼は信仰の完成ではありません。出発点です。福音をただ信じる信仰をもって、主の招きに応えたいと思います。
出来事の最後は次のように締め括られています。「喜びにあふれて旅をつづけた」寂しい道を歩んでいました。しかし彼は福音を受け入れ、主と共に喜びの道を歩んで行きます。
■2022年09月 『今の時を生かす』
定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(コリントの信徒への手紙一
7章29~31節)
九月四日に私たちの教会は、創立七九周年を迎えます。一九四三年(昭和一八年)から今日に至るまで、教会は礼拝をささげ、福音を宣べ伝え、恵みの日を数えてきました。当教会に関わった人々はもはや数え切れません。過ぎた日々は、主の恵みと先人たちの労苦が折り重なってできた尊い日々です。個人的なことを言えば、私自身この教会を通して救われた者のひとりです。牧師夫妻をはじめ、共に教会生活を送った兄弟姉妹方の顔が思い出されます。過ぎた日々の有難さを忘れられるものではありません。
来年は八〇周年。「何をもって記念とすべきか」、役員会で検討を始めます。七〇周年の記念誌を出しました。以後一〇年間の記録をまとめることは必要でしょう。同時に、多くの場合行われる記念誌の発刊をもってよしとするのも、何か違うように思います。現代は厳しい時代です。ロシアとウクライナの戦争をはじめとして、世界の緊張が高まっています。感染症のために、以前のように伝道集会を開くことさえできません。この中で、私たちに問われているものがあるように思うのです。
冒頭に掲げたのは、終末を意識して語ったパウロのメッセージです。「キリストが再臨してこの世は終わる。新しい天と地が始まる。だから、この世の暮らしに深入りをするな」このように述べています。パウロは終末の到来をリアルに感じていました。現代の私たちとは違います。重要なのは彼の信仰の視点です。パウロは、神の国(完全な救いの世界)に心の視点を置きます。そしてここから、世の営みを移り変わるものとして捉えるのです。限りない世界に立って、限りある世を捉える。いわば、永遠の今に立って、移り変わるこの世を生きようとしているのです。
安定を欠く現代です。ビジョンを抱きにくい時代でしょう。私たちに必要なのは、バラ色の未来を描くことではなく、永遠と繋がっている今に立ってこの時代を生きることなのだと思います。変わる時代の中で変わらない福音を、身をもって証しすることが求められていると思うのです。問われる課題は大きい。時間をかけて、皆で見出していきましょう。
■2022年08月 『ただ信じなさい』
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(マルコによる福音書
5章35~36節)
止まない感染症。ウクライナの戦争と物価高騰。当たり前になった異常気象。そして元首相の無残な殺害・・・。息が詰まるような現実です。この中で私たちは、それぞれに希望と課題を抱えて毎日を生きています。日常は速やかに過ぎていきます。責任を果たして、ご飯を食べて、明日の備えをして寝ます。そして日常の繰り返しの中でふと、考えることはないでしょうか。「私は何をしているのだろう。これから先どうなるのだろう・・・。」世の中の現実を前に私ひとりの存在はあまりにも小さなものです。生きる努力が無駄だとは思いません。人との繋がりに支えられて生きています。けれども自分自身を捉えきれなくて、空を掴むような頼りなさを覚えるのです。
ヤイロの娘は死にかけていました。息のあるうちにイエスを連れて行かなければなりません。しかし家に急ぐ途中で娘が亡くなったことを知らされます。ヤイロは道の真ん中で固まっています。理性も感情も一気に凍りついてしまった。そしてこのときイエスが言うのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。死を前に人間は無力です。しかし〞信じよ〟という。ただ信じなさいというのです。
「ただ信じる」とは、どのようなことなのでしょう。聖書が示す信仰はキリストとの関りです。そうであれば、主を信じてより頼むことが信仰でしょう。気持ちの上で信頼するだけではありません。心に抱く信頼を力にして、イエスのあとについて行くのです。
主に従ったヤイロは娘の蘇生を見ることになります。信じれば死人も生き返るというのではありません。主のあとに従う中で、人間の絶望は乗り越えられていくというのです。
高度な科学技術に囲まれています。同時に、明日何が起きるのか、まったく分かりません。生きていることに漠然とした不安を抱く日があります。主イエスはそのような私たちに「ただ信じなさい」と明言します。そして聖書は、主を信頼して御あとに従うとき、救いの出来事が起きることを伝えている。信仰は魂の冒険なのかもしれません。主に従ってそこで何が起きるかを見る。呟く私たちが、今日も従う一歩を踏み出して行きたいと思うのです。
■2022年07月 『主の食卓』
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書
14章22~23節)
先日、高校二年生と話をしていました。彼女は体育会系のグラブから文化系のクラブへ転部していました。部活を変えることは、中高生にとってはとても大きなことです。「いつ変わったの?」「中二のとき」「なんかあった?」「いいえ。コロナが始まって活動ができなくなったから」私は〞あぁ〟と思いました。「コロナが始まったのは、この子が中二の時からか・・・。」と。中学二年生と高校二年生とでは、成長の度合いは大きく異なります。長い時間が経ったのだ、と思ったわけです。
ここ二年余りを振り返ると、高校生は常に不機嫌でした。はじけるような生きる力は行き場を塞がれています。部活ダメ。学祭ダメ。修学旅行ダメ。毎日繰り返して、黙食と手指消毒の徹底が求められます。不満は深刻な感染症の現実の中で諦めをもたらしていきました。そして今年度になって、ようやく元気が出てきたのです。少しずつですが、本来の明るさを感じます。この姿を見て、人間は人と人との間で生きるものなのだ、と改めて思いました。
キリスト信仰は本来、温かいものです。神と人、人と人とが繋がる温かさが通うものです。ひとつの食卓があります。イエスが卓主です。主が言葉を語ります。弟子たちは聴きます。主がパンを裂きます。弟子たちはそれを食べる。ここにあるものが神と人、人と人との温かい交わりです。今日ささげている礼拝の原型はここにあります。形は異なっていますが、私たちもペトロやヨハネと同じように、主の食卓に座っています。主の御言葉を聴き、聖餐をいただきます。これがキリスト信仰。主の弟子である私たちの姿です。
感染症の中で教会の活動も制限されてきました。現在もそうです。しかしこの中で、主の食卓を囲む温かさは失いたくありません。信仰は、単に心の中で信じるものではありません。主の食卓に座ることから始まります。ここで主と出会い、仲間と出会う。キリストの十字架の血によって赦され、私そのものが神さまから愛されていることを知るのです。
感染状況を注視しつつ、教会の豊かさを回復していきたいと思います。私たちの思いを主に集め、皆で礼拝をささげて行きましょう。
■2022年06月 『わたしたちの主』
神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリントの信徒への手紙一
12章3節)
去る五月十五日に教会定期総会を開催いたしました。二〇二〇年三月の総会を通常のスタイルで行った後、四回の総会を議決権行使書の提出によって行いました。二年ぶりに通常開催となったところです。新型コロナウイルスによる感染症は終息したわけではありません。けれども、学校が休校になり、飲食店の営業時間が短縮されるなどの〞非常時〟からは脱却したと思います。
多くの人が亡くなりました。今も後遺症で苦しんでいる人たちがいます。仕事を失った人がおり、当たり前な学校生活や学生生活が奪われました。人生の行く道が、見る見るうちに予期せぬ方向へ変わってしまったのです。国難という言葉がありますが、世界規模の難です。信仰においてこれをどう受け止めていくのか、簡単に答えは出ません。歴史的な課題になるでしょう。
支区の会合に出席します。どこの教会も苦労していることが分かります。それぞれの教会で難しいのは、感染症に対するセンスの違いです。重く受け止める人がいます。軽く受け止める人もいる。体に関わることなので、合意形成が難しくなります。場合によるとトラブルが起きることもある。
総会を前にして教会の二年間を振り返ってみました。すべてが良かったとは思いません。反省すべき点はあるでしょう。しかし、皆が協力して歩んできたことは事実です。わたしたちは、わがままはありませ んでした。役員会で真摯に話し合います。教会にとって何が大切であるかを考え、出来るだけ多様な視点を持つように努めています。事が決まったら教会全体に伝えます。皆で、決めたところを実行する。当たり前と言えば当たり前なことです。けれどもこれが出来ることは尊いことです。そしてこの土台にあるものは信仰です。
教会の頭はイエス・キリストただひとり。わたしたちはこのお方の前にある平らな大地に立ちます。ひとりの主を仰いで、愛をもって互いに生かし合います。尊敬と労りをもって隣人に接するのです。この営みの中に聖霊が働いています。苦労はあるでしょう。しかし、行く道は必ず開かれます。小さくて良いんです。地味で良い。これからも、心を合わせて皆で信仰の歩みを進めて行きましょう。
■2022年05月 『石は転がしてあった』
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。(マルコによる福音書
16章3~4節)
時間に追われる葬りでした。満足なことはできません。遺体を十字架から降ろして、身を拭って、とにかく墓の中に納めたのです。
安息日は土曜日の日没とともに終わります。
けれども夜になるので動くことができません。女性の弟子たちは日曜の朝を待ちました。そしてまだ夜の明けきらないうちに墓へ向かったのです。尊い方の遺体に、せめて人並みに香油を塗るためでした。そして彼女たちにはひとつの心配がありました。入り口を塞ぐ石です。円盤形に切った大きな石を転がして墓の入り口を塞いでいます。「さて、誰があの大きな石を転がしてくれるだろうか」彼女たちは心細い思いで話し合っていたのです。ところが墓に着いてみると、石は既に転がしてあったのです。
子供のころの記憶です。テレビを見ていました。「おじいさん」に見える俳優が独り芝居をしているのです。丸い椅子に座っています。背を丸めて肩を落としています。そして自分に向かって呟くのです。「結局人生、四角い箱の中・・・。」意味が分かりませんでした。しかし今なら分かります。努力して、頑張って、喜怒哀楽を重ねて最後は、四角い棺桶の中。
墓の入り口にある大きな石は〞死〟を意味するものです。女性の弟子たちの心を問えば、「わたしたちには、死を動かすことが出来ない・・・。」だから彼女たちはせめて遺体に香油を塗りに来たのです。ところがです。女性の弟子たちが墓に着いてみると、石は既にわきへ転がしてありました。
死を前にしたとき人間は無力です。生き方を選ぶことはできます。助けてくれる人もいるでしょう。しかし死そのものを回避することはできない。結局四角い箱の中・・・。呟くのが私たちの姿でしょう。そして聖書は、キリストが死と言う人間には動かすことのできない大きな石を転がした、と告げるのです。注意しましょう。人間は誰一人協力していません。神さまが石を転がしたのです。両手を広げ無力な人間を守るようにして、神が死を転がしたのです。肉体は滅びます。しかし私たちは滅びません。死の向こうに復活の命があります。神が勝ち取った永遠の命がある。私たちはこれを信じて世を生きて行きます。
■2022年04月 『教会と役員』
イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」マルコによる福音書
6章38節
三月二十日、議決権行使書の提出によって教会総会が開催されました。この席で十名の役員が選出されました。役員とは、どのようなものなのでしょう。この問いに対する一つの答えが、冒頭に掲げた出来事の中に示されていると思います。
集まっていたのは男だけで五千人の群衆。女性と子供たちを合わせれば、二万人を超える大群衆であったでしょう。この人々に対して弟子たちが持っていたものは、五つのパンと二匹の魚。集まった大群衆を前に、彼らの持っているものにどのような意味があるでしょう。しかし弟子たちは、御言葉に従って主にささげました。すると、パンと魚は増えました。ついに、集まった大群衆の全員が食べて、満腹することが出来たのです。
五つのパンと二匹の魚。これを弟子たちの信仰と置き換えてみましょう。それは、お話にならないほどにわずかなものです。けれども主にささげたとき、増えました。人々を養い支える豊かなものとなったのです。
重要なのは、「ささげること」です。信仰は、ただ神さまを信じるだけではありません。そこには、隣人への愛があり、明日への希望があり、困難に立ち向かう生きる勇気があります。ないものを数えるのではありません。わずかにある信仰を手に取るのです。それを主にささげます。このとき小さな信仰の心は行動に変わります。主が働いて、大切な誰かを私が生かす、恵みの不思議が起こるのです。
舞台は人里離れた所。主イエスの周りを大群衆が囲んでいます。病んでいる人がおり、躓いている人たちがたくさんいます。この人々の間を弟子たちは、増やされたパンと魚をセッセ、セッセと配って歩きます。この有様は教会の原型と言えるでしょう。教会は、主イエスの言葉を皆で聴き、主イエスのパンを皆で食べるところです。この中で信仰をささげては、主と隣人に仕えるのが役員です。
大切にしたいのは、「平ら」と言うことです。人々は福音を聴きパンを食べます。弟子たちは使命を果たす。そして、どちらが偉いとか、上とか、そういう話ではありません。主イエスの許に皆が平らなところにいるのです。
役員も会員も牧師も、皆で主イエスを囲みましょう。互いに仕え合って、命のパンを分かち合います。これが私たちのすることです。
■2022年03月 『痛みを知る神』
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙 2章6~8節)
今年は、三月二日が〝灰の水曜日〟です。この日から四十日間の受難節に入ります。古来より教会は、この期間を悔い改めと克己の時として過ごしてきました。好きなものを絶ったり、断食をしたり、祈りに専心して過ごしました。主のご受難を思いつつ、新しく救いの恵みを受け取るためです。
ご承知のとおり、十字架刑はローマ帝国が考え出した極刑の方法です。それは、私たちが思うよりもはるかに残酷なものです。十字架につけられる前に、死刑囚は鞭を打たれます。皮の鞭には動物の骨の欠片や鉄片が埋め込まれていました。これをしたたか打ちます。磔にする前に、抵抗できないように、死刑囚の気力と体力を奪うためです。処刑場に着くと十字に組んだ木の上に寝かせます。左右の手首と二つに重ねた足に太い鉄の釘を打ちます。そして十字架を立てる。後は、放りっぱなしです。多くの場合、死因は窒息死です。磔になると内臓が下がるそうです。横隔膜などの呼吸筋が段々と動きにくくなります。つまり、少しずつ窒息していくわけです。
多くの牧師が当たり前のように「十字架」という言葉を口にします。「主は私たちの罪を赦すために十字架にお架かりになった」と。そのとおりです。しかし、畏れを覚えます。主の苦しみを思えば、簡単に口にできる言葉ではありません。想像してみましょう。指の先に小さな棘が刺さっても、取れるまでは気になるものです。主の痛みと苦しみはどれほどのものであったか。死にざまはどれほど酷いものあったか・・・。
そして、ここが大切だと思います。主イエスは、生身の体をもって本当に苦しんだのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」神への叫びをあげました。主の十字架は、観念の世界で起きたことではなく、事実なのです。
「神はどこにいるのだろう」と思うことがあります。神さまの愛を信じられない日があるのです。このようなとき私は、主の痛みを思うのです。「キリストは本当に十字架についた。本当に痛んだのだ」このことを思う。ここで心が変わります。つぶやきに代わって祈りが生まれ、希望を持つことが出来るのです。
■2022年02月 『教会の歩み』
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
(コヘレトの言葉 1章2~3節)
聖書の中で異色を放つ言葉です。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」平家物語の冒頭にも通じるものを感じます。述べられている〝空しさ〟は「へベル」と言う言葉です。「儚い」「無意味」「無益」「不条理」などを表します。原因と結果が釣り合っていれば、空しくはならないでしょう。人生には理不尽なことがあり、行方は定めがたいものです。そしていつの間にか終わってしまう。コヘレトが語る空しさの中身は、このようなものではないかと思います。
空しさを語るコヘレトですが、「神も救いもない」と言って嘆いているわけではありません。彼は信仰のあるリアリストです。不条理な現実を受け止めます。この上で神さまを信じるのです。空しさを正面から語ることができるのは、生ける神という不動の軸があるからでしょう。
並行してパウロの言葉を思い出します。
悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
(コリントの信徒への手紙二 6章10節)
創設したコリント教会に背かれ、罵られました。力となるものは何も持ってはいなかったのです。しかしパウロは、「常に喜び、すべてのものを所有している」と言います。
信仰は、神を仰いで現実を見ないことではありません。キリストに結ばれて、この世の現実に立ち向かうことです。斎場で棺を炉に入れます。言葉にはできない悲しみと無力感を味わいます。愛する者は既に亡骸となり、これから灰になる。私には何もできない・・・。しかし私たちは独りではありません。キリストが共にいます。福音の言葉を聴くのです。
わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
(ヨハネによる福音書 11章25節)
キリストは、世に現れた神の愛そのものです。底知れない空しさを味わうことがあります。誰にとっても明日のことは分かりません。だからこそ主を信じるのです。空しい現実に救いの種をまきます。花が咲き、実の成ることを信じて耕し続ける。希望を持って皆で耕すのです。これが、私たち教会の歩みです。
■2022年01月 『いずこの家にも』
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書 2章9~11節)
キリストを最初に礼拝したのは、東方の学者たちでした。彼らは東の国でメシアの誕生を告げる星を見ました。御告げの星に導かれてはるばる旅をした。そしてついに、幼子キリストに出会います。黄金、乳香、没薬、三つの宝をささげてキリストを拝みました。
マタイによる福音書を最初に読んだ人は、マタイが指導している教会の人たちです。彼らは驚いたでしょう。メシアを最初に礼拝したのはユダヤ人ではありません。それは、ユダヤ人の嫌う異邦人であった。しかも、律法で固く禁じられている星占いをする学者たちであった。驚天動地の内容です。そしてここに、マタイのメッセージがあります。マタイは、ユダヤ人の優位を奪うのです。神さまの前にユダヤ人と異邦人の隔てはない。福音は、人種や立場の違いを越えて、すべての人に開かれているというのです。
ルターが作詞した讃美歌に次のものがあります。
いずこの家にも めでたき音ずれ
伝うるためとて 天よりくだりぬ。
〔讃美歌(五四年版)・一〇一番〕
キリストは、すべての人の救い主として世に来たと言うのです。
喜びの日があります。悲しみに沈む時があります。道に迷う時がある。そしてキリストはすべての人のところに来てくださいました。あなたを愛して慰めを与え、救うためです。
パウロは主を証しして次のように述べます。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2章6~8節
主は、高いところに来たのではありません。十字架のどん底へ降りました。世のすべての人を救うためです。東方の学者たちは礼拝をささげました。福音の言葉を聞いて礼拝をささげる。今も同じです。私たちは礼拝をささげ、繰り返してキリストをお迎えするのです。