■2023年12月 『欺かない希望』
わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙
5章3~4節)
来週から教会暦はアドベント(待降節)に入ります。主の降誕を待つ季節です。
クリスマスの語源は、ラテン語の「クリストゥス・ミサ」と言われています。クリストゥスは、キリスト。ミサは、カトリック教会がささげるミサ聖祭のミサ。礼拝のことです。クリスマスはキリストを拝む日、またキリストをいただく日のことです。
先日話をしていました。その方は「世の中に希望がありませんね」とおっしゃいます。そのとおりです。ウクライナとロシアの戦争、パレスチナの紛争。どちらも、幼い子供たちがたくさん死んでいます。報道に接するたびに胸が引き裂かれる思いになります。日本の外国人観光客の数はコロナ以前に戻ったそうです。しかし円安と物価高。色々なところで計画の変更が余儀なくされています。併せて、中国との緊張関係と防衛費の増大・・・。良いニュースはないように見えます。しかし、昔もこのような時がありました。70年前後のころです。日本は高度成長の真っただ中。世界は冷戦時代であり、ベトナム戦争は泥沼化していました。景気のいい日本の中で、精神の活路を求めるように学生運動が盛んになりました。成長していく経済の陰で、働き過ぎで亡くなっていく人もたくさんいたのです。
私は自らを省みて思います。「自分はどこまで主キリストに希望を置いているのか」と。忍耐なしで生きていくことはできません。厳しい時代です。重要なのは、この忍耐がどこへ向かっているかでしょう。主キリストを後にして忍耐をすると、ただの我慢に終わってしまう気がします。「キリストに希望を置き、祈りつつ明日へ立ち向かう」言い尽くされていることかもしれません。しかしキリスト者である私たちは、これを行っていきたいと思います。このとき、忍耐の中に愛が通います。神さまは、愛する者の願いと労苦を見過ごしにはしません。主を仰ぐとき、私たちはこれを知ることができるのです。
クリスマスが来ます。私たちの現実に希望の灯りとなってくださる方です。主を受け取り、このお方に希望を注いでいきましょう。
■2023年11月 『祝いの席』
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。(マルコによる福音書
2章 15節)
来る29日に「教会創立80周年記念会」を開催いたします。大々的に行うわけではありません。食事を共にして、創作賛美歌を歌い、朗読劇を聞き、主に感謝をささげる会です。
5月に新型コロナウィルスの感染法上の位置づけが5類になりました。そして、感染が終息したわけではありません。罹患の絶えない状況が続いているとおりです。記念会には教会につながる皆が集まりたいです。けれども、それぞれに健康上の都合があり感染に対する不安もあります。それぞれの都合に合わせてください。〞お弁当だけ買って帰る〟もありです。
10月の役員会ではクリスマスの予定を決めました。次に記すとおりです。
○12月10日(日) 恵泉・中高 課外聖歌隊
ラ・パーチェを招いて 礼拝での奉唱とミニコンサート
○12月17日(日) CS子どものクリスマス
○12月23日(土) イブ賛美礼拝(昼)
恵泉・中高 課外オーケストラを招いて 礼拝での奉奏とミニコンサート
○12月24日(日) 主日クリスマス礼拝
イブ賛美礼拝(夜)
コロナ以前に行っていたクリスマス礼拝後の祝会と、夜の賛美礼拝後のキャロリングは、今年は行わないことにしました。盛りだくさんになることを避けるためです。教会の現状に見合った、無理のない仕方でクリスマスを祝いたいと考えています。ご理解をお願い致します。
冒頭に掲げたところは、レビの家での祝会の有様を伝えているところです。レビは徴税人でした。堅気の人ではありません。道を踏み外した人です。しかし主イエスに召されて弟子になりました。これまでの仲間を呼んで、門出の宴を開いています。
主イエスは人を隔てることなく、共にパンを食べ、ワインを飲み、皆で恵みを分かち合いました。それは神のよしとするところであり、イエスの人生そのものでした。
記念会、そしてクリスマスと続きます。祝いの席です。そこにおられる主は見えざるキリスト。皆で集まれる日を望みつつ、小さな会を、心を込めて行っていきたいと思います。
■2023年10月 『祈ろう』
あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイによる福音書
6章6節)
青年時代のことです。夏のキャンプで世話になった牧師へ礼状を書きました。9月の末に返信のハガキが来ました。末尾には次のように書いてありました。
「伝道の秋、祈りの秋です。」
70代半ばの牧師でした。海沿いにある小さな教会でした。毎週の礼拝出席は10人に満ちません。そして記された言葉は、主キリストに対する純粋な信頼を示して、あまりにも爽やかでした。
世の中で「祈ろう」と言うことはできません。しかし、人の心から祈りがなくなったわけではないと思います。実生活の中で神を求める心は封印され、祈りは行き場を失って膿んでいるように見えます。では、私たちはどうでしょう。祈りを形にすることが出来ているでしょうか。
〞祈りは神との対話〟と言われます。聖書によって、礼拝のメッセージによって、神はあなたに語ります。これを聴いたら、次に祈るのです。主に向かって抱いている思いを打ち明けます。時にそれは、言葉にならない呻きかもしれません。「助けてください」このひと言。ひと言さえ言えなくて、ウンウンと呻くだけかもしれません。神さまは、この一つ一つをしっかりと受け止めてくださいます。
重要なのは、私たちが祈りをささげる神は〞父なる神〟であるということです。旧約の長い歴史の中で、神を父と呼んだ人はいません。これは、神とイエスの間にある固有な関係性の中から生まれたものです。
親の願いは子供の成長と幸いです。意図して悪いものを与えることはしません。人間は過ちを犯します。しかし神が誤ることはありません。主イエスは私たちに神を父として示し、安心して祈ることを教えているのです。
LINE(ライン)というコミュニケーションアプリがあります。スマホ上で双方がやり取りをします。来たメッセージに返信しないとコミュニケーションは成り立ちません。信仰も同じです。神さまの呼びかけに応えて祈るとき、神さまと私の間に関係が出来るのです。
伝道の秋、祈りの秋です。豊かな恵みの明日へ向かって心を合わせ、皆で祈りましょう。
■2023年9月 『教会創立80周年を迎えて〜福音のためならどんなことでもする〜』
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(コリントの信徒への手紙一 9章 23節)
1943年9月4日、梅ヶ丘教会が誕生しました。以来80年を数えます。当教会は、開拓伝道によって築かれた教会です。親教会があって支えられたわけではありません。伝道者と信じる者たちが、主キリストのもとに集まりました。信仰というレンガを一つ一つ積み上げるようにして、築かれていった教会です。信仰の営みが途絶えれば、教会は終わってしまいます。今日、梅ヶ丘教会がこのようにして世に立っていること自体、神さまから頂いている巨大な恵みです。そして積み重ねられた恵みの日々に立脚して私たちは、明日へ向かって行こうとしています。
伝道については厳しい時代です。日本全体で信徒数が減少しています。30年前、東京神学大学の学生数は、約160人おりました。現在は70人台です。数字ベースの減少の根にあるものは、教会が発信している福音が、現代に対して十分な魅力や力を持っていないということでしょう。同時に、続けてきた教会生活の形が、時代に対応していないところもあるのだと思います。
冒頭に掲げたのはパウロの言葉です。彼は、「福音のためなら、どんなことでもする」と言います。投獄、鞭打ち、貧困、災難、誹謗、中傷。何度も死ぬような目に遭います。しかし彼は地中海世界を歩き回って福音を伝えました。パウロの語る「なんでもする」は、「福音を伝えるためなら何事もいとわない」という意味です。この信仰と実践を支えるものは復活したキリストとの交わりです。
伝道が厳しい現代です。しかし、迫害があるわけではありません。今日の状況の中で、教会が時代に通じるように形を変えていくことは必要だと思います。何をどうするかは、私たちが決めていかなければなりません。そしてこのような教会の中心にあるものは、主キリストとの交わりです。聖書を学んでよしとするのではありません。聖書を学んで活ける主と交わります。一人一人の信仰を集めて礼拝をささげ、私たちを待っている主と出会い続けるのです。これが教会の命です。そして復活のキリストに押し出され、皆で力を合わせて伝道の明日へ挑戦していきたいのです。
■2023年8月 『キリストと出会う』
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカによる福音書 24章30~32節)
教会は来る9月4日に創立80周年を迎えます。このたびは、コロナ後と言うこともあり、盛大に祝うことは致しません。積み重ねてきた恵みの日々を感謝して受けとめ、今、主は私たちに何を求めておられるのかを共に見いだしていきたいと考えています。主な計画は次のとおりです。
・9月3日(日)創立80周年記念礼拝
・10月29日(日)記念祝会・懇談会
・教会員による記念讃美歌の創作
・『80周年記念誌』の作成(70周年以降、10年間の記録を中心にしたもの。24年9月発刊予定)
役員会では、過去を振り返るよりも未来を望む記念の時でありたいと考えています。私の頭には100周年が浮かびました。あと20年・・・。教会はどのようになっているのでしょう。「20年の間にすべきことがあるのではないか。そうであれば、今何をすればよいのか?」このようなことを考えました。会堂建築?次代のためにお金を貯えるか?頭をよぎります。しかし、そういうことではないと思います。ここは主の教会です。もっと本質的な、伝えるべき〞霊的なレガシー〟があると思うのです。それは私たちが救われ、次代の人々もそれによって力強く生きることが出来るものです。
冒頭に掲げたのは「エマオの旅人」です。二人の弟子は復活を信じていません。イエスの死を目の当たりにして信仰は挫折しました。故郷へ引き返していく途中です。最初うちは気づきません。しかし裂かれたパンを手に取ったとき、彼らの目は開かれます。目の前のお方が我が主イエスであることに気づいた。二人の弟子は言いました。「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」福音書は、聖書の説明かしと聖餐によって、私たちは復活の主と出会うことが出来ると告げています。そして主と出会ったとき心は燃える。挫折の現場に立ち向かって生きるほどに、激しく燃え上がるのです。
私たちが伝えていくべきものは主キリストとの出会いです。これを一番に、伝えたい。
■2023年7月 『与えられた使命』
イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
(マルコによる福音書 5章18~19節)
男は悪霊に取りつかれていました。墓場を住処としていた。体は生きているのですが、心は死んでいたのです。自分自身を打ち叩いては、昼夜の別なく叫び声をあげていました。
男はイエスによって救われます。「汚れた霊、この人から出て行け」ひと言でした。悪霊は退散します。この際、悪霊は豚の群れに入ることを願います。イエスは許しました。すると豚の群は雪崩を打って湖に飛び込みました。
イエス一行が舟に乗ると男が一緒に行きたいと願い出ます。弟子志願をしたのです。しかしイエスは、これを許しませんでした。
「連れて行ってやればいいのに・・・」と思います。しかしここで男を連れて行ったら、ゲラサの地で福音を告げる者がいなくなるでしょう。地元の人々にとってイエスは迷惑なのです。男が癒されたのはありがたい。しかし大量の豚が死にました。そこで「出て行ってもらいたい」と言い出したのです。こうなれば伝道は出来ません。けれども、男には出来るのです。彼は地元の人間です。拒否されることはありません。むしろ彼から詳しく話を聴きたかったでしょう。イエスは男の弟子志願を断ったのではありません。男に、彼にしかできない伝道の使命を与えたのです。
信仰の言葉は、語る者と聴く者の間に信頼と関心がなければ通じません。家族のことを思い出しましょう。信仰に関心のない連れ合いや子供たちのところへ牧師を連れて行って、福音を聴くでしょうか。難しいと思います。一方、連れ合いや親の言葉であれば、聴くことが起こると思います。少なくとも、自分にとって大切な人が信じているものを無視することはできません。
「いやいや、私は福音を語るなどできません」このように言うのかもしれません。口から出るだけが言葉ではありません。「おばあちゃんは毎日曜日に教会へ行っていた」「親父は俺のために祈ってくれた」このような一つ一つが福音の言葉です。主を信じて生きる日々がメッセージになります。癒された男は立派な人ではありません。主に愛され、活かされた人です。救いの恵みを生きた人なのです。
■2023年6月 『聖霊の賜物』
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(コリントの信徒への手紙一
13章1~2節)
パウロがダマスコ途上で回心を遂げたのが、紀元三十三年頃。ローマで殉教したのは六十年頃と考えられています。この間、一筋に伝道を行いました。三回に渡る世界伝道の歩行距離を合算すると四一〇〇キロに及びます。文字通りパウロは、世界を歩き回って福音を宣べ伝えた人物です。
冒頭に掲げたメッセージの最後は次の言葉で結ばれています。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一コリント13・13)
大伝道者であるパウロは、信仰を第一とはしません。最も大いなるものは愛であると言います。愛がなければ、信仰は無に等しいと言うのです。
これは当たり前なのかもしれません。主イエスを受け入れなかったファリサイ派も、主を十字架に追いやった大祭司たちも、皆神さまを信じています。信仰のある人たちです。しかし彼らに、愛はありませんでした。
パウロは愛を説き明かして語ります。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(一コリント13・4-6)
述べられている愛は、欲も得もなく他者を生かすことでしょう。自分のことを考えることは大切です。同時に、自分の事ばかりを心配していると行く道は必ず行き詰ります。誰かのために親身になると、結果的に自分自身も生かされていきます。愛が行き交う中で私たちは、互いに生かし合っていくのでしょう。
この愛は大きなものでなくて良いのだと思います。極端なようですが〞その場限り〟で良いのだと思う。明日を知ることのできない私たちです。今、出来ることを必要な人にすることが出来れば、それで十分です。
当時のコリント教会は盛んでした。そして愛を見失っていました。パウロは聖霊が与える最大の賜物として愛を語っています。霊の助けを祈り、愛を求めて歩みたいと思います。
■2023年5月 『シャローム!』
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネによる福音書
20章19~20節)
4月9日がイースター。多くの人たちが帰りました。会堂の隅を見ると椅子を向かい合わせてベッドにし、ひとりの2歳児が眠っています。お腹にタオルケットをかけてぐっすりと眠っていました。教会学校は朝の9時半から羽根木公園で野外礼拝をささげました。その後はたまご探し。「あぁ、疲れて眠ってしまったのだ・・・。」と思いました。安心した寝顔はとても愛らしいものでした。
聖書には「平和」と言う言葉がよく出てきます。ヘブライ語のシャロームです。これは特別な意味を持つ言葉です。神さまが共にいて、脅かされることなく、人間の生きる力が心身ともに満ちあふれている有様のことです。
ヨハネの福音書を読めば、弟子たちは恐れを抱いていました。我が主は十字架の上で死にました。ユダヤの指導者たちが、今度はイエスの弟子と言うことで、自分たちを捕まえに来るかもしれません。弟子たちは戸に固く鍵をかけていました。一同の心は、血の気が引いたように固く冷たくなっていました。そして復活の主が姿を現します。弟子たち一同は、恐れに変わって大きな喜びを抱きました。
弟子たちを支配していたものは、罪と死と恐れです。そして主イエスに出会ったとき、我が主を見捨てた自分たちの罪が赦されたことを知ります。復活によって死は克服されたことを悟るのです。そこで弟子たちに喜びが溢れました。復活のキリストによって、弟子たち一同にシャロームがもたらされたのです。
主の与えてくださるシャロームにはしるしが伴います。そのひとつは、子どもが安心していることです。小さな者たちが安心している姿に、神さまが与える平和のしるしを見るわけです。
平和は神さまが与えて下さる賜物ですが、自動的なものではありません。皆で力を合わせて維持していくものです。弟子たちはこの後、信仰の道を歩みます。私たちも同じです。絶えることなく主のメッセージを聴き、愛をもって神と人に仕えて行きましょう。安心して泣き、安心して笑い、子どもたちが健やかに過ごせる教会でありたいと思います。このために主は、死から復活を遂げられたのです。
■2023年4月 『オンライン環境整備、とは』
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(エフェソの信徒への手紙
5章15~17節)
コロナ2019のまん延に対応するため教会では、2021年10月からZOOMによる礼拝のライブ配信を始めました。簡単なことではありませんでした。ライブ配信を行っている近隣の教会を訪ねて学ぶところから始めました。やがて「配信チーム」が立ち上がります。試行錯誤を繰り返して現在では、安定した配信が出来るようになりました。
この中でいくつかの問題点があります。まず、配信する音質と画像が鮮明ではないことです。さらに、集会室のテレビに礼拝を中継しているのですが、26年前に購入したテレビで画像がとても悪いことです。以上を解消することが「オンライン環境整備」の内容です。
礼拝を問えば、信者が一つ所に集まってささげることが本来の姿です。キリスト者が集まって礼拝をささげる所が教会であり、そこに未信者が招かれて福音の恵みが伝えられていきます。しかし、これが全てではありません。教会に来ることが出来ない信仰の仲間たちが複数います。40年前であれば、カセットテープに説教を録音して必要な人に郵送していました。道具が変わったのです。今日では、インターネットを用いて福音を分かち合うわけです。この作業は教会にとって積極的にしなければならないことだと考えています。
1962年から1965年まで、カトリック教会は第2バチカン公会議を開催しました。この会議はカトリック教会内の宗教改革とも言われる重要なものです。コンセプトは「今日化」でした。この会議でミサ(礼拝)はそれぞれの国の言葉で行うことが出来るようになりました。プロテスタントに対しては、「分かたれた兄弟」という位置づけを与えて交わりの手を伸ばすようになります。現代に対応する教会へと自らを変革して行きました。
教会には、変わるものと変わらないものがあります。福音は変わりません。そして福音の伝え方や信じて生きる人々の生活様式は変わります。変わるものに対しては適切に対応したいと思います。それは、変わることのない主イエス・キリストの福音を皆で分かち合い、多くの人々へ伝えて行くためです。主の御心を問い、最善を選んでいきたいと思います。皆で力を合わせて前進して行きましょう。
■2023年3月 『レビの家』
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。(マルコによる福音書
2章16節)
イエスがレビをお召しになりました。彼は徴税人。堅気の人ではありません。ローマの税収入に仕える立場を利用して、ゆすり、たかり、を生業にする人でした。弟子になる決心をしたレビはイエスを家へ招きます。友達を呼んでは別れの宴を開いたのです。徴税人や罪人たちが集まりました。罪人とは律法を守れない人のことで、当時は売春に関わる仕事をしていた人を指します。想像してみましょう。この宴会がどのようなものであったのか・・・。参加したいとは思わないでしょう。そしてイエスは、彼らの真ん中に座りレビのもてなしを喜んで受けていたのです。
5月8日から、新型コロナウィルスの感染法上の位置づけが、2類から5類へ引き下げられます。感染がなくなったわけではありませんが〞アフターコロナ〟に向けて大きく舵を切ると言うことなのでしょう。
「オンライン」という言葉が日常的に使われています。大学では当初、感染症に対応するためのものでした。しかし現在では、もろもろの事情のため教室で授業を受けられない人のために用いられています。これ自体は有益なものです。けれども、学期中に一度も学生と顔を合わせないことが起こります。これでいいのだろうか?と、思うことがあります。
イエスはパンを食べ、レビが注ぐワインを飲んだでしょう。そこにレビの感謝があり、イエスの喜びがありました。デジタル社会を否定することはできません。同時に人間は、アナログなものだと思います。顔を合わせて話しをし、一緒にものを食べる。人間同士の営みです。これがあってデジタルも生きるものになると思います。
教会ではZOOMを用いて礼拝を配信しています。教会に来られない人がたくさんいます。礼拝を共にしたいと願っています。そして可能な日は、ぜひ、教会にいらしてください。今日のレビの家は教会です。主が一人一人を召してくださいました。それぞれに人生の事情を抱えています。そして主イエスは、誰のことも咎めません。あなたがいることを喜びとし、一緒に生きてくださるのです。
教会は罪を赦された罪人の集まりです。互いを必要としています。自分独りでは信仰を守れないのです。皆で御許に集まりましょう。
■2023年2月 『弱さの中に恵みは溢れ』
あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。(コリントの信徒への手紙二
12章20節)
カルトが大きな社会問題になっています。指導者側が信者に献金を強制し、さらに高額な献金へと誘導しています。信者は家族に対して信仰を強制します。子供たちは心の自由を奪われ、日常生活がゆがめられています。カルトの根本にある問題点は、指導者側の信者に対する支配でしょう。恐ろしいのは、信者が指導者たちの支配を喜んで受け入れてしまうところです。
冒頭の聖書箇所は、コリント教会に入った偽使徒たちの働きを糾弾しているところです。偽使徒たちには力がありました。彼らは有力な推薦状を持ち、雄弁であり、霊的な能力を持っていました。自己確信に溢れた人々です。コリント教会は彼らを受け入れました。偽使徒を受け入れたので、教会はパウロを偽り者とします。偽使徒を受け入れるのか、パウロを受け入れるのか、判断の基準となったものは力強さです。偽使徒たちは力強く、パウロは弱々しかった。偽使徒たちは教会を支配します。金品を奪い取り、横柄な態度に出て顔を殴ることさえしました。そして信徒たちには、常軌を逸した彼らの振舞いが、霊的な優位を示すものに見えてくるのです。
このような状況に対してパウロがしたことは〝自分の弱さを誇る〟ことでした。パウロはとても感受性の強い人です。人と相対して話をすると、言うべきことを十分には言えなくなることがあります。そして体には持病がありました。彼は自分の弱さを赤裸々に語ります。そして弱さの中にこそ、キリストの恵みが満ち溢れることを証しするのです。
福音は、キリストが私たちの罪と死、弱さと絶望を十字架の上で担い、私たちに命と希望を与えるものです。キリストが世に降ります。現実に打ちのめされてうずくまる私を背負います。そして主は、どこまでも、どこまでも、私を背負い続けるのです。この恵みに生かされているからパウロは、自分の弱さを誇ることが出来るのです。
神は人を支配しません。弱さの極みに降って人を生かすのです。私たちは、自らの自由と責任においてこの福音を信じるのです。
間もなく受難節に入ります。それぞれに問われるものがあるでしょう。十字架の福音に立ち帰って、応えていきたいと思います。
■2023年1月 『動き出すクリスマス』
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(ルカによる福音書 2章15~16節)
クリスマスのキーワードは〝動き出す〟です。始まりは神さまです。天使を遣わしました。ガブリエルはザカリアに姿を現します。後に洗礼者ヨハネとなる男の子の誕生を告げます。しかしザカリアは信じられません。そこで天使は、約束の子が誕生するまでザカリアの口を利けなくしてしまいます。次に訪ねたのはマリア。御子を身ごもることを告げます。しかし彼女も簡単には信じません。ガブリエルは言いました。「神にできないことは何一つない!」。ガブリエルは頭に来たのでしょうか・・・?この後マリアが動き出します。
マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。(1・39)
不安な心があります。駆け出しては、約束の子を身ごもっているエリサベトの許を訪ねます。そして羊飼いたちです。天使が告げる救い主の誕生を聞きました。すると彼らは急いで御子を探しに出かけます。羊飼いたちは身分立場の低い人たちでした。冬の夜に野宿をする姿は象徴的です。彼らは、辛い現実から離れることが出来ません。身動きがとれない日常を生きている人たちなのです。
後継ぎを願いつつも与えられなかった老夫婦。特別なものなどない村娘。世の底辺を生きる羊飼いたち。平凡な人たちです。それぞれの課題に向き合って現実を生きている人たちです。そして彼らにキリストの到来が知らされました。すると動き始めます。新しい日常が始まるので動き出すのです。彼らの原動力は希望です。動かないように見える世の現実を、神が動かすことを約束します。登場する一人一人は、この約束に背を押されて動き出します。キリストに向かって、希望を抱いて動き始めるのです。
主イエスを信じるとき日常が変わります。日曜日の午前中は教会へ行きます。困難なことがあってもあきらめません。神を仰いでチャレンジします。クリスマスは、今なお私たちの日常生活の中で繰り返されています。あの日、ザカリア夫婦やマリア、そして野にいる羊飼いたちを動かしたように、今日の私たちを動かしている。力強く生かしています。
やがて羊飼いたちはキリストを探し当てました。主に近づく歩みは応えられるのです。