■2024年11月 『わたしは信じます』
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。(ローマの信徒への手紙 1章17節)
10月31日は宗教改革記念日です。
マルティン・ルターは、1505年にアウグスティヌス修道院へ入ります。21歳の時でした。1508年にはヴィッテンベルク大学の講師に招かれ、聖書の講義を始めます。
当時の彼は熱心な修道者でした。祈りと苦行と勉学の日々を送ります。苦行とは、断食をはじめ、自ら体に鞭を打つこと、石の階段を跪いたまま上ることなどです。ルターが住んでいた北ドイツは北海道よりも寒いと言われます。厳しい修練を重ねた末に、若くして亡くなる修道士たちもたくさんいる時代でした。
厳しい日々を続けました。しかし救いの確信は得られません。当時を振り返って「神が牢番に見えた」と述べています。自分を檻に閉じ込め、責めさいなむのが神だと・・・。そして生涯を決定する恵みの日が来ます。「信仰によってのみ義とされる」冒頭に掲げたロマ書の言葉が閃きました。神の前に義とされる(救われる)のは、人間的な努力ではなく、ただ神の恵みによる。すなわち人は、神が与えた救い主を信じることによってのみ救われる。この福音理解に開眼したのです。マルティン・ルター、28歳の時のことでした。
聖書が告げる救いは、神さまを心から信頼できることです。人生には辛いことがあります。理不尽な出来事も起こります。神さまを信じると共に、信じられない気持ちを抱くのが私たちでしょう。神と人との距離はとても遠いのです。人がこの距離を縮めることはできません。ルターも同様の気持ちであったのではないかと思います。そして、キリストに対して心の目が開かれました。
キリストは神の御子です。この世でただ一人、私たちに神の心を示すことがおできになる方です。神は、人を救うために御子を十字架に渡しました。キリストの十字架の死によって人々の罪を赦し、私たちを愛の中に取り返してくださった。これが神の心です。
「信じられない・・・」と、嘆いてはいけません。キリストを仰ぐのです。聖書が示す信仰は、主を受け入れることです。「信じます。信仰のない私を助けてください。」こう祈って主の前に手を合わせます。このとき神が父になります。神さまに対する信頼が作られ、「天の父」呼ぶことができるようになります。牢番ではなく、神が私たちの親になるのです。
■2024年10月 『命を分け合う食事』
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされているのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マルコによる福音書
2章16節)
私は食べることが好きです。食材に囲まれているだけでも、ホッとした、嬉しい気持ちになります。「食事を済ませる」という言い方があります。私は違うと思っています。もちろんラサラサッと食べる時はあるわけですが、食事は済ませるものではなく、感謝して美味しく頂くものです。本を読むことよりも食べることの方が大事です。物を食べることは、生きることそのものです。
主イエスは徴税人のレビを招きました。レビは応えて主の弟子になります。この後です。彼はたくさんの友たちを集めて食事会を開きました。これは自分が主催する送別会です。これまでの付き合いに別れを告げ、自分の門出を祝ってもらうのです。主イエスを真ん中にして、喜びの食事が進みます。
律法学者たちがこの様子を見ていました。クレームをつけます。当時は、徴税人や罪人たちとは、食事を共にしないことが常識でした。パンは神さまからの賜物です。命を養う尊いものです。これを分け合う食事は、ひとりの神さまを信じ、共に生きて行くことを意味します。
徴税人は、ゆすり、たかりを生業とする人です。罪人とは、性を売り物にする人たちのことです。このような人たちは、神に背く汚れた者たち。一緒に生きることはできない。だから食事を共にしてはいけなかったのです。 しかしイエスはこの常識を打ち破りました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
このように述べて堂々とパンを食べました。
人間は、パンを食べなければ生きて行くことが出来ません。パンを食べてはいない人は、この世に一人もいないのです。そしてキリストは、世のどん底で生きる人たちと一緒にパンを食べました。神さまから与えられるパンを分け合い、共に生きるためです。それは、神に背を向ける人生ではなく、神さまを喜びとする人生を一緒に生きていくためです。
キリストが命のパンです。主の弟子である私たちが、主を分け合う命の食卓を作っていきます。ただ食べるのではない。喜びと感謝をもって共に食べる食卓を作っていくのです。
■2024年9月 『旅する教会』
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです。(コリントの信徒への手紙一9章23節)
梅ヶ丘教会は、9月4日に創立81周年の記念日を迎えます。振り返ってみるとコロナ以後、私たちの暮らしは大きく変わりました。テレワークと言う働き方が一般化しました。デジタル決済が進んでいます。結婚式や葬儀は私的なものとなり簡素化しています。多くの教会がインターネットを用いて礼拝中継をしている。
既成宗教は力を失っていると言われています。しかし宗教そのものが力を失ったわけではありません。20世紀の後半から世界的に「スピリチュアリティ」と呼ばれる新しい宗教の形が広まっています。「瞑想」「守護霊」「高次元」「利他」「マインドフルネス」等々。スピリチュアリティと呼ばれる宗教性がそれです。信仰告白のような体系があるわけではありません。それは、個人的な精神世界と言えるものでしょう。人に生きがいや希望、心の癒しを与えます。様々なボランティア活動のモチベーションにもなっています。
コロナ後、人々の間にプライベート化が深まっています。この中でキリスト教を考えれば、とてもなじみにくいものでしょう。「信じる」「信じない」で一線が引かれます。この点で多様な現実を受け入れにくいのです。神さまは信じても洗礼を受けるのはどうも・・・。このような人々が数多くいます。けれども救いは、私の心の中で完成するものではありません。親や教師、社会から生き方を教わるように、歴史に耐え得る確かなメッセージがないと人間が生きる堅固な土台にはなり得ないと思います。現実に打ちのめされる私に近づく、尊いお方が必要なのです。
時代は変わります。迎合する気持ちはありません。同時に、時代を無視して伝道することはできない。今日の教会に求められているのは答えを提供することではないと思います。キリストと言う救いの答えを探して、多様な人々と共に歩んで行くことだと思うのです。
パウロは、自らに対して既に福音を得ているとは考えていません。途上にあると理解しています。だから「私はどんなことでもする」「共に福音にあずかるため」と言うのです。
個別化した時代です。一人一人が重荷を負っています。この中で教会は、キリストを尋ねて人生の旅を共に歩んで行く。創立記念日を前に私たちは、このことを覚えたいのです。
■2024年8月 『信仰の絆』
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。(コリントの信徒への手紙一10章16~17節)
6月30日、千厩教会を訪ねました。詳細については次号でお伝えする予定です。今回は、私の思いを述べさせていただきます。
当日は、栁沼牧師をはじめとする千厩教会の皆さん9人と、隣の教会である柴宿教会の4人のメンバーが私を迎えてくださいました。主日礼拝を共にささげ、皆さんからの心づくしの手料理をごちそうになりました。午後からは『教会に生かされ、教会を生かす』と題して私がお話をし、質疑応答の時間が設けられました。一同で主の恵みをいただく幸いな時間を過ごしたところです。
梅ヶ丘から千厩までの距離は直線にしておよそ390キロ。遠いです。千厩と柴宿の皆さんは自家用車で教会へ来ます。自動車がなければ生活ができません。東京とは暮らし方が違います。教会も個人の暮らしも違うのは当たり前ですが、互いの心は通い合います。言うまでもありません。ひとりのキリストを主と信じているからです。
パウロは聖餐のパンを示します。わたしたちは大勢であっても一つであると言います。裂かれた一つのパンを共に食べるからです。
教会の営みは様々です。説教もそれぞれの状況や牧師の個性によって多様なものになります。厳格な説教がありますし、ユーモアを交えた説教もあります。しかし聖餐は変わりません。教会の営みや牧師の違いによって変わるものではない。ここが大切です。
私は聖餐卓の前にいる時が最も安心します。制定の言葉を読み、聖別の祈りをささげます。最後の晩餐のあの時と同じように、主が見えざる主人となって共にいる。それで十分です。
千厩教会、柴宿教会、そして梅ヶ丘教会。それぞれの教会は、共に主に養われる神の民です。だから心が通い合い幸いだったのです。
信仰は観念的なものではありません。単に心の問題ではない。主があなたの前にご自身を差し出したのです。「取って食べなさい」と言います。一つのパンを共に食べて恵みに応えます。厳しい現実はあります。しかし、このパンの中に信仰の一致と喜びがあります。これが私たちの力。互いを結ぶ信仰の絆です。
■2024年7月 『人にしてもらいたいこと』
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな恵みがあろうか。(ルカによる福音書 6章31~32節)
中学生の時でした。身内の法事がありました。親戚たちが集まります。会食の時に私の前の席に従姉がいました。3歳の男の子です。「喉が渇いた」と言いました。そこで、コップにジュースを注いであげました。すると従姉は、困ったような、迷惑そうな顔をします。手を出さないのです。隣にいた私の母が笑いながら言いました。「小さい子は半分ぐらいでいいのよ」そう言って別のコップにジュースを半分注ぎます。従姉はそれを両手に持ってゴクンゴクンと飲みました。私は「ふーん。そんなもんか」と思いました。
「人にしてもらいたいことを人にもする」言葉は簡単。もっともなことです。しかし、難しいことかもしれません。コップの8割を満たすジュースは中学生にとっては当たり前です。しかし3歳の従姉にとっては、大ジョッキに注がれたジュースに見えたのかもしれません。
求められているのは他者を理解することでしょう。必要なのは、「洞察」ではなく「対話」なのだと思います。
人生経験に裏打ちされた洞察力は重要なものです。温かい洞察は包容力となって人に安心を与えます。同時に洞察力は個人によってさまざまです。程度の違いがあるでしょう。誤作動を起こすこともあります。人は話してみないと分かりません。対話を重ねる中で理解と修正を繰り返します。この営みを通してその人が見ている世界を少しでも理解することが出来るのではないかと思います。〞善意の押し売り〟ではなく、その人にとってのしてもらいたいことを行って、互いに幸いになることが出来るのではないかと思うのです。
6月の末に岩手県の千厩教会を訪ねます。牧師の栁沼赦羊子先生とは、かつて梅ヶ丘教会で信仰生活を共にしました。今回の計画については春先から準備を進めています。そして千厩へ行ったら、教会の皆さんと対話をしたいと思っています。それぞれの教会には、課題があり、険しさがあります。そして試練を恵みに変える主が共におられます。対話を重ねて互いに知り合い、それぞれの課題と希望を共有したいと願っています。理解を深める中で思いと行いを通わせ合い、主の恵みを共にしたいのです。皆さん、祈ってください。
■2024年6月 『主の教会』
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントの信徒への手紙一
11章23~24節)
五旬祭の日に弟子たちが祈っていると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から響きました。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまります。聖霊降臨の出来事です。このときから弟子たちの集まりは、聖霊を宿す〝教会〟となりました。
冒頭に掲げたのは、パウロが告げる主イエスの聖餐制定の言葉です。主は聖餐の意味を示して「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言います。
不思議な言葉ではないでしょうか。イエスはこの時点で十字架の死を覚悟しています。これに先立って弟子の一人が裏切ることを予告しています。聞いた弟子たちは「まさかわたしのことでは」と、代わるがわるに言い始めました。この後のゲッセマネの園では、祈るイエスを目の前にして眠る有様です。つまり弟子たちは、我が主が十字架に付くことも、行われている聖餐の意味も、分かってはいなかったのです。そして主は「わたしの記念としてこのように行いなさい」と語ります。
このときの主イエスは教会を見ています。十字架に付き、復活を遂げます。この後五十日を経て聖霊が降り、弟子たちの集まりが教会となります。そしてこの教会で十字架の死と復活を記念し、救いの勝利を祝う聖餐が繰り返されていきます。主イエスは、死を前にしたこのとき、明日の教会を見ているのです。
教会は、最初に主の心の中に宿りました。そして聖霊降臨によって世に誕生した。今日の弟子である私たちは、最初の弟子たちと同じように聖霊をいただき、教会を形づくっていく一人一人です。目には見えないキリストが食卓に座ります。私たちも同じ食卓に座ります。ここで主の言葉を聴き、割かれたパンを食べます。感謝の祈りをささげ、賛美を歌います。これが教会です。そして私たちは、この教会から世に遣わされ福音を証しします。神は愛であること、キリストは救いであることを指し示すのです。
一人一人が信仰を持つ以前から主に覚えられています。信仰を得た今日、教会の担い手となっています。この恵みを尊く受け止めましょう。私たちが主の教会そのものなのです。
■2024年5月 『知恵ある心を与えてください』
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ
わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように
教えてください。
知恵ある心を得ることができますように。
詩編 90編 10~12節
西南支区の常任委員会がありました。年度初めなので各担当を決めます。私のポジションは「広報」。『西南支区だより』の編集発行を行います。この後で支区長から説明がありました。「今年は教団総会があるので、支区から議員候補者を選ばなければならない。ついては、支区三役と常任委員のうち教職で、複数回常任委員を経験した人が選ばれます。と。
「あぁそうですか。大変ですねェ。」とお腹の中で思っていたのですが、ふと気が付いたのです。「えっ、私って教職の中で一番年上?ワッ、ヤバッ!」そうなのです。周り近所を見回したら、私が一番年上になっていました。だからどうと言うことはないのですが、いささか心に感じるものがありました。
かつての支区総会では〝教会派〟と言われる人と〝社会派〟と言われる人が厳しい論戦を展開しました。もう30年以上も前の事です。今年の3月で当時ガンガン議論をしていた牧師が隠退しました。年齢は80歳。良く教会に仕えた先生です。若いときの姿を知っているので、時の流れを感じました・・・。
自分自身のこれまでを振り返ると、「もっと務めを果たしたい」と思います。これまでやって来たことに満足できないのです。傲慢なのかもしれません。もっと働きたいと思う。
聖書は、人生の時が速やかに過ぎ去ることを告げています。そして最後に「知恵ある心を得ることが出来ますように」と祈ります。
述べられている知恵とは何を意味するのでしょう。「もっと、もっと」これが私の本音です。そして「もっと」を求めるとき心の願いは、満たされないのだと思います。
主キリストに出会って、初めて満たされるものがあります。自分で満たすのではありません。満たされるのです。このとき「もっと」と言う欲と渇きは消え、心は、主に従う信仰に変わるのでしょう。何が出来ても出来なくても、御心のままに用いられたいと思います。
■2024年4月 『信仰と奉仕と思いやり』
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。(コロサイの信徒への手紙 3章14節)
教会総会が終わりました。10人の役員が選出されました。初めて役員になる方もいます。改めて〝役員とは何だろうか〟と考えてみました。個性や働きは多様です。この中で等しく大切なのは、信仰と奉仕と思いやりです。
私が25歳のときでした。父が亡くなりました。土曜日に亡くなって、翌日の日曜日の事でした。教会学校を終えて2階の礼拝堂へ向かいました。急いで階段を上がろうとしていました。後ろから声がかかります。
「お父さんどう?」
強い声でした。私は振り向いて、「亡くなりました・・・」と伝えました。するとその方はひと言こう言ったのです。
「アァ・・・。」
嘆息でした。その響きは、私にとって忘れることが出来ません。
その方は当時70年配です。長く役員をしていました。とても真面目で、キリスト者としても人間としても、明確な線が一本通っている人でした。厳しいところがあるのですが、愛のある人でした。強く私を呼び止め、ひと言漏らした嘆息の中に、愛を感じました。「父と私のために祈ってくれていたのだ」このことがはっきりとわかったのです。私は若い日にこのような教会で育ちました。
役員の言葉や振る舞いで教会は変わります。良くもなれば悪くもなります。立派な役員になる必要はありません。それだと、他者からの評価を求めることにもなるでしょう。立派さを求めるのではなく、共々に中身を求めたいと思うのです。本気で福音を信じます。出来る奉仕を快くささげる。そして、目の前にいる一人を大切な人として思いやるのです。
聖書は「愛を身に着けなさい」と語っています。愛は、簡単には身につきません。人生の長い道のりの中で、何度も失敗と成功を繰り返しながら身に着けていくものでしょう。この点で教会は〝愛の教室〟と言えるものだと思います。神と人から愛を注がれ、自分も愛することを行っていくところです。
心の渇いた時代です。ドライに合理性を追求して人々は、日常から神さまを追い出しました。そして心は苦しんでいます。教会を形作る私たちに求められているのは、福音を生きることです。新役員と共に愛を身につけて行きましょう。大きなことではない。信仰を生かす小さな心の変化から救いが始まります。
■2024年3月 『教会役員って、何ですか?』
シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコによる福音書
1章30~31節)
3月17日に定期総会があります。この席で役員選挙が行われ、10人の役員が選出されます。そこで「教会役員」について説明したいと思います。
聖書では「ディアコニア」という言葉を使っています。「奉仕」「仕える」という意味です。教会の中でこの役割に選ばれた人を「ディアコノス」といいます。聖書では「執事」と訳しています。これが今日の役員に相当する人です。役員は「教会で奉仕をする人」のことです。問われるのは奉仕の内容でしょう。
第1に求められるのは、礼拝を整えることです。言葉をかえれば礼拝の充実に努める人。1週間の暮らしの中で礼拝のために祈ります。礼拝堂にゴミが落ちていたら拾う。新来会者がいたら隣の席に座る。礼拝が命の喜び。礼拝に信仰の軸を持っていることが大事です。
第2に求められるのは、教会の運営全般に関わることです。行事の立案、準備、調整、当日、すべてに関わります。財務の計画を立て実務を執行します。業者に費用を振り込み、銀行へ行ってお金を預け、教会員に対しては献金のお願いをする。その他もろもろです。
そして3番目は、他者の心に配慮することです。いつもとは違う様子に気づいて声をかけます。心に寄り添うことはしても、他者の事情に介入することはしない。そして秘密は守る。これだけのわきまえが求められます。以上が、ディアコニアの主な内容です。
「あぁ、大変だ〜」と思う方も大勢いると思います。大変なのです。なので役員は1人では務まりません。牧師と役員たちが協力して、皆で奉仕を担っていきます。そこには、教会全体の理解と協力、祈りが必要なのです。
そして重要なことがあります。役員は、能力が高いからなるのではありません。キリストに引き起こされた人がなります。主に手を取られて引き起こして頂いたから、この務めに就くことができるのです。ペトロの姑は高熱でした。危なかったのです。主に救われたので、彼女は一同に仕える者になったのです。
主のお召出しと教会の信任を受けて選出されます。悩むところではありません。応えていくところです。主イエスの助けとお導きは必ずはあります。共に前進していきましょう。
■2024年2月 『主の教会を造ろう』
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントの信徒への手紙一
12章24~26節)
1月の役員会で予算総会の準備をしました。この席で「責任役員選挙内規」3-①の変更を検討し、次回の総会に上程することにしました。変更の内容は次のとおりです。
〈現行〉役員選挙内規3-①
「役員定数は10名で、その任期は2年間、選出された年の4月1日から始まり2年後の3月31日をもって任期満了となる。再選を妨げないが、連続2期(4年間)を超える重任は認めない。
現行内規のうち下線部分を次のように変更します。
○「連続する再任は認めない。」
加えて、規則変更に伴う措置として次の事項を提案します。
○「規則の変更に伴う措置として24年度選出役員の任期は、当選順位のうち奇数当選者の任期を1年とし、偶数当選者の任期を2年とする。」
これまでは、役員に選出されると実質的に4年間奉仕することになりました。4年は期間として長いと思います。規則の変更によって奉仕の期間を2年にとどめます。また毎年半数を改選することで、奉仕に支障をきたさないことを考えています。
役員は神さまのお召出しと教会の信任によって選ばれます。プレッシャーに感じることがあるでしょう。もろもろの事情を抱えている私たちです。「無理〜。」と言いたくなることもあると思います。しかし役員になることは、神さまの起こす出来事です。応えていきましょう。
牧師は厳しいことをお願いすることがあるかもしれません。しかし無茶なことは申しません。役員に就任して信仰がしおれるようでは意味がない。私たちの教会はトップダウンの教会ではありません。何が最善か話し合って決めます。牧師の願いは、役員一人一人が活かされていくことです。信仰生活は一人ではできません。互いに愛をもって配慮し合うときに実現します。役員が元気なとき、キリストを主とする信仰共同体は造られます。
信仰と愛と思慮を集めて、主の教会を造っていきましょう。みんなで労苦と喜びを分かち合って、主と共に歩んでいきましょう。
■2024年1月 『出会いのクリスマス』
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書
2章10~11節)
少し感動することがありました。恵泉のラ・パーチェが奉仕に来てくれた日です。二階の電子ピアノを礼拝堂に下ろしました。夕方になって「そうだ、二階に上げなくては・・・」と思いました。ところが人手がないのです。夕方になって人は帰ってしまいました。残っているのは、六十代のオジサン(私のこと)と、五十代のオジサンとオバサンでした。「次の日曜日にしようか?」とも思ったのですが、「上にあげちゃおう」ということになりました。この電子ピアノがとても重いのです。怪我をしてもいけないし、ピアノは傷つけたくないし・・・。そこで三人が力を合わせました。すると、持ち上がるのです。ピアノを台車に乗せます。エレベータへ運んで集会室に下ろす。凄く上手にできました。大げさですが、三人で力を合わせてできたことがとても嬉しかったのです。
二人の力が一人を支え、一人の力が二人を支える。力を合わせるとはこのようなことでしょう。ピアノはゆっくりと動きました。
東の国の学者たちが登場しています。これは、当時のユダヤ人にとってはとても挑発的な出来事です。彼らは外国人を汚れた者と考えていました。未来を予見する学者たちを忌み嫌います。ユダヤ人にとっては、最も嫌いな人たちが出てきたわけです。しかも彼らが、この世で最初にキリストを礼拝しました。ここに大きなメッセージがあります。
御子の降誕は、人間が抱く敵意や偏見を超えさせるのです。人種、言語、地域、文化、互いの違いを超えてひとりのキリストを拝む者に変えていきます。神が人と出会ってくださるとき、人間は新しく隣人を見出すことができるのです。
たくさんの人に助けられて生きています。私の力が誰かの役に立つなら嬉しい。人はひとりで生きるものではありません。活かし合って生きるものです。自分の事ばかりを心配していると、人の心は貧しくなります。キリストに心を合わせましょう。人と人とが繋がっていきます。この中で、自分一人では動かないピアノも動きます。神と人、人と人とが出会い、新しく結ばれるのがクリスマスです。