■2025年1月 『無力な救い主』
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
(イザヤ書 53章3節)
紀元前586年、バビロニアの王ネブカドネツァルによってユダ王国は滅亡しました。神殿は焼かれ、都は廃墟になった。そして民はバビロニアに連れて行かれます。以後、捕囚の暮らしは50年間続きます。
捕囚の末期です。ひとりの預言者が神から遣わされました。その名はイザヤ。彼は告げます。
主が油を注がれた人キュロスについて
主はこういわれる。
わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ王たちの武装を解かせる。
扉は彼の前に開かれ
どの城門も閉ざされることはない。
(イザヤ書45章1節)
〞ペルシャの王が世界を平定する。神が遣わした救い主だ。我々はペルシャの王キュロスによって救われる〟こう告げたのです。歴史をたどればこの預言は実現します。キュロスはバビロニアを破り、ユダの民を捕囚から解放します。しかしイザヤは、述べた前言を翻すように告げます。それが53章の言葉です。
名もない男が現れます。地味で風采は上がらない。多くの心の痛みを知り、体には病がありました。人々から嫌われ、相手にされません。しかし男は、黙々として神と人に仕えます。馬鹿にされても無視されても、神と人を愛し続けました。イザヤは〞私たちはこのような人によって救われる〟と預言したのです。そして新約聖書は、粗末な家畜小屋で誕生した主キリストを指し示しています。
私たちは力を求めます。健康、学歴、能力、お金、社会的な立場、人との繋がり等々。これらが充分でなければ、この世ではとても生き難くなります。同時に、力を求めると力のとりこになります。そして力は、より強い力の前には弱いものになります。
御子は無力な姿で生まれました。神さまに、「できる・できない」「持っている・持っていない」このような評価はありません。ひとりのあなたをひたすら愛しているのです。主キリストを信じることは、神さまと繋がることです。ここで人生が変わります。力に服する生き方ではなく、力を用いる人生に変わります。クリスマスのこの時、私たちは何を軸として歩むのか、このことが問われています。