今月の一言(2025年)

■2025年2月 『教会役員とは』

 奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。(テモテへの手紙 一 3章~9節)
 
 3月16日(日)に教会定期総会を予定しています。この中で役員選挙が行われます。今年から半数改選となるので、5人の役員を選出することになります。
 冒頭に掲げたテモテへの手紙一は、テモテへの手紙二、テトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれています。教会生活のあり方や、伝道者をはじめとする教会に仕える者たちが、どのような人物でなければならないかを教えるものです。
 述べられている「奉仕者」を今日の役員と考えることが出来ます。具体的な要件の最初に「二枚舌を使わず」とあります。これは意味の深いことです。相手によって言葉と態度を変えます。当たり前のように嘘をつくことでしょう。このような二枚舌とまではいかなくても、心に思っていることと口で言うことが違っていたらどうでしょう。やはりその人を信頼することは出来なくなります。もし役員がこのような人物であったらどうでしょう。教会自体が信頼できないものになります。
 教会は信仰と信頼で築かれています。嘘、偽り、我がまま、傲慢、思いやりのなさ、このようなことで傷つき、壊れていきます。
 テモテ書で述べられている事柄は人間的な態度や生き方です。実務的な能力については触れていません。教会は信仰共同体です。キリストを信じる者たちの霊的な集まりです。この集団に仕える役員は霊的であることが求められているのです。霊的であることの内容は、イエス・キリストに対する明確な信仰と、教会に対する誠実な愛です。
 世の中には、笑顔の下に本心を隠して生きることがあるでしょう。しかし教会はそうではありません。主を信じ教会を愛するとき、言葉が変わります。その人の口から隣人を生かす新しい言葉が生まれます。この言葉が集まるとき教会は力を持ちます。キリストを指し示して共に歩む、救いの力を持つのです。

 役員だけではありません。実務は二の次と言うのでもない。まず、主に対する信仰と、教会への愛を中心に据えたいのです。教会は、牧師、役員、教会員、皆で担っていくものです。私たち一人一人が、キリストに結ばれた霊的共同体の造り手であり、担い手なのです。


■2025年1月 『無力な救い主』

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 (イザヤ書 53章3節)

紀元前586年、バビロニアの王ネブカドネツァルによってユダ王国は滅亡しました。神殿は焼かれ、都は廃墟になった。そして民はバビロニアに連れて行かれます。以後、捕囚の暮らしは50年間続きます。
 捕囚の末期です。ひとりの預言者が神から遣わされました。その名はイザヤ。彼は告げます。

 主が油を注がれた人キュロスについて
 主はこういわれる。
 わたしは彼の右の手を固く取り
 国々を彼に従わせ王たちの武装を解かせる。
 扉は彼の前に開かれ
 どの城門も閉ざされることはない。
 (イザヤ書45章1節)

 〞ペルシャの王が世界を平定する。神が遣わした救い主だ。我々はペルシャの王キュロスによって救われる〟こう告げたのです。歴史をたどればこの預言は実現します。キュロスはバビロニアを破り、ユダの民を捕囚から解放します。しかしイザヤは、述べた前言を翻すように告げます。それが53章の言葉です。 
名もない男が現れます。地味で風采は上がらない。多くの心の痛みを知り、体には病がありました。人々から嫌われ、相手にされません。しかし男は、黙々として神と人に仕えます。馬鹿にされても無視されても、神と人を愛し続けました。イザヤは〞私たちはこのような人によって救われる〟と預言したのです。そして新約聖書は、粗末な家畜小屋で誕生した主キリストを指し示しています。

 私たちは力を求めます。健康、学歴、能力、お金、社会的な立場、人との繋がり等々。これらが充分でなければ、この世ではとても生き難くなります。同時に、力を求めると力のとりこになります。そして力は、より強い力の前には弱いものになります。
 御子は無力な姿で生まれました。神さまに、「できる・できない」「持っている・持っていない」このような評価はありません。ひとりのあなたをひたすら愛しているのです。主キリストを信じることは、神さまと繋がることです。ここで人生が変わります。力に服する生き方ではなく、力を用いる人生に変わります。クリスマスのこの時、私たちは何を軸として歩むのか、このことが問われています。