今月の一言(2026年)

■2026年1月 『宗教2世』

未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。(コリントの信徒への手紙一 7章25節)
 
 「安倍晋三銃撃事件」の裁判で求刑が出ました。極刑が回避された点については、被告人の生い立ちの悲惨さが考慮されたのではないかと言われているとおりです。この事件では、これ以前にもあった「宗教2世」という言葉が広く用いられ、一般化して行きました。そこで〞宗教〟を考えてみたいと思います。
 宗教は広範な事象を含むために、厳密には定義できないとされています。礼拝をささげることも宗教ですが、髪の毛を切らないことも宗教になります。団体を形成する宗教の多くは救いを語ります。「〇〇さまを信じれば救われます」というようなことです。この場合、絶対を主張することになるでしょう。「○○さまを信じれば、たぶん救われるでしょう」これでは救いになりません。「○○を信じれば救われる」「○○をすれば必ず救われる」こうなります。問題はここです。絶対でない者が、自明の事柄として絶対を語ります。ここで宗教がいかがわしくなるのです。
 私たちであれば、キリストは絶対です。そして信じる私たちは、欠けのあるただの人間です。ただの人間である私たちが、キリストを信じて生きているのです。このけじめをつけることが重要でしょう。
 信じて生きるとき人は、信じている者に似てきます。自分自身の生き方や他者に対する言動が、主キリストのよしとするところかどうかを検証してみる、このようなことも求められていると思います。

 宗教2世という言葉には悲劇的な響きがあります。しかし、そのようなものばかりではありません。私は子供のころ祖父に連れられてよく神社仏閣に行きました。拝殿の前で帽子を取り、手を合わせて拝礼する祖父の姿を見て育ちました。その姿勢は祖父の生き方と重なって、私にとっては掛け替えのない宗教教育になっています。私たちの信仰を問えば、必ず誰かから福音という善いものを教えていただいて今日を迎えているはずです。
 
 パウロはけじめの付いた人物でした。主の指示と自分の意見を明確に区別しています。
 神と人間の違いをわきまえるとき主は、土の器に過ぎない私たちを、福音を伝える恵みの器として用いてくださいます。御言葉に立ち返りつつ、主に生かされていることを覚え、宗教の明るさを取り戻したいと思うのです。