日本基督(キリスト)教団 阿漕教会
阿漕(あこぎ)教会は、三重県 津市にあるキリスト教会です。
礼拝ははじめてという方もぜひお越し下さい。
阿漕教会の礼拝堂は、大正時代に建てられたモダンな建物です。
毎週日曜日午前10時15分からこの建物で礼拝をささげています。
【次週の礼拝 3月31日)】
(イースター合同礼拝)
聖書 マタイによる福音書 28章 1〜10節
説教 「恐れるな」
加藤 幹夫 牧師
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定 期 集 会
<聖 日 礼 拝>
日曜日
午前10時15分〜午前11時30分
<聖書の学び・祈り会>
朝の部 水曜日 10:15
<教会学校>
(子供の礼拝と分級)
日曜日 午前 9時00分
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<阿漕教会 礼拝堂>
阿漕教会は、カンバーランド長老教会のA・Dヘール宣教師が、1909年(明治42)津市弓之町に大きな家を借りて「弓之町講義所」(津市本町)を開いたことに始まります。その後、最愛の息子J.E.ヘールを浅間山で亡くし、その記念として、1912年(大正元年)、阿漕の地に宣教師館を建て、教会堂もこの時に建てられました。それ以来、この教会堂は、第2次世界大戦の戦火を免れて約100年の時を刻んできました。
*礼拝をささげたいと思う方は
どなたでもご自由にお越しください。
教会に初めて行こうと思っている方へ
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「聖書は聖霊に導かれた神の言葉」2ペトロ1:19-21
わたしたちの信仰の土台は聖書にあります。礼拝における説教は、この聖書の言葉を基に語られます。ですから、説教は講演ではありません。講演は自分の経験に基づいて話されますが、説教は聖書の言葉が解き明かされるからです。
牧師である私自身が、説教を準備する時、まず、自分の思いを捨てることから始めます。もし、自分勝手な思いで聖書を読み取り、自分の気に入る言葉だけをつまみ食いして語るならば、神の言葉ではなく、自分を誇る偶像を作り上げてしまうからです。まず、自分を捨て、聖霊によって導かれた神の言葉である聖書が何を語りかけているのかを聴くのです。そのためには、さまざまな辞書や解説書、キリスト教神学的な視点、書かれた当時の状況を調べます。語りかけられた言葉、神さまから預かった預言が、時空を超えて、説教者に届けられ、その言葉を教会の礼拝に集められた場で語るのです。
初代教会の時代は、教会の礼拝において、旧約聖書が読まれていました。その聖書の預言が主イエス・キリストの十字架と復活によって成就し、やがてキリストの再臨によって神の国が完成するという説教が語られていたのです。ペトロは、今、苦しみを受け、暗闇が続いているが、必ず夜明けが来ると確信していました。その希望を教会の人たちに伝えるのです。
「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときま で、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉 に目を留めていてほしい!」
ペトロは、聖霊に導かれた神の言葉が示す光にしっかり踏みとどまって欲しいとの願いを伝えているのです。
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「神の羊の群れを牧しなさい」ペトロの手紙1 5:1−4
新しい年が明け、いきなり能登半島地震が発生しました。連日のニュースや人の声に振り回され、痛みを感じ、不安におびえる方々、被災教会の支援や対応に追われる日々を過ごしておられる方々がおられると思います。
そのような中で、「教会は何をすべきか」を、いつも問われます。キリスト者として被災された方々へのサポートを考える対応は大切ですが、今の日本のキリスト教会、特に地方の教会は、高齢化が進み、奉仕力が低下しています。牧師が、一番若いという教会も多く、その働きが牧師に集中し、牧師が倒れてしまうケースも増えています。そこで、教会は何を大切にすべきなのかが問われるのです。
ペトロは、ローマ帝国の迫害を受け、家を失い、エルサレムから現在のトルコに逃げ、仮住まいをしているキリスト者に手紙を書きました(1:1)。彼は、この手紙を通して、「このような時だからこそ、キリストの福音とその喜びを見失わないで生きて欲しい!」と伝えました。なぜなら、ここに立って生きる歩みこそが、教会の原動力、教会がなすべき業だからです。どんな時にも、キリストによる罪の赦しの十字架と永遠の命に生きる復活を信じ、キリストをほめたたえ、キリストに自分の魂をゆだね、祈り、神の言葉を聴くのです。
5章において、ペトロは、教会の長老たちへ勧めの言葉を記しました。「長老たち」とは、今のわたしたちの教会では、牧師や役員(長老、執事)に当てはまります。ペトロは、自分自身、長老の1人として、まず、「わたしは、キリストの受難の証人であり、復活の栄光にあずかる者である」と語りました。よく団体の役員になる人は、何かの能力があるとか、力があるという理由で選ばれます。人として適材適所という場合もありますが、教会では、「自分がキリストの十字架によって罪が赦され、救われ、復活の命に生かされている」と証言できる人が一番大切なのです。
この世は、自分がどれだけの働きができたかで、評価され、そこに価値を見出します。教会は、キリストが与えてくださった愛と喜びに生きる価値に生きています。教会であっても、「あの人は自分を犠牲にしてこれだけ世のため、人のために愛を尽くした」と、人の愛の業をほめたたえることばかりして、キリストの愛をほめたたえなくなってしまう危険性を持っています。その時、教会は福音を見失うのです。
ペトロは、復活された主イエス・キリストに「わたしを愛するか」と問われ、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えました。すると、主は「わたしの小羊を養いなさい」と命じられました。このやりとりが3度も繰り返され、ペトロの心に深く刻まれました。そして、今、迫害から逃れ、苦しみの中で仮住まいをしている教会の役員たちに、この主から託された言葉を伝えるのです。「神の羊の群れを牧しなさい!」
ここで重要なポイントは、「主イエスへの愛」が、「神の羊である教会の人たちを牧する業」とつながっている点です。「主イエスを愛する」とは、抽象的で理解しづらいと思います。「主を愛する」、「神を愛する」と聞いた時、すぐに「隣人を愛すること」と結びつけるかもしれませんが、この御言葉の重要な点は、「神の羊である教会の人たちを牧する業」です。
羊を牧する羊飼いは、「羊」を外敵から守り、まちがった道を行ってしまう時に、正しい道に導きます。羊飼いは、「神さまは、苦しみの中にある私を見守ってくれるだろうか」と不安になった時には励まし、「私は、神さまのことより、今、直面している問題が大事だ」と神さまを見失っている時には戒めて、狼である悪魔の誘惑から羊を守るのです。それが主を愛することにつながるのです。
キリストは、何よりも「キリスト者である神の羊がわたしの与えた恵みと救いを見失わないで、最後までわたしを信頼して従って来て欲しい」と願っておられます。その願いを受けとめて、羊を見守る業が主イエスへの愛につながるのです。この愛を教会は見失ってはならないのです。
(2024年3月 三重地区通信の説教)
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教会メール akogichurch@hotmail.com
〒514-0805 三重県津市下弁財町津興1267
TEL 059-228-0407 FAX 059-202-0160
牧師:加藤 幹夫
〜牧師紹介〜
1962年愛知県に生まれる 電子機器関係の技術者から献身。 1994年3月、東京神学大学大学院を卒業。
遠州教会担任教師3年を経て、現在、阿漕教会(三重県津市)牧師
牧会関係:教団「牧会者とその家族のための相談室」室長・三重CMCC理事長・聖マッテヤ評議員
教誨師関係:三重刑務所・津少年鑑別所教誨師・教団教誨師会会長
全国教誨師連盟理事・名古屋管区副理事長・三重県教誨師会会長
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