律法とイエス様

「律法とイエス様」マタイの福音書11章28節~30節

先程お読みしました聖書の個所は、聖書の中でも有名なことばです。この御言葉によって慰められた人、励まされた人はたくさんおられると思います。しかし、聖書を学び、その背景を知ることによって、さらに、深く神様の言葉によって慰めを受けることがあります。特に、先ほどの個所の場合、イエス様はどういう背景で、何に対して疲れた人に呼び掛けておられるのか、また、どのような重荷を負っている人に、わたしのところに来なさいと呼びかけておられるのかを知ることによって、さらに、イエス様の言葉から、深い慰めを受けることができます。

1.律法を守ることに疲れた人、律法の重荷に苦しんでいる人。

聖書において、律法という言葉は、旧約聖書全体を指す言葉です。しかし、イエス様の時代には、旧約聖書の戒めを守るために、律法の専門家たちが作り出した戒めも、神様の戒めと同じように守らなければならないと教えられるようになりました。それを「口伝律法(くでんりっぽう)」と呼びます。イエス様はこれを、「昔からの言い伝え」と呼んで、神様の戒めと明確に区別しています。特に、安息日についての理解は、イエス様と律法学者たちの考えは大きく違っていました。

マタイの12章で、イエス様と弟子たちが、麦畑を通る際、弟子たちが、お腹がすいて、穂を摘んで食べ始めたとあります。また、その日は安息日でした。パリサイ人たちがそれを見て弟子たちをとがめたとあります。パリサイ人たちは、弟子たちが他人の畑に入って、麦を手でもんで、食べ始めたのをとがめたのではありません。安息日にしてはならないことをしているとして弟子たちをとがめたのです。律法学者たちの教えでは、麦の穂を摘んで、手でもんで、食べることは労働に値すると考えたのです。律法では、安息日は労働を一切してはならないと戒められていました。それゆえ、パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちの行動を労働を働いたとして律法に違反しているととがめたのです。確かに、旧約聖書では、安息日に薪を拾っている人たちが罪に問われて、裁きを受けた話はあります。しかし、麦の穂を摘んで手でもんで食べることまで、神様はとがめていません。それどころか、律法では、みなしごや、やもめのために、収穫の時にわざと穂を落として、貧しい人たちのために残すように教えています。それなのに、パリサイ人たちは、安息日は一切の労働を禁止し、人々の生活を縛っていたのです。安息日の戒めだけではなく、イエス様の時代、このような口伝律法が600以上定められ、人々はその戒めを守るために苦しめられ、そのような戒めが、人々の重荷となっていました。また、羊飼いや貧しい人々は、そのような、律法学者たちが定めた戒めを守ることができませんでした。それゆえ、律法学者、パリサイ人たちは、そのように、戒めを守ることができない、貧しい人々や羊飼いたちを罪人と呼び、彼らをさげすみ、そのような人たちと親しく付き合うことさえ禁じるようになったのです。しかし、イエス様はそのような人たちに近づき、やさしく神様の話をしました。それゆえ、律法学者、パリサイ人たちから、イエス様は非難を受けるようになったのです。

2.イエス様のくびき。

イエス様はそのように、律法学者たちから押し付けられた、律法の重荷に苦しんでいる人々、一生懸命律法を守ろうとして、疲れた人々に、私のところに来なさいと呼びかけられたのです。イエス様はそのような人々に「休ませてあげます」と言われましたが、イエス様のところに来て何もしないでもよいと言われたのではありません。イエス様は彼らに二つのことをするように教えています。(1)わたしのくびきを負いなさい。(2)わたしから学びなさい。

(1)わたしのくびきを負いなさい。

「くびき」というのは、二頭の馬や牛の首をつないで、畑を耕させたり、荷物を引かせるために用いる道具です。若い馬や、なれない馬は、二頭でまっすぐに歩くのが難しく、ベテランの馬とくびきを負わせることによって、若い馬に学ばせるという話を聞いたことがあります。また、イエス様のくびきを負うとはどういうことでしょうか。律法学者パリサイ人たちが人々に与えたくびき(戒め)は人々の首を縛り上げる苦しいくびきでした。イエス様は、29節「わたしは心優しく、へりくだっている」また、30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました。イエス様の教えは、人々の生活を縛り、苦しめる教えではありませんでした。それどころか、本当の神様の教えが何であるかを教え、律法学者たちが作り上げた律法から解放する働きでした。本当の神様の戒めは、人々を苦しめるための戒めではなく、人を守り、幸いな人生を歩むための神様の戒めでした。それゆえ、イエス様は「わたしから学びなさい」と言われたのです。

(2)わたしから学びなさい。

イエス様の当時、先生から学ぶというのは、今のように、学校の授業のように学ぶ方法ではありませんでした。当時の方法は、尊敬する先生と共に生活することによってその先生の生き方を学ぶのが、学ぶという方法でした。それゆえ、イエス様が学びなさいと言われた言葉は、「わたしのくびきを負いなさい」という言葉と同じことを言われたように思われます。当時のユダヤ人の生活は、律法学者たちの教えに従って歩むことが、神様の祝福を受ける方法でした。しかし、彼らの教えが次第に膨大となり、また、形にとらわれることによって、元の神様の教えから大きく外れてしまいました。イエス様の教えは、新しい教えではなく、元々の神様の教えに引き戻す教えでした。しかし、律法学者パリサイ人たちは、自分たちの教えを守るためにイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。

結論。

私たちは、ユダヤ人のように、律法を守る重荷、律法を守ることに疲れているわけではありません。しかし、私たちはこの世に在って、苦しみや悲しみがあり、問題があります。誰しも、大きさは違えど、一人で重荷を背負って歩い散ることには変わりがありません。生きることに疲れ、仕事に疲れ、人間関係に疲れているのが現代人です。また、病の苦しみ、両親の介護、子育てに疲れ果てた人もいることでしょう。イエス様はそんな私たち一人一人に、「わたしのもとに来なさい、私があなたを休ませてあげます」と語りかけておられるのです。今までは一人で重荷を背負い、どこに向かって歩いて行けば良いのかわかりませんでした。しかし、イエス様は共に重荷を背負い、行くべき方向を示してくださいます。聖書は私たちの足元を照らす明かりです。神は聖書を通して私たちに歩むべき道を教えてくださるのです。