ヘブル人(渡って来た人)

「ヘブル人(渡って来た人)」出エジプト記1章1節~22節

旧約聖書、創世記の前半、11章までは、神様と人間の関係(契約)について書かれています。12章から、神様とアブラハムの出会いがあり、ここで、アブラハムが神様と契約を結ぶことによって、創世記の後半はアブラハムの家族(子孫)と神様との関係のお話へと話が展開していきます。創世記の最後のお話は、ヤコブの子ヨセフと兄弟の和解の話になり、その舞台はエジプトの国でした。ヤコブの子供たちがエジプトを訪れたのは、飢饉のため食べ物が無くなり、食べ物を買うためでした。しかし、その時には、兄弟に奴隷として売られたヨセフは、神様の計画により、エジプトの総理大臣となっていました。はじめ、ヨセフは兄弟を赦すことができませんでしたが、自分の兄弟を守ろうとする兄弟たちの姿を見て、ヨセフは自分の姿を現わし、自分も兄弟たちを赦す決心をし、彼らはエジプトの地で和解することができたのです。元々、兄弟の間の憎しみは、父親であるヤコブに責任がありました。ヤコブの家庭は、4人の妻があり、それぞれ、母親の違う子供たちが共に生活していました。さらに、ヤコブは一番愛する妻ラケルの子ヨセフを特別に愛しました。それゆえ、他の兄弟たちはヨセフを憎み、ヨセフを奴隷商人に売り渡してしまったのです。神様とアブラハムの契約は、アブラハムの子孫を大きな国民とすることでした。後にヤコブの子供たちが12部族を形成しますが、その為には、兄弟の和解が必要でした。神様はヨセフの苦しみを通して兄弟の和解を成り立たせてくださったのです。

創世記の46章に、エジプトに渡ったヤコブの子供たちの数が全部で70人であったことが記されています。そして、出エジプト記の始めにも、ヤコブの家族がエジプトに来たのが70人であったことが記されています。このことは、このお話が続いていることを示し、また、創世記から次の段階へと展開したことの表れです。神様の計画は、アブラハムの子孫を大いなる国民とすることです。創世記はアブラハム、イサク、ヤコブの家族のお話でした。そして、出エジプト記から、イスラエル民族の話へと展開していくのです。神様がイスラエルの民を一つの国民とするためには、大きくて豊かな国が必要でした。エジプトはまさに、イスラエルの民を養うには最適な国だったのです。しかし、神様の計画はエジプトの地で増え広がることだけではありませんでした。あくまでも、神様の約束された地、カナンの地の征服でした。イスラエルの民は、エジプトで大きな国民と成長し、次は、カナンの地へと向かわなければなりませんでした。

出エジプト記1章8節に「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起きた」とあります。その時代がどの王様の時代であるのかは、様々な説があり、ヤコブの家族がエジプトに移住してどれだけの時間が流れたのかはわかりませんが、ヨセフが亡くなってかなりの年月が過ぎた後、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに誕生しました。その王は、イスラエルの民の数の多さ、成長の勢いに恐れを感じるようになりました。このままではエジプトの国を奪われてしまうとも思ったのでしょう。エジプトの王は、イスラエルの民の力を抑えるために、苦役をかせました。イスラエルの民は激しい労働によって苦しみを受けましたが、それでも、イスラエルの民は増え続けました。そこで、エジプトの王は、今度は、ヘブル人の助産婦に圧力をかけて、男の子が生まれたらその場で殺すように命じました。しかし、ヘブル人の助産婦シフラとプアは、神を怖れ、エジプトの王の命令には従いませんでした。神は彼女たちの家を栄えさせたとあります。思うようにヘブル人の人口を抑えることのできないエジプトの王は、22節「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかねければならない。」とイスラエルの民にきつく命じました。出エジプト記2章で、そんな激しい迫害の時代にモーセは誕生したのです。

エジプトの王はイスラエルの民を恐れ彼らを迫害しましたが、そのことも実は、神様の計画でした。もし、イスラエルの民がエジプトでの生活に満足してしまったら、彼らはエジプトを出ることができなかったでしょう。彼らは永久にエジプトにとどまったかもしれません。しかし、この迫害によってイスラエルの民は神様に助けを求め、自分たちの安住の地は、エジプトではなく、神様が約束されたカナンの地であることを思い出させたのです。

先程から、ヤコブの子孫をヘブル人という呼び方とイスラエル人という呼び方の二つの言葉で区別して使っています。「イスラエル」という呼び方は、創世記32章で、ヤコブが神様と格闘した時に神様から頂いた名です。その意味は「神と戦い、人と戦って、勝った」という意味です。「ヘブル人」という意味は、「渡って来た人」という意味で、エジプト人からすると、よそ者という馬鹿にした意味が含まれた呼び名でした。神様の計画では、エジプトの国の目的は、ヤコブの子孫を大きな国民とすることでした。エジプトの国はその神様の役割を果たし、ヤコブの子孫はエジプトの王を恐れさせるまでに成長しました。神様の次の計画は、大きく成長したイスラエルの民をカナンの地に導くことでした。このエジプトの迫害はそのための準備の一つで、次に神様は指導者として、モーセを誕生させ、彼によってイスラエルの民をエジプトから引き出したのです。

旧約聖書は過去の歴史という意味だけではなく、今、生きている私たちの教訓でもあります。この後、イスラエルの民は荒野を渡って、カナンの地にたどり着き、ヨシュアによってカナンの地を占領し、神様の約束を成就(完成)させます。私たちのゴールは天の御国です。この地上で豊かになることや有名人になることではありません。私たちの地上での暮らしは、イスラエルの民の荒野での生活に例えることができます。イスラエルの民は荒野で40年苦労してさ迷い歩きました。しかし、神様は荒野においてもいつもイスラエルの民と共におられ、食べ物や水などの必要を与えてくださいました。そのことは、私たちの人生においても同じことが言えます。私たちのこの地上での人生にも苦しみや悲しみ危険があります。しかし、神様はイスラエルの民と共におられたように、私たちの人生をも共に歩んでくださるお方です。イスラエルの民が悩み苦しみ戦いがあったように、私たちの人生にも悲しみと苦しみ、戦いがあります。しかし、最後には、イスラエルの民がカナンの地を征服できたように、私たちも人生のゴール、神の国に入ることができることを信じます。私たちはこの地上では旅人であり寄留者です。またヘブル人です。私たちの国籍は天国にあります。この地上の苦しみ悲しみは限定的で、いつまでも続くものではありません。どんなに現在が苦しくても、天の御国は変わることはありません。私たちは地上のことに捕らわれないで、天国の素晴らしい世界に心を向けて歩いて行きましょう。