天国とパラダイス

「天国とパラダイス」ルカの福音書23章39節~43節、召天者記念礼拝

「人はどうして生まれ、死んだ人はどこへ行くのか」という疑問を、誰しも一度は考えたことがあると思います。私は中学高校の時に漠然と考えるようになりました。しかし、その答えを得ることはできませんでした。また、そんなことを考えてもしかたがないと思い、心の奥底にその問題を押し込めて社会人となりました。しかし、宿題をやり残した子供のように、時々その問題が心の表側に現れては消えていました。そんな時に、教会に誘われ神様の話を聞くようになりました。それでも、最初は聖書の話がわからず、礼拝で聴く音楽(ゴスペル)に興味があって礼拝に参加しました。その当時は、神様が本当にいるなら信じてみたいという心はありましたが、目に見えない神様をどのようにしたら信じることができるのか不思議でした。そんなある日、礼拝の中で、「イエス・キリストはあなたの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。」という聖書の話を聞きました。その時、私は納得できませんでした。確かに過去に小さな罪は犯したかもしれませんが、神の子を十字架に付けて殺さなければならないほど、悪いことはした覚えがないと思えたからです。しかし、聖書を学ぶようになり、人間の罪というものがどういうものであるのか、どうして私たちは神に罪人として裁かれるのか、また、その為にイエス・キリストがどうして、十字架で死なれたのかその理由を知るようになりました。

天国とは、神の国のことで、神様がおられる所です。神は罪の無いお方です。それゆえ、私たちが天の御国で神と共に生きるためには、この罪の問題を可決しなければ、天国に入ることができません。旧約聖書の時代、神様は罪の赦しのために動物の命を身代わりに捧げるように教えました。しかし、それは、完全な人間の罪の身代わりとはなりませんでした。そこで、神は罪の無い神の子イエス様を人と誕生させ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を取られたのです。

先ほどお読みしました、ルカの福音書23章39節からの場面は有名な場面です。イエス様が十字架に付けられた時、イエス様の右と左にも同じように十字架に付けられた人がいました。一人の犯罪人はイエス様に言いました。39節「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」キリストとは、救い主のことで、ユダヤ人は旧約聖書の教えから、救い主が現れ、私たちを救い出すと信じていました。当時、ユダヤ人たちが望んだ救い主は、ローマ政府の支配から助け出し、自分たちの国をもう一度立て直す、そのような救い主を待ち望んでいました。この犯罪人はイエス様の数々の奇蹟の話を聞いていたのでしょう。それゆえ、ここでも奇跡を行い、自分と私たちを救い出せと命じたのです。イエス様にとってそのようなことは簡単なことでした。しかし、イエス様が十字架から降りて、ローマの兵隊をユダヤの国から追い出したとしても、人の罪の問題は解決されません。イエス様はユダヤの国をローマの支配から助け出すために人となられたのではなく、全ての人を罪から救い出すために人となられた神の子でした。それゆえ、イエス様は自ら捕らえられ、十字架の上で命を犠牲にされたのです。

先ほどの場面に戻ると、それを聞いたもう一人の犯罪人は彼に言いました。40節、41節「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いをうけているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして、彼はイエス様に言いました。42節「イエス様あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエス様は彼に言いました。43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」最初の犯罪人をAとすると、彼はイエス様にこの地上での苦しみから救い出すように願いました。しかし、もう一人の犯罪人Bは、この地上での救いではなく、天国への救いを求めました。先ほどもお話しましたように、イエス・キリストが人として生まれた目的は、私たちの罪の問題を解決し、私たちを天の御国に迎えることでした。犯罪人Aの願は、イエス様の誕生の目的と関係ない願いでした。しかし、犯罪人Bの願は、まさにイエス様が人々のためになさろうとすることでした。犯罪人Bの願は神様の計画に叶った願いごとであり、犯罪人Aの願は神様の計画とは関係ない願いでした。それゆえ、イエス様は犯罪人Bに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。

パラダイスとは、厳密に言うと天国ではありません。天国(天の御国)は、永遠の世界で、終わることがありません。その天の御国は、イエス様がもう一度、神としてこの地上に来られた後に、現れる永遠の国を意味しています。パラダイスはイエス様が再び来られるまでにイエス様を信じた人が亡くなった後、イエス様の再臨の時を待つまで滞在する場所のことを言います。イエス様が再び神としてこの地上に現れたとき、最後の審判が行われ、罪ある者は自分の罪のゆえに神様の裁きを受け、イエス様によって罪赦された者は、天の御国に迎えられ永遠に神と共に暮らすというのが聖書の教えです。

私も神様を見たことはありません。しかし、私が信じているのは、神がおられるなら、天国も地獄も存在するということです。もし、神が存在しないなら、天国も地獄もありません。人は死んで、火に焼かれ、土に埋められてそれで終わりです。それでは、なぜ、多くの人は死んだ人の墓を建て、死者を葬り、死者の前で手を合わせるのでしょうか。それは、多くの人が人は死んで終わりではないことを知っているからではないでしょうか。人間は肉体だけの存在ではなく、肉体に霊魂を宿しています。それでは、死んだ人の霊魂はどこに行くのでしょうか。黄泉の世界でしょうか。聖書は明確にイエス・キリストを信じた者は天の御国に迎えると約束しています。先ほどのイエス様の十字架の場面を思い出しましょう。イエス様にパラダイスにいると約束した人は、模範的な良い人だったでしょうか。当時、十字架に付けられて殺される者は、人殺しと政治犯だけです。また、彼はパラダイスに行くために良いことをしたでしょうか。彼は何もできませんでした。彼が十字架の上でできたことは二つだけです。(1)自分の罪を認めたこと。(2)イエス様に救いを求めたことです。私たちが天の御国に入るために必要なことはこの二つだけです。もちろん、洗礼を受けることは大切なことですが、洗礼は天国に入るためのパスポートではありません。イエス様を信じた証しとして、人々の前で信仰の告白として行われるのが洗礼式です。私の父と母も洗礼は受けませんでした。また、葬式は仏教式で行われました。しかし、父は何度か教会に通い聖書の話を聞きました。また、母は私の祈りに応えてイエス様を信じると告白してくれました。二人とも洗礼は受けませんでしたが、神様は父と母のことを覚えてくださっていると信じます。聖書に「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」という言葉があります。これは、家族の中で誰かがクリスチャンになれば、家族全員が自動的に救われるという意味ではありません。先に救われた者を通して、神様の恵みが他の家族にも与えられるという意味です。人には人を救う力はありません。人を救うのは神様の働きです。今日は、召天者記念礼拝です。すでに亡くなられたお一人お一人はパラダイスで私たちの来るのを待っています。また、一人一人の信仰のゆえに、私たち残された家族一人ひとりにも神様の恵みがとどまっていることを信じます。