苦しみの中に隠された神の愛

「苦しみの中に隠された神の愛」ヨハネの福音書15章1節~5節

七年前に、イスラエルの国を初めて訪れたときに一番驚いたことは、イスラエルの国の緑の多さでした。聖書を通して私がイスラエルの国をイメージしていたのは、砂漠の地と岩場の多い国でした。ところが、実際に見たイスラエルの国は緑豊かな地で、ガイドによると、イスラエルの国は、外国に果物や穀物を輸出するほど豊かな国ということでした。しかし、初めから緑が多い土地ではなかったそうです。イスラエルの国には「キブツ」という農業共同体があり、彼らが苦労して、荒れ地を開墾し現在のような緑豊かな国になったという話を聞きました。

イスラエルの国を代表する果物に「いちじく」と「ぶどう」があります。旧約聖書にも新約聖書にもぶどうの話がいくつか登場します。今日は、イエス様が弟子たちに話された「ぶどうの木のたとえ話」から学びます。イスラエルの民にとって「ぶどうの木」は身近な植物でした。イエス様はそのような身近な植物を通して弟子たちにわかりやすく、神様と私たちとの関係についてお話になられたのです。

ヨハネの福音書15章1節「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」2節「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」このたとえ話で、イエス様は神様を農夫にたとえ、ご自分をぶどうの木にたとえ、私たちをぶどうの枝にたとえました。また、4節で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と言われました。ぶどうの木と枝の関係は、枝がぶどうの木に繋がり、ぶどうの木から栄養を頂かなければ実を結ぶことはできません。それと同じように、私たちもイエス様に繋がっていないと実を結ぶ人生を送ることができないという意味です。神様から離れても私たちは生きることはできます。しかし、その人生は、自分中心の人生であり、自分さえ良ければという人生です。日本の経済も少し前「バブル」と言われる好景気の時期がありました。その時、多くの人々は金もうけに走りました。土地を買い転売し、一週間で何百万円も儲かる時代でした。しかし、そんな時期もそう長くは続かず、名前の通り、儲けたお金は泡のように消えてなくなりました。その影響で、会社が倒産したり、借金を背負った人が多く出ました。イエス様と繋がり実を結ぶ人生とはどのような人生でしょうか。枝が木に繋がり、栄養を受けて実を結びます。イエス様と私たちの関係を考えるなら、イエス様から愛を頂き、愛の結ぶ人生を歩むということではないでしょうか。自分のためではなく、隣人を愛する人生。隣人を愛するには力が要ります。自分が神様から愛を受けていないと、隣人に愛を譲ることはできません。では、私たちがイエス様に繋がるということは、どういうことでしょうか。それは、イエス様のことばに耳を傾けることであり、祈ることです。人と人が信頼関係を築くには、その人と長く時間を過ごすことが必要です。私たちは一日24時間を神様から与えられています。そのうちの何時間を私たちは、神様との時間に費やしているでしょうか。神様と一緒の時間を過ごせば過ごすほど、豊かな実を結ぶ人生となります。

神様が私たちに与えてくださる豊かな人生とは、病気をしないとか、事故に遭わない、失敗しない人生ということではありません。神様を信じていても病気はするし、事故にも遭います。では、何が違うのでしょうか。神様が私たちに与えてくださる豊かな人生とは、苦しみの中でも神様が共におられる人生です。ダビデは神様に選ばれたイスラエルの国の二番目の王ですが、一番目のサウル王が生きている間、サウル王に命を狙われ、長い間、逃亡生活を続けました。しかし、ダビデと共に神様がおられたので、ダビデの命はいつも守られました。そして、サウル王が亡くなって、ダビデが王位につきましたが、ダビデは、この逃亡生活を通して神様との関係を深めていったのです。

先ほどのヨハネの福音書15章2節に「実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とあります。「刈り込み」とは、豊かに実を結ぶために、余分な枝を切り取ることを意味します。つまり、十分な栄養を取るために、邪魔している枝を取り除くという意味です。旧約聖書にヨブ記があります。ヨブは、神様を恐れ、悪から遠ざかり、神様が認めるほど正しい人でした。そのヨブが、大きな苦しみを受けることになりました。彼は、家族と財産と健康を奪われました。それは、神様がヨブに対して正しい者と判断したことへのサタンの挑戦でした。サタンはヨブの信仰をご利益信仰で、神様の祝福があるからヨブは神様を敬っているだけで、ヨブの財産と家族を奪ったならばヨブは神様を呪うでしょうと言いました。神様はヨブの信仰がそうではないことを知っていたので、サタンの挑戦を受けて、ヨブは苦しみを受けることになったのです。それでも、ヨブは神様の期待に応えて、家族、財産を失っても神様を呪うことはありませんでした。話はこれで終わりませんでした。今度は、ヨブの友人たちが見舞いに来て、ヨブと神様について口論となります。ヨブの友人たちは、ヨブの苦しみを見て、「因果応報」の考えをヨブに認めさせようとしました。友人たちはヨブのこの苦しみをヨブの罪の結果だと判断し、ヨブに神様に罪を告白するように迫りました。しかし、ヨブには、神様に告白する罪などみあたりません。この苦しみは、目に見えない、神様とサタンとの戦いだったからです。もちろん、友人たちの考えがすべて間違っているわけではありません。私たちが罪を犯した場合、神様に罪を告白して赦しを得ることは大切なことです。しかし、苦しみの意味は他にもたくさんあります。しかし、ヨブの友人たちは、苦しみの原因はすべて、人間の犯した罪の報いだと考えていたのです。しかし、ヨブの苦しみはヨブの罪の結果ではありません。では、なぜ、神様はヨブに苦しみをあたえられたのでしょうか。ただ単にサタンに対して自分の正しさを認めさせるためでしょうか。そうではないと思います。神様がヨブに苦しみを与えたのは、ヨブに対してこの苦しみが必要だったからです。私たちは、成功の時よりも、失敗や苦しみから学ぶことの方が多いことがあります。ヨブは素晴らしい信仰者でしたが、神様はヨブにもっと信仰者として成長してほしかったのです。ヨブはこの苦しみを通して、さらに神様との関係を深めることができたのです。旧約聖書のアブラハムもヤコブもヨセフもダビデもこの苦しみを通らされました。彼らは苦しみを通して、神様の恵みに気が付かせられたのです。新約聖書でパウロはこのように言っています。第二コリント12章9節「主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、よわさのうちに完全に現されるからである。と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」ヘブル人への手紙12章11節「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものはなく、かえって悲しく思えるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」大切なことは、苦しみ悲しみの状況でも、神様の愛は永遠に変わらないことを信じることです。その信仰がどんな状況でも動じない確かな信仰を生み出すのです。