主が備えてくださる

「主が備えてくださる」創世記22章1節~14節

先週は、ぶどうの木と枝のイエス様のたとえ話から、神様は私たちが豊かな実を結ぶために「刈り込み」をなさることを学びました。今日は、聖書の記事を通して、神様が刈り込みをなさるということの具体的な出来事から学びます。

アブラハムが神様から選ばれたのは75歳サラが65歳の時でした。しかし、二人には後継者となる子供がいませんでした。そんなアブラハム夫妻に神様は、「わたしはあなたを大いになる国民とし、あなたを祝福する」と約束して下さいました。しかし、それから10年の月日が流れても、二人には子供が生まれませんでした。そこで、妻のサラは自分の女奴隷エジプト人ハガルをアブラハムの妻に差し出しました。アブラハムは妻の申し出を受け入れ、ハガルを妻として受け入れ、ハガルはアブラハムにイシュマエルという子を産みました。しかし、その子は神様の計画の子ではなく、後にアブラハムはイシュマエルを追い出さなければなりませんでした。そして、神様はアブラハムが100歳サラが90歳にして子を与えてくださったのです。二人はどんなに喜んだことでしょう。神様はその子にイサクという名を付けるようにと命じられました。

アブラハムにとってイサクは、神様が与えてくださった恵みの子です。どんなに大切に育てたことでしょう。また、イサクはアブラハムが年を取ってから生まれた子ですから、アブラハムにとって宝物以上に大切な存在でした。神様は創世記22章において、その大切な宝物イサクを、全焼のいけにえとしてささげなさいとアブラハムに命令されたのです。神様の命令はアブラハムにとって何とむごい命令でしょう。イサクは25年も待って、アブラハム夫妻に神様が与えられた子供です。その子を火で焼いて殺せと命令されたのです。普通なら、泣いて祈って神様に命令を撤回してくださるようにお願いするでしょう。しかし、アブラハムは、黙って朝早くイサクを伴ってモリヤの山へと出かけたとあります。この時のアブラハムの気持ちはどうだったでしょう。何とか、神様がこの命令を撤回して下さらないかとの思いでいっぱいではなかったでしょうか。無言で歩くアブラハムにイサクは尋ねました。7節「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」イサクにとっては当然の疑問です。アブラハムはイサクに答えました。8節「イサク、神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」アブラハムはイサクに不安を与えないためにこのように答えましたが、アブラハム自身、本当に神様がイサクの代わりに羊を備えてくれたらなとの思いがあったのではないでしょうか。しかし、神様がアブラハムに告げられた場所には、何もありませんでした。アブラハムはだまって祭壇を築きました。イサクもそれを不安な思いで手伝ったことでしょう。しかも、その次には、自分の父が自分を縛って祭壇のたきぎの上においたのです。イサクが抵抗したという記事が書かれていません。イサクは父が自分にしようとすることに恐れて、身動きができなかったのか、それとも、父アブラハムを信頼していたのかそれは、この場面からではわかりません。大切なことは、アブラハムが本気で神様のことばに従って息子のイサクを殺そうとしたことです。それを見て、御使いがアブラハムに声をかけました。12節「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしはあなたが神を怖れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでささげた。」神様は本気でアブラハムがイサクを殺す決心をしたことを理解されました。13節「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。」14節「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエル(主は備えてくださる)と名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある』と言い伝えられている」この試練はアブラハムにとってどのような意味があったのでしょうか。神様はアブラハムに二つのうちのどちらを大切にするのか選択を迫りました。一つは、神様から与えられた恵みの子イサク。もう一つは、神様のことば(神ご自身)です。アブラハムは、あまりにイサクを大切にしすぎ、自分でも気が付かないぐらい、自分にとってイサクはなくてはならない存在になってしまいました。そこで、神様はアブラハム自身に、イサクと神ご自身とどちらが大切なのかをはっきりさせるために、この試練を与えられたのです。新約聖書でイエス様のところに来たお金持ちの青年のお話を思い出してください、この青年は永遠のいのちを求めてイエス様のところに来ましたが、イエス様が財産を貧しい人々に施した後、自分について来なさいと言われました。しかし、この青年はイエス様のことばに従うことができませんでした。なぜなら、彼は多くの財産を持っていたからです。財産を持つことや、家族や友人、仕事を大切にすることは大事なことですが、神様よりも財産や家族が大切になるならそれが偶像になってしまいます。神は常に一番でなければなりません。仕事や家族が二番、三番であるなら何の心配もありません。しかし、私たちは知らず知らずのうちに財産や仕事を神様より上に置いてしまうことがないでしょうか。その時、神様はアブラハムのように、どちらを大切にするのかと私たちに問いかけるのです。

また、私たちは、大切な物や大切な人を失うことを恐れています。出来れば、いつまでもそれにしがみついていたいと思っています。しかし、神様は私たちに何が一番必要であるかご存知です。小さな子にとって、おもちゃのダイヤの指輪も本物のダイヤの指輪と価値がわかりません。しかし、価値がわかればだれでも本物のダイヤの指輪を選ぶでしょう。私たちは見かけだけの物や本当に価値のあるものがなんであるかわからない時があります。神様は私たちを愛しておられる故に、本物で、一番価値のあるものを与えたいと思っています。刈り込みのところでもお話しました。刈り込みは私たちが豊かに実を結ぶために、与えられる試練です。神様は私たちを苦しめたり、貧しくするために試練を与えられるわけではありません。ヨブは、財産、家族、仕事、健康を失いましたが、この苦しみを通して、神様との親しい関係を得ました。アブラハムはこの苦しみを通して、神のみを第一にすることの祝福を学んだのです。

神様は私たちを愛し、私たちを罪の中から助け出すために、ひとり子イエス・キリストを十字架の上で本当に犠牲にされました。神様はどのような思いで、ひとり子イエス様を犠牲にされたのでしょうか。私たちはその苦しみ痛みを理解できません。しかし、アブラハムは唯一、自分のひとり子イサクをささげることによって、神様と同じ痛みを体験したのです。神は、愛する私たちを救うために、ご自分の一番愛するひとり子イエス・キリストを犠牲とされました。私たちはその神様の愛に対して何をお返しすることができるでしょうか。神はご自分の愛の証しとして、ひとり子イエス・キリストを犠牲とされました。それゆえ、私たちも神様への愛の証しとして一番大切なものをささげるべきではないでしょうか。神は喜んで私たちのささげものを受け取られ、さらに良い物で私たちを満たしてくださるのです。