思い煩いを一切神にゆだねる

「思い煩いを一切神にゆだねる」ペテロの第一の手紙5章6節7節

2018年が始まりました。今年の年間聖句は、ペテロの手紙第一5章6節と7節「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」を選びました。今日は、この聖句から三つのことを学びます。

(1)神の力強い御手の下にへりくだる。

「神様の力強い御手の下にへりくだる」とは、神様の力を信頼し、自分の力や知恵に頼らないことを意味しています。私たちは、神様の力を信頼できずに、自分の力で問題を解決しようとして失敗しやすいものです。アブラハムはカナンの地からエジプトの地に入る時、妻サラに自分の妹だと言うように命じました。それは、彼女に好意を持つ者が、自分を殺さず(夫であれば殺されます)兄として良くしてくれると考えたからです。この方法は当時、外国人が身を守るために誰でも行っていた方法だと考えられます。アブラハムは神様に頼らないで、この世の方法で身を守ろうとしました。その結果、エジプトの王宮にサラは召し上げられてしまいました。この窮地を助けてくださったのは神様でした。この事で、アブラハムは反省したでしょうか。アブラハムはゲラルの地に入る時も同じ方法を用いて同じ失敗を繰り返しています。アブラハムにとって、神様よりもエジプトの王やゲラルの王の力、権威の方が大きく力強く見えたために、神様に頼らないで、自分の知恵に頼ってしまったのです。

また、アブラハムは子どもが生まれないために、妻サラの意見に従い、エジプトの女奴隷ハガルを妻に迎え入れ、イシュマエルを産ませてしまいました。イシュマエルは神様の計画の子ではなかったため、後にアブラハムはイシュマエルを追いださなければなりませんでした。そんなアブラハムでしたが、神様がイサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられると、躊躇なく神様が示された地に出て行き、イサクを全焼のいけにえとしてささげようとしました。この時のアブラハムは、すべてを神様にゆだねる信仰を持っていたからです。イサクを殺して終わりではなく、このことも神は益に変えてくださると信じて神様に従う決心をしたのです。神様の力強い御手の下にへりくだるとは、神様の力に信頼することであり、それは、神様の力と権威を知らなければできないことなのです。

(2)ちょうどよい時に高くしてくださる。

ダビデは少年時代に預言者サムエルによって油注がれ、イスラエルの王に任命されましたが、すぐに王位に就いたわけではありません。依然として、サウルが王であることには変わりありませんでした。それどころか、ダビデはサウル王に命を狙われ、サウル王から逃げ回らなければなりませんでした。ところが、ダビデがサウル王を殺すチャンスが二度ありました。しかし、二度ともダビデはサウルの命を奪いませんでした。ダビデの部下が、これは神様が与えてくださったチャンスですと進言しましたが、ダビデは「主に油注がれた者に手をかけてはいけない。」と言ってサウルの命を助けたのです。ダビデは必ずサウルの上に神の裁きが降ることを信じていたので、あえて自分で手を下さず神様の御手にゆだねることができたのです。自分の手でサウル王を殺すことの方が、簡単で完全なことでした。しかし、ダビデは自分の力で問題を解決することを避け、神様にゆだね、神様によって問題が解決されることを願ったのです。ダビデは30歳で王になり40年間全イスラエルを治めたとあります。ダビデに王となるいちばんふさわしい時は30歳の時でした。ダビデはこの苦しみを通して、神様への信頼を築き上げたからこそ、40年の間、イスラエル全土を治めることができたのです。

(3)思い煩いをいっさい神にゆだねる。

イスラエルの国の一番目の王に選ばれたのはサウルでした。サウルはベニヤミン族の出身でした。イスラエルは12の部族に分かれていましたが、ベニヤミン族は、小さな部族で、しかも、サウルはそのベニヤミン民族の中でも小さな家系の人でした。それゆえ、力からすれば、ベニヤミン族出身のサウルが王に選ばれることはあり得ませんでした。ところが、神様は預言者サムエルを通して、サウルに油を注いで、王とするように命じられたのです。王となったサウルは、積極的に周りの国々と戦をして、イスラエルの国を勝利に導きました。ところが、次第に高慢になり、神様の命令を無視して自分の考えを優先するようになりました。その結果、サウル王は神様から退けられ、神様は新しい王として、ダビデに油を注ぐよう預言者サムエルに命じたのです。次第にダビデの名声が大きくなり、王である自分よりもダビデの名が大きくなってきました。ここで、サウル王はダビデに嫉妬し、ダビデを殺そうと考えるようになったのです。先週「不安障害」について少しお話ししました。「不安」は誰しも持つものですが、それが、過度になり、または、長期化することによって心の病となるというお話をしました。まさに、サウルはダビデの出現によって不安を覚え、このままではダビデに王位を奪われてしまうと考え、ダビデを殺さなければと強く考えるようになってしまったのです。ダビデにはそのような考えはありませんでしたが、猜疑心というものはおそろしいもので、サウルはダビデを信用することができませんでした。サウルはこの猜疑心のゆえに心を病み、神様から離れ、悪霊に心を支配されてしまったのです。

(4)結論

では、サウル王はどうすればよかったのでしょうか。それは、王位を手放すことでした。自分の息子ヨナタンに王位を譲り引退することによって、この思い煩いから解放されたはずです。ヨナタンとダビデは親友の関係でしたから、ヨナタンが王になれば、ダビデとの関係も有効になり、国は安定したものと考えられます。しかし、サウル王は王位に執着し、神様にゆだねることができませんでした。その結果、最後は戦争に負け、惨めな死を遂げました。自分の大事なものを神様にゆだねることは誰しも難しいものです。自分の財産、仕事、将来の計画、家族など。神様は、「思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。」と言われています。なぜなら、「神ご自身が私たちのことを心配してくださるからです。」あのアブラハムでさえ、神様にすべてをゆだねることは難しいことでした。私たちも同じように、神様より世の権威の方が大きく見えます。しかし、神は世の権威よりももっと大きな権威をお持ちの方です。イエス様も群衆に言われました。マタイの福音書6章24節「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」思い煩いを神にゆだねるということは、神だけに仕えるということです。今年一年、様々な誘惑や苦しみがあるかもしれません。しかし、私たちを愛してくださる神だけに仕え、神のことばに従う一年となりますようにお祈りします。