神の支配と神の摂理

「神の支配と神の摂理」創世記1章26節~31節

私たちキリスト者はこの世を創造された方、創造主なる神の存在を信じています。しかし、進化論を信じる人々は、すべての出来事が偶然であると考えており、創り主の存在を認めません。彼らは、私たちに、神様がいるなら、なぜ、この世に戦争がなくならないのか、この世に悪が存在するのか、地震、飢饉、飢えがあるのかと問い掛けます。しかし、私たちはその疑問のすべてに答えることはできません。ただ、神様の支配とは、神様が私たちをロボットのように完全に(逆らえないように)支配するのとは違うことを知っています。もし、神様がそのように、アダムとエバをお創りになられたなら、ふたりは、神様の命令に逆らい、善悪の知識の木から取って食べることはできなかったでしょう。神様は人間をご自身に似せて創造されました。それは、人間が神のように、自分で考え行動できる意思を持った存在として創造されたということです。しかし、その力は、良いことにも使え、悪いことにも使うことができました。アダムとエバは、蛇に誘惑された時、その力を自分たちの欲望を満たすために悪い目的で使ってしまいました。自由意志には責任が伴ないます。人間は罪を犯し、罰を受けなければなりませんでした。その罰とは、エデンの園から追い出されるという罰です。その意味は、神様の守りを失うという大きな罰でした。今まで、ふたりは神様の守りの中で生きてきました。エデンの園を追い出された二人は、自分で汗を流して食を得、自分の身を守らなければならなくなったのです。しかし、それで、ふたりは神様との関係を失ったわけではありません。神様は今でも、人間を愛しご自身の計画に沿って人間を導いておられます。それを、「神の摂理」と呼ぶのです。

創世記の4章に、アダムとエバの息子、カインとアベルのお話があります。カインは弟アベルに嫉妬し、アベルを殺してしまいました。カインは、神様を避け、さらに遠く逃れ、ノデの地にエノクという町を作ったとあります。カインの子孫は完全に神から離れ、自分たちの欲望に従って町を形成していきました。そこで、神様は、アダムとエバにもうひとりの子を与えました。二人はその子にセツという名をつけ、セツの子孫から、神に祈る人々が生まれたと記されています。しかし、後に、カインの子孫とセツの子孫が交じり合い、この世に悪が増大しました。神はそれをみて、地上を洪水で滅ぼされることを決断されたのです。その時、ノアだけは神様の心にかなっていたとあります。そこで、神様はノアに箱舟を作るように命じられたのです。それが有名なノアの箱舟のお話です。洪水の後、ノアの家族によってもう一度、世界が始められました。しかし、それでも、人間は自分の欲に従い生き始めました。創世記11章にあるバベルの塔は、その象徴的な出来事です。彼らは、高い塔を築き神に近づき、自分たちの名を上げようと心を一つにしたのです。神はそれをみて、彼らのことばを混乱させ、地の全面へと散らされたのです。その後、神様はアブラハムを選び、彼と特別な契約を結ばれました。それにより、彼の子孫は神様の選ばれた特別な民イスラエルとなりました。神は、アブラハムの子孫を導き、アブラハムに約束された地カナンを彼らに与えられました。しかし、イスラエルの民は神様に従わず、別の神々を拝むようになりました。神は、周りの国々を用いて、イスラエルの国を苦しめました。彼らはこの苦しみから逃れるために、神様に助けを求めました。そして神は彼らのために、士師(リーダー)を送り、イスラエルの民を助けました。しかし、その士師が亡くなると、イスラエルの民は神様から離れ、他の神々へと心を移して行ったのです。それが士師記の内容です。その後、イスラエルの民が王を求めたため、神は、サウル王を立て、彼の次にダビデが王に選ばれ、ダビデによってイスラエルの国は確立されました。そして、その子ソロモンによってイスラエルの国は繁栄しました。しかし、その後、イスラエルの国は北イスラエルと南ユダ王国に分裂してしまいました。その後、二つの国は、神様から離れ、北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニヤに滅ぼされてしまったのです。しかし、イスラエル民族がなくなったわけではありません。神様は70年後に、約束通りユダヤの国を再建させてくださいました。しかし、それで、神様との関係を回復したわけではありません。新約聖書の時代、ユダヤ教は完成し、人々は、神様の戒めつまり律法を守っているように見えました。律法学者は熱心に人々に神様の戒めを教えました。しかし、それは、見かけだけで、次第に人間の教えとなり、神様の教えから遠く離れてしまいました。そんな時代にイエス様は誕生し、人々に正しい神様の教えを教えだしたのです。ここまでが、イスラエルの歴史ですが、神様に選ばれたイスラエルの民は神様に従うことができませんでした。そこで、神様は神のひとり子イエス様を救い主として、この地上に誕生させられたのです。イスラエルの民は何度も神様を裏切りました。しかし、神様はアブラハムの子孫から救い主を誕生させられたのです。それは、神様の計画であり神の摂理だったのです。

イエス様の教えに、律法学者たちは驚きました。このままにしておけば、ユダヤ教が滅ぼされ、自分たちの立場がなくなることを恐れた、律法学者、祭司たちは、救い主であるイエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、神は、イエス・キリストを死より甦らせ、救いの計画を完成されたのです。

アダムとエバが罪を犯してから長い年月が過ぎ去りました。その間、人間は何度も、何度も神様を裏切りました。しかし、神様は忍耐を持って救いの計画が完成されるまで導いてくださいました。それが、神の摂理です。イエス・キリストが捕らえられ殺されることも神様の救いの計画でした。人間はどんなに努力しても、罪のない正しい人になることはできませんでした。それゆえ、この罪の問題を解決するために、イエス様が人として生まれ、十字架で死なれたのです。神様のご計画は99パーセント完成されています。あとの1パーセントはイエス様の再臨によって完成されます。その時、すべてのものはなくなり、神の裁きの場が開かれ、各々自分の犯した罪によって裁かれると聖書に記されています。しかし、イエス様によって罪赦された者は、天の御国で永遠に神とともに暮すと約束されています。それは、新しいエデンの園での暮らしと同じです。あの時、アダムとエバは、神様の守りの中にあり幸せでした。最後、私たちは神様の最初の創造の世界へと戻ることになるのです。これが、神様の最終的なご計画です。ある本で、摂理についてこのように説明しています。摂理とは、大きな船の中で生活するようなもので、船の中では、私たちは自由に生活します。しかし、最終的に船がどこの港に停泊するかは船長が決めることで、すべては船長の計画に従って船は運航するというお話です。そうかもしれません。しかし、歴史をみると、確かに、人間の欲望によって進んでいるかのように見えても、肝心な所は、神様の支配の中にあるように感じます。どんなに大きな国が支配しても、いつかは滅びました。また、偉大な指導が登場しても、その支配は永遠ではありません。これからも、戦争はなくならないし、災害や飢饉もあるでしょう。しかし、その背後に神様の計画があることを覚えましょう。この世は、悪の世界に向かっているのではなく、新しい御国へと向かっているのです。今、神様は、一人でも多くのものが救われるように、忍耐を持って終わりの時を待っておられるのです。また、神様は私たちから遠くはなれた存在ではありません。私たち一人一人の人生とともに歩んでくださるお方なのです。