ホセアを通して示された神の愛

「ホセアを通して示された神の愛」ホセア書1章1節~11節

2月14日は、バレンタインの日です。日本では、女性が男性にお菓子をプレゼントして愛を告白する日とされていますが、本来は日ごろお世話になっている人に、感謝の気持ちを表すために設けられた日であったと聞きました。私たちは一人で生きているのではありません。多くの人々に支えられて生きています。そのことを考えることも大切なことです。また、そういう人々に感謝の気持ち表せればもっと良いことではないでしょうか。

私たちが一番、感謝の気持ちを表さなければいけないのは神様です。今日は、神様がどのように私たちを愛しておられるのかを、旧約聖書のホセア書から学びます。ホセアは北イスラエルで活躍した預言者です。また、時代はヤロブアム二世の時代から北イスラエルの国がアッシリヤに滅ぼされるまで、神の預言者として働きました。(BC780年~BC720年)ヤロブアム二世の時代、北イスラエルの国は繁栄し、人々は世の楽しみにふけり、心は神様から離れていました。そんな時代にホセアに与えられた神様からのメッセージが、「それでも神様はイスラエルの人々を愛している。わたしのもとに帰りなさい。」ということばでした。しかし、イスラエルの人々はホセアのメッセージに耳を傾けませんでした。そこで、神様がホセアに命じたのが2節「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ、この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ、」ホセアにとっては、神様の命令とはいえ、つらい命令ではなかったでしょうか。ここで「姦淫の女」とは「イスラエルの国」を表し、ホセアが姦淫の女をめとることで、神様が罪人であるイスラエルの民を愛しておられることを表そうとされたのです。ホセアは神様の命令に従い、3節で「ディブライムの娘ゴメル」をめったとあります。ゴメルは遊女であったとも言われています。彼女はみごもり男の子を産みました。神はその子に「イズレエル」という名を付けるように命じました。「イズレエル」とはイスラエルの地名で、アハブ王と王妃イゼベルによって残虐な行為が行われたことで有名な土地です。そのアハブ王の一族は、後に神様に選ばれたエフーによって滅ぼされました。そしてエフー自身が王様になりますが、彼自身も不信仰により、後にエフー一族も革命によって滅ぼされてしまいました。5節の「イスラエルの弓を折る。」という言葉は、北イスラエルの国の滅亡を預言したことばと言われています。

6節で、ゴメルは女の子を産みました。神はその子に「ロ・ルハマ」と名づけるように命じました。「ロ・ルハマ」とは愛されないと言う意味です。神はホセアに言われました。「わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。」神様は赦しの神です。しかし、悔い改めのチャンスを与えられても、耳を傾けない者に対して神はその人の罪を赦すことはできません。また、7節で「ユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」とあります。これは後に、南ユダ王国がアッシリヤに攻められた時、ヒゼキヤ王が預言者イザヤのことばに信頼し、武力によってではなく、神を信じる信仰によって、奇蹟的に救われたことを表したことばと言われています。

8節9節でゴメルはもう一人の男の子を産みました。神はその子に「ロ・アミ」と名づけるように命じました。「ロ・アミ」とは「わたしの民でない」という意味です。神はホセアに言われました。9節「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」イスラエルの民は、アブラハムの子孫として、神様の特別な民でした。また、イスラエルの民はモーセを通して、神様と特別な契約を結びました。しかし、イスラエルの民は、その愛も忘れ、神様かから離れてしまいました。それゆえ、神はモーセを通して結ばれた契約を破棄し、あなたがたの神ではないと宣言されたのです。

ホセア書3章で、主はホセアに言われました。1節「再び行って、夫に愛されていながら、姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干ぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」とあります。ロ・アミを産んだ後、ゴメルはホセアのもとを出て、身を持ち崩し、奴隷の身となっていました。神はそのゴメルをもう一度、愛するように命じられたのです。ホセアはお金を払い。彼女を買い取り、自分の家に引き取りました。また、ホセアは彼女に言いました。3節「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」ホセアは彼女を赦し、彼女に対して誠実に対応することを誓いました。自分を裏切り、奴隷になるまで、身を崩した女性をホセアは赦し、愛を持って対応することを誓ったのです。それは、自分を裏切り神々を拝む偶像礼拝するイスラエルの民を赦そうとする神様の姿の表れでした。

私たちは、自分を裏切り、傷つけた者を容易に赦すことは出来ません。本当の神であられる神様にとって、私たちが自分の都合の良い神々を、神として崇めることはどんなに屈辱的で傷つく行為でしょうか。そういう意味で、私たちは本来、神に赦されない者です。しかし、神は私たちを罪から救うために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。また、イエス様は神の子であられる方なのに、自ら罪人として十字架の上で死んでくださいました。イエス様は、十字架に釘で手と足を釘付けにされたとき、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとあります。神様は、私たちの罪を赦すために、ひとり子イエス様を犠牲にされました。私たちはイエス様を神の子と信じる信仰によって救いの恵みを与えられました。イエス様は全ての人の救いのために人として誕生され、十字架の上でいのちを犠牲にされました。しかし、神様は、救い主であると共に、裁き主でもあります、それゆえ、自分の罪を認めない者を救うことは出来ません。神様はイスラエルの民を愛し、預言者ホセアを遣わしましたが、彼らはホセアのことばに耳を傾けなかったゆえに、国は滅んでしまいました。南ユダ王国も罪のゆえに滅ぼされましたが、捕囚という形で、彼らに悔い改めのチャンスが与えられました。彼らは、70年後に、捕囚が赦され、自分たちの国を再建することができました。神様は全ての人を救いたいと願っておられます。しかし、私たちが自分の罪を認め、悔い改めなければ、私たちを救うことは出来ません。そのために神様は、私たちに聖書を与えてくださいました。旧約聖書の時代は、神様は預言者を遣わし、悔い改めを求めましたが、今の時代、神様は聖書を与えてくださいました。神様は聖書のことばを通して、私たちに罪を示し、また、神様の愛を語っておられます。私たちはその神様の深い愛に対してどのように応えるべきでしょうか。