愛の神と因果応報の神

「愛の神と因果応報の神」ヨブ記2章11節~13節

先週は、「ご利益信仰」について学びました。「ご利益信仰」とは、新興宗教だけではなく、キリスト教の中にも起こりうる間違った信仰で、私たちが自分の願い(病のいやし)や利益だけを求めて神様に祈るならそれが、ご利益信仰になるというお話をいたしました。

今日は、「因果応報」という神観について考えます。ヨブ記の2章11節からヨブの友人三人(テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファル)が、ヨブの苦しみを聞いて、彼を慰めるためにヨブを訪問しました。しかし、彼らが見たヨブの姿は、あまりにもひどく、彼らは、声をあげて泣き、自分の上着を引き裂き、ちりを自分の頭にまき散らし、七日七夜一言も口を開かず、ヨブの横で嘆き悲しみました。ヨブの周りにいた人々は、ヨブを嫌い彼に近づこうともしませんでした。そんな中、ヨブの友人たちの訪問は、ヨブにとって、心休まる時間だったではないでしょうか。ヨブは友人たちの友情を喜び、自分の苦しみを打ち明けました。それが、ヨブ記3章のヨブのことばです。ここでヨブは「自分の生まれた日をのろった。」とあります。ヨブはあまりの苦しみの故、「自分は生まれてこなかった方がよかった。」と自分の苦しみを友人たちの前につぶやいたのです。ヨブは決して神様をのろったわけではありません。しかし、ヨブのことばを聞いた友人たちは、ヨブが神様をのろったとヨブのことばを受けったのです。ヨブ記4章と5章はエリファズがヨブの嘆きを聞いて、彼をいさめる言葉です。中心は7節と8節「さあ思い出せ。だれか罪が無いのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。」この考えこそが「因果応報」の考え方です。「因果応報」の考え方は、罪の大きさと苦しみの大きさを等しく考えます。つまり、大きな罪を犯した者は大きな罰を神様から受けるという考え方です。その考え方でヨブの苦しみを考えるならば、ヨブはよほど大きな罪を神様に犯したので、こんな大きな罰が神様から与えられたと友人たちは考えたのです。しかし、ヨブの苦しみは彼の罪の結果ではありません。ヨブはそのことを信じ、友人たちに自分の潔白を訴えますが、「因果応報」の考えを持つヨブの友人たちは、ヨブの意見を理解しようとしませんでした。そのことが、さらにヨブを苦しめることになったのです。

「因果応報」という考えは、イスラエル人だけではなく、日本人にも深く影響をおよぼしています。不幸が続いたり、障がいを持つ子供が生まれたり、幼い子が早死にするなどすると、世間では、親の罪か、先祖の祟りでないかと考えます。ヨハネの福音書9章で弟子たちは生まれつきの盲人を見てイエス様に質問しました。2節「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それとも両親ですか。」イエス様は彼らにこのように答えられました。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」この後、イエス様は実際にこの盲目の人の目を開くことによってご自身が、神様から遣わされたメシヤ(救い主)であることを証明されたのです。障がいや不幸は決して罪の結果ではなく、隠された神様の意図、計画があることをイエス様は証明されたのです。ヨブの苦しみも、彼自身の罪の結果ではありません。本人も知らない所で、神様の威信をかけてサタンとの戦いが繰り広げられていたのです。

エリファズはヨブにヨブ記4章7節で「だれか罪が無いのに滅びた者があるのか。どこに正しい人で絶たれた者があるのか。」と問いかけました。しかし、考えてみれば、イエス・キリストは罪が無いのに、正しいのに、十字架に付けられて殺されました。「因果応報」を信じるエリファズから見れば、イエス様もヨブと同じように大きな罪を犯した結果、あのような苦しみを受けて殺されたことになります。「因果応報」の間違いは、全ての苦しみの意味を罪の結果と考えるところに大きな間違いがあったのです。

始めに「神観」ということばを使いました。「神観」とは、神様をどのような神と考えるかということです。「因果応報」を信じる人の「神観」は、神は正しい人を祝福し、悪いことをした人を罰する神です。そのこと自体は間違いではありません。しかし、その考えだけで、神様を枠にはめてしまうと、神様とは、「因果応報」という枠にはめられたロボットのような神様になってしまいます。悪いことをした人に罰を与え、良いことをした人に祝福を与える。それだけでは、血の通わない、人間のことを何も考えていない、冷たい神様のイメージを持ちます。私たちの信じる神様はそのような神様でしょうか。そのような神様であるならば、私たちを救うために、ひとり子を犠牲にするでしょうか。罪人の代わりに十字架でいのちを犠牲にするでしょうか。

聖書が私たちに教える神様は、もっと人間味のあるあたたかな神様です。もともと、神様はどうして、ご自身に似せて人間を創造されたのでしょうか。それは、神様が私たちを信頼し、祝福するためです。また、この地上を治める者として創造されたとあります。そこには、神と人間の間に信頼と愛の関係がありました。しかし、その信頼関係を壊したのが人間の罪でした。神は罪を犯した人間のいのちを取ることなく、エデンの園から追い出し、新たに神との和解の計画を立てられたのです。そして、その完成がイエス様の十字架の死と復活です。私たちはイエス様を神の子と信じる信仰によって、罪赦され、神と和解するものとされたのです。しかし、ヨブの時代はまだ、その時ではありませんでした。ヨブの時代は、アブラハムと同じ時代ではないかと考えられます。その時代の神様との関係は、アブラハムと同じように、神と人との契約関係でした。アブラハムの信仰は、失敗を通して成長していきました。それと同じように、ヨブもこの苦しみを通して、神様はご自身をヨブに現そうとしておられるのです。苦しみには色々な意味があります。ヨブの友人たちがヨブに勧めるように、自分の罪を認めて神様に赦しを求め、罪赦されて神様との関係が深まることもあります。しかし、それだけではなく、様々な形で神様は私たちに近づいてくださいます。苦しみには様々な意味があります。ヨブはこの苦しみを通して、初めて神様との親しい関係を回復することができたのです。神様は愛の神様です。私たち一人一人のことを大切に思い、私たちに近づいてくださいます。時としてそれは、試練という形をとります。しかし、神様は私たちが負いきれない試練は与えないと聖書にあります。また、脱出の道も備えておられるとあります。神様は機械のような冷たい神様ではなく、私たちをいつも一番に心配して愛してくださる神様です。その神様の愛をを信じて、神様により頼んで歩んでいきましょう。