使徒信条(9)罪のゆるし

「使徒信条(9)罪のゆるし」ローマ人への手紙5章6節~11節

使徒信条の学びも終わりに近づきました。先週は、公同の教会について学びました。教会は建物ではなく、神様によって呼び集められた人々の集まりであり、イエス・キリストを「生ける神の御子キリスト」と告白する者の集まりであることを学びました。

今日は「罪の赦し」について学びます。聖書で教える罪は、窃盗や殺人などこの世の法律で裁かれる罪だけではありません。イエス様は、「情欲を抱いて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と教えています。それは、聖書があつかっている裁きというものが、人による(法律の領域ではなく)ものではなく神様による裁きを表しているからです。人は人の心の中を見ることはできません。しかし、神様は私たちの心の中までご存知のお方です。それゆえ、人は人の心の中の罪を裁くことはできません。しかし、終わりの日に裁き主となられる神は、私たちの行いだけではなく、心の中の思いさえ裁かれるのです。

マタイの福音書19章16節から、お金持ちの青年がイエス様に「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と尋ねた有名な個所があります。この青年が尋ねた永遠のいのちとは、天の御国のことで、どんな良いことをしたら、天国に入ることができるのでしょうかとイエス様に尋ねたのです。イエス様は彼に「戒めを守りなさい。」と答えられました。この答えは、律法学者も同意見でした。戒めとは、旧約聖書全体のことを指します。青年はまた、イエス様に尋ねました。「どの戒めですか。」当時の律法学者たちの間でも、旧約聖書のどの戒めを守るべきかは、意見が分かれていたのです。そこで、この青年はどの戒めですかとイエス様に再度、問い掛けたのです。イエス様は「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよい。」と答えました。この答えは、旧約聖書で、神様がモーセによってイスラエルの民に与えた十戒の後半の戒めです。この青年はイエス様の答えを聞いてこのように答えました。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」この青年は、裕福な家庭でユダヤ教を厳しく教えられた青年でした。しかし、まだ彼には天国に入る確信がありませんでした。そこで、イエス様に何が欠けているのでしょうかと問いかけたのです。イエス様はこの青年に言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」イエス様はこの青年に、貧しい人に財産を施してよい行いをすることによって救われなさいと教えたわけではありません。完全になりたいと言った彼の欠けた部分を教えられたのです。彼の欠けた点それは、神様だけに信頼することでした。彼はお金持ちで、財産で満ちた家で生活していました。イエス様は、他の個所で、神と富の二人の主人に仕えることはできないと教えられました。彼は、財産の満ちた家に住みながら神に仕えようとしていたのです。それゆえ、イエス様に財産の満ちた家から出て、神のみに仕える生活をするように言われて、イエス様の前から去って行ったのです。イエス様の弟子のマタイも、また、取税人という当時、お金の儲かる仕事で、彼自身も大きな家に住んでいました。しかし、マタイはイエス様に「わたしについて来なさい。」と言われて、すべての財産を捨てて、イエス様についていったのです。イエス様の時代、ユダヤ人は、神様から与えられた戒め(旧約聖書)を守ることによって、神様に認められる正しい人となり天の御国に入ろうと努力していたのです。

世界中には、たくさんの宗教がありますが、罪の問題を取り上げた宗教は多くはありません。 先程の、ユダヤ教は、神様の戒めを守って罪を犯さない者になり、天の御国に入ると教えました。それゆえ、彼らは熱心に律法(旧約聖書)を研究しました。新約聖書に登場するパウロという人も、りっぱな律法学者になることを目指し、キリスト教を激しく迫害しました。聖書には書かれていませんが、彼が熱心に律法を守ることに専念したのは、神様に認められる正しい人になるためです。しかし、彼はどんなに熱心に律法に救いを求めても罪の問題を解決することができませんでした。そんな日々の中で出会ったのが、復活されたイエス様でした。パウロはこの時、初めてイエス様の十字架の死が人々を救うための身代わりの死であったことを悟ったのです。彼は、この時、人間はどんなに努力しても神様の前に正しいものと認められないことを知り、それゆえ、神の子イエス様が人として生まれ、十字架の上で殺され、三日目に復活されたと言うイエス様の弟子たちのことばを信じたのです。

仏教にも二つの流れがあることを学びました。一つは、小乗仏教と、もう一つは大乗仏教です。仏陀の教えは小乗仏教に近いものでした。仏陀自身も出家し、厳しい修行を行いました。大乗仏教は、出家しないでも救われる道を説いた教えです。主に念仏仏教と言われるもので、「南無阿弥陀仏」と唱えるものが有名です。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏の開いた極楽に入れてくださいと願うことばです。そういう意味で、自分の努力では救われないことを認め、阿弥陀仏の慈悲にすがる他力本願の教えです。人間は誰でも努力して正しい人間になり、神に認められることを求めます。しかし、本当に努力した人だけが、人間の努力の空しさを学ぶのではないでしょうか。そこから、他力の道が見えてきます。仏教では、仏の慈悲にすがり大乗仏教が生まれました。キリスト教はユダヤ教から生まれました。ここで大切なことは、仏教の教える仏は実在の人物ではなく、人間が考え出した存在です。しかし、イエス・キリストは歴史に登場した人物であり、実際に十字架につけられて殺された者です。また、その救いの道は旧約聖書に預言された出来事でした。旧約聖書も神様によって与えられた聖典ですが、旧約聖書は新約聖書のイエス様を通して与えられる救いを示す教えでした。

神が創造した世界には罪は存在しませんでした。罪は、アダムとエバが神様の戒めを退け、悪魔の声に従ったことによって生まれたものです。それ以後、私たち人類は、アダムとエバの子孫として罪を犯しやすい性質「原罪」を背負って生まれるものとなりました。この罪を犯しやすい性質「原罪」の問題を解決した人間は誰もいません。唯一、原罪の影響を受けずに生まれたものは、処女マリヤから生まれたイエス・キリストだけでした。イエス・キリストは罪の無い人間として、私たちの罪を背負って十字架の上でいのちを犠牲にしてくださったのです。本来、罪を犯したのは私たちですから、自らの罪は自らで償わなければなりません。しかし、その償いが永遠に消えない火で焼かれるということであるなら、誰がその苦しみに耐えることができるでしょうか。神様はそのために、ひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりとされたのです。イエス様は、33年間この地上で生活し、一度も罪を犯しませんでした。しかし、神様の御心が人々の身代わりとして十字架の上で死ぬことである事を知理、神様の御心に従って自ら捕えられ、十字架の上で死んでくださったのです。旧約聖書の時代、神様はイスラエルの民に、動物の犠牲を神様に捧げることによって罪が赦されることを教えました。しかし、それは、後のイエス様の十字架の死を現すものでした。使徒信条の中で「罪のゆるし」と言うことばは、短いことばです。その短い言葉の中に、神様の大きなあわれみと愛がしめされているのです。