使徒信条(8)聖なる公同の教会

「使徒信条(8)聖なる公同の教会」マタイの福音書16章13節~18節

使徒信条は、私たちクリスチャンがどのような神を信じているのか、また、何を信じているのかを、短くまとめた文章です。この使徒信条は、カトリック教会、プロテスタント教会も信仰の基準として用いている文章です。また、この使徒信条を受け入れない集まりはキリストの教会ではなく、異端と呼ばれます。それゆえ、私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一協会を同じ教会と呼ぶことはないのです。

1、「聖なる公同の教会」について。

聖書は教会について二つの表現を使い分けています。

(1)目に見えない教会(霊的教会)
教会はキリストの体です。そういう意味では、教会は一つ「公同の教会」と呼ぶことができます。教会は建物を指すことばではなく、新約聖書のギリシャ語では、エクレーシアと言うことばが使われています。その意味は、呼び集められた者の集まりを意味しています。教会は、神様によって呼び集められた者たちの集まりということです。

(2)目に見える教会(地域教会)
教会の目的は何でしょうか。何の目的で教会は存在するのでしょうか。一つは、私たち信仰者の信仰を強める為です。そのために、礼拝と交わりがあります。もう一つの目的は、宣教の目的です。教会は伝道の拠点となります。私たちの小手指アライアンスキリスト教会は、小手指、所沢にイエス・キリストの救いを宣べ伝えるために存在しているのです。私たちの教会は、小手指、所沢を宣教地として神様から与えられているのです。

2、「生ける神の御子キリスト」を告白する教会。

マタイの福音書16章13節で、イエス様は弟子たちに尋ねました。13節「人々は、人の子(イエス・キリスト)をだれだといっていますか。」弟子たちはイエス様に答えました。14節「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また、預言者のひとりだとも言っています。」群衆のイエス様の理解は、預言者という評価でした。そこで、イエスさまはもう一度、弟子たちに尋ねました。15節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」群衆ではなく、三年間イエス様に従ってきた弟子たちは、自分(イエス様)をどのように理解しているのかを尋ねられました。すると、ペテロが答えてイエス様に言いました。16節「あなたは、生ける神の御子キリストです。」イエス様はペテロの答えに満足されて、彼に言いました。17節18節「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」カトリック教会はこのことばを文字通り理解して、ペテロを通して建てられるカトリック教会こそが真の教会であると主張します。私たちプロテスタント教会はそのようには理解しません。イエス様が教会を建てるといわれたのは、ペテロが告白した「あなたは生ける神の御子キリストです。」という信仰告白の上に教会が建てられると理解しているのです。教会とは、人間が建てる建物のことではありません。イエス様によって集められた人々が、イエス・キリストこそ、真の生ける神の御子キリストと告白する人々の集まりを教会と呼ぶのです。

3、「聖徒の交わり」

私たちクリスチャンは神様に罪を赦された者で、罪のない者ではありません。そういう意味では、私たちは聖徒と呼ばれるに相応しいものではありません。しかし、神ご自身が私たちを聖徒と認めてくださったと言う意味です。専門のことばでは「義認」、義と認められた者という意味です。ローマ人への手紙5章1節「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。私たちが正しくて義と認められるのではなく、イエス・キリストを神の御子と信じる信仰によって、神様が私たちを義と認めてくださると言う意味です。

「教会の交わり」とは何でしょうか。一つは、礼拝を意味します。共に集まり、神を讃美し礼拝を捧げる。これが、教会の交わりです。二つめは、互いに仕えあうことを意味します。教会はキリストの体で一人一人はその器官であると、パウロは教会を説明しています。それは、様々の違った人たちが仕えあうことによって一つの体になると言う意味です。体には、目があり、耳があり口があります。それぞれ違った器官が異なった仕事をしています。また、一つ一つの器官は、一つ一つが尊い存在です。また、聖書は、救われた私たち一人一人に賜物(タラント)が与えられていると説明しています。様々な賜物が、神の栄光を現す為に与えられています。また、その賜物は、教会の徳を高める為に与えられていると説明しています。それゆえ、私たち一人一人は、違った者です。しかし、キリストの体を建て上げる為に、一人一人は集められているのです。その活動は、互いに仕えあい、交わりを通して、神様の栄光が現されるためです。

教会は、キリストの体です。そして、私たちは、神様によってこの教会の各器官となるために集められたものです。コリント人への手紙第一12章14節~26節に、器官には様々な働きはあるが、体は一つであるとあります。私たち一人一人がキリストを構成する器官です。誰一人、不要な人はいません。一人一人が尊い存在なのです。それを認めることがキリストの交わりなのです。