神殿礼拝と会堂礼拝

「神殿礼拝と会堂礼拝」マタイの福音書9章18節~25節

旧約聖書はマラキ書で終わっています。そしてすぐにマタイの福音書が始まっています。それゆえ、多くのクリスチャンが、そのマラキ書とマタイの福音書の間に400年の歴史があることを知りません。このマラキ書と新約聖書をつなぐ400年を中間時代と呼びます。

神様は、モーセを通してイスラエルの民に祭壇の作り方を教え、神をどのように正しく礼拝するかを教えました。また、イスラエルの民は荒野の地で幕屋を中心に生活し、神を礼拝しました。そして、カナンの地をイスラエルの民が征服した後も、シロという地に幕屋を建て、そこが神を礼拝する中心となっていました。ダビデは神様の宮、神殿を建設したいと願いましたが、ダビデは多くの血を流したために、神様はダビデに神殿建設を許しませんでした。その代り、神はダビデの子ソロモンに神殿を建てるように命じられたのです。ダビデは、ソロモンが神殿を建てるために、多くの準備をしました。ソロモンは7年の歳月を費やして神殿を完成させました。しかし、ソロモンの死後、イスラエルの国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。また、北イスラエル王国はBC720年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国は、BC585年にバビロニヤに滅ぼされてしまいました。その時に神殿は破壊され、南ユダ王国の貴族や王族、技術者は捕囚としてバビロニヤに移住させられてしまいました。これをバビロン捕囚と呼びます。

イスラエルの人々は、神殿を失い神を礼拝することができなくなってしまいました。そこで、新しく登場したのが会堂です。イスラエルの民は、自分たちの国が滅ぼされたのは神様の戒めに従わなかったためだと理解しました。そこで、彼らは、神様のことば、旧約聖書を編集し、会堂において、聖書を朗読し、聖書の専門家(律法学者)による聖書の解説を聞く礼拝を持つようになったのです。イスラエルの国が滅ぼされなかったら、会堂で礼拝するという形は生まれませんでした。イスラエルの民がバビロニヤに捕囚された後、70年後にイスラエルの民は国を再建することを許されました。そして、多くのユダヤ人が、エルサレムに帰り神殿の再建に取りかかりました。しかし、神殿の再建は周りの国々に邪魔をされ当初の思い通りには進みませんでした。しかし、預言者ハガイや律法の学者エズラによって神殿再建が進められ神殿の再建を始めて22年後に神殿が完成しました。それを第二神殿と呼びます。しかし、その第二神殿も後にローマの軍隊によって破壊されてしまいました。

イエス様の時代の神殿は第三神殿と呼ばれ、ヘロデ王がユダヤ人の関心を得るために建てた神殿です。この時代になると、神殿中心の礼拝から、会堂中心の礼拝へと変わり、律法学者たちの影響力が大きくなっていきました。また、ローマ政府は、ユダヤの国対して、議会を中心に国の運営を行うことを許しました。その議会をサンヘドリンと呼び、祭司や貴族から選ばれたサドカイ派と律法学者から選ばれたパリサイ派の議員71名で構成されていました。ローマ政府は、自分たちの政治に有利になるように、サドカイ派を支援し、民衆はパリサイ派を尊敬し支持しました。

マタイの福音書9章18節から、会堂管理者がイエス様の所に来て、イエス様の前にひれ伏すという出来事か書かれています。会堂管理者とは会堂の責任者を意味しています。当時、ユダヤ人は会堂を中心に生活していました。また、会堂は信仰の中心であり生活の中心でした。その会堂の責任者ですから、会堂管理者になるためには、経済的な豊かさと共に信仰深く、人々から尊敬される人でなければなりませんでした。会堂管理者とはそれほど地位の高い名誉職です。その誰もが知っている会堂管理者がイエス様の前にひざまずいて、イエス様の前にひれ伏したのですから、周りにいた人たちはどれほど驚いたことでしょう。確かに、イエス様は群衆には尊敬され、律法の教師として尊敬されていました。しかし、同じ律法学者や知識階級の人々からは全く尊敬されていませんでした。そんなイエス様の前にひざまずいて、ひれ伏したわけですから、会堂管理者にとって大きな決心が必要だったでしょう。その彼がイエス様に言いました。18節「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」この会堂管理者にとってこの娘は何より大切な存在でした。彼の立場を考えるならば、イエス様の前にひれ伏すことによって、会堂管理者という名誉職を失うかもしれない、彼はそんな危険をおかしてまで、イエス様の前にひれ伏したのです。

23節に会堂管理者の家に、笛吹く者たちや騒いでいる群衆がいますが、それは当時の葬式を意味しています。ユダヤ教の葬儀は、笛吹く者や泣いて人々の心を悲しませる、そのような雰囲気を演出する葬儀の専門家がいました。この場面では、会堂管理者の娘がすでに死んでいることを表しています。イエス様は彼らに対して、24節「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。すると彼らはイエスをあざ笑ったとあります。周りの人々にとって、この娘がすでに死んでいることは明白な事でした。そんな状態でイエス様が、死んだのではなく眠っているだけだと言われたので、彼らはイエス様をあざ笑ったのです。イエス様は群衆を外に追い出し、少女の手を取られました。すると彼女は自ら起き上がったのです。旧約聖書でも預言者エリヤや預言者エリシャが死人を生き返らせるという奇蹟をおこなったと聖書に記されています。この会堂管理者は、旧約聖書の出来事が過去の出来事ではなく、今も神様によって行われることを信じていました。そして、イエス様に預言者エリヤと預言者エリシャと同じ権威があることを信じて、イエス様の前にひれ伏したのです。

結論。

神様は、イスラエルの罪のゆえに国を滅ぼし、神殿を破壊されました。しかし、それで終わりではありませんでした。神様はその人々の悪を益に変えて、神殿礼拝から会堂礼拝を生み出してくださったのです。聖書に神は万事を益に変えてくださるとあります。神様は私たちの失敗や苦しみ悲しみをも益に変えてくださるお方です。苦しみの中では、苦しみの理由を知ることは出来ません。しかし、後になって、神様はそれを益に変えてくださりその意味を明らかにしてくださいます。詩篇119篇71篇「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。また、ヘブル人への手紙12章11節「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。確かに苦しみは喜ばしいものではありません。しかし、私たちは苦しまなければ知ることができないこともあります。また、苦しみを通して成し遂げられることもあります。全ては神様の支配のもとにあります。私たちを愛する神様は常に、私たちに益となることをなさる神であることを信じましょう。